長谷川町子

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長谷川 町子
Machiko hasegawa.jpg
本名 長谷川 町子
(はせがわ まちこ)
生誕 1920年1月30日
日本の旗 日本 佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市
死没 (1992-05-27) 1992年5月27日(72歳没)
日本の旗 日本 東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1935年 - 1987年
ジャンル 4コマ漫画
ギャグ漫画
家族漫画
風刺漫画
代表作 サザエさん
いじわるばあさん
エプロンおばさん
受賞 1962年:第8回文藝春秋漫画賞
1982年紫綬褒章
1988年:第4回東京都文化賞
1990年勲四等宝冠章
1991年:第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞
1992年国民栄誉賞
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長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年大正9年)1月30日 - 1992年平成4年)5月27日)は、日本漫画家。日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』など。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)生まれで、3人姉妹の次女[1]三菱炭坑の技師であった勇吉のワイヤーロープの事業開業[2]に伴い幼少時に福岡市春吉に転居した。

春吉尋常小学校卒業旧制福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)2年生の1933年昭和8年)まで福岡で育った。父の死去に伴い1934年(昭和9年)、一家そろって上京する[3]。山脇高等女学校(現・山脇学園高等学校)に転校。

初期の活動[編集]

15歳の頃の長谷川町子

田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高女在学中に田河水泡に師事する[4][5]。その後、田河の引き立てにより『少女倶楽部1935年10月号に掲載された見開き2ページの『狸の面』で漫画家デビューする。「天才少女」と題したグラビアも同時に掲載された[6][7][8]。内弟子として田河家で生活するが、ホームシックから11カ月で出戻る[9]

1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で女性漫画家としての地位を確立する。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載[10])。

戦中[編集]

空襲からの疎開徴用回避のため、長野県佐久郡に赴き児童の絵の教師を務める話が一旦まとまったが、福岡の知人の勧めにより1944年3月に福岡市百道に長谷川一家は疎開し、町子は西日本新聞社に絵画部[11]の校閲係として勤務する。「昼出勤、4時退社」という楽な仕事であり、残りの時間は畑仕事に嬉々として打ち込んでいた[12]。福岡転居後は、終戦直後の1945年9月に西日本新聞社発行の雑誌に読み切り6コマ漫画『さあ!がんばらう』を掲載するまで漫画作品を発表していない[13]

西日本新聞従業員として博多湾の見える丘で記事のためのスケッチをしていたところ、憲兵スパイ容疑で逮捕される事件があった。長谷川がスケッチした方向に軍用基地(雁ノ巣飛行場)があり、スパイと疑われたためである。関係者の奔走により長谷川は釈放された[14]

1945年には買い出し中に米軍艦載機の機銃掃射から逃れたり、6月の福岡大空襲では焼夷弾が長谷川家に着弾し消防員に叩き消してもらうなどの戦争体験をしている[15]。徴用回避の必要がなくなった終戦の翌日に西日本新聞社を退職した。現金があっても何も売ってないからという[16]

サザエさん連載開始[編集]

1946年昭和21年)西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画を頼まれた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩しているときに『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。当初は本人は「アルバイトのつもりでやっていた」と語っている[17]。在京有名出版社から町子と姉・毬子への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日[18]にサザエの結婚で一旦打ち切りとして同年の暮れに一家そろって上京する。当時東京都への転入は食糧事情悪化のため厳しく制限されていたが、西日本新聞の記者という名目で許された[19]

1947年1月3日、夕刊フクニチへの『サザエさん』連載を再開した[20]。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに夕刊フクニチ以外の地方紙にも同時掲載されるようになる[21]

同年には、毬子と共に設立した姉妹出版(のち姉妹社)から、福岡の家を売った資金で『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)[22]。初版2万部を納め、集金も出来たので2万部を増刷したところ、B5判の横綴じという第1巻の形状が書店の店頭に並べにくいとの理由により大量返品を受け、姉妹出版は当時の出版取次大手業者の日本出版配給(日配)から出入り禁止の処分を受けた。その後、長谷川家は日配から戻された第1巻の在庫に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「形状が不評なのだから次はB6判で出せば良い」と励まし、B5判を当初勧めた筋から新たに借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を1万部印刷。日配が使えなくなったため、毬子が大八車を雇って直接小規模取次を回り頼み込んで第2巻を納入していたが、その第2巻が読者に好評だったため、B5判の第1巻も書店から引き合いが来るようになった[23][24]。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。

