大乃国康

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大乃国 康 Sumo pictogram.svg
Onokuni 08 Sep.jpg
芝田山親方
基礎情報
四股名 青木康 → 大ノ国康 → 大乃国康
本名 青木 康
愛称 白熊パンダ・象・スイーツ王子
スイーツおじさん・スイーツ親方
キング・オブ・スイーツ
生年月日 (1962-10-09) 1962年10月9日(55歳)
出身 北海道河西郡芽室町
身長 189cm
体重 210kg
BMI 58.79
所属部屋 花籠部屋放駒部屋[1]
得意技 右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第62代横綱
生涯戦歴 560勝319敗107休 (81場所)
幕内戦歴 426勝228敗105休 (51場所)
優勝 幕内最高優勝2回
十両優勝1回
殊勲賞5回
敢闘賞2回
データ
初土俵 1978年3月場所[1]
入幕 1983年3月場所[1]
引退 1991年7月場所[1]
引退後 芝田山部屋師匠
日本相撲協会副理事
備考
金星4個(北の湖1個,千代の富士1個,隆の里2個)
2014年4月3日現在

大乃国 康(おおのくに やすし、1962年10月9日 - )は、北海道河西郡芽室町出身の元大相撲力士。第62代横綱。本名は青木 康(あおき やすし)[1]

来歴[編集]

誕生〜入門[編集]

1962年に、北海道河西郡芽室町で牧畜と農業を営む家の長男として生まれる。2歳のときには北海道東部の健康優良児として表彰を受けた。小学校までは通学だけで数時間かかるほどだったが、毎日繰り返すことで自然に足腰が鍛えられ、勉強よりスポーツを好んだ。離農者が多かったことから生徒が著しく減少し、部活動としては活動できなかったが野球・水泳・スキー・スケートで運動していたが、スキーでは6年生で3級を取得するほどの腕前だった[2]

芽室中学校では柔道部に所属し、芽室町の学年別大会で優勝したほか全十勝中体連大会・北北海道大会でも優勝するほどの強豪だった。北海道・十勝管内の柔道関係者の中では、1年後輩の保志(のち第61代横綱・北勝海信芳広尾郡広尾町出身)と共に名前が知られていた。身体の大きさを見込まれただけで出場した陸上競技大会では全く練習していなかった砲丸投げに出場させられたもののいきなり優勝してしまい、ぶっつけ本番で残したこの実績を買われて東海大学付属第四高等学校から勧誘されたほどである[2]。数々の大会で優勝していた自信から入学に乗り気だったが、夏に地元で行われた巡業を柔道部全員で見学に行った際に、恵まれた体格をした青木少年を見つけた人物から成り行きでまわしを付けられ、相撲を取らされた[2]。かなりの力量を引退したばかりの若十勝正雄に見出され、連絡を受けた魁傑(元大関・のち放駒親方)から勧誘を受けたが、親族会議を開催したものの進学を決めていたために逃げ回った。「部屋見学だけでも」と熱心に食い下がれたために4泊5日で部屋へ見学に行くと、東京見物をさせてもらっただけでなく小遣いをもらい、さらに靴も買ってもらえた上に魁傑自身が入門したときの経緯を聞かせてもらった(大学で柔道を行っていたが両親の意向で嫌々ながら相撲に転向した)ために気持ちが揺らぎ、翌年の入学願書締切日の前日に魁傑から電話で「柔道じゃ食っていけないよ」と言われたことで決心が固まり、内弟子として相撲界へ入門した[2]

入門後〜関脇[編集]

入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった[2]。「大ノ国」の名は、元花籠親方(元幕内大ノ海)の現役時代の四股名と、故郷である「十勝平野」にちなんで命名。1978年3月場所で初土俵を踏む。本人が述懐するところによると花籠部屋時代は稽古も然ることながらちゃんこ番や雑用、付き人など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために毎日二子山部屋へ出掛けていた。当時の二子山部屋には若乃花隆の里の2横綱始めとした大勢の現役関取が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい二子山が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた[2]1981年には引退したばかりの魁傑が創設した放駒部屋へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現し、1982年3月場所で新十両に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている[2]。翌5月場所は幕下に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた[2]。翌1983年3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる旭富士と共に新入幕を果たした。

