千代大海龍二

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基礎情報
四股名 千代大海 龍二
本名 須藤 龍二
廣嶋 龍二(旧姓)
愛称 角界の番長
リュウジ
生年月日 1976年4月29日(40歳)
出身 大分県大分市(出生地は北海道千歳市
身長 180.0cm[1]
体重 145.0kg[1]
所属部屋 九重部屋[1]
得意技 突き、押し[1]
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 771勝528敗115休(104場所)
幕内戦歴 597勝402敗115休(75場所)
優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝2回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞3回
データ
初土俵 1992年11月場所
入幕 1997年9月場所
引退 2010年1月場所
引退後 年寄佐ノ山九重[2]
趣味 音楽鑑賞、インターネット
備考
金星1個(貴乃花1個)
2014年1月22日現在

千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ、1976年(昭和51年)4月29日 - )は、大分県大分市出身(出生地は北海道千歳市)で九重部屋所属の元大相撲力士。本名は須藤龍二(すどう りゅうじ)、旧姓は廣嶋(ひろしま)。最高位は東大関。現在は、年寄九重、九重部屋の師匠。

来歴[編集]

大相撲入門まで[編集]

子供の頃から巨漢で、当時のあだ名は「ブッチャー」。しかし運動好きで学校から帰ると毎日のように近くの海岸で友達とドッジボールをしていた。中学校時代は大変な悪童として有名になり、2桁人数の高校生相手に単身で喧嘩して勝つなどの武勇伝を轟かせ、大分県最大で九州でも1、2を争う勢力の暴走族「十二単」を率いていた[3]。さらにやくざ数人と喧嘩した所、相手のやくざに気に入られ、スカウトされたことがあった。佐賀県出身で同年代のはなわ曰く「大分の龍二と言えば僕でも知っている位の凄く有名な人だった」。荒んだ生活ぶりから母には心中を求められたこともあるという。[3][4]ただ、不良少年(ヤンキー)ではあったものの、柔道を習っていたこともあり目上の人間には礼儀正しく、先生の言うことは素直に聞き、弱い者いじめもしなかったとされる。また、卒業式では涙を見せる場面もあった。

小学校5年時に、競技を始めてからわずか1年のキャリアで柔道の全国大会で3位入賞、中学3年時には年齢を偽って参加した極真空手の九州大会で3位入賞するなど、格闘センスは抜群であった。空手の得意技はローキックと掌底。 その他、中学校時代に市内の相撲大会に出場し優勝を果たしたが、決勝戦の相手がパンクブーブーの佐藤哲夫であった。

大分東明高等学校を担任の推薦で受験するも不合格。中学卒業後は一時鳶職に就くが、母親を安心させたいと大相撲入りを決意する。そして、どうせなら最も強い人の弟子になろうと、相撲についてはほとんど知識がなくとも名前だけは知っていた元横綱千代の富士の九重部屋へ入門志願に出向く。ところが剃りを入れた金髪のままの姿を見た九重には、「その前にこの頭を何とかしてこい!」と一喝される。さすがの九州一の悪童もすくみ上がったものの、喧嘩に明け暮れた廣嶋少年は徒心を出して取り組み時に九重の力量を試みるも瞬時に伸されてしまい、以降、師として仰ぐ。後、丸刈りの髪型にしたうえで再び九重部屋の門を叩いたという[3]。千代大海の大関昇進後、九重は、報道・バラエティ番組などで笑い話としてこのいきさつをしばしば回想している。さらにはこの頃のエピソードとして、「どうして相撲をやろうと思ったの?」と聞いたところ「親孝行がしたいからと言ってきた」とも述べ、「それでこの子は頑張れるなと思いましたね」とも語っている。

角界入り[編集]

1992年(平成4年)11月場所に初土俵。千代大海の四股名は大分の「大」と北海道の「海」を合わせて「大海」とし母が考えた。『大相撲』1999年3月号の特集『千代大海物語』によると根性が備わっているとともに実に素直で、模範的な弟子であったという。同誌の41頁に記された女将の証言によると「今の子は怒られても、自分が怒られているという自覚がなく、ぼーっと聞いている子が多い。千代大海は親方の説教を真剣に聞いていた」とのことである。1995年(平成7年)7月場所に19歳、初土俵から2年半で十両昇進とスピード出世を果たす。しかし右肘の怪我と番付運の悪さに泣かされて十両で2年余の足踏み状態が続き、昭和50年代生まれの幕内力士第一号を栃東に譲ったが、1997年(平成9年)9月場所にようやく新入幕を果たした。入幕後は順調に番付を上がり、1998年(平成10年)5月場所に新小結に昇進し、8勝7敗と勝ち越した。翌7月場所には新関脇で11勝4敗の好成績を挙げた。このころから次期大関候補と言われるようになる[3]

