名人戦 (将棋)

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名人戦
第7期名人戦の様子
第7期名人戦の様子
棋戦の分類 タイトル戦
開催概要
開催時期 予選(順位戦):6月 - 翌年3月
タイトル戦:4月 - 7月
初回開催 1935年~1937年(第1期名人決定大棋戦は2年間)
持ち時間 予選(順位戦):6時間
タイトル戦:9時間(2日制)
番勝負 七番勝負
主催 毎日新聞社
朝日新聞社
公式サイト 名人戦・順位戦:日本将棋連盟
記録
前期名人 佐藤天彦(第76期)
永世資格者 木村義雄(十四世名人)
大山康晴(十五世名人)
中原誠(十六世名人)
谷川浩司(十七世名人資格)
森内俊之(十八世名人資格)
羽生善治(十九世名人資格)
最多優勝 大山康晴(18期)
最長連覇 大山康晴(13連覇)

名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社朝日新聞社共催の将棋棋戦で、タイトル戦(竜王戦・名人戦・叡王戦王位戦王座戦棋王戦王将戦棋聖戦)のひとつ。将棋界の近代化にあたり、江戸時代以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、1935年に第1期が開始された(第1期リーグ戦は1935年から1937年にかけての二年間)。タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、七番勝負の勝者は名人のタイトル称号を得る。名人位は竜王位とともにプロ将棋界の頂点とされている。

概要[編集]

名人と挑戦者とで行われる対局(七番勝負)のこと。名人戦七番勝負の勝者には、将棋界で最も格式と歴史のある(家元制として江戸時代初期の1612年以来、実力制タイトルとして1937年以来である)「名人」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。毎日新聞社朝日新聞社とが共催(2007年度から)し、大和証券グループから協賛を受けている(2005年度から)。

江戸時代以来、近代まで将棋の名人世襲制(ただし血縁絶対ではない、家元制・推挙制)であった。

1929年、読売新聞社による「第一回日本将棋選手権戦」開始にあたり、読売新聞社が行ったアンケートに、時の名人関根金次郎が「古来、名人の位は一生涯のものだが、私は時勢に鑑み適当な時期に退隠したいと思う」と回答[1]。なお、この頃の関根は「名人」ではなく「九段制」を考えていた[2]

その後、日本将棋連盟顧問の中島富治の発案を受け、1934年(昭和9年)、東京日日新聞学芸部長の阿部眞之助が囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し[3]日本将棋連盟会長の金易二郎が1935年に「昭和12年(1937年)に300年続いた一世名人を廃する」と発表。同年、名人戦(当初は八段9名のリーグ戦)が開始。2年にわたる「第1期名人決定大棋戦」の結果、1937年の12月6日に木村義雄が初代の実力制名人に決定。1938年2月11日、十三世名人の関根金次郎は1935年に提出した声明書に基づき名人位を返上し、木村が実力制名人位についた。

これにより初代大橋宗桂以来続いた一世名人制が廃止され、短期実力制名人位制度が開始された。なお、囲碁は名人戦ではなく本因坊戦とされ1939年に開始した[4]

方式[編集]

名人戦の予選は順位戦と呼ばれ、A級順位戦の優勝者が挑戦者となる。名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。

A級順位戦[編集]

詳しくは順位戦の項を参照のこと。持ち時間は各6時間。

名人戦七番勝負[編集]

名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。第66期(2008年)以降は第1局を東京都文京区の椿山荘で行い、第2局~第5局は全国の自治体からの公募により開催地が決定されるのが恒例となっている[5]

持ち時間は各9時間(将棋界で最長)で、2日制で実施される。1日目の終わりには封じ手を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは、2018年現在タイトル戦の中では名人戦だけ(1日制のタイトル戦では王座戦叡王戦がある)。

賞金[編集]

名人戦の賞金額は通常非公開だが、過去に『将棋世界』誌上でその一端が公開されたことがある[6]。同記事によれば、1991年当時の名人及び挑戦者の賞金額は以下のとおり。

