琴錦功宗

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基礎情報
四股名 松澤 英行→琴松沢 英行→琴錦 功浩→琴錦 功宗→琴錦 玄教→琴錦 英行→琴錦 功宗
本名 松澤 英行
愛称 角界のマイク・タイソン
生年月日 (1968-06-08) 1968年6月8日(49歳)
出身 群馬県群馬郡箕郷町(現・高崎市
身長 177cm
体重 144kg
BMI 45.96
所属部屋 佐渡ヶ嶽部屋
得意技 突き、押し、右四つ、寄り、もろ差し、掬い投げ[1]
成績
現在の番付 引退
最高位 関脇
生涯戦歴 663勝557敗58休(100場所)
幕内戦歴 506勝441敗43休(66場所)
優勝 幕内最高優勝2回
殊勲賞7回
敢闘賞3回
技能賞8回
データ
初土俵 1984年3月場所[1]
入幕 1989年5月場所[1]
引退 2000年9月場所[1]
引退後 年寄・若松竹縄浅香山荒磯秀ノ山中村朝日山
備考
金星8個(千代の富士1個、北勝海1個、1個、貴乃花3個、若乃花2個)
2016年6月1日現在

琴錦 功宗(ことにしき かつひろ、1968年(昭和43年)6月8日 - )は群馬県群馬郡箕郷町(現・高崎市)出身の元大相撲力士佐渡ヶ嶽部屋所属。本名は松澤英行。最高位は東関脇。現役時代の体格は身長177cm、体重144kg。得意技は突き、押し、右四つ、寄り、もろ差し、掬い投げ。現在は年寄朝日山[1]

来歴[編集]

入門まで[編集]

箕郷町立箕郷中学時代は柔道部に所属し活躍していたが、相撲大会にも借り出され全国大会にも出場した。その実績によりロサンゼルス五輪金メダリストで国民栄誉賞受賞者の山下泰裕からもスカウトの声が掛かり当初は高校進学が決まりかかっていたが、佐渡ヶ嶽親方(先代(12代)、元横綱琴櫻)の再三に渡る勧誘により入門を決意。決め手となった殺し文句は「相撲に来れば強い奴とたくさん戦えるぞ。柔道なんて目じゃねぇよ」であり、このセリフをきっかけに大相撲へ進むことを決意したという。1984年3月場所に初土俵を踏んだ。同期生には湊富士大至旭豪山らがいる。入門当初から期待され、初土俵から2年ほどで幕下に昇進した。幕下時代から琴ヶ梅と共に一門外の井筒部屋へ出稽古するようになり、逆鉾から「小さく中に入って、鳥が羽ばたくように大きく広がりなさい。差すときには、手の甲から入ること。背は伸ばすことができないから、肩幅を広げなさい。そうすると相手からは大きく見えるから」とよく指導を受けた[2]

二代目琴錦襲名[編集]

西幕下5枚目で迎えた1987年(昭和62年)9月場所には11代(先々代)佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)の四股名でもある『琴錦』と改名した。このとき鏡山部屋の序ノ口力士に同音の虎勝錦がおり、本来は改名できないはずであったが、佐渡ヶ嶽親方より鏡山親方に懇請し格違いで譲ってもらい、改名を果たしている。実は『琴錦』の四股名は入門する直前に友達と考えて出来た四股名とまったく同一であり、11代親方と相撲の型(のみならず容貌、性格も似ていたといわれる)が似ていたこともあって11代親方夫人の許しを得たものであった。しかし、当の本人は11代親方の現役時代の四股名が琴錦だったということは全く知らず入門後に聞いて驚いていた。

十両昇進〜新三役[編集]

その場所は2勝5敗と負け越しはしたものの、翌11月場所・1988年(昭和63年)1月場所と2場所連続して5勝2敗の好成績を挙げ、3月場所に十両に昇進した。その場所は4勝11敗と大きく負け越し、1場所で幕下に陥落したが、同年9月場所に再び十両に昇進すると十両に定着。その後は順調に番付を上げて行き、1989年(平成元年)5月場所に新入幕を果たした。小柄な体から繰り出される、速攻の突き・押しの取り口から「F1相撲」と評された[1]。これに因んだか、『風のエール』という応援歌も作られている。このほか「角界のマイク・タイソンと評した力士もいた。又、若貴兄弟に強い時期は若貴キラーとも呼ばれていた。1990年(平成2年)5月場所には横綱北勝海を破り初金星をあげ9勝6敗と勝ち越し、初の三賞となる敢闘賞を受賞。翌7月場所では東前頭筆頭で横綱・千代の富士大関北天佑を破るなど9勝6敗で初の殊勲賞を受賞。9月場所で新三役(小結)に昇進し初日に北勝海を破るなど9勝6敗と勝ち越し、2場所連続2回目の殊勲賞を受賞した。