新入幕の場所を8勝7敗と勝ち越した後、4場所目の1983年9月場所には新小結に昇進した。この場所は6勝9敗と負け越したために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では北の湖(第55代横綱)・千代の富士(第58代横綱)・隆の里(第59代横綱)の3横綱を破る大活躍[1]を見せ、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志が自身とともに三賞を受賞しているが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である[3]

1984年1月場所では新関脇で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改名。同場所では3横綱・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。

平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では、初日から好調で9日目に千代の富士貢を土俵際の掬い投げで破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を持たせたが、10日目の時点で既に負け越していた逆鉾の出足に苦杯を喫して2敗と後退。さらに翌11日目、同年9月場所で平幕優勝を果たした多賀竜上手出し投げで脆くも横転し3敗、そして13日目は小錦にも上手投げで屈して、結局10勝5敗に終わった。

その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進の事例と比べると勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや横綱・大関戦で互角の成績を残したことが評価され、大関昇進が決定した[4]。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている[2]

大関時代[編集]

大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、横綱候補の筆頭だった。1986年1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も北尾(のち北尾改め第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、優勝決定戦すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの[5]、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。

同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では第61代横綱・北勝海(大乃国と同じ北海道十勝支庁出身)に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所には千代の富士を土俵際の投げで破った際に失神させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。

しかし、1987年5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽には当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした[1][6]。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に敗戦を喫し12勝3敗でチャンスを逸したものの横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62代横綱への昇進を果たした[1]

昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では貴乃花(41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・2代若乃花と並ぶ最高タイ記録)[2]であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・立浪親方(元関脇・安念山)らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される[7]。それ以降、第63代・旭富士から第70代・日馬富士の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・鶴竜は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている[8]

横綱時代[編集]

横綱昇進を祝うパーティーの席上で、当時の春日野理事長(第44代横綱・栃錦)からは「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と期待されていた。しかし、新横綱の1987年11月場所は極度の緊張からか動きが悪く、序盤で3連敗を喫した。中盤は立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝7敗(皆勤した新横綱としてワースト)に終わる[9]。実は大乃国本人は、横綱昇進当初から体の異変を感じており、「睡眠時無呼吸症候群」の症状(土俵下でいきなり強烈睡魔に襲われる一方夜中に40分おきに目が覚めてしまう)により、睡眠が安定しないことで立合いの集中力が発揮できなかったという。[6][10]

1988年1月場所に際しては前場所中の太り過ぎの反省から食事を減らして減量したものの、これが裏目に出て力が入らなくなった。米をやめてニンジンやこんにゃくで腹を満たすようにしたが却ってむくみがたまり、筋肉が落ちて体が弛んだことでマスコミから「稽古不足」と批判される状態となった[10]。この1月場所は9日目を終わって5勝4敗となり、「肝機能障害」によって10日目から途中休場し、引退危機と騒がれた。体調不良の原因としてプレッシャーや糖尿病を疑ったが血液検査の結果は「異常無し」であり、体調不良の正体が分からぬまま疲れを押して土俵に上がり続けることにした。[10]

早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したが連勝を続け14日目で12勝2敗、千秋楽結びの一番では前日まで13勝1敗だった北勝海を本割りで寄り倒し、大乃国と北勝海が13勝2敗の同点となった。優勝決定戦では北勝海に押し込まれながらも土俵際の突き落としで下し、大逆転勝利で5場所ぶり2度目の幕内最高優勝、横綱初優勝を果たした[6]。しかしその後1988年5月場所以降から引退するまで、主に九重部屋(千代の富士・北勝海の両横綱)ら[11]の活躍に押されて、自身何度も終盤まで優勝争いには加わるも、幕内優勝は二度と果たせなかった[1][12]

また、当時優勝決定戦での勝敗は翌場所の番付に反映されなかったため(1988年3月場所の番付は西正位横綱・北勝海、東張出横綱・大乃国)[13]、1988年5月場所の番付は東正位横綱に優勝同点の北勝海、西正位横綱に優勝の大乃国だった[14]。その後も大乃国は、当時の横綱陣で最高成績を挙げられず、東正位横綱を一回も経験することが出来なかった[15]

