貴ノ花利彰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
貴ノ花 利彰 Sumo pictogram.svg
基礎情報
四股名 花田 満→貴ノ花 満→貴ノ花 利章→貴ノ花 利彰→貴ノ花 満郎→貴ノ花 健士→貴乃花 健士→貴ノ花 利彰
本名 花田 満
愛称 角界のプリンス[2]
生年月日 1950年2月19日
没年月日 (2005-05-30) 2005年5月30日(55歳没)
出身 青森県弘前市
身長 183cm
体重 114kg
BMI 34.04
所属部屋 二子山部屋
得意技 左四つ、寄り、吊り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 726勝490敗58休(95場所)
幕内戦歴 578勝406敗58休(70場所)
優勝 幕内最高優勝2回
十両優勝2回
序ノ口優勝1回
殊勲賞3回
敢闘賞2回
技能賞4回
データ
初土俵 1965年5月場所[1]
入幕 1968年11月場所[1]
引退 1981年1月場所[1]
引退後 年寄鳴戸(のちに藤島・二子山に名跡変更)
趣味 プラモデル、彫刻(現役時代)[3]
備考
金星1個(北の富士1個)
従五位旭日小綬章受章
2013年8月25日現在

貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、青森県弘前市出身(北海道室蘭市生まれ)の元大相撲力士。現役時は二子山部屋所属であった。最高位は東大関。本名は花田 満(はなだ みつる)。身長183cm、体重114kg、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱初代若乃花の弟という血筋のよさに加え、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから、角界のプリンスと呼ばれた[1]。大相撲の歴史上、また日本のスポーツ史上屈指の人気を誇った。位階従五位旭日小綬章受章。

1993年1月場所後に次男の花田光司四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に変え、そして1994年11月以降の四股名であり後に一代年寄名跡となった「貴乃花」にして以降は、父の方は「初代貴ノ花」または「先代貴ノ花」と呼ばれている。

来歴[編集]

相撲界へ入門[編集]

北海道室蘭市で10人兄弟の末っ子として生まれる。初代若乃花と若緑陸奥之丞(三段目)の弟。大豪久照の義弟。第66代横綱・3代目若乃花で現タレント花田虎上と、「平成の大横綱」と呼ばれた第65代横綱(現・一代年寄)・貴乃花光司の父。母は武ノ里武三の又従姉。夫人は元女優で現タレントの藤田紀子(当時・憲子。2001年(平成13年)離婚)。

満が誕生した時、長兄の勝治(若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、巡業がてら帰省した際に実家で初めて満と対面した。最初は結婚した姉の子供だと思っていたが、両親から「お前の弟だ」と聞かされて仰天し、「いい加減にせえや。何人産んだら気がすむんだ」と半ば呆れたという。

杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ[4]オリンピック選手の候補になるほどだった。専門はバタフライで、メキシコシティオリンピック代表でメダルも期待された高田康雄とライバル関係にあり、二人で交互に中学記録を更新したほどであった。

しかし兄である二子山(初代若乃花)の相撲部屋への入門を希望。二子山はもう一人の弟である陸奥之丞が失敗するのを目の当たりにしていたため猛反対した[5]。また二子山はあるテレビ番組で『オリンピックドン・ショランダーの活躍を見て、弟には相撲よりも水泳のオリンピック選手になってもらいたかった。』と語った。結局母が説得してくれたので、「いいか、今日からは父(22歳離れた兄である勝治は、父が早くに亡くなった後は兄弟たちの父代わりだった)とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。後に巷間に名言として伝わった「水泳じゃメシは食えない(から力士になろうと思った)」という発言については、師弟揃って否定している。

入門から入幕まで[編集]

1965年昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵。兄から師匠へと立場の変わった二子山は徹底的に厳しく指導した。「弟だから甘くしている」と言われないため、二子山は貴ノ花にわざと厳しく接していたと言われている。[6]また兄弟子たちからも限度を超えたしごきを受けたとも伝わる(二子山の指導が厳しかったため、弟が仕返しされるという図式)。二子山はまた日頃より「相撲に入った以上、痛いとか苦しいということを口にするな」と教えていた。そのため貴ノ花は1965年7月場所を6勝1敗の成績で終えて序ノ口優勝を果たした後に、東京へ帰り日大病院に入院した時も病気が悪化するまで誰にも言わずに頑張った[7]