新関脇〜挫折[編集]

翌11月場所には新関脇に昇進。この場所では大関・霧島小錦、横綱・旭富士を破るなど初日から6連勝の活躍を見せ10勝5敗と二桁勝利を挙げ、3場所連続の殊勲賞と初の技能賞を受賞。翌1991年(平成3年)1月場所には初日から8連勝の活躍を見せ11勝4敗と2場所連続で技能賞を受賞、2場所連続して2桁の勝ち星を挙げいよいよ大関の声が掛かるようになった[3][4]。しかし師匠の佐渡ヶ嶽親方は琴ヶ梅に代わる大関候補の誕生に期待をかけながらも琴錦の素行面を不安視していた。その不安が的中するように次の3月場所前に琴錦の女性問題が発覚。琴錦は当時入籍済みで身重の婚約者がいるにもかかわらず別の女性の方へ走り、挙句「どっちも好きだし…」と発言するなど人間性を疑われるような言動に終始し、「重婚をするつもりか。」とマスコミからバッシングされ、『さまよえる下半身』という秀逸かつ不名誉なニックネームを付けられた。この問題を重く見た日本相撲協会は琴錦と佐渡ヶ嶽親方に対して譴責処分を発表、「相当の好成績を挙げない限りは大関昇進はありえない」と厳しい対応を決めた。この場所では前例のない辛辣な野次を浴びた影響もあってか、9勝6敗に終わって大関昇進の絶好機を逃してしまった。その後も5月場所は8勝7敗と勝ち越したが、7月場所は場所中に左足首を痛める不運もあり4勝11敗と不本意な成績に終わり関脇から陥落した。この場所は同部屋の兄弟子琴富士が平幕優勝した場所だったが、場所後の打ち上げでは自ら歓喜の輪に入らず、隅の方で一人寂しく兄弟子の姿を眺めるだけだったという。

初優勝〜大関を逸する[編集]

自分の撒いた種とはいえ、琴錦の落ち込みは相当のもので、一時は廃業も考えたという。そんな琴錦に弟子想いの佐渡ヶ嶽親方は7月場所後しばらくの間故郷に帰っての休養を命じた。故郷でも周りから白い目で見られると思っていた琴錦だが地元のファンの温かい励ましを受けたことでやる気を取り戻し、怪我の治療をしながら稽古に励む。東前頭5枚目まで番付を下げた翌9月場所は貴花田若花田には敗れたものの13勝2敗で幕内優勝し、7月場所に優勝した同部屋の琴富士に続き平幕優勝を成し遂げた[1]。翌11月場所では小結に復帰。初日に霧島、9日目、新入幕の貴ノ浪に敗れるも14日目まで2敗で大関・小錦と優勝を争う。その14日目に1敗の大関小錦を破りついに2敗で並ぶ。前々場所4勝11敗と負け越しているのにも関わらず、場所中に当時の二子山理事長から「連覇なら大関も検討する」と言われ、過去に例のない「関脇以下での連続優勝」および前田山以来の「関脇を飛び越えての大関昇進」に期待が高まった。しかし千秋楽若花田に負けて12勝3敗と優勝次点に留まり、連覇にあと一歩及ばなかった。しかもその相撲で古傷の左足首を負傷、1992年1月場所は関脇に返り咲き大関昇進を目指すも、前場所でのケガの回復が遅れて7勝8敗と負け越し、大関取りは振り出しに戻ってしまう。 翌3月場所で前頭筆頭で9勝6敗、5月場所で小結で9勝6敗の成績を上げ7月場所で関脇に返り咲くも6勝9敗に終わりあえなく三役から陥落、9月場所には前頭筆頭で11勝4敗、11月場所では小結に復帰。この場所大関と優勝を争い千秋楽まで1敗をキープ。しかし千秋楽に翌場所に大関昇進の望みを繋ぎたい関脇貴花田に敗れまたも優勝を逃す。それでも13勝2敗の好成績で翌1993年1月場所に関脇に返り咲き、今度は貴花田とともに大関取りとなったが、場所直前の膝の故障が響いて稽古不足。10日目までは7勝3敗でしのぐも終盤5連敗で7勝8敗と負け越し。結局大関昇進の大チャンスに3度も手を掛けておきながら、大関昇進が実現することは無かった。