それでも横綱としての最大の見せ場は1988年11月場所の千秋楽、結果的に昭和時代最後となった結びの大一番で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことだろう[1][6]。その千秋楽前日の夜、部屋での食事中放駒親方からは「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、(千代の富士を)ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って来いよ」などと揶揄される[6]も、逆に大乃国は「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」と闘志に火がついたという。

千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く稽古場に姿を現して徹底的に対策を行っていた。この取組では、大乃国が立合い鋭く踏み込み、千代の富士のまわしを取り、千代の富士に左上手を与えない体制で一気に寄り立て、あせった千代の富士が右下手投げを打ったところを、左から押しつぶすように寄り倒した[2]。そして、ついに千代の富士の連勝記録を見事にストップさせた取組の後、報道陣のインタビューに対しては「俺だって横綱だ!」と珍しく声を荒らげた[2]。後日、千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2・3軒飲み歩いていた。あのとき俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか?恨むねぇ」と苦笑いしながら語っていた。大乃国はこの殊勲を特に大仕事とも思っておらず、同じ横綱として千代の富士の連勝記録を伸ばしてしまった責任を取ったまでであるという趣旨の弁明をしている。[2]

相次ぐ不運・病気と怪我[編集]

平成時代の1989年5月場所は、北勝海・旭富士らと3人で最後まで優勝争いを演じていた。12勝2敗で迎えた同場所千秋楽結びの一番で、北勝海との取組では肩透かしで大乃国が敗れるも、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。ところが審判委員はこの場面を5人共誰も気付いておらず、さらに物言いもつかなかったため、不幸にも大乃国が敗戦となった。もしこの一番が大乃国の勝利ならば、旭富士(当時大関)との13勝2敗同士の優勝決定戦に進出するはずだった(北勝海-旭富士との優勝決定戦は、北勝海が送り出しで勝利)。

1989年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。日本大医学部付属板橋病院に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「睡眠時無呼吸症候群」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり[2]、心不全による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した[10][16]。入院加療ののち病気の症状は回復し退院するも完治する迄には至らず、この影響で横綱として2年近くも低迷することとなる。

同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、そして勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった[17][18]。一旦は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・初代若乃花)からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際には休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。[2]

一場所休場した後の1990年1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ[10]。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。

1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった霧島に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またしてもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた[19]。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、またも全休となった。

現役引退[編集]

1991年7月場所は再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所が最初で最後の対決となった貴花田(のち第65代横綱)・若花田(のち第66代横綱)には勝利したが、初日に(のち第64代横綱)の突っ張りに一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった安芸ノ島戦ではまともに引くところを見透かされ一方的に押し出されたりと8日目で4勝4敗という散々な成績だった[20]。安芸ノ島戦での内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した[21]。歴代横綱の中で28歳9か月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した玉の海を除けば、栃ノ海の28歳8か月に次ぐ若さだった[22]

この際、既に10代芝田山(宮錦)から年寄名跡を譲渡され、年寄・芝田山を取得していたが、10代芝田山の停年(定年。以下同)まで10か月ほどだったため、5年期限付きの年寄・大乃国を襲名して芝田山の停年を待った。しかし、宮錦の退職後に同門の若獅子年寄名跡を一時的に貸すことになり[23]1993年3月場所後にようやく12代芝田山を襲名した。

引退相撲は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での横綱土俵入り露払い太刀持ちは、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に一人横綱だった北勝海が引退となり、横綱空位となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時二子山部屋の現役幕内力士だった隆三杉(露払い)と三杉里(太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された[24]

親方として[編集]

芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の1999年6月に独立して「芝田山部屋」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい[25]。相撲協会の業務では監察委員勝負審判などを歴任した後に、2014年に副理事に昇格、巡業部副部長となった。巡業でちゃんこが廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある[26]。そして、2015年8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している。[27]

2008年3号よりダイヤモンド社の隔週刊テレビ情報誌「TVステーション」にて、「親方に訊け!」というコラムを連載。また2008年3月31日からは、ゆうどきネットワークNHK総合テレビ)にて「芝田山親方のごっつあんスイーツ」のコーナーを担当していた(大相撲千秋楽の翌日など、主に月曜に出演)。