当時まだ日本大学の相撲部員だった輪島が二子山部屋に稽古に来た際、十両時代の貴ノ花が相手をしたことがあった。年齢は輪島の方が2歳上なのだが、さすがにプロの十両力士の方が強いだろうという周囲の予想に反し、貴ノ花は学生の輪島に負けてしまった。これに怒った二子山が「おい!黒い廻し持って来い!」(お前に十両の資格はない!)と言ったというエピソードがある(稽古廻しは、十両以上は白で、幕下以下は黒、という取り決めがある)。

1965年7月場所序ノ口優勝、1968年(昭和43年)3月場所に18歳0ヶ月の史上最年少(当時)で新十両。新十両の場所も8勝7敗と勝ち越して初土俵以来17場所連続勝ち越しの新記録(当時)を樹立した[8]。同年5月場所に7勝8敗と負け越したものの9月場所で11勝4敗の成績で十両優勝を果たし、11月場所には新入幕を果たした。18歳8ヶ月15日での入幕[1]武藏山の19歳5ヶ月1日を破り、これも当時の新記録であった[9]。また、これによって兄の若乃花と共に明治以降では初の兄弟幕内力士となった。[10]

なお新入幕当時、二日酔いで稽古を休もうとしたところを見つかったことがあった(当時未成年であったが、取的時代の兄弟子の強要もあり、飲酒は常態化していた)。これを見て激怒した二子山は青竹で殴って叩き起こし(聞くところによると布団が血で真っ赤になるまで叩き付けたらしい)、稽古場に連れて行ったという[11]

入幕から大関昇進まで[編集]

新入幕の1968年11月場所は8勝7敗と勝ち越したが、翌1969年(昭和44年)1月場所は7勝8敗と負け越し。次の3月場所は、初日黒星の後2日目に急性上気道炎のため不戦敗・途中休場。7日目から再出場したが5連敗、この場所一つも白星を挙げられず(8敗7休)に12日目に2度目の不戦敗・再休場となる。

その後一度十両に下がり、再入幕するまでの間のある時に40度の高熱を押して出場した結果肝硬変寸前の状態になったことがある[7]1970年(昭和45年)1月場所、花田から貴ノ花と改名し再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得した。同年11月場所では7勝8敗と負け越したものの連日の健闘が讃えられ、会場(当時)の福岡スポーツセンターから表彰された。その後、横綱・大鵬との対戦(1971年(昭和46年)1月場所5日目)で足を負傷するが、5月場所5日目にその大鵬に黒星をつけて名を上げる(大鵬はこの日の敗戦を最後に引退)。大鵬との対戦成績は通算2勝3敗であった。その後も、9月場所6日目に大関・清國に足を取られながら逆転勝ちなど、驚異的な足腰の強さを発揮、角界一の人気を不動のものとした。翌7日目には横綱・玉の海と対戦、もろ差しになり土俵際まで攻めながら、差した両腕を抱えられ吊り出しに敗れた。玉の海とは7回対戦したが1度も勝てず、玉の海の堂々とした相撲ぶりや稽古熱心さを尊敬し目標としたものの、1971年10月に玉の海が急逝したためついに恩返しをすることはできなかった。また、新入幕当時からの対戦相手として羽黒岩大麒麟(対戦当初の四股名は戸田、麒麟児)を苦手としていた。両者とも喧嘩四つ(玉の海同様、羽黒岩、大麒麟も右四つ。貴ノ花は左四つ)の相手であり、立合い一気の押し相撲を得意とする羽黒岩には通算3勝9敗(1不戦敗を含む、貴ノ花が大関昇進後も1勝3敗)、柔軟で差し身が良く腰の重い大麒麟には通算6勝13敗(貴ノ花が大関昇進後も2勝6敗)と、玉の海同様苦手の対戦相手だった。