その後は1993年9月場所から6場所連続、1995年11月場所から4場所連続で関脇を保つなど常に三役から幕内上位で活躍する。このころから貴乃花や曙には力負けすることが多くなったが、若乃花に対しては1995年1月場所から4連勝するほか、武蔵丸や貴ノ浪の大関陣をたびたび破り大関陣には互角に近い力を発揮(対・若乃花の対戦成績は16勝25敗、対・武蔵丸の対戦成績は18勝26敗、対・貴ノ浪の対戦成績は19勝21敗である)また次の大関を狙う魁皇武双山などに対しても重要なところで痛い黒星をつけるなど存在感を示し、たびたび三賞を受賞した。1998年1月場所では武双山に対して、同年5月場所では貴闘力に対して八艘飛びの奇襲を仕掛けともに勝利するなどファンを驚かせ楽しませる相撲を見せた。正攻法の速攻相撲が基本だが、このような奇襲戦法もたびたび用いて成功させることがあった。

史上初の2度目の平幕優勝[編集]

1998年(平成10年)1月場所では小結で武蔵丸、若乃花の2大関を下し10勝5敗と二桁勝利をあげ技能賞を受賞。翌3月場所は6勝9敗と負け越し平幕に下がるも5月場所は横綱昇進を目指す若乃花、4年間勝てなかった横綱曙を下し11勝4敗の好成績を挙げ3年ぶりの殊勲賞を受賞する。しかし7月場所の貴乃花戦で右足を痛め途中休場。公傷申請できるほどの怪我だったがあえて公傷を申請せず出場した9月場所では東前頭7枚目で5勝10敗と負け越し、11月場所には西前頭12枚目に下がった。30歳を迎え体力、気力の衰えを感じていた琴錦は場所前に師匠の佐渡ヶ嶽親方に引退を相談。年寄名跡を所得していなかったため、引退後は協会に残らず、自動車整備工の仕事に就きたいという意向を示した。そんな琴錦に師匠は激怒。当時36歳で十両を務める琴稲妻を例に出し「(琴)稲妻を見てみろ、今でも頑張っているじゃないか!それに転職なんかこの不景気の中予想以上に物凄く大変なんだぞ!甘ったれるのもいい加減にしろ!!もう一度死んだ気になってやれ!!」と長時間にわたって叱責されたという。

師匠の言葉にもう一度思い直した琴錦は引退を撤回。その幕尻近くで迎えた1998年11月場所は、初日から見違えるような相撲を取り11連勝し優勝争いの筆頭に立つ。12日目に横綱若乃花に惜敗し連勝がストップしたが黒星を喫した相撲はその一戦のみで、その後13日目にこれまで15連敗中だった横綱貴乃花に完勝し、金星を獲得。九州場所の館内は沢山の座布団が乱れ飛んでいた。この相撲を協会の役員室でテレビで見ていた佐渡ヶ嶽親方は取組後役員室を飛び出し、琴錦に握手を求めにいったほどの会心の相撲を見せた。14日目にも大関貴ノ浪を圧倒、2敗で追いかけていた平幕土佐ノ海が貴乃花に敗れ、琴錦の二度目の平幕優勝が決定した[1]。この日審判長を務めていた佐渡ヶ嶽親方は感極まって涙ぐむシーンも見られた。それと同時に佐渡ヶ嶽親方は「あいつは相撲も速いが気も早い。やれば出来るんだよ。(琴)錦本人がそれに気付いていないんだから」と苦笑いしながらコメントしていた。

結果琴錦は、千秋楽も勝って14勝1敗の好成績で、史上初(現時点で唯一)となる2度目の平幕での幕内優勝を飾った(同時に殊勲賞と技能賞も受賞)。43場所ぶりの優勝は史上最長間隔である。また、最高位が関脇以下の力士で唯一複数回の優勝を経験した力士でもある[5]

現役引退[編集]

