田中寅彦

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 田中 寅彦 九段
名前 田中 寅彦
生年月日 (1957-04-29) 1957年4月29日(59歳)
プロ入り年月日 1976年6月4日(19歳)
棋士番号 127
出身地 大阪府豊中市
師匠 高柳敏夫名誉九段
段位 九段
戦績
タイトル獲得合計 1期
一般棋戦優勝回数 6回
2015年2月8日現在

田中 寅彦(たなか とらひこ、1957年4月29日 - )は、将棋棋士高柳敏夫名誉九段門下。大阪府豊中市出身。棋士番号127。棋聖のタイトルを獲得。竜王戦1組通算9期。順位戦A級通算6期。日本将棋連盟理事(2005年5月 - 2009年5月、2011年5月 - 2013年6月)。2012年12月に当時専務理事であった谷川浩司の会長就任に伴い、日本将棋連盟専務理事となった。

戦績[編集]

  • 1976年、プロ入り(四段)。順位戦でC級2組脱出に4年かかったが、4期目から4年連続昇級で1984年4月1日にA級八段となる。
  • 1981年度、新人王戦で優勝し、棋戦初優勝。
  • 1982年度、早指し新鋭戦勝ち抜き戦で優勝。
  • 1984年度、NHK杯で優勝し、これが全棋士参加棋戦での初優勝となる。
  • 1986年度、早指し選手権戦で優勝。
  • 1988年、棋聖戦(前期)で南芳一から奪取し、初のタイトル獲得。(同年度後期に中原誠に奪われる。)

棋風[編集]

  • 独創的な序盤戦術により作戦勝ちを収めることが多く、「序盤のエジソン」の異名を持つ。「居飛車穴熊」で囲いの固さ重視、「飛車先不突矢倉戦法」では展開のスピード重視である現代の序盤戦術の基礎に大いに貢献した。さらには昔は素人将棋とされたウソ矢倉を、後手番での矢倉の斬新な組み方「無理矢理矢倉」としてプロの間で通用する序盤戦術にするなど、現代将棋に与えた影響は大きい。それ以外にも、藤井システム対策の串カツ囲いなど積極的に序盤戦術を開拓していった。
  • 居飛車穴熊戦法」の元祖として知られるが、アマチュア強豪の大木和博[1]から訴えられた(「居飛車穴熊戦法」訴訟参照)。史実では、1968年の第27期名人戦第2局で先手番の升田幸三が居飛車穴熊のコンセプト[2][3]を後手番の大山康晴の四間飛車相手に実践していた。しかし実際に、居飛車穴熊を現代戦法として再編・体系づけてプロ棋士の間に大流行させて本格的な対振り飛車攻略として定着させたのは田中の功績である。
  • 終盤の弱さが短所で、序盤も終盤も両方強い羽生世代の隆盛以降は戦績が振るわなくなった面は否めないが、20世紀の将棋の序盤戦術に革新性をもたらし、現代将棋の発展に貢献した。羽生善治は若手棋士だった時代に、日経新聞の「19歳の挑戦」という記事に「田中寅彦八段(当時)の序盤は実に巧みで、私にはない感覚といつも感服させられる。(中略) 序盤の研究は急務と思っている。」と述べていた。研究将棋に対する熱意や真摯な取り組みといった面で、羽生世代へ与えた影響も少なくない。

代表的なエピソード[編集]