そして関脇4場所目の1999年(平成11年)1月場所千秋楽、本割で横綱若乃花に勝利し両者13勝2敗の優勝決定戦にもつれ込む。さらにその優勝決定戦でも若乃花に連勝を果たして、念願の幕内初優勝を成し遂げた[5]。関脇通算3場所で合計32勝13敗、大関昇進の目安となる通算33勝以上には届かなかったが、当時大関は貴ノ浪武蔵丸の二人のみで、又1994年1月場所後の貴ノ浪・武蔵丸の同時昇進以来5年間新大関が誕生していなかった事も有り、横綱若乃花に本割、優勝決定戦で勝利した内容が高く評価されて甘めながらも場所後に大関に推挙された。初優勝後、故郷の大分で優勝パレードが行われ、この時、パレードを先導した白バイの警官が「かつて追い掛け回した奴を今は先導するようになった」と語った[6][3]

大関時代[編集]

千代大海の大関昇進により、若乃花と貴乃花に次ぐ新しい時代のヒーローとして期待された。しかし新大関の1999年(平成11年)3月場所は、初日から3連敗を喫するなど不調で星が伸びず、さらに10日目の武蔵丸との取り組み中に、武蔵丸の頭突きが鼻に当たって鼻骨を折ってしまい、鼻血を流しながらしばらく立ち上がれず、途中休場する羽目になってしまった。翌5月場所は公傷が適用されて全休、いきなり初の大関角番となった1999年7月場所は、10勝5敗と勝ち越して角番を脱した。

その後も怪我や体調不良などでふるわない場所もあったものの、概ね10勝から11勝を挙げ、安定した成績を残していた。2場所連続休場明けだった2002年1月場所は、初日から新大関の栃東と共に9連勝。10日目に海鵬に敗れて1敗となったが、その後栃東が終盤で2敗したため、千代大海が13勝1敗と単独首位で千秋楽を迎えた。千秋楽結び前の一番で栃東に勝てば千代大海の2度目の幕内優勝だったが、押し出しに敗れて、13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込む。だがその決定戦では栃東の立合いの変化で突き落としに又も敗北、逆転で惜しくも優勝を逃してしまう。取組後、九重部屋の千秋楽慰労パーティーの席で千代大海は、師匠の九重親方と共に「無念です…」と大粒の悔し涙を流していた。

初の綱取りだった翌3月場所は、中日迄に4敗を喫して絶望的となり、11日目で7勝4敗としながらも12日目から4連敗してしまい、結局7勝8敗と負け越しに終わる。角番で迎えた5月場所は初日から9連勝し、後半に失速したものの11勝4敗の成績を挙げた。7月場所は10日目に土佐ノ海に敗れたが、14勝1敗の好成績を挙げ、21場所ぶり2回目の幕内優勝を果たした。だが2回目の綱取りだった翌9月場所では、12日目まで2敗と優勝争いに加わったが終盤3連敗で10勝5敗、又しても綱取りはならなかった[3]。次の11月場所は9日目から途中休場したが、この年は年間最多勝を挙げた朝青龍に次ぐ61勝を挙げた。

2003年3月場所は公傷休場明けであったが、千秋楽結びの一番にこの場所新横綱の朝青龍と対戦し、押し出しで破って12勝3敗の成績で、4場所ぶり3回目の幕内優勝を果たしたが、これが千代大海自身最後の優勝となった。次の5月場所で通算3回目の綱取りに挑んだが、終盤崩れて結局10勝5敗に終わった。それでもこの年は皆勤した場所では全て二桁勝利を挙げ、安定した成績ぶりを示していた。2004年前半までは強い所を見せ、綱取りを期待される場所もあった。2004年3月場所は初日から13連勝し、千秋楽に14戦全勝の朝青龍と対戦し、勝てば優勝決定戦に持ち込めたが敗れてしまった。それでも13勝2敗の好成績を上げた。これ以降は優勝争いどころか勝ち越すのがやっとという場所も多く、更に怪我も多くなって最大の武器である突っ張りもだんだん効かなくなっていった。それでも、格下相手には地力の差を見せつけ、序盤から中盤にかけては安定して白星を重ねていたことが多かった。

2005年この年は1月場所、5月場所、9月場所において角番となり、当時の史上最多記録に並ぶ8度目の角番となる。7月場所には左膝側副靱帯損傷のため9日目から途中休場している。

2006年7月場所には大関在位45場所となり、元大関・北天佑を抜いて歴代単独2位となる。7日目の露鵬戦では勝ったものの、勝負決着後の土俵下で露鵬とにらみ合い、口論となった。千代大海は自ら北の湖理事長の所へ行き謝罪したものの、厳重注意を受けた。