大鵬の1人勝ちにより低迷していた大相撲人気が息を吹き返したのは貴ノ花が幕内に登場したのがきっかけであるとされている[12]

かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱・北の富士戦(1972年(昭和47年)1月場所8日目)は、立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵についた[1]。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした(貴ノ花は既に「死に体」だと判断された)。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた立行司25代木村庄之助千秋楽まで謹慎となり、翌3月場所前には廃業に追い込まれる事態となった。当時の映像(正面から)を見ると、どちらが有利か際どい内容である。一方、死に体の判断では足の形が重要な基準となるが、写真を見ると(東方からのものが多い)貴ノ花の両足はつま先立ちながらも、足の指でしっかりと土俵を噛んでおり、北の富士をうっちゃろうとする力にあふれているようにも見える。

なお、翌3月場所7日目に両者は再戦、このときも土俵際でもつれる展開となりまたも行司差し違え(このときの行司は22代式守伊之助)、今度は北の富士が勇み足を取られ敗れている(取組後に北の富士は「“かばい手”はあるのに“かばい足”はないのか」と語ったといい、2016年に出版された自著では「僕は自分の顔をかばっただけ」と改めてかばい手であると主張[13])。こうした貴ノ花の強靭な足腰、奇跡的な逆転勝利の連続に対し、当時の相撲解説者・玉ノ海梅吉が「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフを残した。

同門の花籠部屋に入門してきた輪島とはライバル同士になり、激しい争いを演じた。その一方、プライベートでは大の親友だったとも言われている。両者大関取りとなる1972年9月場所千秋楽では、輪島との水入りの熱戦で負けはしたものの、場所後に二人が揃って大関に昇進した[1]。貴ノ花は昇進前3場所で33勝挙げた一方直近場所が10勝どまりであった点で注文が付いたが、先述の熱戦とが評価されたことや輪島と一時代を築き上げることが待望されていたことが後押しになって大関推挙が実現した[14]。この千秋楽は当時の皇太子一家(今上天皇美智子皇后現皇太子秋篠宮)が観戦しており、この大熱戦に大喜びした様子がNHKテレビ中継を通して全国に流れた。

大関昇進当初、貴ノ花は「自分の場合は、周りが大関、大関と騒いでくれたのが結果的に良くって、なれたものと思う」と自分が昇進の機運に乗っかって昇進したと自覚するところを語り、大関昇進伝達式の使者が来るまで昇進を実感できなかったという[15]。またこの頃、体力的な問題について記者から聞かれた時には「自分じゃ無理に体重を増やしてもかえっていけないと思っているが……総合的な体力は、そりゃもっと強くしたいがね。それよりもこのままの体でもっと強くなればいい」と答えている[16]。太れなかったことに関しては関しては後に北の富士が「貴ノ花の阿佐ヶ谷の頃の部屋の食事を見たら、野菜中心。まあ、肉も食べてたんだろうけど」と当時について証言している[17]

大関時代[編集]

輪島は大関4場所目に全勝優勝して綱を取ったが、貴ノ花はなかなか優勝できなかった。周囲からは「貴輪時代」(きりん じだい)を期待されたが結局のところ実現せず、その後に急成長してきた怪童・北の湖に実力面で追い抜かれ、「輪湖時代」(りんこ じだい)が訪れることになったのである。

1974年(昭和49年)7月場所の貴ノ花は、休場明けで体調が万全でなかったが、優勝争いのトップを走っていた大関北の湖と12日目に対戦し、吊り出しで破った。この一番は、小兵の貴ノ花が巨漢の力士を豪快に破った名勝負の一つとして記憶されることになる。北の湖は11日目まで全勝で、横綱輪島に2差をつけ優勝を手中に収めたと思われていたが、この貴ノ花戦で敗れたこともあって千秋楽には1差を逆転され、輪島に優勝を奪われた。ただし前の場所で優勝していた北の湖は、場所後に横綱に昇進している。

