加藤一二三

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 加藤 一二三 九段
名前 加藤 一二三
生年月日 (1940-01-01) 1940年1月1日(77歳)
プロ入り年月日 1954年8月1日(14歳)
棋士番号 64
出身地 福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市
師匠 剱持松二九段
段位 九段
戦績
タイトル獲得合計 8期
一般棋戦優勝回数 23回
2017年3月27日現在

加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は、日本将棋棋士タレント。実力制6人目の名人剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。

現役最年長、棋界最古参棋士であり、戦前生まれの名人経験者最後の存命者である。「1分将棋の神様」「神武以来(じんむ このかた)の天才」[注 1]の異名を持つ。

略歴[編集]

最高齢現役、最高齢勝利、最高齢対局、現役勤続年数、通算対局数、通算敗戦数は歴代1位(更新中)であり、1950年代1960年代1970年代1980年代1990年代2000年代の各年代で順位戦最高峰A級に在籍したことがある唯一の棋士である(他には大山康晴が1940年代から1990年代までA級在籍。6つの十年紀でのA級在籍はこの二人のみ)。14歳7ヶ月で史上初の中学生棋士になった。この記録は2016年に藤井聡太に破られるまで62年に渡って最年少記録であった。デビュー後4年連続で昇級をして18歳でA級八段という記録は60年近く経った今もなお破られていない。 19世紀生まれ・20世紀生まれ・21世紀生まれの三世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した唯一の棋士である。また加藤自らを除く、実力制名人(木村義雄十四世名人とは木村が引退した後の1957年行われた非公式戦の記念対局)全員と対局経験があるのも加藤ただ一人である。

大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖を相手に、それぞれ100回以上対局(百番指し)。

人物[編集]

1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)生まれ。カトリック教徒であり、1986年に聖シルベストロ教皇騎士団勲章受章。紫綬褒章受章(2000年)。

京都府立木津高等学校卒業[1]早稲田大学第二文学部西洋史学専修中退。

同年代の棋士からの愛称は「ピン(一)さん」。ファンからは「ひふみん」の愛称で親しまれている。また自身の洗礼名にちなんだ「パウロ先生」という愛称もある[2]

盤上・盤外においての独特なこだわり、その強烈な個性と言動は老年においてなお話題を振りまく棋士であり、数多くの逸話伝説)を残し続けている。

戦績[編集]

神武以来の天才[編集]

1954年に当時の史上最年少棋士史上初の中学生棋士[注 2]となる。ただし、加藤がプロ入りした時の反響はさほどではなかった[3]

1957年1月24日、高松宮賞争奪選手権戦で優勝。17歳0ヶ月での優勝は、新人棋戦を除く公式戦に於ける史上最年少記録である。さらに、順位戦ではデビューから4年連続昇級して18歳(A級への昇級・八段への昇段を決めたのは1958年2月27日、京都府立木津高等学校3年在学中[1]。当時の規定により、八段への昇段は1958年4月1日付)でA級八段となる偉業を成し遂げ、「神武以来(このかた)の天才[注 1]と呼ばれ、大きな反響があった[3]。A級順位戦の1年目は負け越したが、2年目(1959年度)で第19期名人戦(1960年)の挑戦権を得、20歳でタイトル初挑戦。七番勝負は大山康晴名人に1勝4敗で敗れた。

タイトル戦での大山・中原との対決[編集]

1960年代は、上記の名人戦を含めタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目にして、ついに初のタイトル獲得を果たした。

1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 中原との対戦成績は一時1勝19敗という大差であったが、本人は特に苦手意識はなかったという。この期間、タイトル戦に14回登場したが、そのうち中原との対決は9回にも上った。当初は、1973年度の名人戦、および、1976年度・1977年度の十段戦で、中原の前に3回連続で敗退した。ところが、1977年度の第3期棋王戦では、前年に大内延介から奪った棋王位を、中原五冠王を相手に3-0のストレートで防衛し、六冠独占を阻止した。1978年度の王将戦では中原から王将位を奪取し、(直後に棋王戦で米長邦雄に敗れるまでの束の間ではあるが)自身初の二冠王となった。1980年度の十段戦では中原から4-1で奪取、翌年度も米長を相手に防衛を果たす。

名人獲得とその後のタイトル戦[編集]

3度目の挑戦となった1982年の第40期名人戦では中原に挑戦、4勝3敗・1持将棋・2千日手(実質十番勝負)という名人戦史上に残る空前の名勝負の末、初挑戦から苦節22年、念願の名人位を初めて手中にした[注 3]。また、十段と合わせ自身2度目の二冠制覇でもあった。

中原とのタイトル戦での対決は、中原が5回、加藤が4回獲得という結果であり、全盛期の中原に対して大善戦した[注 4]。1983年以降、両者はタイトル戦で相まみえることはなかった。

その後は、1984年度の第25期王位戦高橋道雄から奪取するが、翌年に高橋に奪回され、以降、タイトル戦の舞台から遠ざかっている。一般棋戦の優勝は1993年度のNHK杯将棋トーナメント が最後である(2014年3月末現在)。なお、この優勝により、1950年代1960年代1970年代1980年代1990年代の各年代で一般棋戦優勝を達成。5つの十年紀での一般棋戦優勝は、中原誠・谷川浩司らを上回る史上1位の記録である。

順位戦[編集]