2007年は存在感を見せた1年となった。5月場所12日目にはこれまで相性の悪かった横綱朝青龍に押し出しで完勝し2敗を守るなど優勝争いを繰り広げ、終盤3連敗したが10勝5敗の成績を挙げた。7月場所では大関在位51場所となり、初代貴ノ花の持つ大関在位50場所の記録を抜き史上単独1位(当時)となった。11月場所では破壊力の戻った突き押しを武器に、終盤まで優勝争いを展開するが、14日目に横綱白鵬と相星決戦を戦い敗れて、さらにこの一番で右肘を負傷、千秋楽を休場し、不戦敗となった時点で白鵬の優勝が決定となる。また千代大海はこの11月場所で11勝4敗の好成績を挙げたが、2桁勝利はこれが最後となり、さらにこの右肘の大怪我が、結果的に彼の力士生命をも縮める結果に繋がってしまった。

2008年1月場所は前場所の右肘が殆ど回復していなかった影響により、初日からの皆勤7連敗を喫した(8日目以降は休場)。これは一場所15日制になってからは清國1973年11月場所で初日からの皆勤6連敗(7日目以降は休場)を塗り替える大関ワースト記録である。3月場所は史上最多タイの11度目の角番となったが、12日目(3月21日)に白鵬を破り、勝ち越しが決定し、角番を脱出。この日、65歳の誕生日を迎えた母の激励に応える勝利に「おふくろ、喜んでくれるかなあ」と目を細めていた[7](最終的には8勝7敗)。しかし2008年5月場所は、右肘の痛みが再発した影響により6日目から6連敗を喫し、11日目に白鵬に敗れ負け越し。翌12日目に朝青龍を破ったものの最終的に5勝10敗に終わり、幕内では初の2桁黒星を喫した。7月場所では史上単独1位の12度目の角番となるが、9勝6敗と勝ち越して再び角番を脱した。

大関に昇進してから丁度丸10年が経過、節目の大関在位60場所目を迎えた2009年1月場所は、8勝7敗で辛くも勝ち越した。だが3月場所は2日目から6連敗し師匠の九重と休場を相談した[8]。しかし、10日目に負け越しを喫した際に両親から15日間取り切るように進言され、皆勤を決意[8]。結局大関としては1988年9月場所の小錦ら5人の記録を更新する、皆勤場所最多敗となる13敗という不名誉な記録を残してしまった[9]。また、千秋楽には自身が2008年3月場所から糖尿病を患い、2009年3月場所に症状が悪化したことを明らかにしている[10]。翌5月場所は史上最多13度目の角番を迎えることとなった。2009年5月場所中の5月23日に本名を須藤龍二に改姓したことを発表した[11]

2009年の5月場所では12日目で5勝7敗、更に左足太もも肉離れという絶望的な状況に追い込まれたが、その後大関琴光喜魁皇、関脇把瑠都に対し3連勝をし、8勝7敗で13度目の角番を脱出した。しかし、角番を脱出した取組となった千秋楽の把瑠都戦が、故意によるものでは無いが「無気力相撲」に相当すると判断され、両者に対して師匠を通じ注意処分を受けた[12]。翌7月場所は序盤から勝ち負けを繰り返し、14日目には魁皇に負け7勝7敗になるも、千秋楽に関脇鶴竜に勝って勝ち越したが、これが最後の皆勤場所、また最後に勝ち越した場所となった。

2009年9月場所では10日目に負け越し、翌11日目より途中休場。次の11月場所では史上最多を更新する14度目の角番を迎えることになった。その11月場所直前の2009年11月12日、千代大海は同場所で負け越して関脇に陥落した場合でも現役を続け、2010年1月場所に関脇の地位で6敗目を喫し大関特例復帰を果たせなかった時点で、現役引退する意向を表明した[13]

その2009年11月場所では、初日に時天空を叩き込み、2日目も鶴竜を押し出して2連勝スタート(この鶴竜戦が現役最後の白星となった)するも3日目からは8連敗を喫する。10日目の対朝青龍戦で立ち合い千代大海が先に突っ張るも、朝青龍の吊り出しにより敗北。2場所連続負け越しとなり、65場所続いた大関の地位(当時歴代1位、現在魁皇と並び1位タイ)からついに関脇へ陥落が決まってしまった。翌11日目からは前場所に続いて途中休場(不戦勝の相手は2場所連続で琴光喜であった)。大関復帰のチャンスを生かすため、場所前に表明した意向を変えることなく、次の2010年1月場所は1999年1月場所以来11年ぶりの関脇で出場することになった[14]。なお2009年の幕内成績は30勝52敗8休で、同年幕内を6場所務めた力士の中では最低となり、また大関で年6場所務めて(公傷制度適用時を除く)の年間30勝もワーストタイの記録となってしまった(横綱を含めれば2002年の貴乃花光司の年間12勝に次ぐワースト記録)。

関脇陥落・現役引退[編集]