1975年(昭和50年)ごろのある時から、貴ノ花は「ただガマンすることではダメなのだ。ガマンをしたって病気は悪くこそなれ、良くはならない。悪いところを治療していかなければならない」ということに気づいた。以来、稽古が終わって風呂をあがると恩湿布を約20分間続け、東京にいるときは温湿布の他に特殊な器具で首と腰椎を引き延ばす治療も行い、外出する時には腰にカイロを入れ保温することを忘れなかった。そうした努力もあってか、3月場所には場所中に若三杉と毎朝10番から20番取ってもスタミナ切れを起こさない体が出来上がり、11日目の豊山を終えた時点で「今場所は疲れはほとんど残っていない。まだ5分ぐらいの長い相撲を3倍ぐらいとっても平気だ」といつになく強気な言葉を吐いていた[18]。千秋楽は、13勝1敗の貴ノ花と12勝2敗の北の湖の対戦となり、貴ノ花は勝てば初優勝だったが、負けて13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込んだ。休憩時間に北の湖は床山に髷を整えてもらう中黙想していたのに対し、貴ノ花は支度部屋で乱れた髷もそのままに黙々と四股を踏み続けていたという。決定戦で貴ノ花は仕切り2回目でつっかけ、北の湖もこれに対して4回目の仕切りでつっかけた。しかし時間いっぱいになってからはお互いにけん制して立てず、制限時間後4回目に立った。北の湖は右で上手を引き、貴ノ花は左を引きつけ、左に頭を下げて食いついた。正面土俵で北の湖は強引な上手投げを放ったが、腰の据わっている貴ノ花はぐっとこらえた。貴乃花は右手を送り、左手を浅く入れてぐっと腰を落とし西土俵によって出ると、北の湖はこらえきれずに土俵を割った[19]。北の湖を下し、悲願の初優勝を果たした[1]。その瞬間、場内では興奮した観客が投げた座布団がかつてないほどに乱れ飛び、土俵や天井が見えなくなるほどの光景となったが、これも貴ノ花の人気がいかに凄まじかったかを物語るものである。優勝旗は本来なら審判部長の高砂が渡すべきところだったが、協会の粋な計らいによって、兄であり師匠でもある二子山審判部副部長の手から渡された。優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目には涙が浮かんでいたのを相撲中継のカメラが捉えた。二子山はこの優勝劇に対して「ワシが部屋を持って13年。早く関取を出したいとは思ったが、まさか、13年目で優勝力士が出るとは思わなかった。貴ノ花は妻を持ち、子を持ち、人の親となって大きく成長した。技術的にはまだまだだが、今度は、当然横綱を目ざさなくてはならない。そのためには今までどおり、相撲に関しては兄でも弟でもない師匠として厳しく鍛えていかなければならないと思う。花田家はオクテだから、貴ノ花が本当の力を発揮するのはこれからと信じている。最高位を目ざし、相撲命の灯が消えた時、兄弟として盃をくみかわしたい。それまでは横綱を目ざして2人で頑張る……」とコメントしている[20]。大鵬親方も「わずか2場所ぐらいの間にこんなに大きく変わった人も珍しい。相撲の取り口もガラッと変わったし、精神的にも著しい成長の跡が伺える」と驚きの声を上げていた[20]

同年9月場所にも北の湖との優勝決定戦を制し12勝3敗で2回目の優勝[1]。2回の優勝の後には横綱昇進を期待されたが、次の場所では好成績を出せず、綱取りは果たせなかった。このころから腎臓病や足の怪我に悩まされていたといわれ、開運を期待して貴乃花と改名もしたが効果はなく、すぐに元の貴ノ花に戻している。

結局のところ優勝はこの1975年の2回のみで、この頃が力士としての全盛期だったといえる。以後はゆるやかに力が衰えていき、大関在位50場所という当時史上1位の記録は立てたが、優勝争いに絡むことはほとんどなくなり、1977年(昭和52年)1月場所に12勝3敗、翌3月場所に13勝2敗と2差ながら優勝次点の成績を収めた時を例外として、以後は新聞記事で「貴ノ花」の名が「横綱」の文字に絡むことも絶えた。