2016年7月31日、大乃国と同じ北海道出身でかつ連勝記録を53でストップさせた「昭和の大横綱」こと元千代の富士・九重親方が61歳で病死。「現役時代よく九重部屋に出稽古に行った。相四つだったので何とか先に左上手を取らせないよう研究した。体重は自分が上でも、力が強かった」と振り返った後、「こんなに早く亡くなるとは思っていなかった」と、先輩横綱の死に驚きを隠せなかった[28]

2017年1月24日、二所ノ関一門田子ノ浦部屋所属の大関・稀勢の里の第72代横綱への昇進が決まり、1月26日に芝田山は雲龍型横綱土俵入りの指導・継承役を務めた[29]

人物[編集]

現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースやNHK大相撲中継に出演すると、実際は話がうまく、解説が上手と評判の舞の海秀平が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。また、バラエティ番組出演もこなしている。 また最近では講演会でも大人気で各地を飛び回っているが聞き手が居なくても数時間の独演をこなすなど理論的で判りやすい内容が好評である。

現役時代、壮大な土俵入りには定評があった[30]

板井には8勝8敗と非常に苦手としていた。板井は金星を3個獲得しているが全て大乃国からで、入幕後の大乃国は全てガチンコ相撲を通したと言われており、昨今話題となっている大相撲八百長問題とは全く無縁の人と言われ、大相撲ファンからは真の横綱は大乃国と評価されている。

角界きっての食通で、大の甘党。「男が甘党でなぜ悪い!」「甘党男児は誇りを持て!」を持論としている。本人曰く最近は「スイーツ王子」「スイーツおじさん」「スイーツ親方」「キング・オブ・スイーツ」などと呼ばれるという。元祖!でぶやなどのグルメバラエティ番組に出演している。

甘党だからといって下戸というわけではなく、甘いものの過剰摂取による糖尿病とも無縁である。「むしろ血糖値が基準値より低め」とのことで、「協会を辞めたらスイーツ評論家になりたい」と日刊スポーツで述べている。

大勇武など部屋の元力士から自身や弟子による暴行容疑に対する訴訟を過去に2度起こされるなど弟子育成に関しては苦難を経験しており、一部週刊誌からは「弟子に興味のない親方」という趣旨の書き立てられ方をした[31]

エピソード[編集]

スイーツ関連[編集]

  • 現役時代から大の甘党・美食家でも大きく知られており、相撲雑誌の力士紹介欄では他の力士が趣味を「ゲーム」「絵画」「音楽鑑賞」としている中で「食べ歩き」と記載されていた。好きな食べ物としてあんみつうぐいすパンと答えていた時期があった。
  • 特にケーキは、2ホールを軽くたいらげるという。自らも大関時代から部屋でケーキ作りをするほどで、趣味を生かした『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(ISBN 4532165687)・『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(ISBN 9784532167066)を出版している(どちらも日本経済新聞出版社より)。また、新十両昇進が決まった大勇武龍泉には記者会見で祝いのケーキ(現役時代の自身の似顔絵入り)を渡した。
  • 2007年6月30日放送のテレビ朝日ザ・クイズマンショー」では数々のスイーツに関するクイズを回答して優勝した。「スイーツ賢人」の称号を送られている。
  • 2008年7月放送の海外向け国際放送・NHKワールドTVの紀行番組である『NIPPON OUT&ABOUT』(英語放送番組)に出演。出身地である芽室町のあるお宅をたずね、あんこの付いたぼたもちを試食する様子が放送された。
  • 2013年6月放送のNHKテレビ「ゆうどきネットワーク」に出演し、京都和菓子巡り(麦手餅・あんこ炊きなど)を堪能していた。
  • 2015年6月6日放送の朝の連続テレビ小説まれ』に服部幸應辻口博啓らとともに審査員役で出演した。

大きな太鼓腹・その他[編集]