2010年1月場所は西関脇の地位に置かれ、大関特例復帰が叶わなければ引退する不退転の覚悟で臨んだが、初日は稀勢の里に完敗、2日目も北勝力に敗れた。そして3日目には大関として長年にわたって共に支えあってきた魁皇に送り投げで敗れ、初日から3連敗となった。その日、魁皇戦のVTRを見た千代大海は引退の潮時を悟り、残りの取組で10番勝つことは難しいと判断し、この一番を最後に翌4日目の1月13日午前、現役引退を表明した(対戦相手の把瑠都戦は不戦敗)。その際に千代大海は「魁皇関は(勝ったことの)コメントをしなかったと聞き、配慮してくれて、思いを感じた。偶然当たったんでしょうけど、最後は魁皇関でよかった」とコメントしている[15]

2010年1月13日の午後、両国国技館内の相撲記者クラブで行われた引退会見では、不良少年から角界入りして大関に昇進した自らの人生を振り返るように「一つ目標を持てば人生が変わることもある。若い人にそれを伝えたい」と眼を潤ませながら語った[16][3]

引退後は、2001年に取得していた年寄名跡の「佐ノ山」を襲名すると共に、九重部屋付の親方として後進の指導に当たっている[3]引退相撲断髪式は、2010年9月場所後の10月2日に両国国技館で行われ、358人が髷にハサミを入れた。「泣かないと思って頑張ったんですが、こらえ切れずに涙が出た。皆さんのおかげで、素晴らしい断髪式になりました」と述べた[17]。止め鋏の前には、大相撲史上初となった1999年1月千秋楽の優勝決定戦での取り直しの一番、横綱若乃花との取組の実況をアナウンサーが再現した。その際に「千代大海と声をかけるのは今日が最後。皆さん、千代大海と呼びましょう」と言って場内が大きな千代大海コールに包まれると、千代大海は堪えきれずに大粒の涙を流していた。

年寄として[編集]

佐ノ山親方となってから出演した2012年1月場所12日目の『どすこいFM』では、引退後の体重の変化について「一番重かった時が本場所中じゃない時が162kg。本場所中は158kg やめてから体重が30〜40kg落ちた。」と語っていた。

2012年2月1日日本相撲協会の委員待遇年寄から委員へ昇格し、それまでの広報部(記者クラブ担当)から審判部、指導普及部への異動も合わせて発表されたため、本場所では観戦客が勝負審判として土俵溜まりに座る佐ノ山親方の職務姿を確認できるようになっている。

2016年に入ってからは部屋の稽古を一人で指導するようになった[18]2016年7月31日、師匠13代九重(元横綱・千代の富士)が膵癌により61歳で逝去。千代大海は記者陣に対して「血の繋がりはないが、実の父親だとずっと思っていた。元気になってくれると信じていたので、言葉がない。亡くなる当日朝に病院に行ったが、既に意識不明で声掛けても返事が無かった」とコメント。其れ迄九重部屋付き親方として、弟子の指導に当たっていたが「生前時に親方から、『次におまえが引っ張っていけ』と言われていた。これから不安にならないように頑張らせていただきます」と決意を述べている。その2日後の8月2日付で、14代九重を襲名、九重部屋を継承した[2]

特徴[編集]

取り口[編集]

千代大海の最も良い相撲とされるのは、小刻みな突っ張りと同時に足も出て直進し、相手を突き出す(もしくは押し出す)「電車道」と称される勝負の決め方であった。しかし、悪癖といわれる引き叩き癖があり、格下の相手であれば突き切ることが多いが上位力士となるとなかなかそうともいかず、引き・叩きによって自滅することも多々あった。とはいえ千代大海の引き、叩き、いなしはむしろしばしば面白いように決まり、マスコミも「土俵際の魔術師」と本人に水を向けることがあったが、このときは「土俵際の詐欺師だよ」と自嘲気味に語っていた。

また、突き押しの力士は同型の突き押しの力士に弱いとされており、千代大海もその例に漏れない(対戦成績で劣っているわけではないが、雅山垣添といった押し相撲の力士を比較的苦手にしていた)。さらに、朝青龍や白鵬といった圧力に強く下がらない力士に対しては突き押しが通じない場合が多く、捕まってしまうことが多かった。そうなってしまうと、全く為す術なく寄り切られるのが特徴であった。

大相撲中継などではよく左四つでも相撲が取れると言われていたものの、総じて四つ相撲は不得手であった。本人も「四つは序二段三段目レベル」などとしばしば自嘲気味に語っており、自分から四つ身になる事はまずなかった。ただ、図らずも相手に四つに組まれてしまった場合には、強引に寄ってみたり、上手投げ小手投げを見せたりすることもあった。千代天山は自身のブログで千代大海と四つに組んだときも勝てない、とコメントしている[19]