当時最大級の巨漢だった高見山との取組は牛若丸弁慶との対決にもたとえられる大相撲きってのゴールデンカードとして知られた。45回対戦し、貴ノ花の29勝16敗だったが、数々の名勝負が生まれている。両者最後の対戦となった1980年(昭和55年)9月場所7日目の取組では、土俵際での高見山の左小手投げと貴ノ花の右掬い投げの打ち合いで、高見山の右手が先に落ちたように見え、行司二代目式守伊三郎軍配も貴ノ花に上がった。しかし物言いがつき、貴ノ花の髷の先端がわずかに早く土俵に付いたとして、軍配差し違えで高見山の勝ちとなった。投げの打ち合いの際、貴ノ花は一切手を付かなかったため、鼻を土俵に強打して出血していた。取組後のインタビューで、アナウンサーの「髷がなければ勝っていましたね」という問いに対し、「髷がなければ相撲なんて取れないよ」と返した機転でも有名になった。

弟弟子である横綱・二代目若乃花が北の湖と優勝を争った際には、見事な援護射撃も行っている。この頃までには、脂が乗り切った大横綱の北の湖との取組ではよほどのことがない限り貴ノ花が勝つことはなくなっていた。ところが貴ノ花は立合いで一瞬の変化を見せ、北の湖は全く為す術もなくあっさりと土俵を割ってしまった。北の湖は取組の後で「他の力士なら変化もあるだろうと警戒するが、貴ノ花関は今まで一度も変化したことがないから、全く無防備だった」と語っている。貴ノ花が本場所の土俵で立合いの変化を見せたのはこの一回だけだと言われており、これも貴ノ花の土俵態度をよく物語る逸話の一つとして知られている。

30歳で現役引退[編集]

1980年(昭和55年)1月場所は、7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、この頃から貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と、背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げ、なんとか面目躍如となったものの、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。

1980年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。自分と同じく軽量の千代の富士にはかねてから特に目をかけており、「喫煙を止めれば体重は増える。自分は結局止められなかったが、お前は止めろ」とのアドバイスによって、千代の富士はきっぱりとタバコを止めたという。その後千代の富士は「貴ノ花関のおかげで横綱になれた」とも語っている。

なお、後年に「昭和の大横綱」へ成長した千代の富士が、1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、奇しくも貴ノ花の実子である貴花田に、同場所初日の初対戦で敗れた事がきっかけと言われている。また、千代の富士の現役最後の一番となった同場所3日目の取組相手は、これも同じく貴ノ花の愛弟子だった貴闘力であった。

その翌場所、1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の、大関在位50場所目を迎えた(現在は大関在位65場所・共に歴代1位タイの千代大海魁皇に次いで歴代3位)。しかし序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳11か月でついに土俵を去っていった(7日目は引退により不戦敗、成績は2勝5敗)。実は、貴ノ花自身は翌7日目の対戦相手である朝汐戦を最後の相撲として取りたかったそうだが、師匠の二子山は「引退を口にした者が相撲を取ることは許されない。満、引き際というのは肝心なんだぞ」と止められたという。貴ノ花が引退した際、二子山は「さあ、これで初めて兄と弟に戻って、うまい酒が飲めるぞ」と喜んでいる[11]

朝汐が不戦勝の勝ち名乗りを受ける時、館内からは引退を惜しむファンから「たかのはなあ〜」の歓声が挙がっていた。この日の実況を担当した、当時のNHKアナウンサー:杉山邦博は「今日、貴ノ花関が引退です……」と伝えた後に、思わず涙で言葉を詰まらせてしまった(この事から後に週刊誌などで「泣きの杉山」と書かれている)。その杉山の状況を察した、解説の玉ノ海は機転を利かせて、しばらくひとりで貴ノ花評を語り続けている。この場所貴ノ花は、力の衰えを感じそれを体重でカバーする為に禁煙を試みたものの、却って体調不安を起こす結果になった。[21]長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めているなど、満身創痍の状態での現役引退だった。ちなみに貴ノ花の子息である長男・3代若乃花は29歳2か月、次男・貴乃花は30歳5か月と、父親とほぼ同年齢の若さでそれぞれ引退している。

年寄時代[編集]