1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移す[20]と、作者の引越しをなぞるように磯野家も東京に引越した[25]1949年朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載先を変更するが、これを機に週刊朝日に連載していた『似たもの一家』を打ち切る[26]1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り[27]新聞4コマ漫画の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになり、励みになったという[28]。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。

胃痛や風邪による休載はしばしばあったが、1960年には漫画家廃業を宣言し、一年近く断筆した[29]。漫画考案に苦悶する町子を見かねていた家族[30]は廃業に強く賛成する。朝日新聞社に毬子を通じて連載終了を申し出るが、広岡知男編集局長[31]は「やめるなんてよしましょう。ゆっくり休みなさい。」と休載扱いとする。約半年後に長谷川の心境が変わった後に朝日新聞社から打診があり、連載を再開している[32]

いじわるばあさん以降[編集]

「ヒューマニズムに飽きていた」[30]長谷川は、1966年からブラックユーモア路線の『いじわるばあさん』の連載を開始する。善良なキャラクターの作品と違い、『いじわるばあさん』は自分の地のままでいいから気楽に描けるという[33]

1967年、47歳の時に胃潰瘍になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく胃癌であったが、妹・洋子の夫が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した[34]。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。これを機に家族は漫画執筆をやめさせようとするが、主治医の中山恒明に説諭され、渋々執筆協力を再開する[35]

1970年(昭和45年)に知的財産権に関する先駆的行動として、作者に無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴し、勝訴(サザエさんバス事件)。

1974年2月22日付で『サザエさん』を3年間の休載とするが、その後再開される事は無かった[36]

1978年、『サザエさんうちあけ話』を朝日新聞日曜版に連載。翌1979年には単行本として姉妹社から出版されるとともに、これを原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラママー姉ちゃん』が放送された[36]。姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。

晩年[編集]

1982年(昭和57年)11月、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画を描くつもりはない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。1990年平成2年)4月、勲四等宝冠章を受章。

1992年(平成4年)5月27日、死去。享年73(満72歳没)。当時の報道では自宅の高窓を閉めようとして机から落ち全身を打撲、打撲の痛みで体調を崩し、通院治療を受けていたが、徐々にろれつが回らなくなり、食欲がなくなるなど衰弱した末、死去の前日にはほとんど食事をとらず、翌朝までに息を引き取っていたという[37]。『長谷川町子思い出記念館』の年表によれば死因は冠動脈硬化症による心不全[38]。また長谷川洋子の自伝『サザエさんの東京物語』によれば死の一週間前に脳血腫の診断を受けており[39]、往診医に大病院での入院手術を指示されるも「町子自身が治療を拒否したので、本人の意志を尊重した」と毬子がマスメディア上で述べている[40]。遺言により葬儀は肉親のみの密葬で済ませ、訃報は1か月間公表されなかった[37]。また告別式は行われず、弔問供花なども毬子は固辞した[37]

訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社フジテレビの両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月、家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。他に第8回(1962年・昭和37年度)文藝春秋漫画賞、第20回(1991年・平成3年度)日本漫画家協会賞を受賞。

1993年5月、町子の死と毬子の高齢などの理由により姉妹社は解散となり、これまでの単行本は全て絶版となった。

家族[編集]

多磨霊園にある長谷川家の墓

母の貞子は果断で、女性の自活が困難だった当時に女世帯を切り盛りする一方、姉妹社の収入から大金を喜捨しては町子・毬子と喧嘩していた[41]。その独断的性格に対して、戦前戦中は「ヒットラー」、戦後は吉田茂にちなみ「ワンマン」と娘達が渾名していた[42]。なお町子は吉田茂を「右顧左眄しない」と評価し[43]、好きな政治家に挙げている[44]。晩年に貞子は認知症となり、我が娘だと見分けられなくなった町子を前にして「昔はやり手とも呼ばれてました。しかしそのようなことは虚しいものです。大事なことは謙遜でございます。」と回顧している[45]。1987年に91歳で死去[46]