相撲評論家の小坂秀二は大関昇進直後の千代大海についてかつての関脇時代の玉錦のような勢いと馬力があったと評価しており、攻撃の主軸がのど輪攻めにあると分析している。同時にその勢いを保つことができるかどうかが横綱昇進への道を分けるという趣旨の記述もある。加えて「今まで数多くいた突き押し相撲に比べて、千代大海の突き押しがとくに優れているということはない」と前置きした上で目先の勝利のために叩きを打たず押し相撲をさらに磨くべきだと主張していた。[20]

現役時代はあまり稽古熱心でないとされており、北の富士からNHK大相撲中継で「いやー、千代大海って強い力士ですねえ。ぜんぜん稽古しないで、よく勝てますよねぇ」などとコメントされたことがある。また、負けてニタニタする癖も指摘されていた[21]

苦手力士など[編集]

朝青龍との取組成績は、9勝30敗であり苦手としていた。2005年以降しばらくは全く相手にすらしない朝青龍の圧勝ぶりであったが、2006年9月場所は両者突っ張りの応酬で朝青龍の髷に手が入っているかどうかの物言いがつきながらも素首落としで久々に勝って連敗を8で止めた。さらに2007年5月場所では鋭い当たりと強烈な喉輪で一気に押し出し完勝した。当日の大相撲中継で解説していた北の富士も「千代大海ファンには謝らにゃいかんね」「素晴らしい」とコメントした。その後も千代大海は2008年5月場所に突き落とし、2009年7月場所は引き落としで、それぞれ朝青龍を下した。しかし最後の対戦となった2009年11月場所は、10日目の取組で朝青龍に高々と吊り上げられて2勝8敗と負け越し。前の9月場所に続き2場所連続負け越しにより、大関陥落となった。

日馬富士とは、2008年から一度も勝てなかった(2007年までは7勝2敗だったが、そこから10連敗で通算成績は7勝12敗)。また引退間近の頃は豊ノ島も苦手としており、初顔から5連敗を喫していたが、2008年9月場所でようやく初白星を挙げた(通算成績は2勝6敗)。

自身現役最後の取組となった2010年1月場所3日目は、魁皇が相手で幕内対戦回数も54回となったが、これは当時の大相撲歴代第2位の対戦記録だった(当時の最多幕内対戦は、武蔵丸対貴ノ浪の58回。2016年5月場所現在の最多幕内対戦は、琴奨菊稀勢の里の60回)。なお魁皇との幕内取組成績は、千代大海の20勝34敗(1つは不戦敗)。なお、奇しくもこの日の千代大海の敗戦で、魁皇の幕内勝利が808勝となり、師匠の千代の富士の807勝を超える大相撲史上単独第1位の記録を達成した。千代大海は2005年9月場所まで魁皇には15連敗中だったが、11月場所13日目に久しぶりに勝って連敗を止め、翌年3・5月場所も勝って15連敗の後の3連勝となった。その後15連敗を止めてから2009年5月場所までは魁皇戦は9勝7敗だったが、最後は4連敗で引退した。

なお魁皇は翌2011年7月場所5日目、これも千代の富士の通算1045勝を超える通算1046勝の偉業を達成。7日目には通算1047勝としたが、10日目に魁皇が琴欧洲に敗れた直後、千代大海は「これが最後だな」と感じたという。この取組後魁皇はついに現役引退を表明。その魁皇の引退に関して千代大海は「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だったと思う」と称えていた。

人物とエピソード[編集]

