断髪式

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断髪式(だんぱつしき)とは、大相撲引退した力士がそのシンボルともいえる大銀杏を切り落とす儀式のことを言う。切り落とされた大銀杏は、一般にはガラスケースに入れて保存される。相撲博物館で展示されることもある[1][2]。転じて、芸能人など力士以外の人物が公の場でを切り落とす行為の比喩としても用いられる場合もある[3]

引退相撲での断髪式[編集]

通常、引退に際し年寄名跡を襲名した力士の場合、引退相撲(「○○(力士名)引退 ○○(年寄名)襲名披露大相撲」と銘打たれて開催されることが通例)において、引退した力士の家族、後援者、恩人、友人らが次々と土俵に上がって、紋付羽織袴姿で座っている引退力士のに少しずつを入れ、最後に師匠に当たる親方が髷を切り落として終了となる。現在では引退力士は椅子の上に座るが、昭和20年代中頃までは土俵の上に正座していた[4]。また土俵の上はロールシートがT字型に敷かれるが、2000年代以降はレッドカーペットをイメージした赤いシートが使われることが多い。

力士によっては300人以上が鋏を入れることもあるが、2003年5月場所後に引退相撲を行った貴乃花の場合は、本人の希望もあって、相撲協会関係者、息子の花田優一、実兄で横綱だった花田勝ら親戚、同期生である魁皇ら50人に留まった。

土俵上は女人禁制ゆえに、男性のみが鋏を入れる為に土俵に上がることができる。しかし2010年9月場所後に引退相撲及び断髪式を行った千代大海が自身の希望に基づき実母に鋏を入れて貰うべく断髪式の途中で土俵を降り、土俵下で鋏を入れて貰う演出[5]がなされて以降、同様に断髪式の途中で土俵を降りたり、土俵の隣に設けたステージに移動したりして、女性に鋏を入れて貰う演出が多く見られるようになった。

断髪式は引退力士にとって、長年頭の上にあった髷がなくなるため、「本当に大相撲から引退してしまうのだな」という気持ちや、今迄の相撲人生において沢山の想い出が甦るという理由からか、引退時記者会見ではさっぱりとした表情で話をしていた力士であっても、ほとんどの場合感極まって目から大粒の涙を流してしまう場合が多い。

整髪及び着替え後は、一種の「お約束」として夫人や母親、娘にネクタイを整えて貰うパフォーマンスを求められることが多い。玉乃島(断髪式時点で独身)は同部屋同期生の玉飛鳥が夫人役を買って出て笑いを取っていた。

引退相撲は原則として毎年1・5・9月の本場所終了後の1週間後の土日に両国国技館で開催される。また横綱・大関など人気力士の断髪式、披露パーティーの模様ともなれば、当日にテレビ中継されることもある。

断髪式開催当時の師匠以外が止め鋏を入れた例[編集]

本来、断髪式では引退当時の師匠が年寄名義で止め鋏を入れるものであるが、何らかの理由により不可能となる場合がある。その場合は別の年寄(もしくは元年寄)が代理を務める。引退から断髪式の間に師匠が退職したことにより師弟関係が消滅した場合、元師匠が個人名義で止め鋏を入れることもある。以下にその実例を引退相撲が開催されたケースに限定の上、理由別に挙げる。

断髪当時に襲名していた年寄名跡を四股名後ろの括弧書きに記し、引退力士以外の年寄(元年寄)も現役時の四股名で記す。

師匠の死去[編集]

  • 鏡岩善四郎(粂川) - 止め鋏不明:現役中に師匠鬼竜山雷八が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。
  • 玉ノ海梅吉(二所ノ関) - 止め鋏不明:現役中に師匠玉錦三右エ門が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。
  • 羽黒山政司(立浪) - 止め鋏双葉山定次:当時の時津風親方。現役中に師匠緑嶌友之助が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していたため、立浪部屋の兄弟子に当たる双葉山が止め鋏を入れた。
  • 栃錦清隆(春日野) - 止め鋏常ノ花寛市:当時の出羽海親方。現役中に師匠栃木山守也が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していたため、一門代表として常ノ花が止め鋏を入れた。
  • 松登晟郎(大山) - 止め鋏前田山英五郎:当時の高砂親方。引退当初は年寄・振分借株で襲名したが、師匠高登渉が松登の引退相撲直前に亡くなり、部屋を継承したため、一門代表として前田山が止め鋏を入れた。
  • 琴櫻傑將(佐渡ヶ嶽) - 止め鋏佐賀ノ花勝巳:当時の二所ノ関親方。引退直後は年寄・白玉を襲名したが、僅か10日後に師匠琴錦登が亡くなり、部屋を継承したため、一門代表として佐賀ノ花が止め鋏を入れた。
  • 輪島大士(花籠) - 止め鋏若乃花幹士:当時の二子山親方。師匠大ノ海久光が輪島に花籠部屋を譲った後、輪島の引退相撲の直前に亡くなったため、花籠部屋の兄弟子に当たる初代若乃花が止め鋏を入れた。