A級在籍期数(名人在位を含む)は通算36期であり、大山が44期、中原が29期であることを考えれば、非常に多いことがわかる。しかし、大山と中原が初のA級からの連続在籍であるのに対し、加藤の場合はA級とB級1組の間の往復がある。A級への復帰を決めたB級1組順位戦の期は、第16期(1961年度)、第21期(1966年度)、第23期(1968年度)、第51期(1992年度)の4回(= 4往復)である。このうち最初の3往復は、A級陥落から1期での即復帰である。

しかし、第62期(2003年度)で名人位経験者として史上初めてB級2組に陥落が決定。以降は順位戦における成績が下り坂となる。 第65期(2006年度)は最終戦までB級1組昇級争いに絡んだが、第66~67期(2007~2008年度)に棋士人生で初となる降級点を2年連続で喫し、C級1組へ降級する。加藤が順位戦のC級1組に在籍するのは、プロデビューから2年目の1955年度以来、53期・54年ぶりである。

第68~70期(2009~2011年度)は、C級1組順位戦において降級点を回避。この結果、2016年度まで順位戦在籍(現役続行)可能となった。しかし、第71期(2012年度)以降は降級点を喫し続け、第72期(2013年度)順位戦でC級2組への降級が決定。プロデビュー年度の1954年度以来、59期・60年ぶりに在籍したC級2組でも第73~74期(2014~2015年度)と連続して降級点を喫した。この間、第71期(2012年度)及び第74期(2015年度)では全敗を喫した(名人経験者の順位戦全敗は非常に珍しい)。

名人経験者として順位戦のB級2組・C級1組・C級2組に陥落したのは史上初である。また、2015年度には、順位戦を含め全棋戦で負け0勝20敗(2014年度の岡崎洋六段戦から年度を2つまたぎ、2016年5月の中村修戦まで23連敗[注 5])となり、A級経験者の年度全敗は、2013年の田丸昇九段(当時はフリークラス在籍で0勝10敗)以来である。

1000勝と1000敗[編集]

1989年8月21日、大山に次いで史上2人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。さらに勝ち星を重ね、2001年には史上3人目の通算1200勝達成。棋士会において、自身が九段昇段後の1000勝を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。

2011年11月1日、史上3人目の1300勝を達成[4]。2012年7月26日、通算勝数歴代2位の中原誠に並ぶ1308勝を達成[5]。2013年2月15日、東京・将棋会館で行われた王将戦1次予選で藤森哲也四段に勝ったため、公式戦通算成績が1309勝(1098敗)となり、通算勝数が歴代単独2位になった[6]

一方、2007年8月22日の朝日杯将棋オープン戦予選、戸辺誠(当時四段)との対局において、史上初の通算1000敗を記録する(1261勝1000敗[7])。これは、加藤のキャリアの長さもさることながら、トーナメント戦(1敗すれば終わり)以外の対局、すなわち、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことをも表す。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。ちなみに、同日時点での通算敗数の史上2位は、有吉道夫九段の955敗(1061勝)であり、その後、有吉も通算1000敗を記録した。2013年3月12日の第71期名人戦・順位戦C級1組10回戦、阿部健治郎五段との対局において、通算1100敗を記録した。(1309勝1100敗[8]

現役最晩年[編集]

2015年3月11日の棋王戦予選3回戦で増田康宏(当時17歳4ヶ月)と対局し勝利。75歳の加藤との年齢差58歳は、年長棋士側から見た史上最多年齢差勝利となった。この勝利の後、上記の2015年度全敗を含む23連敗のトンネルに入る。

2016年度の第30期竜王戦6組ランキング戦の初戦(2016年12月24日)では、2016年10月1日に加藤自身が持っていた史上最年少記録を上回り、14歳2か月でプロ棋士(四段)となった藤井聡太のデビュー戦の相手となった(結果は110手で藤井の勝ち)。これは公式戦で最も離れた年齢差(62歳6か月)であり、また加藤は19世紀生まれ(村上真一野村慶虎畝美与吉)、20世紀生まれ(その他多数)、21世紀生まれ(藤井聡太)の棋士と公式戦で対局した記録を持つことになった[9]。2002年生まれの藤井は21世紀生まれの最初の棋士であり、かつ、藤井がデビューした時点の現役棋士で19世紀生まれの棋士との対局経験があるのは加藤だけであったため、これは空前絶後の記録となる。

2017年1月3日に丸田祐三が持っていた最高齢現役棋士記録(77歳+1日)を、1月12日に同じく丸田が持っていた最高齢対局記録(76歳11ケ月)を、それぞれ更新した[10]

一方で順位戦C級2組では、3回戦で八代弥(当時22歳5ヶ月)に勝利したものの、他の対局で敗戦が続き、8回戦終了時点で1勝7敗の成績(1回戦は抜け番)。この時点で、加藤が降級点を回避できる条件は、残りの2局を加藤が連勝し、同時点で2勝しかしていない棋士のうち7人が全敗をすることだった。そして2017年1月19日、当該7人の1人である竹内雄悟佐藤慎一に勝利したことで、降級点回避条件を満たせなくなり、フリークラス規定による加藤の引退が決定した[11]。名人経験者が規定で引退することになったのは史上初である。

しかし、引退が決定した翌日の1月20日に第88期棋聖戦二次予選で飯島栄治(この時点で順位戦B級1組、竜王戦2組)に勝ち、丸田祐三が持っていた最高齢勝利記録(76歳11ケ月)を更新した[12]