子供の頃、当時流行していたアイス饅頭が食べたかったが、母が不衛生だと買ってくれず、お手伝いさんからの小遣いで、買って食べながら帰っていると、うしろから誰かに肩をつかまれ、振り返るとそこに居たのが母だったという苦い思い出がある[47]。このように母の貞子は躾に厳しく、悪戯や姉妹喧嘩が過ぎると町子や毬子は鶏小屋へいれられ、優しいお手伝いさんがいつも助け出してくれたという[47]

早くに亡くした父への町子の思い入れも深かったという。「とてもハンサムで、素敵な紳士」だったと町子は語っている[48]。子煩悩で短気でもあり、娘達は短気を受け継いでしまったとも町子は描いている[2]

姉の毬子は、第二次世界大戦太平洋戦争)が開戦してから朝日新聞記者の東学(アズマ マナブ)と結婚するが、東は召集され1944年インパール作戦で戦死する。わずか1週間の結婚生活で、毬子は以降独身を貫き通した[49]

終戦後、夜中に進駐軍のアメリカ兵の集団が姉・毬子と町子しかいなかった長谷川家の玄関を叩く出来事があった(母は鹿児島への所用で不在、妹の洋子は結核による入院中)。進駐当初、アメリカ兵による暴行等の風説が広まり、近所があらかた田舎などに避難していた中でのことであった。二人は恐怖におののき、勇気を出して町子が応対したところアメリカ兵は彼女を子供と勘違いしてガムチョコレートを沢山与えたという(この時には彼女から恐怖と不安はなくなっていた[50])。英語が解らなかった彼女は近所の西南学院の英語教師にアメリカ兵の応対を頼む。後日、彼から聞いた話ではアメリカ兵は遊ぶ場所を探して迷ったのだという。なお、米兵と別れて帰宅した際に姉はまだ恐怖に陥っており、米兵が町子を使って押し入ろうとしているかもしれないと疑って、町子が戻ってもしばらく鍵を開けなかったが、町子はその事について憤慨し、生涯忘れなかったという[51]

妹・洋子1953年に結婚し、長谷川家敷地内の離れで暮らしていた。洋子の夫が1961年に病死した[28]後は、離れを母屋まで移動して連結し[52]、町子と母、毬子、洋子、洋子の二人の娘が一つ屋根で生活していた。町子は、草稿が出来ると洋子に見せて評価を聞いていた[53]

姉や妹とは違い、町子は結婚をせず生涯独身を通した。一時期は子供が欲しかったが、姪ができて母性本能が満たされたという[54]。縁談は多く、婚約後に断ったこともあった。その理由については夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、自分の方がお嫁さんがほしいくらいとも妹に述べている[33]。好みの男性の条件は「オシャレでなく清潔である、ケチでない、仕事熱心で明るい」点を上げており[55]、外形にはあまりこだわらなかったという[54]

姉妹社単行本の裏表紙に表示された姉妹社のシンボルマークは、道路標識をモチーフにした表示板に「SSS」と記された「スリーエスマーク」であった。これは、毬子・町子・洋子の長谷川三姉妹を表すものであった。

後年、毬子・町子と洋子一家とは些細な行き違いから絶縁状態に陥り、「サザエさんうちあけ話」で描かれた洋子の存在が「サザエさん旅あるき」ではほぼ触れられていないほか[56]、町子が亡くなった際も「洋子には知らせるな」と毬子は近親者に緘口令を敷き、見かねた長谷川美術館関係者[57]がそっと知らせて来たという。そのこともあり、遺産相続等の一切の権利を洋子一家は放棄したという[40]

学校生活・級友[編集]

小学校時代は悪童という言葉がよく似合う腕白な少女であった。後に町子は自身の小学校時代を振り返って「今で言えば、いじめっ子よね。私に殴られなかった友達、クラスに一人もいないのじゃないかな」と妹の洋子に語っている[58]。また小学校時代はクラス替えがなく、担任の先生も六年間替わらなかったので、まるで一家族のような組だったという[47][59]

授業中の町子はよく先生の似顔絵を描いており、それを見つけた松本善一先生にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされたことがある。しかし、町子はそれを逆手にとって松本先生の癖などを漫画にし、その漫画を級友に授業中回していた[47]。また掃除時間になると、町子は掃除を怠けて男子とチャンバラごっこをして遊んだりしていたが、ある日、友人の女子生徒が男子に泣かされたりした時には「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」と言って、その男子を校舎の屋上につれだしてやっつけていたという[47]