  • 強い霊感の持ち主(ブログより)。
  • 近鉄バファローズ読売ジャイアンツのファンである。また、元ジャイアンツ及び北海道日本ハムファイターズ二岡智宏内野手とは生年月日が同じ。
  • 母親は後に再婚したが、千代大海自身は母親の再婚後の戸籍に入らなかったため、2009年まで本名は出生時の姓名のままであった。2009年5月23日、日本相撲協会は千代大海が「須藤」に改姓したと発表した[11]
  • かつてタレントの川村ひかると交際し、破局したことが報じられたが、のちにテレビ番組で未練があることを匂わせた。
  • 東京都渋谷区ちゃんこ料理店「Chez Taikai(シェ・タイカイ)」と、同じ敷地内のスポーツバー「BIGSEA45」を片山晋呉と共同でプロデュースしたことがある。(現在は共に閉店している)
  • 2016年4月にラーメン屋麺屋まるきゅうを名古屋市昭和区八事に出店した。こってり豚骨醤油ラーメンが千代大海本人の渾身の一杯と謳っている。周りは大学もあり、八事近辺はラーメン屋が多く激戦区での出店である。本人も名古屋に来たときは立ち寄ることも。
  • 1999年1月場所での初優勝のとき、当時まだ面識のない黒木瞳から花束が贈られたが、千代大海本人は誰かのいたずらだと思ったという。のちにメル友となった。
  • 実家の隣に住んでいたと言う元内閣総理大臣村山富市とも面識、交流がある。当時の村山の家は千代大海の実家よりもボロボロだったと語っている。
  • 現役時代後期はトレーナーと契約して、プロ野球選手の井川慶も肩の張りを取り除く時に用いる高周波治療器で1日1時間程度、下半身の関節をほぐしており、痛みが消えたことで一時は心に余裕も出てきた事もあった。「プロだから」と、土俵上で体をきれいに見せるため、場所入り前に40分間のオイルマッサージも欠かさなかった。
  • 大関昇進当時は自身をモデルとした漫画や実母が書いた手記などが出版されるほどであった。
  • 十両時代から平幕時代までは濃い青、三役定着から大関取りまでは紺、初のカド番からはえんじ、大関時代後半から黒をの締め込みを使用し、この他にも緑など短期間使用したのみでお蔵入りした締め込みも多かった。このように大関以上の力士としては希有なほどに頻繁に締め込みの色を変更していた。
    • 現役時代晩年は黒色や青色の廻しで相撲を取っていたが、負けが込みだすと初心に帰るつもりで、大関にあがったばかりのころに締めていたえんじ色の廻しに変えることがあった。
  • 恐妻家である事が、2013年2月3日放送分の「爆笑 大日本アカン警察」で暴露された。九重部屋での力士指導の際は常に凄みを利かせて指導し力士たちからも恐れられているが、妻から携帯に電話がかかってきた際には(その際には部屋から退出)家庭の事やスーパーでの買出しなどについて言われ、口調が「すいません」等の他人行儀である事が九重部屋の力士たちから暴露された。
  • 13代九重の時代から、九重部屋の関取衆全員が白星を挙げた際には師匠が焼肉に連れて行く決まりとなっており、これは千代大海が14代九重を襲名してからも変わらない。[22]

主なテレビ出演[編集]

  • 最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦 2006年1月1日放送。琴欧州高見盛らとともに、パワー系種目に出場。THE GALLON THROW(樽投げ)で6m00cmの壁を越えた。これは、後に出場した朝青龍の記録と並ぶ大相撲記録である(全体では5名同記録の6位)。
  • ズバリ言うわよ! 2007年5月8日放送。前年細木数子に「2007年か2008年に横綱になる」と言われたが、その直後に「正月場所(初場所)はだめだ。でも3月場所で活躍するよ」と言われた。しかし実際は、初場所は10勝5敗と勝ち越し、3月場所では7勝8敗と負け越した(ちなみに、当時関脇雅山に対する占いも大きくはずれている)。この番組でゲスト出演し再び細木と共演した際は、細木に「3月場所は『予言通り』だめだったね。」と、なぜか矛盾していることを言われた。
  • 世界ふしぎ発見 2006年11月4日放送。力士としては初めてゲスト出演した。
  • 愛のエプロン 2007年1月31日放送。「鍋王決定戦」に高見盛と共に、角界初のエプロンボーイズとして出場。塩レタスちゃんこを手掛けて96点の高得点をマークしたが、99点を叩き出した杉本彩に惜敗した。
  • 爆笑!大日本アカン警察 2013年2月3日放送。九重部屋での普段の指導風景と恐妻家の部分が表面化した挙句、「最もアカン事件」に選ばれた。

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:771勝528敗115休 勝率.594
  • 幕内成績:597勝402敗115休 勝率.598
  • 大関成績:515勝345敗115休 勝率.599
  • 現役在位:104場所
  • 幕内在位:75場所
  • 大関在位:65場所(当時歴代1位、現在魁皇と並び歴代1位タイ)
  • 三役在位:6場所(関脇5場所、小結1場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:10場所(2003年3月場所~2004年9月場所)
  • 幕内2桁連続勝利記録:7場所(2003年3月場所~2004年3月場所)
  • 連勝記録:13(2004年3月場所初日~2004年3月場所13日目)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:3回(1999年1月場所、2002年7月場所、2003年3月場所)
  • 十両優勝:2回(1997年3月場所、1997年7月場所)
  • 三段目優勝:1回(1994年1月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(1993年1月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:5回
    • 殊勲賞:1回(1999年1月場所)
    • 敢闘賞:1回(1999年1月場所)
    • 技能賞:3回(1998年3月場所、1998年7月場所、1998年9月場所)
  • 金星:1個

場所別成績[編集]

                         

千代大海 龍二
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1992年
(平成4年)
x x x x x (前相撲)
1993年
(平成5年)
東 序ノ口 #47
優勝
7–0
西 序二段 #43
2–5
 