1999年(平成11年)1月場所には小結に復帰、初日に横綱貴乃花を破り、前場所の優勝がフロックではないことを証明した。この場所は6勝9敗と負け越したがそれ以降も幕内上位で活躍。史上初の平幕2回優勝を決めた1998年11月場所からは、6場所連続で対横綱戦勝利(最高位が関脇以下の力士としては史上初)を挙げていた。しかし、2000年(平成12年)1月場所では東前頭3枚目で3勝12敗と大敗。西前頭8枚目まで大きく番付を下げた翌3月場所の4日目、それまで39勝8敗と大の得意としていた安芸乃島との相撲で、前日の相撲で痛めていた右肘内側側副靱帯をさらに損傷し悪化させたために途中休場。翌場所には初めて西十両筆頭に陥落した。その場所は公傷認定され全休し、7月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌9月場所の番付は半枚上の東十両筆頭に留まり、幕内復帰が見送られた。同場所は初日から5連敗し7日目に敷島に敗れたのを最後に現役を引退、準年寄・琴錦を襲名した。師匠の佐渡ヶ嶽親方はこの時は琴錦の引退の決意を翻意できず、琴錦の引退会見では「やる気があればまだこれからなのに…辞めるのには早過ぎる」と惜しんでいた。

引退後の会見にて、印象に残る力士に若乃花の名を挙げている。小柄な体格ながらも横綱まで昇進した若乃花に対して琴錦は一目置いており、「若乃花関は動きの速い力士で、対戦すると何かを学べるから楽しい」と語り、若乃花も「琴錦関は自分と同じ瞬発力で相撲を取るタイプ。取り口を真似したことがある。良い手本で、学んだり盗んだりした」とお互いに認め合っている。土俵上でも両者は熱戦を展開しており、琴錦が優勝した2度の場所では、いずれも琴錦は若乃花に敗れている。

最強の関脇[編集]

琴錦が大関になれなかった理由には、ムラッ気の多さと連相撲だった事などが挙げられ、平幕では11・12勝できても、いざ三役になると前半勝ち続けても、中盤から崩れ8勝や9勝に終わる場所や、序盤星が上がらないと後半も尻つぼみで負け越す場所が多かったのである。また幕内優勝争いにも何度か加わりながら、終盤の重要な取組で負けて結局優勝を逃すケースが多かった。例では1991年1月場所10日目に前日初黒星を喫した翌日にこの場所初日から9連敗中の新小結隆三杉に敗れその後も連敗し優勝争いから脱落。1991年11月場所9日目では新入幕の貴ノ浪に破れたのが優勝と大関を逃した原因といわれ、1993年7月場所では14日目栃乃和歌に破れ優勝争いから脱落したなど。但し引退後には、琴錦本人曰く「現役時代は本気で大関を目指してはいなかった」「自分は関脇のままでも良いと思っていた」等と白状している。

しかしながら実力は大関クラスであり、関脇在位は同じ佐渡ヶ嶽部屋の長谷川と並ぶ21場所で、当時史上1位タイの記録だった(現在はのちに大関となった琴錦の弟弟子である琴光喜に更新され、史上2位タイ)[4]。当該場所の優勝力士から白星を7回上げたという記録もまた琴錦の実力を物語る事実であり、これは最高位が関脇以下の力士としては最高の記録である[6]

引退後[編集]

2002年(平成14年)7月場所後に甲山部屋の力士がすべて引退し、甲山部屋は事実上消滅した。当初、9代甲山親方(元前頭1・大雄)は9月場所後を目処に退職し年寄・甲山を琴錦に譲ると公式に表明し、琴錦自身も年寄・甲山を襲名することを発表した。しかし、9代甲山親方が周囲に説得されて翻意し、退職せずに湊部屋に移籍したため、この話は9月場所開場直前に白紙に戻った。一説には、時津風一門が年寄名跡を一門外に流出することを防止するため、退職を思い留まらせたという。[要出典]結局、2005年(平成17年)5月26日に9代甲山親方が停年(定年。以下同)を迎えても、琴錦が襲名することはなかった。最高位も実績もはるかに劣る準年寄の元前頭11・大碇同志社大学出身、伊勢ノ海部屋)が翌5月27日に10代甲山を襲名し、後にはこの名跡を正式に取得した。

2002年(平成14年)9月場所後の準年寄としての2年間の資格期間の満了が差し迫っていたため、一門外ではあったが年寄・若松を一宮章(元小結・富士錦)から借り受け、13代若松を襲名した。その後、2003年(平成15年)9月に空き名跡の年寄・竹縄を花田茂廣(元横綱・栃ノ海)から借り受け、若松から竹縄に名跡変更をしている。年寄・竹縄の所有者は栃乃洋に変わったが、引き続き栃乃洋から借り受けた。なお、引退の原因となった肘の故障は栃乃洋との対戦で負ったものである。