得意科目は図画と作文[47]。悪童であったが成績は良かったので男子生徒と交替で級長学級委員長)を務めていたが、自習時間監督を任されると定規を持って教室を歩き回り、気に食わない男子の頭を片っ端から叩いて歩いていた[60]。当然、取っ組み合いの大乱闘になることも珍しくなかったが、それでも喧嘩には六年間の小学校生活を通して「一度も負けたことがなかった」という[60]

小学校卒業式の朝、町子は友人の男子生徒と喧嘩した挙げ句、友人を校庭の物置に閉じ込め、そのまま式に出たあと家に帰ってしまい、卒業式終了後になってようやく友人は学校の用務員に助けられて事無きを得た[60]。それから約30年後のクラス会で、その友人と再会した際に言うまでもなく咎められたというが[61]、結果的に「お友達の方がずっと大人で、笑い話にして水に流してくれた」という[62]。以来、町子は数年おきのクラス会を大変楽しみにするようになり、急な仕事でクラス会に出席できなくなったことを憤慨した件が『サザエさん』の数少ない作者登場回で描かれている。また町子は小学校時代の旧友にも「みんな酔うほどに私からいじめられた話ばかりするのよ。福岡へ帰ったら罪ほろぼししなけりゃ」と述べ苦笑いしていたというくだりがある[47]

14歳の青年期に地元の福岡から東京の山脇高等女学校に編入した時は、博多弁がおかしいと笑われるなどして友達が一人も出来なかったという[62]。その後、町子は徐々に人見知りになり[63]、人付き合いや表舞台に顔を出すことが苦手になってしまう。仕事の依頼や作品の管理も姉の毬子があたり、パーティなどの類いにもほとんど出席せず、連載を持っていた朝日新聞社毎日新聞社にも数える程しか顔を出さなかった[64]。亡くなる前年に文部大臣賞に選出され出席したときには、出席者たちが「動く長谷川町子を初めて見た」とどよめいたという逸話も残っている。東京での友人・知人は極端に少なかった一方で、福岡時代の旧友とは晩年まで交友が続き、旧友達が集団上京してきたエピソードが遺作『サザエさん旅あるき』に描かれている[59]

なお町子の地元の放送局RKB毎日放送が『サザエさんふるさとへ帰る』という番組を企画した際、町子本人は出演拒否し、旧友に「あなたたち私のかわりに出てよ。いくら悪口言ってもいいから」と言って結局出演せず、小学校時代の旧友が出演した[47]

信仰[編集]

当初は聖公会クリスチャン。父の病気を機に家族で入信した。母のような熱心な信徒ではなかった町子が、日曜日に里帰りする口実として「礼拝したい」と言い出したところ、田河水泡夫妻に付き添われて隣のメソジスト教会に通う羽目となった。のちに、付き添った夫妻の方が熱心なクリスチャンになった[65]

戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり[66]、集会で講義をしていた矢内原忠雄と母が交友関係を持つようになった(妹の結婚式の司式を矢内原にしてもらい、その数年後、矢内原は死の半年前にも病を押して長谷川の義弟の葬式の司式を引き受けた)。矢内原から海外探訪の誘いがあった時には畏敬のあまり反射的に断ってしまい、啓発の機会を逸したことを後に悔やんだ[67]。矢内原没後の1970年の対談では自らの宗派を「無教会派」と答えている[68]

エピソード[編集]

