舞の海秀平

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舞の海 秀平 Sumo pictogram.svg
Mainoumi 09 Sep.JPG
NHK大相撲解説を務める舞の海秀平
基礎情報
四股名 舞の海 秀平
本名 長尾 秀平
愛称 技のデパート
生年月日 (1968-02-17) 1968年2月17日(49歳)
出身 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町
身長 171cm
体重 101kg
BMI 34.54
所属部屋 出羽海部屋
得意技 左差し、下手投げ内無双、切り返し
成績
現在の番付 引退
最高位 小結
生涯戦歴 385勝418敗27休(58場所)
幕内戦歴 241勝287敗12休(36場所)
優勝 なし
技能賞5回
データ
初土俵 1990年5月場所(幕下付出
入幕 1991年9月場所
引退 1999年11月場所
引退後 NHK大相撲解説者
他の活動 タレントスポーツキャスター
備考
2016年1月11日現在

舞の海 秀平(まいのうみ しゅうへい、1968年2月17日 - )は、日本スポーツキャスタータレントNHK大相撲解説者出羽海部屋所属の元大相撲力士。現在は境川部屋の師範代もつとめている[1]。有限会社舞の海カンパニー(本人の個人事務所)所属。本名は長尾 秀平(ながお しゅうへい)、愛称はまいちゃん、シュウヘイ。現在の体格は身長169cm、体重85kg。血液型B型、左利き

関取時代の体格は身長171cm、体重101kg。得意手は、左差し、下手投げ内無双切り返し。最高位は東小結。力士の大型化著しい平成期において、昭和中期の力士と比較してもなお小柄なその体格だった。関取時代は「平成牛若丸」、「技のデパート」(旭鷲山入幕後は「技のデパート・本店」)とも呼ばれた[2]

経歴[編集]

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町出身。鰺ヶ沢第一中学校青森県立木造高等学校日本大学経済学部でいずれも相撲部に所属[要出典]

山形県高校教員採用試験(社会科)に合格していたが、大学在学時の同郷の後輩である成田晴樹[3]の急死を契機として一転大相撲入りを志す。入門を相談した際に母の猛反対に遭い、結局母とは絶縁することでようやく入門を許された。しかし、身長が当時169cmで日本相撲協会の新弟子検査基準に達しなかったため、目溢しを期待して当時角界のNo.2であった9代出羽海が師匠を務める出羽海部屋を選び、1度不合格を経験した後、手術シリコーンを頭に埋め身長を高くして合格を掴んだ[4][2]

学生時代に残した全日本相撲選手権大会ベスト32の実績が認められて幕下付出(60枚目)資格を取得、1990年5月場所に本名である『長尾』の四股名初土俵を踏んだ。この場所で6勝1敗の好成績を収め、13日目の取組で唯一6戦全勝だった栃天晃が星違いの琴の若に敗れたため、1敗力士8人による幕下優勝決定戦に出場した(準決勝で、優勝したに敗れた)[2]

十両に昇進し、四股名を郷里の舞戸町と部屋の出羽海に因んだ舞の海へと改名した後は、多彩な技で大型力士を倒すその取り口から「技のデパート」、「平成の牛若丸」とも呼ばれた。「猫騙し」の活用に始まり、「後退する立合い」、「くるくる舞の海」と言われた目回し作戦、1991年11月場所の戦でみせた「三所攻め」、1992年1月場所の貴闘力戦でみせた「居反り襷反り」(技は成功せず)、当時の二子山理事長に「八艘跳び」と呼ばれた1992年1月場所・北勝鬨戦での立合いジャンプ作戦など、四十八手を駆使した取り口を見せ[5]1994年9月場所には小結に昇進。また通算では5度の技能賞を獲得している[2]