西 序二段 #74
6–1
 
東 序二段 #6
5–2
 
西 三段目 #68
5–2
 
東 三段目 #40
5–2
 
1994年
(平成6年)
西 三段目 #15
優勝
7–0
東 幕下 #12
4–3
 
東 幕下 #7
3–4
 
西 幕下 #13
3–4
 
東 幕下 #22
5–2
 
西 幕下 #14
4–3
 
1995年
(平成7年)
東 幕下 #10
4–3
 
東 幕下 #6
6–1
 
東 幕下 #1
4–3
 
西 十両 #13
8–7
 
東 十両 #12
8–7
 
東 十両 #10
6–9
 
1996年
(平成8年)
東 十両 #12
9–6
 
西 十両 #9
8–7
 
東 十両 #6
8–7
 
西 十両 #2
5–10
 
東 十両 #6
8–7
 
西 十両 #3
11–4
 
1997年
(平成9年)
東 十両 #1
2–13
 
東 十両 #9
優勝
11–4
西 十両 #1
9–6
 
東 十両 #1
優勝
11–4
西 前頭 #11
8–7
 
東 前頭 #5
6–9
 
1998年
(平成10年)
東 前頭 #8
9–6
 
東 前頭 #1
8–7
東 小結
8–7
 
西 関脇
11–4
東 関脇
9–6
東 関脇
10–5
 
1999年
(平成11年)
東 関脇
13–2[23]
西 大関 #1
3–8–4[24]
 
西 大関 #2
休場[25]
0–0–15
西 大関 #1
10–5[26]
 
東 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
9–6
 
2000年
(平成12年)
西 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
8–7
 
東 大関 #2
11–4
 
東 大関 #1
11–4
 
東 大関 #1
10–5
 
西 大関 #1
9–6
 
2001年
(平成13年)
西 大関 #1
2–2–11[27]
 
東 大関 #3
休場[25]
0–0–15
東 大関 #3
12–3[26]
 
東 大関 #1
11–4
 
西 大関 #1
4–5–6[28]
 
西 大関 #1
休場[25]
0–0–15
2002年
(平成14年)
東 大関 #2
13–2[26][29]
 
西 大関 #1
7–8
 
西 大関 #2
11–4[26]
 
西 大関 #1
14–1
 
東 大関 #1
10–5
 
西 大関 #1
6–3–6[30]
 
2003年
(平成15年)
西 大関 #2
休場[25]
0–0–15
東 大関 #2
12–3[26]
 
東 大関 #1
10–5
 
西 大関 #1
11–4
 
西 大関 #1
11–4
 
東 大関 #1
10–5
 
2004年
(平成16年)
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
13–2
 
東 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
10–5
 
西 大関 #1
8–7
 
西 大関 #1
7–8
 
2005年
(平成17年)
西 大関 #1
8–7[26]
 
東 大関 #1
6–9
 
西 大関 #2
10–5[26]
 
東 大関 #1
3–6–6[31]
 
西 大関 #2
10–5[26]
 
西 大関 #1
11–4
 
2006年
(平成18年)
東 大関 #1
4–4–7[32]
 
東 大関 #2
9–6[26]
 
東 大関 #2
10–5
 
西 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
9–6
 
2007年
(平成19年)
西 大関 #2
10–5
 
東 大関 #1
7–8
 
西 大関 #3
10–5[26]
 
西 大関 #1
9–6
 
東 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
11–4[33]
 
2008年
(平成20年)
東 大関 #1
0–8–7[34]
 
西 大関 #2
8–7[26]
 
東 大関 #2
5–10
 
西 大関 #2
9–6[26]
 
西 大関 #2
9–6
 
東 大関 #2
8–7
 
2009年
(平成21年)
西 大関 #1
8–7
 
西 大関 #1
2–13
 
東 大関 #3
8–7[26]
 
東 大関 #3
8–7
 
東 大関 #3
2–9–4[35]
 
東 大関 #3
2–9–4[26][36]
 
2010年
(平成22年)
西 関脇
引退
0–4–0[37]
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士との幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
琴龍 7 2 土佐ノ海 21 10 黒海 8 4
敷島 5 2 出島 20 14 白鵬 6 20
琴錦 7 3 若の里 26 5 露鵬 6 4(1)
濱ノ嶋 4 1 海鵬 4 1 琴欧洲 7 16
栃乃和歌 3 1 小城錦 3 1 和歌乃山 3 1
朝乃若 3 2 闘牙 14 0 普天王 4 2
肥後ノ海 4 1 旭鷲山 16 1 琴奨菊 15 3
湊富士 3 2 雅山 24 22(1) 稀勢の里 13 8
貴ノ浪 21 7(1) 旭天鵬 27 7 時天空 9 4
貴闘力 10 1 栃乃花 4 1 日馬富士 7 12
若乃花 5* 3 隆乃若 4 3(1) 把瑠都 5 7(1)
貴乃花 6(1) 9 琴光喜 22 20(2) 豊ノ島 2 6
安芸乃島 10 3 朝青龍 9 30 豊真将 3 2
栃東 16(1) 18* 玉乃島 14 8 豪風 4 3
玉春日 7 3(1) 安美錦 18 6 鶴竜 6 4
栃乃洋 20 9 高見盛 9 3 豪栄道 5 3(1)
4 7 北勝力 9 4 栃煌山 1 3
武蔵丸 9 11 霜鳳 7(1) 0
武双山 10(1) 14 朝赤龍 8 4
魁皇 20 34(1) 岩木山 8 5
琴ノ若 12 2 垣添 7 5