  • 大きすぎるほどの太鼓腹をした超アンコ型力士であり、特に海外からは、いかにも力士という体型から、ある意味日本以上に人気があったりもした。恐ろしいほど大きく突き出た腹は220キロ超の体重よりも語り草になり、特に立合いの蹲踞時にお腹を膨らませてグッと前へ突き出す癖があり、その際のあまりにも大きなお腹には、観客からどよめきが起こるほどであった。
  • 最重量の小錦よりも大きな腹をしており、横綱当時「体重の小錦」「腹の大乃国」との異名もあった。
  • その非常に大きな体型から、春日野親方(元栃錦)からは「パンダ[32]というあだ名が付けられており、1987年6月の力士運動会では大乃国自ら「ジャイアントパンダ」の扮装をしたことがあった。
  • 1985年7月、大関に昇進したばかりの北海道巡業中、日本テレビの『第4回全国高等学校クイズ選手権』北海道予選の取材を受け、「東京に来て最初に出くわした嫌いなモノは?」という問題を高校生に出題した。正解はゴキブリで、「入門当時、力士たちの集う部屋に入り、足元にうろつくゴキブリを見た瞬間うつ伏せになってしまい、しばらく何もできなかった」と司会の福留功男に話していた。ネズミも幼い頃から苦手だという。
  • 常識人としても知られ、力士の健康診断では横綱特権(優先検診)をせず順番を守っていた。家事にも積極的で、家庭ごみの分配なども自ら行っている。
  • 2008年7月28日放送のNHK鶴瓶の家族に乾杯』でホイアンを旅し、現地の子どもたちに相撲を教えた。その際、持参した稽古用まわしを半ズボンの上から着けさせた。
  • テレビ朝日の深夜番組『虎の門』にゲスト出演しており、番組エンディングの情報コーナーでは「新弟子募集」の告知を必ず行っていた。
  • 肉の多い大乃国(にくのおおいおおのくに)」という回文がある。2010年1月1日放送の日本テレビ『笑点』の新春スペシャルに出演した際には自らネタにした。
  • 2010年1月6日にテレビ朝日系で放送された『史上最強のメガヒット カラオケBEST100 完璧に歌って1000万円』内のコーナー「採点カラオケNo.1決定戦」で優勝し賞金30万円を獲得した。
  • 2013年11月場所後の番付編成会議で、放駒部屋からの移籍組であるが新関取昇進の内定を得る。しかし西幕下4枚目で4勝3敗の魁の十両昇進は難しいと考え、芝田山は新関取発表日に韓国旅行へ出掛けていた。結局その日の午後5時に慌てて帰国し、正規の会見会場ではなく福岡空港の特別待合室での出張昇進会見が設定された。芝田山は遠路駆け付けた報道陣を気遣い「皆さん、このお返しはスイーツで」。好物を話題に取り上げて笑いを誘ったという[33]
  • 自身が中卒で入門したことから、大相撲に入門するのは高卒や大卒より中卒の方が良いとしている。「右も左も分からないで入るから良い。相撲ももちろん、社会人としての心構えも身につく。染まっていない時に入るのが大事なんだ」と話しており、自身が新入幕した1983年3月場所は幕内35人中18人が中卒だった[34]

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:560勝319敗107休 勝率.637
  • 幕内成績:426勝228敗105休 勝率.651
  • 大関成績:140勝55敗 勝率.718
  • 横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662
  • 幕内在位:51場所
  • 横綱在位:23場所
  • 大関在位:13場所
  • 三役在位:10場所(関脇9場所、小結1場所)
  • 連勝記録:19(1987年5月場所初日 - 1987年7月場所4日目)※大関時代に記録
  • 連続6場所勝利:68勝(1986年11月場所 - 1987年9月場所)
  • 連続6場所勝利(横綱昇進以降):66勝(1988年3月場所 - 1989年1月場所、1988年7月場所 - 1989年5月場所)
  • 通算幕内連続勝ち越し記録:21場所(1984年7月場所 - 1987年11月場所)
  • 幕内連続二桁勝利記録:5場所(1985年5月場所 - 1986年1月場所)
  • 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1987年5月場所 - 1987年9月場所)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:2回(1987年5月場所=全勝、1988年3月場所)
    • 全勝1回
  • 十両優勝:1回(1983年1月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:5回(1983年11月場所、1984年11月場所、1984年3月場所、1984年7月場所、1985年5月場所)
    • 敢闘賞:2回(1984年3月場所、1985年7月場所)
  • 金星:4個(北の湖1個・千代の富士1個・隆の里2個)