しかし1996年7月場所、小錦との取組に勝った際、体重差約200kgの小錦が舞の海の左膝へ倒れ込み、左膝内側側副靭帯損傷の大怪我を負い、同場所及び翌9月場所を休場し十両へ陥落した。1997年5月場所に幕内復帰を果たしたものの、下位に停滞し、1998年3月場所を最後に十両へ再陥落。それでも十両で相撲を取り続けたものの、1999年11月場所には十両10枚目まで落ちていた。13日目の水戸泉戦で敗れた際に左足首靭帯を損傷、左ふくらはぎも肉離れを起こし14日目を休場、6勝8敗と窮地に追い込まれる。千秋楽11月21日)は無理を押して出場するが、若光翔に敗れて幕下陥落が濃厚となり、現役を引退した[2]

年寄名跡に丁度空きが無かったこともあり、引退後は日本相撲協会には残らずタレントに転身。NHK大相撲中継の専属解説[5]のほか、スポーツコメンテーターとしてフジテレビ系「FNNスーパーニュース」のスポーツキャスターなども担当[2]。また旅番組のレポーター、俳優活動、各種講演[6]も行っている。2000年2001年には帝京大学非常勤講師も務めた[7]

エピソード[編集]

現役力士時代[編集]

  • 舞の海が入門した時、女将は着物に雪駄、外套を揃えてくれ、舞の海本人も出羽海が新弟子検査に合格させてくれると思っていた。しかし1度目の新弟子検査に不合格だったことを伝えにいった時、出羽海は「そうか、落ちたか」とかすかにほほえみ、ほっとした表情を浮かべていた。舞の海はその顔を見て、はらわたが煮えくりかえりそうであった。しばらくしてから酔った勢いで「どうして一度目の新弟子検査で助けてくれなかったのか」師匠に詰め寄ったことがあるが、出羽海は「お前はせっかく山形の高校に就職が決まってただろう。そんな小さい体で何も苦労することはないじゃないか。でもな、本当にやる気があるんだったら、一度落ちても必ずまた戻ってくると思ってたんだ」と答えた。この時舞の海は「この人は目先のことだけではなく、1人の若者の先々までを長く深く考えてくれていたんだ」と知り、熱い感謝の思いが芽生えた。実は同年2月2日に部屋の兄弟子にあたる龍興山が現役死しており、部屋全体が龍興山の死を悲しみながら相撲に取り組んでいた状況であった。特に出羽海は龍興山の死から10日以上稽古場に姿を現さず、部屋の師匠を辞めるとまで言い出したほどであった。舞の海は出羽海に詰め寄った際に龍興山の死について知らなかったが、後に本人は「若くして未来を失った龍興山の姿が自分と重なって見えていたのかもしれない」と自身の評論で感想を述べている[8]
  • 出羽海部屋の特等床山・床安によると、現役時代は稽古量が豊富で髪がかなり乱れるほどであったが引退が近づくにつれて部屋でも巡業でも稽古がままならず、元来小柄であることと相俟って親方衆や関取衆から陰口を叩かれていたという。また、現役時代に物陰に隠れて痛み止めを飲んでいたことは床安以外は他に誰も知らない秘密であったという。[9]
  • 新入幕から3年が経過した頃、舞の海は目標を失って幕内を維持すればよいという感覚で相撲を取っていたが、入門が自身より後で教職員時代のブランクがあった智ノ花のほうが先に三役昇進を果たしたことに悔しがり、「同じ三役に上がるまでは絶対に辞められない」と胸の内で誓った。[10]
  • 相撲ライターの佐藤祥子によると「現役時代、朝帰りをくり返していたので、ついたあだ名が、本名からとった“夜明けの秀平”。でも、朝まで飲み歩いてばかりいたわけではなく、のちに結婚する奥さんの家によく泊まっていて、朝に帰ってくることが多かったことが由来です」とのこと[11]

大相撲解説者・キャスター[編集]