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2015年現在、現役力士)

改名歴[編集]

  • 廣嶋 龍二(ひろしま りゅうじ)1992年11月場所-1993年9月場所
  • 千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ)1993年11月場所 - 2010年1月13日

年寄変遷[編集]

  • 佐ノ山 龍二(さのやま りゅうじ) 2010年1月13日 - 2016年8月2日
  • 九重 龍二(ここのえ りゅうじ) 2016年8月3日[2] -

著書[編集]

  • 突っ張り(自伝、東京新聞出版局、1999年5月)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 力士プロフィール 日本相撲協会公式サイト 2016年11月28日閲覧
  2. ^ a b c 元大関・千代大海の佐ノ山親方が九重部屋を継承 - スポーツニッポン 2016年8月3日14時48分配信(同日19時30分確認)
  3. ^ a b c d e f g h 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)184ページから185ページ
  4. ^ 日本テレビ『誰だって波瀾爆笑』2013年9月8日放送
  5. ^ 優勝決定戦では史上初めての取り直しがあり、千代大海は若乃花と合計三番も相撲を取ることになった(実際九重親方から事前に「三番相撲する覚悟で行け!」と助言されたという)。引退時に、この日の取組を千代大海は一番の思い出と語った。千代大海が引退…17年の土俵人生に幕, デイリースポーツ(2010年1月20日), 2010年1月27日閲覧
  6. ^ "原石の時代". 西日本新聞 (2005-06-29)
  7. ^ 白鵬“因縁”千代大海に苦杯スポニチ 2014年3月11日閲覧
  8. ^ a b まさに千代大敗…大関ワースト13敗”. スポーツニッポン. 2009年3月30日閲覧。
  9. ^ 千代大海13敗!カド番制度に横審から疑問…春場所千秋楽”. スポーツ報知. 2009年3月30日閲覧。
  10. ^ 千代大海 大関ワースト13敗…糖尿病も告白”. デイリースポーツ. 2009年3月30日閲覧。
  11. ^ a b 千代大海が本名改姓=大相撲夏場所14日目”. 時事通信. 2009年5月23日閲覧。
  12. ^ 「大相撲夏場所:千秋楽、千代大海と把瑠都「無気力」 監察委が「注意」」毎日新聞2009年5月30日 東京朝刊
  13. ^ 14度目のかど番…千代大海 大関転落でも現役続行”. スポニチ (2009年11月12日). 2009年11月12日閲覧。
  14. ^ 千代大海 大関陥落…来場所6敗なら即引退も”. スポニチ (2010年1月11日). 2009年11月25日閲覧。
  15. ^ 千代大海が引退 きょう届け出, 東京新聞(2010年1月13日), 2010年1月13日閲覧
  16. ^ 「土俵怖くなった」…千代大海引退 スポーツ報知 2010年1月14日閲覧
  17. ^ こらえきれずに…断髪の千代大海が涙、涙,日刊スポーツ(2010年10月2日),2010年10月2日閲覧
  18. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P113
  19. ^ 元・千代天山ブログ2007年5月3日
  20. ^ 『大相撲』1999年3月号47頁から49頁
  21. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p17
  22. ^ 新生・九重部屋、破竹の4連勝! 2016年9月12日6時0分 スポーツ報知
  23. ^ 3代若乃花と優勝決定戦
  24. ^ 鼻骨骨折により11日目から途中休場
  25. ^ a b c d 公傷・全休
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n 大関角番(全14回)
  27. ^ 右足関節脛腓靱帯損傷及び右距骨有痛性三角骨により4日目から途中休場
  28. ^ 左第2指及び第3指中足基節関節靱帯断裂により9日目から途中休場
  29. ^ 栃東と優勝決定戦
  30. ^ 右上腕三頭筋損傷により9日目から途中休場
  31. ^ 左膝側副靱帯損傷及び左足関節関節炎により9日目から途中休場
  32. ^ 右大胸筋部分断裂及び頸椎捻挫により8日目から途中休場
  33. ^ 右肘関節捻挫により千秋楽不戦敗
  34. ^ 右肘関節捻挫により8日目から途中休場
  35. ^ 左膝膝蓋腱英語版損傷及び右上腕三頭筋腱損傷により11日目から途中休場
  36. ^ 左膝膝蓋腱靱帯損傷及び左肘関節靱帯損傷により11日目から途中休場
  37. ^ 関脇陥落

関連項目[編集]

外部リンク[編集]