場所別成績[編集]

大乃国康
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1978年
(昭和53年)
x (前相撲) 西 序ノ口 #15
4–3 
西 序二段 #86
3–2–2 
東 序二段 #99
5–2 
東 序二段 #49
5–2 
1979年
(昭和54年)
西 序二段 #19
3–4 
東 序二段 #32
5–2 
東 序二段 #3
6–1 
西 三段目 #43
3–4 
東 三段目 #53
2–5 
西 三段目 #78
5–2 
1980年
(昭和55年)
西 三段目 #46
5–2 
西 三段目 #12
4–3 
東 三段目 #2
2–5 
東 三段目 #29
3–4 
東 三段目 #46
4–3 
西 三段目 #25
6–1 
1981年
(昭和56年)
西 幕下 #49
3–4 
東 三段目 #1
4–3 
西 幕下 #48
5–2 
西 幕下 #27
4–3 
西 幕下 #20
5–2 
東 幕下 #8
5–2 
1982年
(昭和57年)
東 幕下 #1
4–3 
東 十両 #11
5–10 
西 幕下 #6
4–3 
東 幕下 #4
4–3 
西 幕下 #1
5–2 
東 十両 #11
10–5 
1983年
(昭和58年)
西 十両 #2
優勝
11–4
西 前頭 #9
8–7 
西 前頭 #2
6–9 
東 前頭 #5
8–7 
西 小結
6–9 
東 前頭 #3
10–5
1984年
(昭和59年)
東 関脇
9–6
東 関脇
10–5
東 関脇
6–9 
東 前頭 #1
10–5
西 関脇
10–5 
東 関脇
8–7 
1985年
(昭和60年)
東 関脇
9–6 
西 関脇
9–6 
東 関脇
10–5
東 関脇
12–3
西 大関
12–3 
東 大関
11–4 
1986年
(昭和61年)
西 大関
12–3 
東 大関
9–6 
西 張出大関
11–4 
西 大関
9–6 
西 大関
8–7 
東 張出大関
10–5 
1987年
(昭和62年)
東 大関
9–6 
東 張出大関
9–6 
西 大関
15–0 
東 大関
12–3 
東 大関
13–2 
西 横綱
8–7 
1988年
(昭和63年)
西 張出横綱
5–5–5[35] 
東 張出横綱
13–2[36] 
西 横綱
11–4 
東 張出横綱
12–3 
西 横綱
8–7 
西 横綱
11–4 
1989年
(平成元年)
西 横綱
11–4 
東 張出横綱
12–3 
西 横綱
12–3 
西 横綱
1–4–10[37] 
東 張出横綱
7–8[38] 
東 張出横綱
休場[39]
0–0–15
1990年
(平成2年)
東 張出横綱
8–7 
東 張出横綱
休場[40]
0–0–15
東 張出横綱
休場[40]
0–0–15
東 張出横綱
休場[40]
0–0–15
西 張出横綱
休場[40]
0–0–15
西 張出横綱
10–5 
1991年
(平成3年)
東 張出横綱
10–5 
東 張出横綱
12–3 
西 横綱
休場[41]
0–0–15
東 張出横綱
引退
4–5–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 青木 康(あおき やすし)1978年3月場所
  • 大ノ国 康(おおのくに - )1978年5月場所-1984年1月場所
  • 大乃国 康(おおのくに - )1984年3月場所-1991年7月場所
    • ※現役引退後に年寄名として・1991年9月場所-1993年3月場所
  • 芝田山 康(しばたやま - )1993年5月場所-

主な力士(横綱・大関)との幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
2 1 朝潮 18 13 旭富士 26 10
北の湖 3 3 琴風 8 3 霧島 6 8
小錦 13 15 隆の里 6(1) 4 貴花田 1 0
千代の富士 9 23 双羽黒 5 5 北天佑 21 13
北勝海 20(1)* 14 若嶋津 12(1) 10 若花田 1 0

(カッコ内は勝数の中に占める不戦勝の数)

合い口[編集]