1954年8月1日に四段となってからの現役勤続年数(60年超)は、大山康晴(1940年四段 - 1992年に順位戦A級在籍のまま死去[注 6])、内藤國雄(1958年四段-2015年引退)、有吉道夫(1955年四段-2010年引退)、丸田祐三(戦争によるブランクもあり、1946年に27歳で四段 - 1996年引退)、関根茂(1953年四段 - 2002年引退)らを抑えて歴代1位であり、なお更新中である。

2017年4月1日以降、残っている対局[注 7]を終えた時点で引退となる。

棋風[編集]

半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、よいと思った戦型はひたすら採用し続ける傾向にある。羽生善治は「作戦が立てやすいことは立てやすいが、100%同じ戦法で来るとなると不気味でもある。一つの戦法を突き詰めていくのも一つの生き方だし、一局一局が確実に次への知識になる。悪いことばかりでもないようだが、作戦が読まれて相手の研究にはまる危険性を考えると現実にそういう人はほとんどいない。だが加藤先生は全然恐れておられないようだ」と書いている(羽生善治「羽生善治 好機の視点」小学館文庫、初出は月刊将棋マガジン)。

特に「加藤棒銀」と呼ばれるほど棒銀戦法の採用率が高いことが有名で、四間飛車に対して居飛車穴熊が流行してもなお、棒銀で挑み続けている。また、相居飛車の一つである角換わりの将棋においても、棒銀を採用する傾向にある(一般的には棒銀よりも腰掛け銀を採用する棋士が多い)。

振り飛車戦の居飛車では、特に大山康晴との戦いの経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対三間飛車急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には急戦で立ち向かうが、1980年に居飛車穴熊を主に対大山戦で数局ほど採用したことがある。

相居飛車戦では、矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。

また、ひねり飛車横歩取り3三桂のような空中戦も得意としており、後者は一時期後手番でも採用したことがある。さらにその後は、後手番では矢倉中飛車を多用した。

長考派・1分将棋の神様
常に最善手を探すタイプのため、序盤からたびたび長考することが多い。1968年十段戦第4局で、一手に7時間費やした事は特に有名な事例である(休憩時間も含む)。長考するため終盤では持ち時間がなくなり、秒読みに追い込まれることが多い。しかし、そこからがまた強く、「秒読みの神様」あるいは「1分将棋の神様」の異名を持つ[注 8]。ただし、本人はクリスチャンであることから「神様」と呼ばれることは不本意であり、「達人」もしくは「名手」と呼んでもらいたいと語っている[13]。その強さは早指しの棋戦でも発揮され、NHK杯戦では羽生、大山に次いで歴代3位の優勝7回を誇り、他の早指し棋戦(早指し選手権戦日本シリーズ早指し王位決定戦)でも数々の優勝をしている。ただしNHK杯戦においては、1993年の優勝以来、決勝の舞台に登場していない(もっとも、1993年当時53歳での優勝は大山には及ばないものの早指し戦としては際だった年長記録である)。
好きな駒は銀
駒の中では「銀将」が好きだと述べている。前述のように棒銀戦法の使い手であり「銀は営業部長」と評している。鋭角的でどんどん前に出るから、うまくいけば良くなり、会社で言えば、営業部長で改革して業績を拡大するイメージがあるからとのこと[14]

エピソード[編集]

加藤は将棋の内容以外のエピソードが多々ある。たとえば、2006年5月より「BIGLOBEストリーム」の「将棋ニュースプラス」では「ザ・加藤一二三伝説」が配信されている。また、2007年刊行の著書『一二三の玉手箱』(毎日コミュニケーションズ刊)において、加藤自身が逸話のいくつかについて解説を加えている。

対局での流儀[編集]