  • 対局料 - 名人は1,050万円、挑戦者は450万円。
  • 賞金 - 勝者(名人)は1200万円、敗者は300万円。
  • 名人手当 - 月に約100万円(名人は順位戦の対局がない(=対局料が発生しない)代わりに手当が上乗せされる)。

従って名人位を防衛すると合計で約3,500万円ほどとなり、当時の竜王戦の賞金とほぼ並ぶ計算となる[6]

変遷[編集]

当初は全八段の棋士による挑戦者決定リーグ戦を2年がかりで行っていたが、1946年から開始された順位戦と連動するようになった。

順位戦創設以前[編集]

第1期(1935-1937年)
八段の全棋士による特別リーグ戦と、その他の棋戦(基本的に対八段・七段戦。「普通戦」と呼ばれた)の総合点で順位を算出する(勝敗や段位差によって点数が定められた)。1位と2位の棋士が六番勝負を行い、勝者が名人となるが、1位と2位の点差が8点を越えるときは六番勝負を行わずに1位の棋士が名人となり、六番勝負の結果が同率のときも1位が名人となる。
特別リーグの当初の参加者(八段)は、土居市太郎大崎熊雄金易二郎木見金治郎花田長太郎木村義雄金子金五郎の7名であったが、神田辰之助の参加権(八段昇段)を巡って日本将棋連盟(旧)が分裂する騒動と再統一があり、結果として神田と萩原淳の2名を新八段として加えた9名のリーグとなった(「神田事件 」も参照)。また約2年半にも渡る長丁場のリーグだったため、途中で大崎が病欠でリーグから撤退している[7]
リーグ戦の結果、1937年12月6日、1位の木村が2位の花田に8.1点の差をつけ、六番勝負は実施されず木村の名人戦優勝者となった。翌1938年2月11日に、木村の名人就位式が実施された。
第2期(1937-1940年)
七段の棋士も挑戦者決定リーグに参加できるようになる。まず、七段の全棋士によるリーグ戦を行い、この勝者が挑戦者決定リーグに参加できる。八段全棋士(阪田(坂田)三吉を含めて8名)と七段リーグの勝者によるリーグ戦によって挑戦者を決定する。挑戦者決定リーグは1次と2次に分かれ、1次リーグで1勝以下の成績のものは2次リーグに参加できない。
土居市太郎が1次・2次リーグとも全勝で挑戦権を得た。将棋大成会(現在の日本将棋連盟)と絶縁状態であった阪田が「八段格」でリーグに参加したが、合計で7勝8敗の成績となっている。
番勝負は持ち時間各15時間の3日制にて実施された[8]
第3期(1940-1942年)
八段の棋士10名に、五段 - 七段の予選を通過した2名を加え、12名から挑戦者を決定した。
まず12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行う。1位3名(土居市太郎・神田辰之助・渡辺東一)と2位のうち敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田正夫)により、挑戦者決定リーグを行った結果、神田が挑戦者となった。
第4期(1942-1944年)
参加棋士16名(八段12名と七段以下の予選を勝ち抜いた4名)がトーナメントを行い、勝者が「予備資格者」として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)の手合いで三番勝負を戦う。三番勝負を勝ち越した場合のみ、名人挑戦の資格を得る。
この形式による予備資格者選出および名人との三番勝負を4度行い、複数の挑戦資格者が出た場合はプレーオフを行うこととなっていたが、4度とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ずに木村の名人防衛が決定した。
  1. 木村義雄 2-0 萩原淳
  2. 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一
  3. 木村義雄 2-0 花田長太郎
  4. 木村義雄 2-0 坂口允彦
第5期(1944年)
予選を廃止し、近年の成績により7名による挑戦者決定戦となり対局は何局か行われたが、戦争の戦局激化のため途中で中止され、木村義雄の名人防衛の決定がなされる。

順位戦創設以降[編集]