2007年(平成19年)7月、竹縄から浅香山に名跡を変更。浅香山も借株で、所有者は大関魁皇であるが、その魁皇も2011年(平成23年)7月場所限りで現役引退、年寄・浅香山を正式襲名している。2009年(平成21年)1月13日に稀勢の里が取得した荒磯を、同年9月27日付には先に停年退職した長谷川(当時。その後所有は琴奨菊へ)の持つ秀ノ山を、2014年(平成26年)1月21日には嘉風の持つ中村をそれぞれ借株として名跡変更をしている。また、中村に名跡変更すると同時に尾車部屋へ移籍した[7]。これは財団法人時代の相撲協会に於いて最後の借株襲名であり、その7日後の同月29日を以って公益法人に移行したことで借株が原則禁止となったためまさしく滑り込みで借り換えたことになる[8]。その後2016年(平成28年)1月6日、先代の停年退職により空き名跡となっていた年寄・朝日山を継承・襲名し、合計6株に亘る借株生活に別れを告げた[9]。準年寄時代の2年間も含め、引退から15年4か月、47歳で初めて年寄名跡を取得したことになる。また、朝日山の年寄株取得に際して、2016年中には尾車部屋から独立し、2015年(平成27年)1月場所限りで閉鎖された朝日山部屋を再興する意向を表明した。既に独立時に必要な内弟子は入門しており、部屋の土地も千葉県内に取得済みである[10]。その後、2016年5月26日の理事会で、6月1日付で力士3人を連れて朝日山部屋を独立することが承認された[11]

日本相撲協会の中においての役職は、上述の通り長年にわたり借株であったため平年寄の地位に据え置かれていたが、2016年3月に行われた協会の新たな職務分掌では、2階級昇格し委員となった[12]

現在はしばしば大相撲中継の解説を務めているが、そのとても分かりやすい解説は毒舌の北の富士勝昭からも絶賛されている程である。また、ベースボール・マガジン社発行の雑誌「相撲」では、本場所展望号でその場所の好取組に対する予想と解説を行うことが恒例となっている。また、木戸での切符もぎりを担当する際も、来場客への接客態度を絶賛されている。

人物[編集]

  • 血液型B型。趣味はテレビゲームと野球観戦、車。
  • プロ野球千葉ロッテマリーンズのファンでもあり、同球団の始球式を務めたこともある。
  • TUBEのファンである。
    • 大相撲部屋別歌合戦では「俺は角界一TUBEの似合う男。プロレスのように土俵入りの時に入場テーマがあるなら、絶対俺はTUBEだよ」と言って周囲を爆笑させた。
  • 大の相撲ファンで知られるシラク・フランス大統領は琴錦が一番の贔屓力士で、大統領在任中、琴錦と同郷の小渕恵三首相と会談の際、たびたび琴錦のことを話題に出した。
  • 引退から5年後の2005年7月場所前に既に37歳になっていた元琴錦は当時現役であり自身より10歳も若い西十両8枚目の琴春日と稽古場で三番稽古を行い、14勝4敗と圧勝した。現役より30キロも体重の落ちて股関節も痛めていた体である上に廻しを締めること自体その前年の春以来であったにもかかわらず、最終的には琴春日のスタミナ切れで打ち止めとなった。[13]
  • 湊富士は同じ群馬県出身の同期生である。2014年4月12日には湊富士の初土俵30周年を記念した前橋巡業が行われたが、当初は湊富士が同期生の琴錦に配慮して自身の記念事業として行うことを辞退する意向を示していた。[14]
  • 先述のスキャンダルにおいては嫌々婚約者の元へ戻ったと伝わるが、婚約者の子供が誕生すると一転して子煩悩ぶりを発揮したことで当時は話題になった。
  • 自身が突き押し主体の力士であったためか、指導者としては押しを重視するタイプである。記事で取り上げる対象が四つ相撲の取り手であろうとそれは変わらず、むしろ四つ相撲の力士にこそ「稽古場で差さないこと」「差す稽古をすると力が落ちる」と自身の記事で押しの稽古をすることを強く勧めている[15]。また、突っ張りに関しては相手の懐に潜り込むために数発ほど撃つやり方を自身の記事で指導している[16]。胸からあたる立合いや諸手突きに頼る立合いなど甘い立合いには辛辣な評価を下す傾向がある[17]
  • アマチュア相撲に弟子集めのパイプが無いため弟子集めには苦労しており、そんな中でコンビニのアルバイトをしていた者やハローワーク通いをしていた者の中から弟子を獲得している。2017年7月場所前の時点では、マネージャーを雇う余裕もないという[18]
  • 自身の現役時代と比べて角界のレベルは低下していると主張。2017年7月場所前には「私は2回優勝していますが、もし今自分が現役なら、あと2、3回は優勝できていたんじゃないかと思います。その理由はレベルの違い。はっきりいって、どんどん落ちていますね。若貴時代なら朝青龍は横綱にはなっていない。関脇止まりでしょう。白鵬は微妙ですが、少なくともこんなに優勝して大横綱と呼ばれてはいない」と話している。それを証明する一番が、2002年9月場所の貴乃花と朝青龍の1番だといい「朝青龍は勢いがある新大関。一方、貴乃花は7場所連続の休場明けで引退間際。このボロボロの貴乃花に朝青龍は勝てなかった。そういうことです」と説明している。レベル低下については「圧倒的に稽古の量が減りました。私のころは三番稽古といえば、100番は取ったものです。ところが、いまは30番もやれば多いほう。入門する子も少なく、やめられると困るので厳しくしない。逆にアマチュアのほうが稽古は厳しい。だからアマチュアで成績を残した人は、プロ入りしてすぐに番付の上位までいってしまう。プロとアマの実力が逆転しているんです」とはっきり言っている[18]