  • 右手で取った駒を左手に持ち替え、それを駒台に載せる前に、動かす駒を右手で盤にビシッと打ち付けるのが、加藤の独特のスタイルである。
  • 対局中、勝負所では駒を持つ手に力が入り、駒音がひときわ高くなることで知られるが、[15][16]駒を割ったことは一度もない[17]
    • ただし、対局中に盤が自然に割れたことがあった。愛知県蒲郡市の「銀波荘」で行われた1967年の第16期王将戦第3局(大山康晴王将に加藤が挑戦。加藤はそれまで王将戦で大山に6連敗していた)での出来事。対局が2日目に入り、加藤が考慮していると、突如として加藤の右側の香車が跳ね上がった。驚いた加藤が盤面に目をやると、将棋盤の乾燥が不十分であったのか、盤に亀裂が入っていた。直ちに将棋盤を交換して対局が続行され、加藤は快勝した。[16][17]
  • 対局に臨む際は、ネクタイを長く結ぶ(立ち上がると、ネクタイの先端がベルトより20㎝ほど下になる程度)。[18]偶然ネクタイを長く結んで対局に向かった際、普段以上に澄んだ心持ちで集中して臨むことができ、快勝したため、以降、ネクタイを長く結ぶのが対局時の流儀になった。[19]
  • 対局時の食事については、エピソードが多い。
    • 昼食と夕食で、同じメニューの出前を頼むのは、対局中に食事のことで迷うより、あらかじめ注文するものを決めておきたいから。[18]
    • 東京・将棋会館での対局では、鰻重が長期間にわたって定番である。天ぷら定食や鍋焼きうどんも好物だが、天ぷら定食は注文しても届かないことが重なり、鍋焼きうどんは冷めるまで待たないと食べられないので、「確実に届き、すぐに食べられる」鰻重に落ち着いた。[18]
    • 基本的に「一度決めたメニューをなかなか変えない」主義のため、鰻重の前は天ぷら定食が定番だった時期が7年ほど続いた。[20]
    • 2013年頃、一時鰻重を注文しなくなった時期がある。[21]本人曰く「医者から脂っこいものを控えるように言われている」とのことで、当時は「ざるそばと冷やしトマト」がお気に入りだった。[22][23]また勝又清和によれば「昼はコンビニかスーパーでサンドイッチや果物を買う」ことが多かった。[24]2014年の秋頃から、再び鰻重を注文するようになっている。
    • 関西将棋会館での対局では、鰻重ではなく「鍋焼きうどんとおにぎり」が定番であった(2013年現在)。[25]加藤は、2016年10月に千田翔太Twitterで教示されるまで「関西将棋会館では鰻重の出前がない」と長年に渡って思いこんでいた。[26]
    • 東京・将棋会館での2015年2月12日の対局(順位戦C級2組、対 三枚堂達也)で、夕食に、カキフライ定食とチキンカツ定食の2つを注文して話題となった。[27][28]
  • 対局中に相手の背後に立って盤面を見る癖がある。[29][注 9]このためニコニコ生放送では、盤面を先後逆転させて表示する機能を「ひふみんアイ」と名づけ、棋戦の生中継で使用している。[30]
  • 甘いものが好きで、対局中に板チョコをばりばり食べる(特に明治製菓のものを好む)。NHK BS2で放送された「大逆転将棋2007」における米長との「はさみ将棋名人戦・最終章・陣屋決戦」でも、通常の対局のときのように持参してきた板チョコを対局中に食べ始め(同時にVTRにコミカルなBGMが流れ始め)、スタジオでVTRを見ていた出演者達の笑いを誘った。米長は「(そのチョコレート)ちょっともらえないかな?」と申し出て、加藤から分けてもらって食べた。ちなみにカマンベールチーズも好物である。
  • NHK杯戦で優勝した際、優勝セレモニーの祝辞で当時の日本将棋連盟会長・二上達也九段に、「アマチュアの人が(加藤の対局中の奇行を)真似すると困るのでマナーに気を付けてほしい」と言われた。もっとも二上は著書で、そのようなしぐさは本人が形勢の容易でないと思っているときに出るもので、対局相手にとっては良い兆候だったと述べている[31]
  • 箱根の温泉旅館「天成園」での対局時に人工の滝の音が耳障りであったため、滝を止めさせた[32]。また天童では庭の水車を止めさせた。なお、羽生がタイトル戦で地方を回った際、加藤が滝を止めたと聞いた場所で自分も止めたという話を羽生から聞いたとのこと。また羽生は、加藤が過去5回は滝を止めた話を人から聞いたとのことだが、加藤の記憶にあるのは前述の2回である[14]

キリスト教徒として[編集]

  • 1970年12月25日に洗礼を受ける。
  • 1971年10月にバチカンでおこなわれたマキシミリアノ・コルベ列福式に参列。列福式の前後にはヨーロッパ各地を訪れた(初の外国旅行)[33]。1982年10月10日におこなわれたコルベの列聖式にも参列し、コルベの出身地・ポーランドも訪れた[33]
  • 1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章。有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない、と、将棋観戦記者である東公平に語ったのは、湾岸戦争の話をしていた時であった[34]
  • 自戦記などを書くとき、必ずと言っていいほどキリスト教のことに触れる。「キリスト教について」という章名を入れることさえある。「将棋世界」誌で自戦記を連載した際も、毎回必ず冒頭にキリスト教の話題を持ち出した。
  • 対局中の望ましい態度として、「元気いっぱい、明るい気持ちで、前向きに積極的に、快活で、勇気を持っていること(ひるんだり、弱気になったり、落ち込むのは良くない)」が大事であり、いい状態を持続させるために祈ったり歌を歌ったりする[14]
  • 夫人と共に、麹町の聖イグナチオ教会で、カップル相手に結婚講義を行っている[35]

トラブル[編集]