師匠の退職もしくは廃業[編集]

  • 前田山英五郎(高砂) - 止め鋏朝潮太郎:入門時の師匠。前田山が大関の時に廃業し、二枚鑑札で継承させていたため、本名の薦田長吉。引退相撲が行われた当時健在のため、師匠として止め鋏を入れた。
  • 佐賀ノ花勝巳(二所ノ関) - 止め鋏不明:現役中に先代師匠玉ノ海梅吉の廃業により、二枚鑑札で部屋を継承していた。尚、止め鋏を入れた人物は玉ノ海ではなかったとされる。
  • 星岩涛祐二(陸奥) - 止め鋏豊山勝男:当時の時津風親方。師匠星甲良夫停年(定年。以下同)退職と共に引退し、部屋を継承していた。師匠は健在だったが、一門代表として豊山が止め鋏を入れた。尚、星甲の出席の有無は不明とされる。
  • 琴ノ若晴將(佐渡ヶ嶽) - 止め鋏琴櫻傑將:相撲協会を停年退職していたため、本名の鎌谷紀雄。師匠琴櫻の停年退職と共に引退し、部屋を継承していた。
  • 潮丸元康(東関) - 止め鋏高見山大五郎:相撲協会を停年退職していたため、本名の渡辺大五郎。師匠高見山の停年直前に引退、小野川を一時襲名後、停年退職と共に部屋を継承していた。
  • 土佐ノ海敏生(立川) - 止め鋏藤ノ川武雄:入門時の師匠で先代伊勢ノ海親方。相撲協会を停年退職していたため、本名の森田武雄。当初は藤ノ川が協会在職中の2011年5月場所後に開催される予定だったが、大相撲八百長問題の影響で2012年1月場所後に延期されていた(藤ノ川の停年は2011年9月場所後)。当代師匠北勝鬨準人も鋏を入れたが、後述する高見盛のように新旧師匠2人掛かりの止め鋏ではなく、別々に鋏を入れる形式であった。
  • 高見盛精彦(振分) - 止め鋏高見山大五郎:入門時の師匠で先代東関親方。相撲協会を停年退職していたため、本名の渡辺大五郎。高見山の退職からは4年が経過していたが、高見盛の希望か当代師匠潮丸の計らいか理由は不明。先に潮丸が半分ほど鋏を入れ、高見山が残りを切り落とすという流れだった。また断髪後の四方への礼は新旧師匠が揃って行われた。

師匠の疾病に伴う欠席[編集]

  • 竹葉山真邦(中川) - 止め鋏安念山治:当時の立浪親方。師匠廣川泰三が病気療養中で欠席したため、一門代表として立浪が止め鋏を入れた。宮城野親方は、竹葉山の断髪式直後に没した。
  • 起利錦利郎(立川) - 止め鋏藤ノ川武雄:当時の伊勢ノ海親方。師匠柏戸剛が体調を崩し欠席したため、師匠の弟弟子に当たる藤ノ川が止め鋏を入れた。鏡山親方は、起利錦の断髪式から数か月後に没した。

二枚鑑札・引退直後の部屋継承などに伴う師弟関係の消滅[編集]