第6期(1947年)
前年から順位戦が開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。
この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦(持ち時間は各7時間)で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫・大野源一・萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。
この期より番勝負のシステムが、それまでの3日制から「持ち時間各8時間の1日制」に変更された(封じ手は行われない)[9]
第7期(1948年) - 第9期(1950年)
順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。
第7期では、第2期順位戦でB級七段だった大山康晴がパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。
なお第9期から、番勝負のシステムが「持ち時間各10時間の2日制」に再度変更されている[10]
第10期(1951年) - 第26期(1967年)
A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められた。
第27期(1968年) -
持ち時間を「順位戦は各6時間、番勝負は各9時間」に短縮。以後現在までほぼ同じ形式を踏襲している。

永世名人[編集]

名人位を通算5期以上獲得した棋士は、引退後、永世称号である永世名人を名乗ることができる。1952年に、日本将棋連盟が規約を改正して制定した。他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。代数は世襲制(十三世名人関根金次郎まで)の数字を引き継いだため、十四世からとなっている。

この規定による永世名人は木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、永世名人の資格を持つ棋士は谷川浩司(引退後に十七世名人襲位予定)、森内俊之(引退後に十八世名人襲位予定)、羽生善治(引退後に十九世名人襲位予定)である。木村は1952年の名人陥落時に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら「十五世名人」を名乗ることを許されていた。2007年11月、中原も名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。2017年現在、規定通り引退後に永世名人を名乗ったのは木村のみである。

名人戦と段位[編集]

上述の通り、第10期以降は名人戦挑戦のために、順位戦A級在位という前提を要する関係上、名人戦挑戦者の段位は必然的に八段以上となる。八段の挑戦者が名人位を獲得した場合、段位は九段となる。 1973年11月3日に当規定が施行されて以降、名人位獲得に伴い九段に昇段した棋士は、谷川浩司佐藤康光丸山忠久森内俊之佐藤天彦の5名である。尚、谷川と丸山は、五段から八段までの全ての段位を順位戦の昇級に伴い昇段したので、名人位獲得をA級から名人への昇級と考えると五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したことになる。

歴代七番勝負・A級順位戦[編集]

  • 七番勝負の、○●は名人から見た勝敗。千は千日手、持は持将棋赤色は七番勝負の勝者。
  • A級順位戦リーグ表の、各期の順位は成績順ではなくリーグ表順位(当期成績は次期のリーグ表順位に反映される)。
  • ◎は名人挑戦者、▼は降級、緑色はプレーオフ(名人挑戦者決定戦)出場者、青色は休場者。
  • 第2期 - 第4期の「B級優勝」は、A級成績上位3名とともにプレーオフ進出。
  • 第1期順位戦は第6期名人戦より開始。名人戦が4月開始のため、順位戦は前年度に行われる。
  • 名人戦の期と順位戦の期は第36期に合わせられた。そのため順位戦には第31期 - 第35期が存在しない。
名人戦(七番勝負) 挑戦者決定戦(リーグ) 備考
年度 名人 勝敗 挑戦者
1 1935