  • 現役時代の自身の取り口から立合い変化を肯定する論調が多い。また、小兵だった自身や均整の取れた体格のモンゴル人力士の躍進から、「相撲は体重ではないことを日本人力士は再認識して欲しい」と日本人力士の大型化に警鐘を鳴らすような発言も目立つ。小兵力士にしても技術が低下している現状を指摘している[12]
  • 白鵬が張り差しやかち上げ、その他変則的な技を見せることに関しては「執念を感じる」として受け入れている一方で、白鵬に挑戦する力士が工夫を欠いていることを批判[13]
  • 2017年7月場所前の時点では相撲界の将来について案じており「いつまでも白鵬、日馬富士、稀勢の里が優勝を争い、嘉風などのベテランも頑張っています。しかし、それは逆に言えば若い力の台頭がないからだとも言えます」「相撲の大会も体の大きい柔道部とか野球部の人間が駆り出され、その日だけで終わってしまいます。小学校のわんぱく相撲も同様で、そのあとまで相撲を続ける子供はあまりいません。子供にまわしをつけて、頭から当たれと指導したら、首が痛い、足が痛いとなるので、今の親はやらせないと思うんです」などという指摘をしている。同時に、中卒、高卒の力士に進学ができるようにサポートし、一定期間以上大相撲力士として協会に在籍した人物には補償金のようなものを引退時に与えるようにして引退後の生活をある程度保証する必要があるとアドバイスしている[13]
  • 大相撲解説のほか、トリノオリンピック北京オリンピックでは現地リポーターを務めた[14][15]
  • 2009年1月場所前に進退問題の渦中にあった横綱朝青龍の出羽海部屋での稽古を見学したが、その帰りに「まだ引退しないで下さいね」と声をかけると、朝青龍から「顔じゃないよ」(大相撲の隠語で「分不相応」の意)と言われた[16]
  • 大相撲八百長問題に際して2011年3月8日に関西の報道機関などでつくる「関西プレスクラブ」の定例昼食会で講演して八百長問題について「お金をやりとりしてシステム化してやるのは論外」とした上で「人情相撲というか武士の情け、もののあわれを大切にするところが角界には昔からあった。ただ、世間がそれを許さなくなってきているのではないか」と私見を述べた。 現役時代、本場所終盤で自身の成績がよく、親交のある対戦相手が厳しい成績の時など、土俵上で相手に情が移って「そうこうするうちに負けてしまう時もある」と話し「当時は協会や師匠が厳しく、気力のない相撲をとるとすぐにしかられた。今の協会には無気力相撲に対する厳しさがなくなっているのではないか」と指摘した[17]
  • 長年、大相撲中継の中で、北の富士勝昭と幕内取組の正面解説と向正面解説として、軽妙な解説で人気があり、中でも、NHK年末の大相撲特別番組『大相撲この一年』で、回顧している。2016年末の放送の中で、「大関稀勢の里横綱にする会」を結成し、会長、副会長となっている。

政治活動・政治信条[編集]

  • 日本会議の関連団体である美しい日本の憲法をつくる国民の会の代表発起人を務めている[18]。なお、師匠にあたる佐田の山晋松も日本会議の代表委員を務めている[18]
  • 2014年4月28日、「昭和の日ネットワーク」が開催した「昭和の日をお祝いする集い」で『昭和天皇と大相撲』と題し講演。この中で「外国人力士が強くなり過ぎ、相撲を見なくなる人が多くなった。NHK解説では言えないが、蒙古襲来だ。外国人力士を排除したらいいと言う人が(相撲協会内部にも)いる」と発言し、週刊金曜日が「会場は排外主義的空気が顕著になった」と報じた[19]。しかし、実際の発言には続きがあり、「今大相撲を支えているのは実はモンゴル人なんですね。モンゴル人がいるからこそ、私たちは横綱の土俵入りが見れる」などと発言しており、週刊金曜日はネット上で記事の編集内容に対する批判があったことや、抗議の電話があったことを認めた上で、記事内容の説得力が欠けていたことに対してお詫びを表明した。ただし、「意図的な歪曲や捏造ではありません。」と釈明した上で、同じ記事の中で主催団体の前身団体の役員だった石原慎太郎櫻井よし子を「中国、朝鮮半島に対して差別的・好戦的発言を繰り返している人たち」と非難している。[19]
  • 憲法改正論者。発起人の一人でもある[20]『美しい日本の憲法をつくる国民の会』が2015年5月3日に開催したフォーラム「憲法改正、待ったなし!」では、「昨今の日本人力士の『甘さ』は憲法前文の影響」、「間違った歴史を世界に広められている」、「日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際」とも主張した。この中でもまた「日本の力士はとても正直に相撲をとる。“自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう”と信じ込んでぶつかっていく。ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち合いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり……。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じ過ぎている。今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている」と発言[21][22]。同年11月4日には『美しい日本の憲法をつくる鹿児島県民の会』発足集会にも出席、『強く、美しく、輝け!日本』と題して講演。「思考停止していたら、拉致問題なども解決しない。憲法を変えた方がよい、という日本人として当たり前の考えを広める必要がある」と述べた[23]
  • 産経新聞で連載「舞の海の相撲俵論」を担当。この中でも『男気と大和魂』『デモも景気も祭典も「祖国があってこそ」』『英霊に見守られ、うららかな日差しを受けて奉納相撲』などといった国粋的主張を展開している。