  • 「昭和の大横綱」第55代横綱・北の湖とは全く互角の成績だった。
  • 同じく「昭和の大横綱」第58代横綱・千代の富士とは過去幕内で32回取組の内9勝に留まった。又自身が横綱昇進した1987年11月場所以降千代の富士からの勝利は、53連勝で止めた1988年11月と最後の取組となる1990年11月の2場所のみ。
  • 第59代横綱・隆の里とは2つの差で勝ち越している。
  • 第60代横綱・双羽黒とは北の湖同様に五分の成績である。
  • 第61代横綱・北勝海とは大関時代までは16勝7敗と大の得意とし、一時6連勝するなど圧倒していた。だが自身が横綱昇進して以降の成績は、優勝決定戦を含め5勝7敗と逆に分が悪くなった。
  • 第63代横綱・旭富士には三役時代より得意とし、大きく勝ち越している。ただし横綱昇進してからは4連敗を喫するなど、7勝7敗の互角となった。
  • のちの第64代横綱・曙には初対戦から2連勝したが、最後の取組となる1991年7月場所初日に一方的に押し倒された。
  • のちの第65代横綱・貴乃花(当時貴花田)と第66代横綱・若乃花(当時若花田)は1991年7月場所で二人共に勝利するも、同場所限りで大乃国が引退の為これが唯一の対戦となった。
  • 先輩大関だった琴風・若嶋津・朝潮・北天佑には、自身が三役定着〜大関昇進後辺りから力関係が逆転し、4人全員揃って勝ち越している。
  • 反対に後輩大関の小錦・霧島には相性が悪く、2人共に揃って2つの差で負け越している。

参考資料[編集]

第62代横綱 大乃国康光文社のインタビュー

関連書籍[編集]

  • 『負けるも勝ち 相撲とは-人生とは』(2008年3月)ISBN 4478003157
  • 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(2006年9月)ISBN 4532165687
  • 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(2009年9月)ISBN 453216706X