主な成績[編集]

  • 生涯成績:663勝557敗58休 勝率.543
  • 幕内成績:506勝441敗43休 勝率.534
  • 現役在位:100場所
  • 幕内在位:66場所
  • 三役在位:34場所 (関脇21場所、小結13場所)(歴代1位)[4][1]
  • 三賞:18回
    • 殊勲賞:7回(1990年7月場所・9月場所・11月場所、1991年11月場所、1995年7月場所、1998年5月場所・11月場所)
    • 敢闘賞:3回(1990年5月場所、1991年9月場所、1993年7月場所)
    • 技能賞:8回(1990年11月場所、1991年1月場所、1992年11月場所、1994年3月場所、1995年9月場所、1996年9月場所、1998年1月場所・11月場所)

通算18回受賞は安芸乃島に次ぐ歴代2位。

千代の富士 - 1個(1990年7月場所中日)
北勝海 - 1個(1990年5月場所12日目)
- 1個(1998年5月場所中日)
貴乃花 - 3個(1995年7月場所中日、1998年11月場所13日目、1999年7月場所2日目)
若乃花 - 2個(1999年3月場所3日目、1999年5月場所7日目)

小結・関脇時代を含めると横綱戦では合計17勝(2不戦勝を含む)している。しかし大乃国と武蔵丸には一度も勝てなかった(武蔵丸戦は横綱昇進前に勝利経験あり)。曙にはなかなか勝てず、横綱昇進前からかなり連敗している(通算成績11勝30敗。途中11連敗と15連敗がある)。

その代わり大関にはかなり強く、57勝している。

  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:2回(1991年9月場所、1998年11月場所)

場所別成績[編集]