  • 戦時中、出征する兵士に頼まれて「虎は千里を駆けて帰る」という諺から、日の丸の旗に虎をよく描いていた。
  • サザエさん等で動物が多く登場しているが、長谷川も実際に犬や猫を多く飼っていた。「サザエさんうちあけ話」では、飼い犬に関するエピソードで30章中2章を使っている。また、長谷川が当時飼っていた犬と一緒に写っている写真も残されている。動物園で展示されているキツネが観光客に目を潰された話を聞き激怒して園を飛び出す[69]、炎天下で飼い犬に水をやっていない飼い主を電話で怒鳴りつける[70]など、動物虐待が比較的見過ごされていた時代において人一倍敏感であった。
  • サザエさんの連載を持っていた1963年12月に姉と些細なケンカをして家出をした事がある。ひとまず厚生年金会館の宿泊施設に身を寄せるが、実は独り暮らしをした事もなく途方に暮れていたところ、翌日に朝刊で力道山の急死を知り、その影響かもう一度自分の人生を思い直し帰宅する。彼女によれば、その出来事が自分の人生のターニングポイントだったと述懐している[71]
  • 趣味で収集した各種美術品コレクションを活かすために私財を投じて「長谷川町子美術館」(東京都世田谷区桜新町)を開館。姉妹社の解散後、「財団法人長谷川町子美術館」として作品の著作権管理を行なっている。当初は「長谷川美術館」だったが町子の没後、現名称に変更された。住まいは、世田谷区用賀二丁目である(現在もそこに長谷川家がある)。
  • 胃潰瘍(実際は胃癌)による入院の際に、手術の麻酔から覚めるのが珍しいほど遅いため、酒に弱い体質ではないかと主治医の中山恒明に尋ねられた[72][73]。実際に酒には強くなく[74]、日本酒が好きであるが3杯までと述べている[75]。果実酒も少々たしなむ程度[74]。1971年には肝臓を害して1年3か月休載しており、その後には日本酒、ワイン、ウイスキー、ブランデーなどを挙げて「盃1杯だけ」と述べている[76]
  • 長谷川町子関連の映像化された作品は現在過去問わずDVDなどでソフト化されたことはなく(ただし例外で、「読売テレビ50年社史」付属のDVDに、いじわるばあさんの一部のシーンが収録されている)、名画座で映画上映されることも稀である。その権利関係の管理の厳しさから「日本のディズニー」と一部で呼ばれている[誰によって?]
  • 1993年3月には墓から遺骨が盗まれる事件が発生したが後に戻っている。犯人は不明のままで、未解決事件となっている。なお、遺骨の一部は生前に住職と親交のあった法住寺天台宗京都市東山区)に分骨されている[77]

作品[編集]

長谷川は以下の漫画作品以外にも、趣味で製作した絵画や焼き物、陶器や粘土細工による人形等の作品も幾つか遺している[78]

漫画作品[編集]