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g h i j ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p23
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 光文社
  3. ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.89.
  4. ^ 過去に琴風増位山の3場所31勝(大乃国と同数)、さらには北の冨士(のち第52代横綱)・北葉山の3場所28勝で大関昇進した例がある。また横綱・大関の合計が少ない場合は昇進が甘くなるケースもある。
  5. ^ 現在では12勝3敗の優勝次点程度では「綱獲り」と騒がれることはほとんどない。事実、年6場所制定着以降に綱取りを果たした力士の中で直近2場所前が12勝の優勝次点にとどまった者は他に北尾と稀勢の里しかおらず、これを下回る例は直近2場所前が11勝であった柏戸、直近2場所前が10勝止まりであった玉の海のみである。参考として、 北勝海は直近2場所前が12勝での優勝であった。
  6. ^ a b c d e 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)142ページから143ページ
  7. ^ 旭富士も大関時代の1989年1月から5月にかけて、大乃国の横綱昇進時と同じ3場所通算で40勝5敗という成績を残したが、「横綱昇進基準厳格化」の煽りを受けて昇進が見送られた。その後旭富士は翌1990年5月と同年7月に大関で2場所連続優勝を果たしてようやく横綱に昇進した。
  8. ^ ただし、鶴竜以降の横綱も直前場所で優勝して横綱に昇進しており、直前場所優勝無しで昇進したのは現在のところ大乃国を最後に出ていない。
  9. ^ 平成以降の新横綱では、2012年11月場所・第70代横綱の日馬富士と、及び2014年3月場所・第71代横綱の鶴竜が、共に9勝6敗の1桁勝利に終わった。
  10. ^ a b c d e 朝日新聞 2013年1月15日
  11. ^ ほか大乃国が引退する迄の幕内優勝力士は、大関の小錦(1989年11月場所)、大関〜横綱の旭富士(1990年5月・7月・1991年5月場所)、大関の霧島(1991年1月場所)、平幕の琴富士(1991年7月場所)の4人が居る。
  12. ^ 大乃国の1988年5月〜1991年7月と通算20場所(期間・3年2か月)の間、横綱として一度も幕内優勝無しは、年6場所制(1958年)以降では最長記録となる。
  13. ^ 優勝者番付上位の正当性(タマローのコラム2001)
  14. ^ 1997年9月日本相撲協会理事会で、「同地位で優勝決定戦を行った場合優勝者を上位とする」という規定に改正。現在のケースであれば翌場所の番付は、優勝者(大乃国)が東正位横綱に上がり、優勝同点者(北勝海)は西正位横綱に廻す形式となる。
  15. ^ 東正位の地位に1度もつかなかった横綱は、双羽黒以来史上5人目。
  16. ^ 読売「大相撲」平成元年4月号・「北出清五郎のやあこんにちは」での本人談「180kgが理想体重。(中略)関脇のころが最高だった。200kgはムリがあると思うがなろうと思ってなったんじゃない、なってしまった。(中略)体質的に太りやすいんだよ」
  17. ^ 事実、横綱昇進後の大乃国の9月場所の成績は15勝15敗15休と全く振るわなかった。
  18. ^ 10年後の1999年9月場所には、若乃花(第66代横綱)も7勝8敗の皆勤負け越しを喫している。
  19. ^ 横綱昇進後も大乃国は相手が不振や弱敵でも、常に安心して見られない不安定さがあった。また霧島との幕内対戦成績は6勝8敗と非常に分が悪かった。
  20. ^ ちなみにこの場所は他の横綱陣も大変な不調で、千秋楽は北勝海と旭富士で8勝6敗同士の横綱戦という事態だった。
  21. ^ 9日目の琴ヶ梅戦は不戦敗。
  22. ^ なお、このとき大乃国本人は引退するつもりはなかったが、二子山理事長(当時)が続投を許さなかった[要出典]
  23. ^ 1993年3月に若獅子の師匠である10代二子山が停年を迎えるため、年寄名跡の都合が付くことが確定していたため、それまでの繋ぎとして芝田山を借用した。
  24. ^ この横綱空位のために、同年10月、旭富士の引退相撲でも露払い:旭里・太刀持ち:旭道山と、同じ大島部屋の平幕力士が務めている。翌年1月、北勝海の引退相撲では横綱になったばかりの曙が太刀持ちを、大関・小錦が露払いを務めた。しかし2003年の貴乃花以降、横綱・大関の空位とは関係なく、大関以下の現役幕内力士が露払いと太刀持ちを務めるケースが続いている。
  25. ^ 短期間で独立または日本相撲協会から退職するか、部屋付きとして長期間在籍した場合は後継者として部屋を譲渡されそのまま部屋持ち親方となるか部屋付きのまま終わる例がほとんどである。千代の山鏡里が引退後十年ほど部屋付きとして務めた後で独立しているが、後継者争いに敗れたことによるもので大乃国とは事情が異なる。
  26. ^ 大相撲巡業で弁当の改善が課題に nikkansports.com 2014年8月18日9時56分 紙面から
  27. ^ 巡業で21年ぶりちゃんこ配給復活 暑さを乗り切れ nikkansports.com 2015年8月4日8時37分 紙面から
  28. ^ 元横綱・千代の富士の九重親方が死去 NHKかぶんブログ 2016年7月31日記事
  29. ^ 稀勢の里の綱完成 芝田山親方が雲竜型の土俵入り指導”. SANSPO.COM. 産業経済新聞社 (2017年1月26日). 2017年1月26日閲覧。
  30. ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p79
  31. ^ 失明した元弟子に提訴された「スイーツ親方」の指導と評判 日刊ゲンダイ 2014年1月8日(講談社、2017年11月16日閲覧)
  32. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  33. ^ 魁ただ1人新十両 ドタバタ空港会見 Daily Sports Online 2013年11月28日
  34. ^ 日刊スポーツ 2017年6月1日
  35. ^ 肝機能障害により10日目から途中休場
  36. ^ 北勝海と優勝決定戦
  37. ^ 右膝関節内障(内側側副靱帯及び内側半月板損傷により5日目から途中休場
  38. ^ 横綱皆勤負け越し
  39. ^ 右膝靱帯及び半月板損傷により全休
  40. ^ a b c d 左足関節脛腓靱帯断裂・左脛骨後顆骨折により全休
  41. ^ 右脹脛化膿性蜂窩織炎により全休

関連項目[編集]

外部リンク[編集]