1937
木村義雄   八段9名(木村雄,花田,土居,神田辰,金子,萩原,,木見,大崎)で最初の実力制名人を決定。
2 1940 木村義雄 ○○千千●○○ 土居市太郎 9名(土居,萩原,神田辰,阪田,金子,斎藤,渡辺東,金,花田)
3 1942 木村義雄 ○○○○ 神田辰之助 12名(神田辰,渡辺東,土居,塚田正(以上4名で決勝リーグ),坂口,花田,木見,金,斎藤,金子,萩原,大野源
4 1944 木村義雄 16名の予選トーナメント(土居,金,木見,花田,金子,神田辰,萩原,斎藤,坂口,塚田正,小泉,渡辺東,山本,大野源,村上,大山
を勝ち抜いた予備資格者4名が木村との予備手合を行うも、挑戦資格を得ず。
5 1945 木村義雄 戦争のため挑戦者決定戦(花田,金子,萩原,坂口,塚田正,大野源,加藤治)は途中で中止。
名人戦(七番勝負) 順位戦(A級リーグ) 備考
年度 名人 勝敗 挑戦者 1位 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位 9位 10位 (11位) (12位)
6 1947 木村義雄 ○○持●●千●
千●
塚田正夫 八段14名(塚田正,大野源,萩原,土居,加藤治,坂口,花田,村上,渡辺東,小泉,金,,斎藤,金子
7 1948 塚田正夫 ●○○●千○○ 大山康晴 木村雄 大野源 萩原 土居 加藤治 坂口 升田 花田 村上 B級優勝 大山
8 1949 塚田正夫 ○●○●●
(五番勝負)
木村義雄 升田 大野源 大山 土居 丸田 木村雄 加藤治 北楯 萩原 松田辰 坂口 B級優勝 五十嵐
9 1950 木村義雄 ○○●●○○ 大山康晴 塚田正 大山 升田 丸田 大野源 北楯 五十嵐 高島一 原田 松田辰 坂口 B級優勝 高柳
10 1951 木村義雄 ○●○○●○ 升田幸三 大山 升田 丸田 塚田正 高島一 五十嵐 大野源 高柳 板谷四 南口 坂口 松田辰
11 1952 木村義雄 ○●●●● 大山康晴 升田 大山 丸田 坂口 高柳 塚田正 板谷四 原田 松田茂 荒巻 松田辰
12 1953 大山康晴 ○○●○○ 升田幸三 升田 丸田 塚田正 板谷四 原田 松田茂 花村 松下 小堀 高柳 松田辰 木村引退
13 1954 大山康晴 千○○○●○ 升田幸三 升田 塚田正 松田茂 丸田 原田 花村 小堀 南口 大野源 高柳
14 1955 大山康晴 ○●○○●○ 高島一岐代 升田 塚田正 大野源 花村 松田茂 丸田 原田 高島一 松浦卓
15 1956 大山康晴 ○○○○ 花村元司 高島一 塚田正 大野源 花村 松田茂 原田 松浦卓 松下 五十嵐 升田
16 1957 大山康晴 ●○●●○● 升田幸三 花村 升田 松田茂 原田 五十嵐 高島一 塚田正 二上 坂口
17 1958 升田幸三 ○○○持●●○ 大山康晴 大山 塚田正 五十嵐 花村 原田 二上 坂口 大野源 丸田
18 1959 升田幸三 千○●●●● 大山康晴 大山 大野源 丸田 五十嵐 二上 塚田正 花村 高島一 加藤一
19 1960 大山康晴 ●○○○千○ 加藤一二三 升田 塚田正 大野源 丸田 二上 高島一 加藤一 熊谷 加藤博
20 1961 大山康晴 ○○○●○ 丸田祐三 加藤一 塚田正 加藤博 高島一 大野源 丸田 二上 花村 松浦卓 升田
21 1962 大山康晴 ○○○○ 二上達也 丸田 加藤博 二上 高島一 花村 塚田正 大野源 芹沢 廣津 升田 高島引退
22 1963 大山康晴 ○○○●○ 升田幸三 二上 升田 丸田 芹沢 廣津 花村 大野源 加藤一 熊谷 塚田正
23 1964 大山康晴 ●○○●○○ 二上達也 升田 二上 大野源 加藤一 丸田 熊谷 塚田正 加藤博 五十嵐