  • 当初の師匠は南口繁一九段であったが、1998年に、剱持松二八段の門下に変わった(変えた)。剱持とは以前から懇意にしており、また、剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)とは家族ぐるみの付き合いだったという縁もあった。南口については「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」との旨を述べている[36]
  • 第13期銀河戦阿部隆戦(2005年5月26日放映)の終盤で、桂馬を成らずで動かし、いったん指を離したが、直後に持ち直して成りに指し直してしまった。当初は対局者阿部の指摘で、9回目の考慮時間の60秒を経過し、10回目を使って指したとみなし、考慮時間が減らされただけで勝敗の記録自体は加藤の勝ちのまま変更はなかった。後日、視聴者から「待った」ではないかとの指摘があり理事会で検討した結果「待った」の反則と確認された[37]。加藤への処分として対局料没収の上、罰金が科せられ次期の銀河戦は出場停止になった[38]銀河戦の項参照)。
  • 将棋会館の暖房は音がして気が散るため、電気ストーブを好んでいる。電気ストーブを用いた際に相手も寒くないようにと等距離に配置したものの顔に当たり熱かったため、嫌がらせと誤解を受け、位置を是正した[14]
  • 記録係の置いた将棋盤の位置を変えようとして、先に着席していた相手と揉めたことがある。加藤はくじ引きを提案したが、相手が反対したため、手合係の仲介により先輩である加藤の顔を立てる案が提案され、また加藤が将棋盤の位置にこだわる理由(部屋の中央に置いた方が安定し、お互いに気持ちよい)を説明をした結果、相手は納得し、変えた位置で対局することになった。しかし今度は加藤が「対局場に入った場合は四段も名人も関係ない真剣勝負の場であるから、後輩が先輩の顔を立てるのは不本意であり、お互いに我慢をするのは良くない」としてくじ引きを行い、結局当初の位置に落ち着いた[14]
  • 棋聖戦で相手棋士からの申し入れにより、理事会から空咳(咳払い)をしないように指導されたことがある。(なお空咳をするときは絶好調であり、また空咳は体の中に溜まったストレスを体の外に出すという心理が働いていたと述べている)[14]
  • 2008年12月、自宅マンションそばで野良猫を餌付けしたため、糞尿をまき散らされるなどの被害を受けたとして、マンションの他の住人や管理組合から、餌やり中止と慰謝料など約645万円の賠償を求める訴訟を起こされた[39]。2010年5月13日、東京地裁は原告の訴えを認め、加藤に餌付け中止と慰謝料204万円の支払いを命じた[40][41]。本人は「猫に長く生きてもらいたいと思ってした行動なのに、理解できない」と控訴する意向を示していたが、26日、控訴しない方針を明らかにした。毎日新聞の取材に加藤は「判決文を熟読すると、猫の命を大切にするという私の取ってきた行動を認めてくれている。私の主張は変わらないが、判決なのでルールとして受け入れる」と述べた。加藤自身は以前から、周辺住人の協力によらず、ほぼ一人で避妊去勢手術を漸次施しているため、現在では4匹前後にまで野良猫は減っていたと報道されている。

その他[編集]

  • 昭和50年代のトップアマ棋士との駒落ち将棋に強く、昭和の真剣師小池重明にも角落ちで勝利している。金銀の使い方のうまさから下手泣かせとして知られた。
  • 1997年スーパーファミコン用ソフト「加藤一二三九段 将棋倶楽部」(ヘクト)が発売された。
  • 1998年11月6日の対土佐浩司戦(棋聖戦)から1999年10月2日の対丸山忠久戦(A級順位戦)にかけて、21連敗した。トップ棋士であるはずのA級棋士が21連敗したことは、河口俊彦「新対局日誌」(「将棋世界」誌に連載)などで話題にされた。
  • 2012年第25期竜王戦(渡辺-丸山)第1局2日目、ニコニコ生放送で解説を務めた際、初手からの丁寧な解説中に丸山が投了、解説が現局面に追いつかないまま対局が終了するという異例の事態となった。多くの昔話を交えながら解説する加藤のスタイルと、封じ手が88手目という1日目からの早い進行、そして14時頃という竜王戦史上最も早い終局時刻が重なったことによって起きた珍事であった。なおこの回のニコニコ生放送は、13時の解説開始から間もなく終局を迎えたこともあり、対局終了後30分間の休憩を挟んで、視聴者からのメールに答えるという趣旨で16時過ぎまで放送が続行された。
  • 2014年の第3回電王戦(ツツカナ - 森下卓九段)第4局の解説で、森下の勝勢を主張していたが、熱弁しているうちに指し手の先後が分からなくなり、最後に「ですから、ツツカナさんの圧勝です」と言ってしまった(結果はツツカナの勝利)。
  • 70代になっても相変わらずの大食漢であるが、それゆえに肥満体型であり、2016年現在は体重が100kgを超えてしまっているという[42]。本人もダイエットの必要性を意識してはいるものの「エアロバイクに耐荷重オーバーで乗れない」といった問題があり、なかなか実行に移せないことを語っている[43]
  • 2016年11月20日開催されたSKE48の「みんなが主役!SKE48 59人のソロコンサート~未来のセンターは誰だ?~」の鎌田菜月のパートにてゲスト出演しアイドル力(歌、ダンス、リアクション芸)対決を行ない、鎌田菜月に見事勝利した。その際、応援のために観客が振るサイリウムのカラーは水色と決定した。

昇段履歴[編集]

  • 1951年(11歳) 3級(奨励会入会)
  • 1952年(12歳) 初段
  • 1954年8月1日(14歳) 四段(プロ入り、史上初の中学生棋士)
  • 1955年4月1日(15歳) 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1956年4月1日(16歳) 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1957年4月1日(17歳) 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1958年4月1日(18歳) 八段(順位戦A級昇級)
  • 1973年11月3日(33歳) 九段(九段昇格規定 30点)

主な成績[編集]

2017年2月3日までの通算成績
対局数2500(歴代1位)、1324勝(現役2位)、1175敗(歴代1位)、タイトル戦の持将棋1

タイトル[編集]

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇
竜王 七番勝負
10-12月
名人 七番勝負
4-6月
82(第40期) 4 1期
十段 七番勝負
(終了棋戦)
68(第7期), 80-81 7 3期 2
棋聖 五番勝負
6-7月
2
王位 七番勝負
7-9月
84(第25期) 3 1期
王座 五番勝負
9-10月
棋王 五番勝負
2-3月
76(第2期)-77 3 2期 2
王将 七番勝負
1-3月
78(第28期) 5 1期
登場回数合計24、 獲得合計8期歴代9位タイ

(2013年度終了現在。最新は1985年度の王位失冠。)

一般棋戦優勝[編集]

優勝合計23回

在籍クラス[編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞[編集]