人物・その他[編集]

  • 中学生頃まで夜尿症が治らなかった[要出典]
  • 家族構成は妻、妻の連れ子2人、実子1人。妻となった女性は出会った当時バツイチで2人の子供がおり、いわゆる「夜の仕事」をしていた。子供が苦手だった舞の海は、女性の子供たちと上手くコミュニケーションが取れず、舞の海の母親も結婚に反対していた。「このままでは埒があかない」と焦りを覚えた舞の海は、女性も子供たちも東京に呼び寄せ、両国でひっそりと同棲生活を始めた。その覚悟を見た舞の海の父親は一言「最後まで責任を持て」と結婚を承諾してくれたという。連れ子が舞の海を「お父さん」と呼んでくれるようになったのには時間がかかったようであり、初めて「お父さん」と呼んでもらえた日には、洗面所に駆け込んで涙したという[24]

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:385勝418敗27休 勝率.479
  • 幕内成績:241勝287敗12休 勝率.456
  • 現役在位:58場所
  • 幕内在位:36場所
  • 三役在位:1場所(小結1場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:5回
    • 技能賞:5回(1991年9月場所、1991年11月場所、1993年9月場所、1994年5月場所、1994年7月場所)
  • 金星:なし

場所別成績[編集]

     

舞の海秀平
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1990年
(平成2年)
x x 幕下付出 #60
6–1 
東 幕下 #32
5–2 
西 幕下 #17
6–1 
西 幕下 #5
5–2 
1991年
(平成3年)
東 幕下 #1
4–3 
西 十両 #12
9–6 
西 十両 #6
8–7 
西 十両 #2
9–6 
西 前頭 #12
8–7
東 前頭 #9
8–7
1992年
(平成4年)
東 前頭 #7
4–11 
東 前頭 #15
9–6 
東 前頭 #8
6–9 
東 前頭 #11
8–7 
東 前頭 #6
7–8 
西 前頭 #7
4–11 
1993年
(平成5年)
東 前頭 #16
9–6 
西 前頭 #11
6–9 
東 前頭 #15
10–5 
西 前頭 #6
4–11 
東 前頭 #14
9–6
東 前頭 #8
6–9 
1994年
(平成6年)
東 前頭 #12
8–7 
西 前頭 #7
6–9 
東 前頭 #12
9–6
東 前頭 #4
9–6
東 小結
2–13 
東 前頭 #8
8–7 
1995年
(平成7年)
西 前頭 #3
4–11 
東 前頭 #9
6–9 
西 前頭 #12
9–6 
東 前頭 #6
5–10 
西 前頭 #11
8–7 
西 前頭 #6
4–11 
1996年
(平成8年)
東 前頭 #15
9–6 
西 前頭 #6
6–9 
西 前頭 #9
7–8 
西 前頭 #11
2–1–12 
東 十両 #4
休場
0–0–15
西 十両 #4
8–7 
1997年
(平成9年)
西 十両 #3
8–7 
西 十両 #2
10–5 
東 前頭 #15
9–6 
東 前頭 #9
5–10 
東 前頭 #14
8–7 
東 前頭 #9
5–10 
1998年
(平成10年)
西 前頭 #14
9–6 
西 前頭 #10
5–10 
西 十両 #1
4–11 
東 十両 #7
9–6 
西 十両 #2
8–7 
西 十両 #1
3–12 
1999年
(平成11年)
東 十両 #10
9–6 
西 十両 #3
9–6 
西 十両 #2
8–7 
東 十両 #1
5–10 
西 十両 #5
5–10 
西 十両 #10
引退
6–9–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 長尾 秀平(ながお しゅうへい)1990年5月場所-1991年1月場所
  • 舞の海 秀平(まいのうみ - )1991年3月場所-1999年11月場所