姉妹社の廃業後、朝日新聞社2008年に出版部門を朝日新聞出版へ分社)から長谷川町子全集(全33巻+別巻1)が刊行されている。

  • 狸の面(デビュー作 2頁「少女倶楽部」1935年10月号)
  • かき(8コマ「少女倶楽部」1935年11月号)
  • オマハリ(6コマ「少女倶楽部」1935年12月号)
  • 少倶の発売日(6コマ「少女倶楽部」1936年1月号)
  • へのへのもへ字(8コマ「少女倶楽部」1936年2月号)
  • ターチャントヘイタイサン(4頁「漫画と教育講談」講談社の漫画絵本63 1938年)
  • トン子博士の動物病院(2頁「少女倶楽部」臨時増刊号 1939年)
  • ヱイ子さんのお留守番日記(4頁 絵と文「少女倶楽部」秋の増刊 1939年)
  • はらつゞみ合戦(4コマ「少女倶楽部」秋の増刊 1939年)
  • ヒィフゥみよチャン(「國民新聞」紙上で1939年3月13日から同年7月10日まで100回に渡り連載) - 連載
  • 仲よし手帖(「少女倶楽部」連載 1940年 - 1942年、「少女」連載 1949年 - 1951年) - 連載
  • ゴチソウ(2頁 「幼稚園」1941年2月号)
  • 翼賛一家大和さん(「アサヒグラフ」連載 1941年2月5日号 - 同年5月14日号) - 連載
  • クニチャンと礼法(「愛国夫人」連載 1941年7月 - ) - 連載
  • チヱダメシ(1頁 絵と文「良い子の友」1942年10月号)
  • ナカヨシオフロ(2頁 コドモヱバナシ 第6巻第7号 1943年)
  • さあ!がんばらう(6コマ 西日本新聞社発行の雑誌 1945年9月)[13]
  • サザエさん(「夕刊フクニチ」→「新夕刊」→「朝日新聞」連載 1946年4月22日 - 1974年2月21日) - 連載
  • ヨウちゃん(「こどもマンガクラブ」連載 1948年10月 - 1949年?) - 連載
  • となりのぼっちゃん(7コマ 婦人世界3月号 1949年)
  • にいさんのアルバイト(7コマ 少年3月号 1949年)
  • びょうきみまい(7コマ 少年クラブ6月号 1949年)
  • こだぬきまめすけ(小学一年生 4・5月号 1949年)- 連載
  • 似たもの一家(「週刊朝日」連載 1949年4月10日号 - 12月15日号) - 連載
  • あわてた驛夫(3コマ「少年おもしろ文庫」1950年創刊号)
  • 新やじきた道中記(「週刊朝日」連載 1951年11月4日号 - 1952年12月28日号) - 連載
  • たこあげ(4コマ「小学生朝日」1951年1月21日号)
  • 町子かぶき迷作集(「週刊朝日」連載 1952年 - 1956年) - 連載
  • 森の石松(1頁「人間喜劇」創刊号 1952年)
  • わたしはバスの車掌さん(4頁 少女クラブ新年特大号 1953年)
  • わかめちゃんとかつおくん(「たのしい一年生」連載 1956年9月 - 1961年2月) - 連載
  • 水(6コマ 「週刊明星」創刊号奉仕版 1958年7月27日号)
  • わかめちゃん(「たのしい幼稚園」連載 1962年 - 1963年) - 連載
  • エプロンおばさん(「サンデー毎日」連載 1957年1月6日号 - 1965年7月25日号) - 連載
  • いじわるばあさん(「サンデー毎日」連載 1966年1月2日号 - 1971年7月18日号) - 連載
  • まんが幸福論文藝春秋臨時増刊・漫画讀本「陽春特別号」1967年2月)
  • さっちゃん
  • のんき夫婦
  • 銭形平次捕物帳
  • いじわる看護婦
  • いじわるクッキー
  • サザエさんうちあけ話(「朝日新聞」日曜版 連載 1978年4月 - 11月) - 連載
  • サザエさん旅あるき(「朝日新聞」連載 1987年4月 - 10月) - 連載

挿絵・イラスト作品[編集]

  • 学校劇「ふしぎなお芋」久米元一・作(7頁 少女倶楽部 1939年10月号)
  • カラストネガヒゴト(絵と文 4頁 漫画の部隊 鶴書房 1941年1月15日発行)
  • お八重ちゃん 日吉早苗・文(少女倶楽部 1943年4月号)
  • サルトカメ 宮下正美・文(4頁 コドモヱバナシ 第6巻第2号 1943年)
  • コグマトコダヌキ 南條龍彦・文(3頁 コドモヱバナシ 第6巻第12号 1943年)
  • ぶたのせんせい(絵本 姉妹社 1951年)
  • わかめちゃんとおまわりさん(サザエさんえほん1 姉妹社)
  • サザエさんとどうぶつえん(サザエさんえほん2 姉妹社)
  • サザエさんとのりもの(サザエさんえほん3 姉妹社)
  • タラちゃんとおやつ(サザエさんえほん5 姉妹社)
  • どうぶつむらのきしゃ(サザエさんえほん6 姉妹社)
  • のってみたいな!!(サザエさんえほん7 姉妹社)
  • へんね おかしいな(サザエさんえほん8 姉妹社)
  • おまつり(サザエさんえほん9 姉妹社)

アニメ化作品[編集]

映画化作品[編集]

  • 「サザエさん 七転八起の巻」(1948年) - 1948年から1950年にかけて、マキノ映画及び大映により全3作製作される。
  • サザエさん」(1956年) - 1956年から1961年にかけて、東宝及び宝塚映像に全10作製作される。

詳しくはサザエさん#映画を参照。

テレビドラマ化作品[編集]

長谷川町子を演じた人物[編集]

長谷川町子もしくは、長谷川町子をモデルとしたキャラクターを演じた人物

脚注[編集]