  • 第 4回(1976年度) 最多勝利賞・連勝賞・技能賞
  • 第 5回(1977年度) 殊勲賞
  • 第 6回(1978年度) 殊勲賞
  • 第 8回(1980年度) 殊勲賞
  • 第 9回(1981年度) 最優秀棋士賞・連勝賞
  • 第12回(1984年度) 最多勝利賞・最多対局賞
  • 第29回(2001年度) 東京将棋記者会賞
  • 第44回(2016年度) 特別賞・升田幸三賞特別賞「棒銀をはじめとする数々の新工夫」

記録[編集]

  • 最高齢現役(更新中)
  • 最高齢勝利(更新中)
  • 最高齢対局(更新中)
  • 最長現役勤続年数(更新中)
  • 最多対局数(更新中)
  • 最多敗戦数(更新中)
  • 新人棋戦以外での最年少公式戦優勝(高松宮賞争奪選手権戦)17歳0ヶ月
  • 最年少A級 18歳
  • 最年少名人挑戦 20歳
  • 順位戦でのデビューからの4期連続昇級(加藤の他には中原のみ)
  • A級順位戦最多勝利 149勝
  • A級順位戦最多対局 313局
  • 順位戦最多出場 62期[44]
  • 19世紀生まれ・20世紀生まれ・21世紀生まれの棋士と公式戦を対局(史上唯一)
  • 62歳A級(大山に次ぐ史上2位)
  • 名人・A級在位 36期(大山に次ぐ史上2位)
珍記録
  • 最年少A級陥落 21歳
  • 最多A級昇級(B級1組降級) 5回
  • 最年少A級返り咲き 22歳[注 10]

タイトル戦全成績[編集]

年度 タイトル 勝敗 相手 備考
1960 名人 ○●●●千● 大山康晴
1961 王将 ●●● 大山康晴 指し込み
1963 王位 ○●○●●● 大山康晴
1966 王将 ●●○●● 大山康晴
1967 王将 ●●○●○● 大山康晴
1968 十段 ●●○○●○○ 大山康晴 奪取
1969 十段 ●●○○千●千● 大山康晴 失冠
1973 名人 ●●●● 中原誠
1976 十段 ●○千●●○○● 中原誠
1976 棋王 ○○○ 大内延介 奪取
1977 十段 ○●○●●○● 中原誠
1977 棋王 ○○○ 中原誠 防衛、中原の六冠独占を阻止
1978 王将 ●○○○○ 中原誠 奪取、束の間の二冠王
1978 棋王 ●●○○● 米長邦雄 失冠
1979 棋聖・前 ●○●● 中原誠
1979 王将 ●●○●○● 大山康晴 失冠
1980 十段 ○●○○○ 中原誠 奪取
1981 十段 ●○●○○○ 米長邦雄 防衛
1981 棋聖・後 ●●● 二上達也
1982 名人 持●○●○千○●千○ 中原誠 奪取、「十番勝負」、二冠王
1982 十段 ●○●○●● 中原誠 失冠
1983 名人 ●●●○○● 谷川浩司 失冠
1984 王位 ○●●○●○○ 高橋道雄 奪取
1985 王位 ●●●● 高橋道雄 失冠


将棋タイトル獲得記録
順位 獲得回数 棋士名
1位 97期 羽生善治 *
2位 80期 大山康晴
3位 64期 中原誠
4位 27期 谷川浩司 *
5位タイ 19期 米長邦雄 | 渡辺明 * 
7位 13期 佐藤康光 *
8位 12期 森内俊之 *
9位タイ 8期 木村義雄 | 加藤一二三 * 
*は現役棋士

その他表彰[編集]

著書[編集]