24 1965 大山康晴 ○○○●○ 山田道美 二上 升田 加藤一 丸田 塚田正 大野源 加藤博 五十嵐 松田茂 山田
25 1966 大山康晴 ●●○○○○ 升田幸三 山田 加藤博 升田 松田茂 丸田 二上 塚田正 加藤一 熊谷 有吉
26 1967 大山康晴 ○○○●○ 二上達也 升田 山田 加藤博 二上 丸田 塚田正 有吉 松田茂 花村
27 1968 大山康晴 ○○○○ 升田幸三 二上 加藤博 山田 丸田 有吉 松田茂 花村 塚田正 加藤一 内藤 升田
28 1969 大山康晴 ●○○●●○○ 有吉道夫 升田 山田 二上 丸田 有吉 花村 内藤 加藤博 大友 関根茂 塚田正
29 1970 大山康晴 ○●○○○ 灘蓮照 有吉 升田 山田 丸田 加藤博 二上 花村 塚田正 加藤一
30 1971 大山康晴 ○●●○●○○ 升田幸三 有吉 升田 加藤一 花村 二上 丸田 内藤 中原 塚田正 山田死去
31 1972 大山康晴 ●○○●○●● 中原誠 升田 二上 加藤一 有吉 内藤 中原 丸田 塚田正 原田 米長 中原全勝
32 1973 中原誠 ○○○○ 加藤一二三 大山 升田 米長 二上 内藤 原田 丸田 加藤一 有吉 佐藤大 大内
33 1974 中原誠 ●○○●○●○ 大山康晴 加藤一 大山 米長 二上 内藤 丸田 有吉 佐藤大 関根茂 塚田正 升田
34 1975 中原誠 ●○○千●●○
持○
大内延介 大山 内藤 二上 関根茂 米長 有吉 塚田正 加藤一 板谷進 大内 升田
35 1976 中原誠 ○●●○○●○ 米長邦雄 大内 大山 升田 米長 板谷進 二上 有吉 加藤一 桐山 熊谷
1977 主催紙移行問題が長引いたため、行われず。
36 1978 中原誠 ●○●○千○○ 森雞二 米長 大山 有吉 二上 升田 板谷進 加藤一 桐山 勝浦 森雞
37 1979 中原誠 ●●○○○○ 米長邦雄 森雞 勝浦 米長 大山 二上 加藤一 桐山 板谷進 大内 花村 升田
38 1980 中原誠 ○●持○○○ 米長邦雄 米長 森雞 大山 二上 加藤一 桐山 板谷進 勝浦 内藤 石田 升田引退
39 1981 中原誠 ○○○●○ 桐山清澄 米長 大山 加藤一 桐山 板谷進 勝浦 内藤 石田 木村徳 森安秀
40 1982 中原誠 持○●○●千●
○千●
加藤一二三 桐山 米長 勝浦 大山 加藤一 内藤 石田 森安秀 大内 二上
41 1983 加藤一二三 ●●●○○● 谷川浩司 中原 森安秀 桐山 米長 大山 内藤 大内 二上 森雞 谷川
42 1984 谷川浩司 ○○○●○ 森安秀光 加藤一 中原 桐山 米長 大山 内藤 森雞 森安秀 青野 淡路
43 1985 谷川浩司 ●●●○○● 中原誠 森安秀 加藤一 大山 森雞 中原 桐山 米長 青野 勝浦 田中寅
44 1986 中原誠 ○○●○○ 大山康晴 谷川 森安秀 森雞 米長 勝浦 桐山 加藤一 青野 有吉 二上 大山
45 1987 中原誠 ●●○○○○ 米長邦雄 大山 米長 加藤一 谷川 森雞 桐山 有吉 二上 小林健
46 1988 中原誠 ○●●●○● 谷川浩司 米長 谷川 桐山 大山 森雞 加藤一 有吉 内藤 青野
47 1989 谷川浩司 ○○○○ 米長邦雄 中原 米長 加藤一 桐山 青野 内藤 大山 塚田泰 真部
48 1990 谷川浩司 ●○●○●● 中原誠 米長 桐山 内藤 大山 中原 青野 塚田泰 田中寅 高橋
49 1991 中原誠 ○○○●○ 米長邦雄 谷川 高橋 米長 内藤 大山 青野 塚田泰 有吉 真部