おもな出演[編集]

テレビ[編集]

レギュラー出演
その他

ラジオ[編集]

映画[編集]

CM[編集]

著書[編集]

  • 『土俵の矛盾 ~大相撲混沌の真実~』 (実業之日本社)2011 
  • 『小よく大を制す! 勝負脳の磨き方』(扶桑社)2014
  • 『なぜ、日本人は横綱になれないのか』(ワック・マガジンズ WAC BUNKO)2015
  • 『天皇陛下と大相撲 勝って驕るな、負けて僻むな』(明成社 日本の息吹ブックレット)2015
  • 『テレビでは言えない大相撲観戦の極意』ポプラ新書 2016
  • 『大相撲で読み解く日本人の精神性』ベストセラーズ、2017

共著・監修[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 熱血漢の境川親方、大関の師匠に(産経ニュース 2014年7月30日) 2017年1月24日閲覧
  2. ^ a b c d e f 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)170ページから171ページ
  3. ^ 1986年1987年高校横綱
  4. ^ 講演『可能性への挑戦』 2001/10/30  舞の海 秀平 東海村文化センター
  5. ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p27
  6. ^ 「私の相撲人生」「私と大相撲」「可能性への挑戦」などがテーマ
  7. ^ 文化放送「くにまるジャパン」番組ブログ 2011年9月25日記事2017年1月24日閲覧
  8. ^ いまも胸に残る師匠の心眼 産経ニュース 2017.2.23 16:41
  9. ^ 日本相撲協会特等床山・床安(63)(4) MSN産経ニュース 2014.5.29 03:06
  10. ^ 【舞の海の相撲俵論】 嫉妬から生まれる力(2/3ページ) 産経ニュース 2016.7.21 11:14
  11. ^ 週刊女性2017年8月1日号
  12. ^ 【大相撲】舞の海が『火ノ丸相撲』を読んで、思うこと Sportiva 2014.12.11
  13. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p18-21
  14. ^ 講師紹介・舞の海秀平(株式会社パートナーシステム 2015年6月7日閲覧)
  15. ^ フジ五輪中継に康生、舞の海も参戦(日刊スポーツ 2008年7月8日 2015年6月7日閲覧)
  16. ^ 2009年3月27日20時30分閲
  17. ^ 「真剣勝負だけど、人情相撲だってある」 舞の海さん 朝日新聞 2011年3月9日
  18. ^ a b 遠藤悠樹(編)、日本会議の人脈、三才ブックス、2016年。
  19. ^ a b “昭和天皇万歳”集会で――舞の海氏が排外発言 週刊金曜日
  20. ^ 役員名簿 憲法改正を実現する1000万人ネットワーク 美しい日本の憲法をつくる国民の会
  21. ^ 【憲法記念日】舞の海氏が新説「日本人力士の“甘さ”は前文に起因する」「反省しすぎて土俵際…」1/22/2 産経新聞2015年5月3日
  22. ^ 「日本人力士が弱くなったのは憲法のせい」舞の海は日本会議の広告塔 週刊文春2016年6月2日号
  23. ^ 元小結、舞の海氏も後押し 「美しい日本の憲法をつくる鹿児島県民の会」発足 全国で県民の会そろう 産経新聞2015年11月5日
  24. ^ 2016年8月23日に日本テレビ系列『解決!ナイナイアンサー』における本人のコメントより
    元人気力士が夢中になった6歳年上の女性は、バツイチ子持ちだった Sponichi Annex 2016年8月23日 22:25
  25. ^ 左膝内側側副靭帯損傷のため4日目から途中休場

外部リンク[編集]