引退後に年寄鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方になる。1982年には藤島に名跡変更して初代若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(後の横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。卓越した指導能力は折り紙つきで、他にも、後に大関となる貴ノ浪関脇安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。琴錦は藤島部屋の稽古について「あの部屋は稽古量が多い上に、一つひとつ中身が濃く無駄がない。最後の仕上げのトレーニングまで、若い衆だけでなく関取も含め全員でやっていた」と後年振り返っている[22]。しかしその反面、パワー相撲を得意とする巨漢力士の育成は苦手で、豊ノ海五剣山は将来を大きく期待されながらも、大きな体を活かした相撲を身につけることができず、期待にこたえることができなかった。同じく巨漢であった摩天楼藤ノ花は関取にすらなることができなかった。

1993年、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。そして1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など、周囲に暗雲が漂い始める。そして弟子の貴乃花が引退すると部屋を譲り部屋付きとなった(これを機に、二子山部屋は貴乃花部屋と改称)。

日本相撲協会では1992年監事(現在の副理事)、1996年には理事に昇格し巡業部長となった。同年に年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれたが後に復帰、2002年には審判部長、2004年2月から事業部長に就任した。

晩年・55歳で早世[編集]

2003年(平成15年)秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩していたため、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年(平成16年)夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり、相撲協会の職務を休みがちとなっていた。当初の病名は、公には「口内炎」と発表していた。なお入院時には北の湖理事長(1期目当時)を初め、相撲関係者からのお見舞いは殆ど断っていたという。

2005年(平成17年)1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の好角家からは大きな拍手が送られた。しかし投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登る事が出来ず、呼出の手を借りなければならない程、体調は相当に悪化した状態だった。昭和の大相撲を彩り、一時代を築いた人気力士だった頃の面影は殆ど失われ、まるで別人のように余りにも衰え窶れ果てた二子山の姿に会場の好角家は衝撃を受け、涙を禁じ得ない者もいた。

この頃から、彼の重病説などが囁かれるようになった事もあり、同年2月23日にはそれまでの口内炎の病名を改め、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された(現役時代からヘビースモーカーとして知られ、これが一番の病因とも言われる)。その後二子山は意識不明の重体に陥り、3カ月後の5月30日に口腔底癌のため、東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。55歳没。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が、生涯最後の公の姿となってしまった。

自ら手塩に掛け育て上げた二人の愛息であり、愛弟子でもあった若貴兄弟の確執を巡るスキャンダルに悩まされ、貴乃花部屋の規模も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001年に離婚するなど、現役時代「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。

6月2日に各界著名人、ファンを集めて告別式が行われた。6月10日、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された(叙位・叙勲の日付は逝去日の5月30日)。6月13日には、両国国技館に於いて北の湖日本相撲協会理事長(当時)を葬儀委員長として日本相撲協会葬が執り行われた。戒名霊友会からの「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」の二つが在る。

家系図[編集]

              ┏━━━━┓
              ○       ○
              ┃      ┃
              ○       ○
              ┃   ┏━┻━┓
        男━┳━女  吉崎   武ノ里
      ┏━━┻━┳━━━━┳━━━━━━━┓
     貴ノ花    若緑    ちえ子=大豪  初代若乃花
┏━━━┻━━━┓                    ┃
貴乃花     3代若乃花                 女=2代若乃花

主な成績[編集]

  • 通算成績:726勝490敗58休 勝率.597
  • 幕内成績:578勝406敗58休 勝率.587
  • 大関成績:422勝278敗42休 勝率.603
  • 現役在位:95場所
  • 幕内在位:70場所
  • 大関在位:50場所(当時1位、現在歴代3位)
  • 三役在位:11場所 (関脇6場所、小結5場所)
  • 三賞:9回
    • 殊勲賞:3回 (1970年9月場所、1971年5月場所、1971年7月場所)
    • 敢闘賞:2回 (1972年7月場所、1972年9月場所)
    • 技能賞:4回 (1971年3月場所、1971年9月場所、1972年5月場所、1972年7月場所)
  • 金星:1個(北の富士1個)
  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:2回 (1975年3月場所、1975年9月場所)
    • 十両優勝:2回 (1968年9月場所、1969年11月場所)
    • 序ノ口優勝:1回 (1965年7月場所)