50 1992 中原誠 ●●○●○○○ 高橋道雄 米長 谷川 塚田泰 内藤 高橋 大山 有吉 小林健 石田
51 1993 中原誠 ●●●● 米長邦雄 高橋 谷川 大山 有吉 小林健 米長 塚田泰 田中寅 田丸 大山死去
52 1994 米長邦雄 ●●●○○● 羽生善治 中原 高橋 谷川 小林健 田中寅 有吉 塚田泰 羽生 加藤一
53 1995 羽生善治 ○○●○○ 森下卓 米長 谷川 中原 高橋 有吉 塚田泰 加藤一 森下
54 1996 羽生善治 ○○○●○ 森内俊之 森下 中原 米長 谷川 高橋 加藤一 有吉 森内 村山聖
55 1997 羽生善治 ●○●●○● 谷川浩司 森内 森下 米長 谷川 中原 加藤一 村山聖 佐藤康 森雞
56 1998 谷川浩司 ○●○●○●● 佐藤康光 羽生 森内 森下 佐藤康 中原 加藤一 米長 高橋 井上慶
57 1999 佐藤康光 ○○●●●○○ 谷川浩司 谷川 羽生 森内 森下 中原 井上慶 加藤一 丸山 村山聖 村山死去
58 2000 佐藤康光 ●●○○○●● 丸山忠久 谷川 森内 丸山 羽生 森下 加藤一 中原 郷田 田中寅
59 2001 丸山忠久 ○●千●○●○
谷川浩司 佐藤康 森内 羽生 森下 谷川 加藤一 田中寅 青野 先崎
60 2002 丸山忠久 ●●●● 森内俊之 谷川 佐藤康 羽生 森内 青野 森下 先崎 加藤一 藤井猛 三浦
61 2003 森内俊之 ●●●● 羽生善治 丸山 佐藤康 谷川 羽生 森下 藤井猛 青野 三浦 郷田
62 2004 羽生善治 ●●○●○● 森内俊之 森内 佐藤康 藤井猛 谷川 丸山 青野 三浦 久保 鈴木大 森内全勝
63 2005 森内俊之 ●○○○●●○ 羽生善治 羽生 佐藤康 谷川 丸山 三浦 鈴木大 藤井猛 久保 深浦 高橋
64 2006 森内俊之 ○○●○●○ 谷川浩司 羽生 藤井猛 久保 佐藤康 谷川 丸山 三浦 鈴木大 森下 郷田
65 2007 森内俊之 ●●○○○●○ 郷田真隆 谷川 羽生 佐藤康 郷田 丸山 藤井猛 久保 三浦 深浦 阿部隆
66 2008 森内俊之 ○●●●○● 羽生善治 郷田 谷川 羽生 佐藤康 丸山 藤井猛 久保 三浦 木村一 行方
67 2009 羽生善治 ○●○●●○○ 郷田真隆 森内 三浦 郷田 丸山 木村一 藤井猛 谷川 佐藤康 鈴木大 深浦
68 2010 羽生善治 ○○○○ 三浦弘行 郷田 佐藤康 森内 丸山 木村一 藤井猛 谷川 三浦 高橋 井上慶
69 2011 羽生善治 ●●●○○○● 森内俊之 三浦 高橋 森内 丸山 木村一 谷川 郷田 藤井猛 渡辺明 久保
70 2012 森内俊之 ○●○●○○ 羽生善治 羽生 渡辺明 高橋 郷田 三浦 丸山 谷川 久保 佐藤康 屋敷 羽生全勝
71 2013 森内俊之 ○○●○○ 羽生善治 羽生 渡辺明 三浦 谷川 屋敷 郷田 佐藤康 高橋 橋本崇 深浦
72 2014 森内俊之 ●●●● 羽生善治 羽生 三浦 郷田 渡辺明 屋敷 佐藤康 深浦 谷川 行方 久保
73 2015 羽生善治 ○●○○○ 行方尚史 森内 行方 渡辺明 佐藤康 深浦 三浦 久保 郷田 広瀬 阿久津
74 2016 羽生善治 ○●●●● 佐藤天彦 行方 渡辺明 久保 広瀬 深浦 郷田 森内 佐藤康 佐藤天 屋敷
75 2017 佐藤天彦 ●○●○○○ 稲葉陽 羽生 行方 渡辺明 佐藤康 屋敷 森内 広瀬 深浦 稲葉 三浦[11]
76 2018 佐藤天彦 ●○●○○○ 羽生善治 稲葉 羽生◎ 渡辺明 広瀬 行方 屋敷 深浦 佐藤康 久保 豊島 三浦
77 2019 佐藤天彦 羽生 稲葉 広瀬 佐藤康 久保 豊島 深浦 三浦 糸谷 阿久津