琴錦功宗
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1984年
(昭和59年)
x (前相撲) 西 序ノ口 #14
5–2 
西 序二段 #103
6–1 
東 序二段 #34
3–4 
東 序二段 #46
4–3 
1985年
(昭和60年)
東 序二段 #27
4–3 
東 序二段 #7
2–5 
西 序二段 #34
6–1 
東 三段目 #78
3–4 
西 三段目 #96
6–1 
西 三段目 #46
2–5 
1986年
(昭和61年)
西 三段目 #72
4–3 
西 三段目 #49
4–3 
東 三段目 #33
6–1 
東 幕下 #55
4–3 
東 幕下 #41
3–4 
東 幕下 #54
5–2 
1987年
(昭和62年)
西 幕下 #36
5–2 
東 幕下 #21
6–1 
東 幕下 #7
5–2 
東 幕下 #2
3–4 
西 幕下 #5
3–4 
西 幕下 #10
5–2 
1988年
(昭和63年)
東 幕下 #4
5–2 
西 十両 #12
4–11 
西 幕下 #6
5–2 
西 幕下 #1
5–2 
西 十両 #12
10–5 
西 十両 #5
8–7 
1989年
(平成元年)
西 十両 #2
6–9 
東 十両 #6
11–4 
西 前頭 #14
8–7 
東 前頭 #12
8–7 
西 前頭 #9
7–8 
東 前頭 #11
8–7 
1990年
(平成2年)
東 前頭 #6
8–7 
東 前頭 #2
4–11 
西 前頭 #6
9–6
東 前頭 #1
9–6
東 小結
9–6
西 関脇
10–5
1991年
(平成3年)
東 関脇
11–4
東 関脇
9–6 
東 関脇
8–7 
東 関脇
4–11 
東 前頭 #5
13–2
西 小結
12–3
1992年
(平成4年)
東 関脇
7–8 
東 前頭 #1
9–6 
東 張出小結
9–6 
西 関脇
6–9 
西 前頭 #1
11–4 
東 小結
13–2
1993年
(平成5年)
西 関脇
7–8 
東 張出小結
5–10 
東 前頭 #3
8–7 
西 前頭 #1
12–3
西 張出関脇
9–6 
西 関脇
9–6 
1994年
(平成6年)
東 張出関脇
9–6 
東 関脇
10–5
東 関脇
9–6 
東 関脇
3–12 
西 前頭 #3
8–7 
西 小結
8–7 
1995年
(平成7年)
西 関脇
4–5–6[19] 
西 前頭 #3
休場
0–0–15
西 前頭 #3
8–7 
東 前頭 #1
8–7
西 小結 #2
10–5
西 関脇 #2
8–7 
1996年
(平成8年)
西 関脇
9–6 
西 関脇
8–7 
東 関脇 #2
4–11 
西 前頭 #2
9–6 
西 小結 #2
10–5
西 関脇 #2
8–7 
1997年
(平成9年)
西 関脇
4–11 
西 前頭 #3
8–7 
西 前頭 #1
5–10 
東 前頭 #5
5–10 
西 前頭 #9
8–7 
東 前頭 #4
8–7 
1998年
(平成10年)
西 小結
10–5
東 小結
6–9 
東 前頭 #2
11–4
東 小結
1–2–12[20] 
東 前頭 #7
5–10 
西 前頭 #12
14–1
1999年
(平成11年)
東 小結 #2
6–9 
西 前頭 #1
6–9
西 前頭 #3
9–6
東 前頭 #1
8–7
東 小結
5–10 
西 前頭 #2
7–8 
2000年
(平成12年)
東 前頭 #3
3–12 
西 前頭 #8
2–3–10[21] 
西 十両 #1
休場
0–0–15
西 十両 #1
8–7 
東 十両 #1
引退
1–7–0
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士との幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
蒼樹山 2 3 安芸乃島 39 9 11 30 朝乃翔 5 2
朝乃若 5 3 旭富士 2 6 旭豊 2 5 板井 2 2
恵那櫻 1 4 巨砲 3 3 大乃国 0 3 小城錦 5 0
小城ノ花 2 1 魁皇 16 12 春日富士 5 1 巌雄 2 1
北勝鬨 5 1 騏ノ嵐 1 3 旭鷲山 5 4 旭道山 7 8
霧島 9 10 起利錦 5 2 久島海 11 7 剣晃 7 5
高望山 2 0 小錦 12 12 逆鉾 3 4 敷島 2 1
陣岳 3 2 大至 1 0 太寿山 1 2 大翔鳳 10 2
大翔山 5 3 大善 6 2 貴闘力 28 18 貴ノ浪 19 21
貴乃花 14 34 孝乃富士 4 2 隆三杉 12 3 多賀竜 0 2
玉春日 7 6 千代大海 3 7 千代天山 2 0 千代の富士 1 2
出島 3 7 寺尾 20 9 闘牙 1 4 時津海 5 0
土佐ノ海 8 10 栃東 5 7 栃栄 2 0 栃司 4 2
栃乃洋 4 3 栃乃花 2 0 栃乃和歌 26 15 巴富士 4 0
智ノ花 3 1 豊ノ海 7 1 浪乃花 2 1 花ノ国 5 3
濱ノ嶋 5 4 肥後ノ海 3 6 北天佑 2 1 北勝海 3 5
舞の海 3 4 三杉里 20 10 水戸泉 13 6 湊富士 7 4
雅山 0 2 武蔵丸 18 26 武双山 7 22 両国 4 2
若翔洋 6 3 若瀬川 3 4 若の里 1 1 若乃花 16 25

改名歴[編集]

  • 松澤 英行(まつざわ ひでゆき)1984年3月
  • 琴松沢 英行(ことまつざわ-)1984年5月〜1987年9月
  • 琴錦 功浩(ことにしき かつひろ)1987年11月〜1988年7月
  • 琴錦 功宗(ことにしき かつひろ)1988年9月〜1994年9月
  • 琴錦 玄教(ことにしき ひろのり)1994年11月〜1995年9月
  • 琴錦 英行(ことにしき ひでゆき)1995年11月〜1996年5月
  • 琴錦 功宗(ことにしき かつひろ)1996年7月〜2000年9月

年寄変遷[編集]