場所別成績[編集]

貴ノ花利彰
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1965年
(昭和40年)
x x (前相撲) 西 序ノ口 #15
優勝
6–1
西 序二段 #85
6–1 
西 序二段 #13
5–2 
1966年
(昭和41年)
東 三段目 #74
5–2 
東 三段目 #47
4–3 
東 三段目 #37
4–3 
西 三段目 #17
6–1 
西 幕下 #73
5–2 
西 幕下 #52
5–2 
1967年
(昭和42年)
東 幕下 #38
4–3 
東 幕下 #31
4–3 
西 幕下 #30
4–3 
東 幕下 #22
5–2 
西 幕下 #13
6–1 
東 幕下 #4
4–3 
1968年
(昭和43年)
東 幕下 #2
5–2 
東 十両 #12
8–7 
東 十両 #10
7–8 
東 十両 #12
8–7 
西 十両 #8
優勝
11–4
東 前頭 #13
8–7 
1969年
(昭和44年)
西 前頭 #11
7–8 
東 前頭 #12
0–8–7[23] 
東 十両 #11
9–6 
西 十両 #5
9–6 
西 十両 #1
7–8 
西 十両 #2
優勝
11–4
1970年
(昭和45年)
西 前頭 #9
10–5 
東 前頭 #2
3–12 
西 前頭 #11
8–7 
東 前頭 #7
11–4 
西 小結
9–6
東 関脇
7–8 
1971年
(昭和46年)
東 小結
2–4–9[24] 
東 前頭 #5
9–6
西 小結
8–7
東 小結
8–7
西 関脇
9–6
東 関脇
8–7 
1972年
(昭和47年)
西 関脇
6–9 
西 前頭 #1
10–5
東 小結
11–4
西 関脇
12–3
東 関脇
10–5
西 大関
9–6 
1973年
(昭和48年)
西 張出大関 #2
8–7 
東 張出大関
0–3–12[25] 
西 張出大関
8–7[26] 
西 張出大関
8–7 
東 張出大関
9–6 
西 大関
9–6 
1974年
(昭和49年)
東 大関
9–6 
西 大関
10–5 
西 大関
2–4–9[27] 
西 張出大関
10–5[26] 
東 大関
8–7 
東 大関
11–4 
1975年
(昭和50年)
東 大関
10–5 
東 大関
13–2[28] 
東 大関
9–6 
西 大関
0–4–11[29] 
西 大関
12–3[26][28] 
東 大関
8–7 
1976年
(昭和51年)
西 大関
9–6 
東 大関
9–6 
西 大関
10–5 
東 大関
9–6 
東 大関
10–5 
東 大関
9–6 
1977年
(昭和52年)
西 大関
12–3 
東 大関
13–2 
東 大関
10–5 
西 大関
8–7 
東 張出大関
10–5 
東 張出大関
10–5 
1978年
(昭和53年)
西 大関
0–5–10[30] 
西 張出大関
8–7[26] 
西 張出大関
8–7 
西 張出大関
8–7 
西 張出大関
8–7 
西 大関
10–5 
1979年
(昭和54年)
西 大関
9–6 
西 大関
9–6 
西 大関
9–6 
西 大関
9–6 
東 大関
10–5 
東 大関
9–6 
1980年
(昭和55年)
東 大関
7–8 
西 大関
10–5[26] 
東 大関
8–7 
東 大関
9–6 
東 大関
9–6 
東 大関
8–7 
1981年
(昭和56年)
東 大関
引退
2–5–0
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 花田 満(はなだ みつる)1965年5月場所-1969年11月場所
  • 貴ノ花 満(たかのはな -)1970年1月場所-1973年7月場所
  • 貴ノ花 利章(- としあき)1973年9月場所-1973年11月場所
  • 貴ノ花 利彰(- としあき)1974年1月場所-1974年3月場所
  • 貴ノ花 満郎(- みつお)[31]1974年5月場所-1974年7月場所
  • 貴ノ花 健士(- けんし)1974年9月場所-1977年9月場所
  • 貴乃花 健士(たかのはな -)1977年11月場所-1978年5月場所
  • 貴ノ花 利彰(たかのはな としあき)1978年7月場所-1981年1月場所