記録[編集]

獲得 出場 挑戦 A級在籍(名人在位含む)
休場除く 休場含む
最多 大山康晴 18期 大山康晴 25期 升田幸三・羽生善治 8期 大山康晴 43期 大山康晴 44期
連続 大山康晴 13連覇 大山康晴 21連続 羽生善治 3連続 大山康晴 35期 大山康晴 44期
最年少 第41期 谷川浩司 21歳 第19期 加藤一二三 20歳 第19期 加藤一二三 20歳 第18期 加藤一二三 19歳 第18期 加藤一二三 19歳
最年長 第51期 米長邦雄 49歳 第44期 大山康晴 63歳 第44期 大山康晴 63歳 第51期 大山康晴 69歳 第51期 大山康晴 69歳

A級順位戦の記録は、順位戦、および将棋棋士の在籍クラス を参照。

通算成績[編集]

  • 記載は名人獲得・挑戦者またはA級在籍10期以上に限る。
  • 太字は永世位獲得者または最多記録。「*」は現在A級在籍、継続中の記録。
  • A級在籍は名人在位も含む。()は休場・戦争中止を除いた年数。
棋士 名人在位
76期
七番勝負出場
76期
A級在籍
74期
通算 連続 通算 連続 通算 連続
大山康晴 18 13 25 21 44(43) 44(35)
中原誠 15 9 18 10 29 29
羽生善治* 9 3 17 9 26* 26*
森内俊之 8 4 12 7 22 22
木村義雄 8(7) 5(4) 10(9) 6(5) 6 6
谷川浩司 5 2 11 3 32 32
佐藤天彦* 3* 3* 3* 3* 3* 3*
升田幸三 2 2 10 3 31(23) 31(7)
塚田正夫 2 2 3 3 28(25) 26(15)
佐藤康光* 2 2 3 3 22* 14
丸山忠久 2 2 3 3 14 14
米長邦雄 1 1 8 2 26 26
加藤一二三 1 1 4 2 36 19
二上達也 0 0 3 1 27 23
郷田真隆 0 0 2 1 13 10
丸田祐三 0 0 1 1 24 17
有吉道夫 0 0 1 1 21 12
灘蓮照 0 0 1 1 17 11
三浦弘行* 0 0 1 1 17(16)* 14
花村元司 0 0 1 1 16 7
桐山清澄 0 0 1 1 14 14
高橋道雄 0 0 1 1 13 7
森雞二 0 0 1 1 10 6
森下卓 0 0 1 1 9 9
高島一岐代 0 0 1 1 9 4
森安秀光 0 0 1 1 6 6
山田道美 0 0 1 1 6 6
行方尚史 0 0 1 1 6 5
大内延介 0 0 1 1 6 2
土居市太郎 0 0 1 1 3 3
稲葉陽* 0 0 1 1 3* 3*
神田辰之助 0 0 1 1 - -
内藤國雄 0 0 0 0 17 5
大野源一 0 0 0 0 16 8
久保利明* 0 0 0 0 12* 5
青野照市 0 0 0 0 11 4
藤井猛 0 0 0 0 10 10
深浦康市* 0 0 0 0 10* 7*

テレビ放送[編集]