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  1. ^ 実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は三女(『長谷川町子思い出記念館』巻末の年表より)。
  2. ^ a b 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.5
  3. ^ 『長谷川町子』ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉15頁
  4. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.7-8
  5. ^ 『サザエさんの東京物語』 pp.38-39
  6. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.11
  7. ^ 『サザエさんの東京物語』 p.39
  8. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.12
  9. ^ 『サザエさんの東京物語』 p.40
  10. ^ 『長谷川町子思い出記念館』pp.319-320
  11. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.29、『サザエさんの東京物語』p.58では絵画部とある。『長谷川町子思い出記念館』p.319の年表では編集局絵画課。
  12. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.28-29
  13. ^ a b 北日本新聞 2018年11月22日付26面・ぶんぶんジュニア内『長谷川町子さんの戦後初作品見つかる』より。
  14. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.31
  15. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.33-34
  16. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.36
  17. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.42
  18. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.319
  19. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.43-45
  20. ^ a b 『長谷川町子思い出記念館』p.320
  21. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.46
  22. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.290
  23. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.47-50
  24. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.291
  25. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.51
  26. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.53
  27. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.55
  28. ^ a b 『サザエさんの東京物語』 p.70
  29. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.292
  30. ^ a b 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.111
  31. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.112 では「広岡社長」とあるが、1960年当時は取締役編集局長。
  32. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.112-114
  33. ^ a b 『サザエさんの東京物語』 p.15
  34. ^ 『サザエさんの東京物語』 pp.140-142
  35. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』pp.96-97
  36. ^ a b 『長谷川町子思い出記念館』p.325
  37. ^ a b c “長谷川町子さん死去 「サザエさん」生みの親 5月27日に自宅で”. 朝日新聞・東京朝刊. (1992年7月1日) 
  38. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.326
  39. ^ 『サザエさんの東京物語』p.210
  40. ^ a b 『サザエさんの東京物語』 p.211
  41. ^ 『サザエさんの東京物語』 pp.108-111
  42. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.68
  43. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.29
  44. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.289
  45. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.128
  46. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.326
  47. ^ a b c d e f g h 『ふるさと歴史シリーズ サザエさん物語』西日本シティ銀行
  48. ^ 『サザエさんの東京物語』p.12
  49. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.23-24
  50. ^ 『サザエさんうちあけ話』では、米兵たちは上機嫌な酔っぱらいの姿で描写されている。
  51. ^ 『サザエさんうちあけ話・サザエさん旅あるき』朝日新聞社、37頁
  52. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.115
  53. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.64-65
  54. ^ a b 『長谷川町子思い出記念館』p.293
  55. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.22
  56. ^ 買出しの話で1コマだけ出ている(34頁2コマ目)。『サザエさんの東京物語』pp.167-170によると町子と洋子一家で母を海外旅行させた話も、『サザエさん旅あるき』pp.51-57では町子が1人で付き添っている形で描かれている。
  57. ^ 『サザエさんの東京物語』p.209では「姉妹社に勤めていて、姉達の秘書のような仕事をしている人」
  58. ^ 『サザエさんの東京物語』 pp.16-17
  59. ^ a b 『サザエさん旅あるき』pp.196-203
  60. ^ a b c 『サザエさんの東京物語』 p.17
  61. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.4
  62. ^ a b 『サザエさんの東京物語』 p.22
  63. ^ 『サザエさんの東京物語』 pp.37-38
  64. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.82
  65. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 pp.12-13
  66. ^ 『サザエさんの東京物語』p82、『長谷川町子思い出記念館』内のインタビュー記事「サザエさんと私」(p271)より
  67. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.125
  68. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.215(『週刊朝日』の『イイザワ対談遠近問答』最終回で飯沢匡に対して)
  69. ^ 『サザエさん旅あるき』pp.49-50
  70. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.60
  71. ^ 「サザエさんうちあけ話・サザエさん旅あるき」p289
  72. ^ 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』 p.93
  73. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.86
  74. ^ a b 『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』p.80
  75. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.288(1966年『サンデー毎日』12月11日号より)
  76. ^ 『長谷川町子思い出記念館』p.309(1978年『週刊朝日』5月3日号より)
  77. ^ ● 法住寺(ほうじゅうじ)後白河法皇の身代わりになった不動と四十七士の寺東山district
  78. ^ アサヒグラフ別冊 長谷川町子絵画館 サザエさんの作者が残した[未発表]美術作品』朝日新聞社、2000年7月25日、ISBN 978-4-02-272138-9

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]