年寄変遷[編集]

  • 鳴戸 満(なると みつる)1981年1月-1981年12月
  • 藤島 利彰(ふじしま としあき)1981年12月-1993年2月
  • 二子山 利彰(ふたごやま としあき)1993年2月-1995年11月
  • 二子山 満(- みつる)1995年11月-2005年5月(死去)

[編集]

発売日 A/B面 タイトル 作詞家 作曲家 編曲家 レーベル レコード番号 備考
1969年 A面 男なみだのブルース 平山忠夫 渡久地政信 寺岡真三 ビクター SV-834 名義:花田
B面 3番ゲートで待ってるよ 杉野大三郎 渡久地政信 寺岡真三
1975年 A面 貴ノ花 男の花道 山上路夫 都倉俊一 高田弘 トリオ 3A-139 名義:貴ノ花健士
B面 貴ノ花唄い込み 相撲甚句 山上路夫 歌:呼び出し三郎

テレビCM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p23
  2. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  3. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p61
  4. ^ 尚、貴ノ花の現役中ライバルの一人だった元大関・増位山太志郎(日本相撲協会停年後の現在は歌手として活動中)も高校時代迄水泳部に所属し、インターハイ出場の経験も有った。
  5. ^ 一説に酒に酔って暴力を働いた責任を問われて兄である二子山自身の手で強制廃業に追い込まれたともされる。 参考となる証言 らくがき帳1998年5月
  6. ^ 厳しい指導を行った動機として、実際に二子山本人が「陸奥之丞は甘やかしたから出世しなかった。」と発言していた。
  7. ^ a b 『相撲』(別冊師走号)42ページから43ページ
  8. ^ それまでは羽黒山の12場所(ただし年2場所時代)。その後1991年平成3年)3月場所に更新。
  9. ^ のちに北の湖、次いで子息の貴乃花(当時・貴花田)が更新し、さらに稀勢の里もこの記録を上回った。
  10. ^ 『相撲』2014年3月号53頁
  11. ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p72
  12. ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号18頁
  13. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p27
  14. ^ 大関昇進の星事情 東スポWeb 2014年07月29日
  15. ^ 『相撲』(別冊師走号)20ページ
  16. ^ 『相撲』(別冊師走号)22ページ
  17. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p186
  18. ^ 『相撲』(別冊師走号)43ページ
  19. ^ 『相撲』(別冊師走号)40ページ
  20. ^ a b 『相撲』(別冊師走号)41ページ
  21. ^ 反対に朝潮は予てより太り過ぎに悩み、喫煙を減量に利用していたという。長男・貴乃花も引退後に葉巻を大量に喫して減量に成功したとされる。
  22. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p75
  23. ^ 急性上気道炎により2日目から途中休場・7日目から再出場・12日目から再休場
  24. ^ 左足首関節挫傷により6日目から途中休場
  25. ^ 急性糸球体腎臓炎・頸椎捻挫により3日目から途中休場
  26. ^ a b c d e 角番(全5回)
  27. ^ 急性肝臓炎により6日目から途中休場
  28. ^ a b 北の湖と優勝決定戦
  29. ^ 肝臓炎・慢性腸炎により4日目から途中休場
  30. ^ 右脛骨不完全骨折・低血圧・肝機能障害により5日目から途中休場
  31. ^ サイトや書物等、「みつお」と表記されている物が多いが、NHKの大相撲放送でアナウンサーが「まんろう」と紹介していたこともあった。どちらが正しいかは、定かでない。

参考文献[編集]

  • 『あたって砕けろ : 貴ノ花自伝』(講談社、1975年)
  • 『裸の交友番付』(スポニチ出版、1981年、ISBN 4790309088
  • 『土俵の鬼 三代』(杉山邦博著、講談社、1992年)
  • 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p102-104
  • 『大関にかなう』(文春文庫、石井代蔵著、1988年)ISBN4-16-747501-4
  • ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]