1978年のNHK特集で、名人戦の模様が初めてテレビ放送された。

名人戦七番勝負(竜王戦七番勝負も同様)の模様は、2015年までNHK BSプレミアム(2010年まではNHK BS2)で「将棋名人戦」という番組名で放送されていた。

各局の1日目は17:00-18:00に、2日目は16:00-18:00に生放送されることが多い。結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(翌日の0時台-1時台)に10分程度放送される。

司会をNHKの男性アナウンサーが、解説を棋士が、女流棋士が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いているが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員[12])が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった[13]

2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。ドラムセット付きのオーケストラに模したコンピュータミュージックである。「将棋竜王戦」、囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されている。

また、この名人戦の挑戦権をかけた「A級順位戦」最終戦の実況中継も将棋界の一番長い日と題して、2012年までBSプレミアムで時間を区切っての長時間実況中継が行われていたが、2013年は放送チャンネルを囲碁・将棋チャンネルBSスカパー!スカチャンに移譲(囲碁・将棋チャンネル提供)して行われた。[14]

ネット配信[編集]

ニコニコ生放送(2012年 - )・AbemaTV(2017年 - )による七番勝負の完全生中継が行われている。

名人戦の主催者[編集]

当初の主催は東京日日新聞及び大阪毎日新聞で、のち二社が合併して毎日新聞主催だったが、第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から毎日新聞社の主催に復し、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。

順位戦#順位戦の歴史も参照。

1950年[編集]

この年、名人戦の契約が毎日新聞から朝日新聞に移っている。

名人戦を失った毎日は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。


参考資料
升田幸三『名人に香車を引いた男』(中央公論社、2003年、ISBN 412204247X

1976年[編集]

この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。

朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。

その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。

名人戦を失った朝日新聞は、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。

なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった[15]。1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事の大内延介が、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した[16]。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、二上達也田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だった[17]。その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった[18]

参考資料
名人戦@将棋パイナップル
近代将棋」1976年12月号

2006年[編集]

2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。

問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。

2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。

通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。

7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。

8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。

12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人をだすこととなった。

参考資料
名人戦問題:MSN毎日インタラクティブ(現在はリンク切れ、Web Archiveによるミラー
日本の論点PLUS - 将棋名人戦の移籍問題
参考文献
『新潮45』2006年7月号(通巻291号)、「棋界激震! 名人戦争奪バトルの禁じ手」(田丸昇
将棋世界』2007年1月号、「名人戦の真実」
http://www.asahi.com/shougi/meijin/66/a-class.html

脚注[編集]

  1. ^ 天狗太郎『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24
  2. ^ 天狗太郎『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24
  3. ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
  4. ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
  5. ^ 第74期名人戦・開催地公募のお知らせ日本将棋連盟・2015年8月21日閲覧
  6. ^ a b 名人位の賞金総額を推計する - 将棋ペンクラブログ・2013年12月20日
  7. ^ 『将棋名人戦 ~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(将棋世界編集部編、マイナビ、2014年)p.38
  8. ^ 『将棋名人戦』p.43
  9. ^ 『将棋名人戦』p.43
  10. ^ 『将棋名人戦』p.49
  11. ^ 将棋ソフト不正使用疑惑により途中休場。三浦の地位保全のため76期は11名で行われた。
  12. ^ 磯辺真季は、1995年1月 - 3月のNHK将棋講座で佐藤康光のアシスタントを務めている。
  13. ^ 2011年名人戦の司会兼聞き手のアナウンサーは、第2局から局順に、堀伸浩長野亮後藤理吉岡大輔泉浩司・長野亮(NHK囲碁と将棋 タイトル戦中継 2011年6月23日閲覧)。
  14. ^ 史上初!!全5対局完全生中継「将棋界の一番長い日」(囲碁・将棋チャンネル)
  15. ^ 週刊将棋編『将棋ファン読本』(毎日コミュニケーションズ)P.15 井口昭夫「不死鳥・大山の将棋人生」
  16. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.65
  17. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.66
  18. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.70

関連項目[編集]

外部リンク[編集]