  • 第57期(1998年度)のB級1組順位戦において、A級昇級候補は、第9局終了時点(残り2局)で、田中(8勝1敗)、田中より順位が下の郷田真隆(7勝2敗)、そして順位が上の南芳一(6勝3敗)の3名に絞られていた。田中としては、上位2名に入り、ライバル同士の直接対決も終わっていたため、残り2局を田中が2連敗、郷田と南が2連勝しない限り、田中のA級復帰は確実と言われており、田中本人も「64分の1の確率」と言っていた。ところが、第10局で田中は敗北、南と郷田は勝利して雲行きが怪しくなってきた。それでも、最終局で、田中負け・郷田勝ち・南勝ちという「8分の1の確率」の出来事が起こりさえしなければ、という状況である。最終第11局でも田中は負け、郷田は勝った。しかし、南が福崎文吾に敗れたため、田中のA級復帰が決まった。冷や汗をかいた田中は、このとき、「福崎君に感謝しないと」と語っている。
  • 田中は、羽生善治が若手だった1990年代中期に、彼に勝ち越していた数少ない棋士でもあり、“羽生キラー”と呼ばれていた[4](羽生とは公文式のCMで共演もしている)。まだ当時は若手棋士であった羽生をいじって注目を集める序盤戦術で、1996年には「羽生必敗の法則 あなたにも天才が倒せます - 九段・対羽生勝率8割 田中寅彦著[5]を出すほどだった。
  • かつては谷川浩司への強い競争心を隠さず、谷川が名人だった1984年頃に「谷川は強くない」、「あの程度で名人」などの挑発的発言をして注目を集めた。その理由として、彼と同期であり、周囲から谷川を「将来の名人候補」、自身を「将来のA級候補」などと常に比較され続け、相対的に見下げられていたことに悔しさと辛さを味わったためである。なお、現在ではそうした挑発的な発言は聞かれなくなっており、彼を一目置く立場に変えている。
  • 第21期竜王戦第6局の大盤解説会では、△5五銀の妙手で渡辺明竜王が勝つ筋があるのを全く気づかず、「羽生名人の勝ちでもうすぐ終わる」と大盤解説会に集まった将棋ファンに断言して、鈴木大介八段が控え室を飛び出して慌てて訂正する一幕もあった[6]。ただし、指された手は△4四歩である。ちなみに、対局結果は70手迄で後手の渡辺竜王の勝ちとなった。

人物[編集]

  • 大阪出身であるにもかかわらず、高柳一門は名門であるから門戸を叩いたという。
  • ボサボサの長髪に髭を伸ばした和服姿で、升田幸三実力制第四代名人を彷彿させるファッションスタイルを愛用していた時期もあった。
  • 経済分野に明るく、NHK総合テレビの経済番組に出演したことがある。また、不動産投資に熱心だった。
  • 趣味は草野球ギターで、草野球では日本将棋連盟野球部の監督兼選手として活動、ギターでは駒音コンサートなどで井上陽水などの曲の弾き語りを披露している。
  • 2005年より、日本将棋連盟常務理事。会館、渉外、営業広告、出版、販売などの担当を2期務めるも、2009年の選挙で2票差で落選。
  • 2011年より、日本将棋連盟常務理事。事業本部を担当。
  • 2012年より、日本将棋連盟専務理事。
  • 2013年の選挙で落選。
  • 夫人は元タレント。テレビ東京の『テレビ将棋対局』に解説者として出演した際に、夫人が同番組のアシスタントをしていたことから知り合い結婚した[7]。息子の田中誠が奨励会に在籍していたが、2007年冬に年齢制限で退会し、囲碁・将棋チャンネルで活動している。

昇段履歴[編集]

  • 1972年 6級 = 奨励会入会
  • 1974年 初段
  • 1976年6月4日 四段 = プロ入り
  • 1981年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1982年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1983年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1984年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1994年4月1日 九段(勝数規定

主な成績[編集]

獲得タイトル[編集]

登場回数2、獲得1

一般棋戦優勝[編集]

合計 6回

在籍クラス[編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞[編集]

  • 第4回(1976年度) 新人賞・連勝賞
  • 第6回(1978年度) 勝率第一位賞・技能賞
  • 第8回(1980年度) 勝率第一位賞
  • 第9回(1981年度) 勝率第一位賞・敢闘賞
  • 第11回(1983年度) 勝率第一位賞・敢闘賞
  • 第16回(1988年度) 技能賞

主な著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大木は将棋のアマチュア棋戦で支部名人1回・赤旗名人3回獲得の戦績を有する。
  2. ^ 当時の棋戦解説では「珍しい左穴熊」と記された。
  3. ^ 棋譜は週刊将棋編「不滅の名勝負100」(毎日コミュニケーションズ)で確認できる。
  4. ^ たとえば『羽生善治 神様が愛した青年』の帯にこの表現がある。
  5. ^ ワニブックス/ISBN 978-4847012181
  6. ^ 第21期竜王戦第6局棋譜plusの51手目
  7. ^ 早指し将棋妙手奇手・アナウンサー島田良夫氏 NIKKEI将棋王国(日本経済新聞)2003年3月20日付文中参照

外部リンク[編集]

関連項目[編集]