  • 『加藤詰将棋200題』金園社 1966
  • 『振飛車破り』大泉書店 1968
  • 『棒銀の闘い』大泉書店 1968
  • 『矢倉の闘い』大泉書店 1968
  • 『矢倉囲いの新戦法』金園社 1969
  • 『力戦振飛車』大泉書店 1970
  • 『中終盤の闘い 初段をめざす将棋シリーズ』大泉書店 1971
  • 『将棋の初歩入門』大泉書店 1972
  • 『振飛車破り. 続』大泉書店 1973
  • 『加藤一二三実戦集 わが熱闘、珠玉の40局』大泉書店 1975
  • 『逆転の将棋 秘密の受け・攻め・読み・捌き』青春出版社 プレイブックス 1976
  • 『将棋実力養成次の一手』第1-4集 西東社 1975-1976
  • 『将棋実力養成詰め将棋100選』西東社 1976
  • 『将棋の基本 わかりやすい 入門から初段まで』ナツメ社 1976
  • 『寄せと詰めの秘訣 詰将棋・次の一手付き』コルベ出版 1976
  • 『加藤(九段)の詰将棋』高橋書店 1977
  • 『加藤の詰将棋傑作選』日本文芸社 1977
  • 『将棋勝ち方戦法』西東社 1977
  • 『初心者の詰将棋』日本文芸社 1978
  • 『ジュニア版将棋入門』ナツメ社 1978
  • 『楽しい将棋入門』主婦の友社 1978
  • 『棒銀の戦法』主婦の友社 1978
  • 『やさしい将棋入門』西東社 1978
  • 『いちばん早く強くなる将棋』広済堂出版 1979
  • 『加藤一二三実戦集』永岡書店 1979
  • 『将棋・あなたの実力は? 次の一手-あなたはどう指すか』ナツメ社 1979
  • 『将棋・入門から実戦まで どう戦えば勝てるか』ナツメ社 1979
  • 『実戦に役立つ将棋実力テスト』ナツメ社 1979
  • 日本将棋大系 14 坂田三吉神田辰之助筑摩書房 1979
  • 『加藤一二三実戦名局集 対矢倉戦の勝局譜』永岡書店 1980
  • 『現代振飛車破り』新星出版社 1980
  • 『プロの矢倉3七銀』大泉書店 1980
  • 『プロの矢倉3七桂』大泉書店 1980
  • 『現代将棋名局集 5 加藤一二三名局集』筑摩書房 1981
  • 『中学・高校生の将棋問題集 10級~3級』成美堂出版 1981
  • 『次の一手最強の手筋 勝つ手は常に一つだ』創元社 1981
  • 『プロの中飛車破り』大泉書店 1981
  • 『プロの四間飛車破り』大泉書店 1981
  • 『中学・高校生の将棋 入門編』成美堂出版 1982
  • 『プロの三間飛車破り』大泉書店 1982
  • 『加藤一二三の将棋の勝ち方 必勝・矢倉戦法のすべて』ナツメ社 1983
  • 『加藤一二三の将棋の指し方 身につけたい基本の手筋と戦法』ナツメ社 1983
  • 『加藤一二三の将棋の手ほどき』文研出版 1983
  • 『加藤の勝つ次の一手 あなたの実力何段?何級?』日本将棋連盟 1984
  • 『加藤一二三の将棋の戦い方 基本戦法と必ず勝つ手筋・寄せ』ナツメ社 1984
  • 『加藤一二三のつめ将棋全百科 初級編』小学館 コロタン文庫 1984
  • 『加藤流矢倉+中飛車破り』筑摩書房 1985
  • 『楽しむ詰将棋』(1992年、光文社文庫
  • 『加藤流 振り飛車撃破』(2003年、毎日コミュニケーションズ
  • 『加藤流 最新棒銀の極意』(2003年、毎日コミュニケーションズ)
  • 『加藤流 最強三間飛車撃破』(2004年、毎日コミュニケーションズ)
  • 『加藤の振り飛車破り決定版(2005年、日本将棋連盟)
  • 『一二三の玉手箱』(2007年、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-2277-2
  • 『老いと勝負と信仰と』(2011年、ワニブックスISBN 4-8470-6035-0
  • 『将棋名人血風録 奇人・変人・超人』(2012年、角川oneテーマ21ISBN 4-0411-0241-3
  • 『脳が活性化する!大人がもう一度はじめる将棋入門』産経新聞出版 2013
  • 『羽生善治論 「天才」とは何か』(2013年、角川oneテーマ21、ISBN 4-0411-0455-6
  • 『負けて強くなる 通算1100敗から学んだ直感精読の心得』宝島社新書 2014
  • 『加藤一二三の5手詰め』創元社 2015
  • 『加藤一二三名局集』日本将棋連盟 2015
  • 『無敵棒銀 - 加藤流熱血道場(2015年、木本書店、ISBN 4-9048-0815-0
  • 『加藤一二三の3手詰め 詰将棋202題』創元社 2016
  • 『求道心 誰も語れない将棋天才列伝』SB新書 2016

出演[編集]

テレビ番組[編集]


ほか多数出演

ラジオ番組[編集]


CM[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 「我が国始まって以来の」または「他に例がないほど非常に優れた」という意味。
  2. ^ 加藤一二三がプロになったのは中学3年のときで、谷川浩司は中学2年でプロになっているが、加藤は14歳7ヶ月、谷川が14歳8ヶ月のため、加藤の方が若い。2016年10月1日付で四段に昇段した藤井聡太は14歳2ヶ月で、62年ぶりに加藤の記録を更新した。
  3. ^ 谷川浩司は、この名人戦最終局の解説会(東京・将棋会館)で解説役を務めていた。谷川の夢は中原名人に勝って名人位に就くことであった。谷川は当時の心境について「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思った。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている(別冊宝島380「将棋王手飛車読本」)。翌年、谷川がA級1年目で加藤名人への挑戦権を得て、‘中原名人’ではなく加藤名人から名人位を初奪取することとなる。
  4. ^ 中原との対局が最も多かった棋士といえば米長邦雄であるが、中原の全盛期にあたるこの期間(1970年代 - 1982年)に関して言えば、中原を相手にして米長がタイトルを獲得した回数は3回のみである。
  5. ^ 偶然だが、連敗後の初勝利は、その中村修の弟子にあたる上村亘四段である。
  6. ^ 順位戦A級に在籍していた大山は、仮に健康問題がなく、かつ規定で引退することになるまで現役を続けていれば、少なくとも2001年3月末まで現役を続けることが可能であった。その場合、現役勤続60年超を記録する。
  7. ^ 2017年3月末時点で、竜王戦6組昇決が残っている。
  8. ^ ただし、中原誠は、「加藤さんが『1分将棋の神様』『秒読みに強い』とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは羽生世代だ。」と述べている。(別冊宝島380「将棋王手飛車読本」)
  9. ^ 対局相手の背後に立って盤面を見る癖は石田和雄らにもあるが、将棋界では加藤のそれが最も有名。
  10. ^ A級昇級年少記録全体で見ても、自身の18歳、谷川浩司の19歳に次ぎ3位。
  11. ^ 日曜ファミリア枠で放送

出典[編集]

