若天龍祐三
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基礎情報 | ||||
四股名 | 若天龍 辰夫 → 若天龍 祐三 | |||
本名 | 中川 辰夫 → 粥川 辰夫 | |||
生年月日 | 1940年1月1日(83歳) | |||
出身 | 京都府京都市中京区 | |||
身長 | 175cm | |||
体重 | 106kg | |||
BMI | 34.61 | |||
所属部屋 | 花籠部屋 | |||
得意技 | 左四つ、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東前頭筆頭 | |||
生涯戦歴 | 533勝493敗2休(82場所) | |||
幕内戦歴 | 195勝238敗2休(29場所) | |||
優勝 | 十両優勝2回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1955年3月場所 | |||
入幕 | 1961年9月場所 | |||
引退 | 1969年7月場所 | |||
備考 | ||||
金星(栃ノ海1個) | ||||
2019年8月2日現在 |
若天龍 祐三(わかてんりゅう ゆうぞう、1940年1月1日- )は、京都府京都市中京区出身で、1960年代に活躍した大相撲力士。花籠部屋に所属していた。最高位は東前頭筆頭(1965年11月場所)。本名は中川 辰夫(なかがわ たつお)→粥川 辰夫(かゆかわ -)。現役時代の体格は175cm、106kg。得意手は左四つ、上手投げ。
来歴[編集]
京都市立西ノ京中学校時代は野球に熱中していた。中学卒業後、天竜三郎の紹介で花籠部屋に入門し、1955年3月場所で初土俵。翌5月場所、天竜に因んだ「若天龍」の四股名で序二段に付いた。
同部屋で同時入門し、同時に序二段からスタートした3歳年上の若三杉(杉山)と出世を競い合い、体は小さいものの稽古熱心さと正攻法の攻めで着実に番付を上げていった。
その後、1960年9月場所で新十両に昇進し、1961年9月場所で新入幕を果たした。入幕してしばらくは幕内と十両を往復する日々が続いたが、3度目の入幕を果たした1964年3月場所以降は幕内へ定着。自己最高位の東前頭筆頭で迎えた1965年11月場所では、栃ノ海を破る金星を挙げている。
立合いが乱れていた時代に、両手をきちんと着いての綺麗な立合いを見せ、相撲ファンから賞賛された。幕内を計29場所勤めながら三役昇進は叶わなかったが、若乃花や若三杉らと共に花籠部屋の全盛期を支えた「花籠七若」の1人としても知られている。
西十両11枚目で6勝9敗と負け越し、幕下への転落が避けられなくなった1969年7月場所を最後に、29歳で廃業。
以降は実業団相撲のコーチや相撲料理店経営、民間企業勤務を経て、独立して企業を興し話題になった。
1990年頃は兵庫県西宮市で、「粥川工業」という企業を経営していたが、2015年現在の動向は不明である。
主な戦績[編集]
- 通算成績:533勝493敗2休 勝率.519
- 幕内成績:195勝238敗2休 勝率.450
- 現役在位:82場所
- 幕内在位:29場所
- 金星:1個(栃ノ海1個)
- 各段優勝
- 十両優勝:2回(1962年9月場所、1964年1月場所)
場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1955年 (昭和30年) |
x | 新序 2–1 |
東序二段77枚目 4–4 |
x | 東序二段67枚目 4–4 |
x |
1956年 (昭和31年) |
東序二段57枚目 4–4 |
西序二段55枚目 5–3 |
西序二段30枚目 7–1 |
x | 西三段目86枚目 5–3 |
x |
1957年 (昭和32年) |
東三段目65枚目 3–5 |
東三段目69枚目 6–2 |
西三段目33枚目 6–2 |
x | 西三段目9枚目 5–3 |
西幕下75枚目 5–3 |
1958年 (昭和33年) |
東幕下70枚目 5–3 |
西幕下61枚目 6–2 |
西幕下48枚目 6–2 |
西幕下30枚目 3–5 |
西幕下37枚目 5–3 |
西幕下25枚目 5–3 |
1959年 (昭和34年) |
東幕下18枚目 5–3 |
東幕下13枚目 5–3 |
東幕下9枚目 5–3 |
西幕下5枚目 7–1 |
東幕下筆頭 3–5 |
東幕下5枚目 3–5 |
1960年 (昭和35年) |
西幕下10枚目 4–4 |
東幕下8枚目 6–2 |
東幕下3枚目 4–4 |
東幕下2枚目 6–1 |
西十両19枚目 10–5 |
西十両12枚目 6–9 |
1961年 (昭和36年) |
東十両16枚目 8–7 |
東十両13枚目 9–6 |
東十両7枚目 9–6 |
西十両3枚目 11–4 |
西前頭11枚目 8–7 |
東前頭9枚目 7–8 |
1962年 (昭和37年) |
西前頭10枚目 2–13 |
東十両2枚目 5–10 |
東十両8枚目 9–6 |
西十両2枚目 5–10 |
東十両7枚目 優勝 12–3 |
西十両筆頭 7–8 |
1963年 (昭和38年) |
東十両2枚目 10–5 |
東前頭15枚目 4–11 |
東十両6枚目 6–9 |
東十両12枚目 9–6 |
西十両6枚目 9–6 |
西十両3枚目 6–9 |
1964年 (昭和39年) |
西十両5枚目 優勝 13–2 |
東前頭14枚目 8–7 |
東前頭11枚目 7–8 |
西前頭12枚目 8–7 |
西前頭9枚目 8–7 |
東前頭8枚目 6–9 |
1965年 (昭和40年) |
東前頭11枚目 7–8 |
東前頭12枚目 8–7 |
西前頭7枚目 9–6 |
西前頭4枚目 8–7 |
東前頭4枚目 9–6 |
東前頭筆頭 5–10 ★ |
1966年 (昭和41年) |
西前頭6枚目 9–6 |
西前頭4枚目 5–10 |
西前頭7枚目 8–7 |
西前頭5枚目 5–10 |
西前頭7枚目 9–6 |
東前頭3枚目 0–13–2[1] |
1967年 (昭和42年) |
東前頭15枚目 8–7 |
西前頭13枚目 6–9 |
東十両5枚目 8–7 |
西十両3枚目 6–9 |
西十両7枚目 9–6 |
東十両4枚目 11–4 |
1968年 (昭和43年) |
西前頭10枚目 8–7 |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭8枚目 6–9 |
西前頭10枚目 6–9 |
東十両2枚目 9–6 |
西前頭12枚目 8–7 |
1969年 (昭和44年) |
西前頭10枚目 5–10 |
西十両筆頭 5–10 |
東十両8枚目 6–9 |
西十両11枚目 引退 6–9–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴[編集]
- 若天龍 辰夫(わかてんりゅう たつお)1955年5月場所 - 1960年7月場所
- 若天龍 祐三(わかてんりゅう ゆうぞう)1960年9月場所 - 1969年7月場所
参考文献[編集]
- 『戦後新入幕力士物語 第2巻』(著者:佐竹義惇、ベースボール・マガジン社刊、1990年、p441-p445)
脚注[編集]
- ^ 脊椎分離症により13日目から途中休場