  • 琴錦 功宗(ことにしき かつひろ)2000年9月〜2002年9月〔準年寄〕
  • 若松 英行(わかまつ ひでゆき)2002年9月〜2003年9月
  • 竹縄 英行(たけなわ -)2003年9月〜2007年7月
  • 浅香山 英行(あさかやま -)2007年7月〜2009年1月
  • 荒磯 英行(あらいそ -)2009年1月〜2009年9月
  • 秀ノ山 英行(ひでのやま -)2009年9月〜2009年11月
  • 秀ノ山 穣憲(ひでのやま しげかず)2009年11月〜2014年1月
  • 中村 英行(なかむら ひでゆき)2014年1月〜2016年1月
  • 朝日山 宗功(あさひやま ひろかつ)2016年1月〜

参考文献[編集]

  • 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p157-158

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p25
  2. ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.78
  3. ^ 1990年5月場所から1991年1月場所にかけて5場所連続三賞受賞(うち1場所はダブル受賞、計6回)は平成以降最長の連続受賞記録である。
  4. ^ a b c 『大相撲ジャーナル』2017年6月号110頁
  5. ^ 関脇以下で2回優勝した力士は過去に男女ノ川(幕内格別席と関脇で1回ずつ、他に当時の番付上位優勝制度による優勝同点が平幕2回、関脇1回の計3回、関脇以下での優勝の機会は5度あったことになり最多記録保持者)、朝潮(関脇を維持したまま2回)、佐田の山(平幕と関脇で1回ずつ)、魁傑(小結と平幕で1回ずつ、他に平幕で決定戦敗退1回、6場所制以降では関脇以下における優勝の機会3回は最多記録)、貴花田(平幕と小結で1回ずつ)の5名がいるが全員が後に大関(男女ノ川、朝潮、佐田の山、貴乃花の4人は横綱、魁傑は2度の大関昇進がいずれもこの優勝を足掛かりにしている。)になっている。関脇以下で3回以上優勝した力士は優勝掲額開始以来現在まで出ていない。他に関脇以下で2回以上優勝の機会(優勝と同点をカウント、優勝1回が含まれる力士は回数を太字で表記、大関以上で優勝がある力士も含まれるがそれはカウントしない)があった力士として玉錦(3回)、武藏山(3回)、清水川(2回)、鏡岩(2回)、沖ツ海(2回)、時津山(2回)、明武谷(2回)、貴闘力(2回)の8名がいる。
  6. ^ 『相撲』2012年2月号109頁
  7. ^ 元関脇・琴錦が中村親方に 尾車部屋に移籍も発表 スポーツ報知 2014年1月21日
  8. ^ : 実際には公益法人移行から丸1年近くが経過した2015年1月9日に元幕内・光法が立田川から西岩に借り換えしている。公益法人移行時点で借株の年寄は3年間に限って現状維持が認められている。 元幕内光法の立田川親方が「西岩」に名跡変更 SANSPO.COM 2015年1月9日(2015年1月9日閲覧)
  9. ^ 中村親方が「朝日山」に=大相撲 時事ドットコム 2016年1月6日(2016年1月6日閲覧)
  10. ^ 中村親方、年寄・朝日山襲名 年内にも「朝日山部屋」再興へ スポーツ報知 2016年1月7日(2016年1月8日閲覧)
  11. ^ “元琴錦「朝日山部屋」再興 3力士連れ尾車から独立”. 日刊スポーツ. (2016年5月27日). http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1653747.html 2016年6月1日閲覧。 
  12. ^ [1] 日本相撲協会職務分掌 2016年3月30日発表(2016年3月31日閲覧)
  13. ^ 相撲2012年5月号
  14. ^ 『相撲』2013年11月号74ページ
  15. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年2月号86ページから87ページで正代に、『大相撲ジャーナル』2014年4月号24ページから25ページでは栃煌山に、そうした内容の助言を行っている。
  16. ^ 『大相撲ジャーナル』2016年12月号86ページから87ページの御嶽海に対する助言、『大相撲ジャーナル』2016年4月号86ページから87ページの千代の国に対する助言など。
  17. ^ 『大相撲ジャーナル』2016年10月号98ページから99ページの琴勇気に対する批判、『大相撲ジャーナル』2017年2月号86ページから87ページの正代に対する批判など。
  18. ^ a b 週刊FLASH 2017年6月27日号
  19. ^ 左膝内側側副靱帯損傷により9日目から途中休場
  20. ^ 右大腿筋挫傷により3日目から途中休場
  21. ^ 右肘内側側副靱帯損傷・右肘変形性関節症により5日目から途中休場

関連項目[編集]

外部リンク[編集]