  1. ^ a b 題名なし。1958年2月27日に、加藤一二三 七段(18歳、京都府立木津高等学校3年)がA級への昇級を決め、同時に八段への昇段も決めたこと、18歳で八段に昇るのは最年少記録であること等を記載。”. 朝日新聞 (2017年1月20日). 2017年1月23日閲覧。
  2. ^ ニャンとも言えない加藤一二三伝説 Vol.45 - 加藤一二三チャンネル
  3. ^ a b 『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.38
  4. ^ 加藤一二三九段、1300勝を達成!(日本将棋連盟)
  5. ^ 加藤九段、通算勝数歴代2位に並ぶ1308勝を達成!(日本将棋連盟)
  6. ^ 加藤九段、通算勝数歴代単独2位の1309勝を達成!(日本将棋連盟)
  7. ^ 加藤一二三九段 公式戦通算1000敗を記録(日本将棋連盟)
  8. ^ 加藤一二三九段、史上初の通算1100敗に(日本将棋連盟)
  9. ^ 加藤一二三九段、孫と戦うような新旧天才対決を前に、大熱戦を予告”. サンケイスポーツ (2016年12月24日). 2017年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月26日閲覧。
  10. ^ 加藤九段、77歳で最高齢対局記録へ!”. 日本将棋連盟 (2017年1月12日). 2017年1月20日閲覧。
  11. ^ 加藤九段、引退へ…C級2組から陥落 最年長77歳
  12. ^ 加藤九段、最高齢勝利!”. 日本将棋連盟 (2017年1月20日). 2017年1月20日閲覧。
  13. ^ 加藤一二三九段「私は自分が一分将棋の神様と言われる事は全く不本意で、一分将棋の達人とか、名手とか呼んでほしいと話をした」 - 将棋ペンクラブログ・2016年10月2日
  14. ^ a b c d e f (将棋ニュースプラス「ザ・加藤一二三伝説」本人談より)
  15. ^ 藤井四段 白星デビュー 14歳プロ棋士76歳加藤九段破る”. 東京新聞 (2016年12月25日). 2017年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月22日閲覧。
  16. ^ a b 加藤一二三のひふみん伝説 - 伝説の将棋盤と滝”. 神戸新聞 (2016年12月25日). 2017年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月8日閲覧。
  17. ^ a b 『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.70
  18. ^ a b c 『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.104
  19. ^ “バラエティー番組にレギュラー出演”. 加藤一二三のひふみん伝説60年 (47NEWS). (2015年2月25日). http://www.47news.jp/feature/hifumin/2015/02/post_20150220172414.html 2015年2月26日閲覧。 
  20. ^ 「加藤先生、本日も天ぷら定食でよろしいでしょうか!」 - 将棋ペンクラブログ・2015年2月13日
  21. ^ https://twitter.com/hifumikato/status/352755309619580930
  22. ^ ひふみん昼の新定跡 - ニコニコ動画
  23. ^ 今日はこれから収録へ。その... - フォト蔵
  24. ^ https://twitter.com/katsumata/status/265705333429788674
  25. ^ 『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.107
  26. ^ 千田五段、ひふみんに鰻の出前の存在を教える - 2ch名人・2016年10月20日
  27. ^ ベテラン棋士加藤一二三九段が夕食に「カキフライ定食」と「チキンカツ定食」をダブル注文!将棋界に激震が走る 2015.02.13 19:05 - ガジェット通信 ガジェ通ウェブライター
  28. ^ 昨日の注文、カキフライ定食「と」と言われた時は、さすがに動揺しました笑 改めて今自分は伝説の方と将棋を指していると実感したのは、言うまでもないですね。 - Twitter 三枚堂達也
  29. ^ 将棋界は「愛しき奇人の宝庫」……林葉直子、棋士たちの仰天エピソードを披露 - RBB TODAY・2014年6月25日
  30. ^ 第39期棋王戦五番勝負 第3局 棋譜中継 - 日本将棋連盟・2014年3月16日
  31. ^ 二上達也著『棋士』(晶文社、2004年)
  32. ^ 加藤一二三九段が滝を止めた旅館のCMに出演した大山康晴十五世名人 - 将棋ペンクラブログ・2017年4月18日
  33. ^ a b “コルベ神父のこと”. 加藤一二三のひふみん伝説60年 (47NEWS). (2014年12月16日). http://www.47news.jp/feature/hifumin/2014/12/post_20141215162134.html 2015年2月26日閲覧。 
  34. ^ 東公平、1996、『熱闘!100番勝負 将棋・珍プレー好プレー』、朝日ソノラマ
  35. ^ 『こんなツレでゴメンナサイ。』(望月昭著、文藝春秋、p165)
  36. ^ 『将棋世界』1998年11月号
  37. ^ http://www.kansai-shogi.com/webmagazine/05-8-1.html
  38. ^ お知らせ(日本将棋連盟)
  39. ^ 野良猫に餌やりでトラブル 訴えられた将棋・加藤元名人の「言い分」”. 2009年3月1日閲覧。
  40. ^ 東京地方裁判所立川支部 平成20年(ワ)第2785号 猫への餌やり禁止等請求事件 平成22年5月13日判決
  41. ^ 野良猫餌やり、加藤・元将棋名人に慰謝料204万円命令 - asahi.com、2010年5月13日
  42. ^ https://twitter.com/hifumikato/status/738002350447566848
  43. ^ https://twitter.com/hifumikato/status/738014548255375361
  44. ^ 『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、pp.121-125、加藤一二三 全記録分析
  45. ^ 加藤一二三九段が第71回『西日本文化賞』を受賞(日本将棋連盟)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]