  • 双葉山定次(時津風) - 止め鋏双川喜文?(双川喜一の息子[6]):双川喜一は大分県警察部で部長を務め、双葉山を立浪部屋に入門させた人物。四股名の由来ともなった。なお、双葉山は当時現役中ながら双葉山道場(のちの時津風部屋)を創設して独立していたが、師匠の立浪親方(緑嶌友之助)も鋏は入れたとされる。
  • 佐田の山晋松(出羽海) - 止め鋏出羽ノ花國市:当時の武蔵川親方。佐田の山現役時代は師匠だったが、引退と共に部屋を継承させ、出羽海から武蔵川になった。
  • 金剛正裕(二所ノ関) - 止め鋏十勝岩豊:当時の湊川親方。金剛の現役中に師匠佐賀ノ花勝巳が亡くなり直後に後継者が決まらず、湊川親方が暫定的に二所ノ関を襲名して、部屋を継承していた。後継者に正式決定した金剛の引退と同時に、十勝岩は名跡を譲り湊川に戻った。

引退力士本人の希望[編集]

  • 孝乃富士忠雄(年寄襲名なし) - 止め鋏北の富士勝昭:当時の陣幕親方で入門時の師匠。孝乃富士の現役晩年に、北の富士は千代の富士貢に部屋を譲って、九重から陣幕となった。断髪式当時に、師匠が健在かつ協会在職中でありながら、師匠以外の人物が止め鋏を入れることは当時極めて異例だったが、孝乃富士自ら「止め鋏は前師匠の北の富士に入れて欲しい」と希望し、実現した。
  • 光法賢一(安治川) - 止め鋏竹葉山真邦:当時の熊ヶ谷親方で入門時の師匠。光法の現役晩年に、金親和行に部屋を譲って、宮城野から熊ヶ谷となった。前述の孝乃富士同様に断髪式当時、師匠が健在かつ協会在職中でありながら、師匠以外の人物が止め鋏を入れることとなった。

師匠の不祥事[編集]

引退相撲を伴わない断髪式[編集]

部屋主催の断髪式[編集]

関取に30場所以上在位した力士は、両国国技館にて引退相撲を行うことができるが、この条件を満たさずに引退した力士は、国技館の大広間等を借りたり、部屋の千秋楽後の打ち上げパーティーのプログラムに組み込んだりして、引退相撲を伴わない断髪式を行うケースが一般的とされる(後者は主に関取在位歴がない力士の場合)。この条件を満たした上で引退し年寄を襲名した力士の中にも、経費の問題などから、断髪式のみを行うケースも多く見られる。

このような形式で土俵以外で断髪式を行う場合は、女性も出席して鋏を入れることができる。

2000年代以降、引退相撲を伴わない断髪式においても、国技館の土俵を使用するケースも多々見られる。

その他、特殊な形式で行われた断髪式に、次のような例も存在する。

  • 元大関・把瑠都は、引退相撲にすると観覧チケットが高価になってしまうという考えから「公開形式の断髪式」(引退相撲から関取衆の取組を省略)という方法を実施した[8]
  • 元幕内・常の山は「ここが私の原点である」との理由から部屋の稽古土俵で断髪式を行った[9]
  • 三段目で弓取り力士だった千代の花は、千秋楽当日まで国技館、打ち上げパーティーの会場で弓取りを行い、直後に断髪式を行った。
  • 元小結・宮錦(のちの年寄・芝田山)は引退直後、翌年の職務分掌で勝負検査役(現・勝負審判)に抜擢される事が決まったため、引退相撲を行わず、急きょ部屋で断髪式を行った。

有志による断髪式[編集]

師匠(もしくは角界関係者)と喧嘩別れをしたり、不祥事を起こした(もしくは巻き込まれた)りしたことを理由に引退した場合、師匠に断髪式の開催及び出席を拒まれることが大半であり、このような形で引退した力士は、師匠以外の有志に断髪式を開催して貰うケースが多い。以下に過去の実例を示す。

  • 1954年9月場所14日目に引退し、年寄・錦戸を襲名した第40代横綱・東富士は、錦戸の年寄株を双見山又五郎が所有していたことを知らずに襲名してしまったために立浪から苦情がつくなど、一門間での争いに巻き込まれたことを理由に、1954年12月に廃業した。人柄を惜しんだ双葉山(当時の年寄時津風)が角界に残れるよう便宜を図るが、一門同士の隔たりが大きかった時代もあって、双葉山をもってしても叶わず引退相撲も行われなかった。断髪式を行った具体的な時期は不明とされるが、プロレスに転向して間もない時期にサンケイホールで行われ、止め鋏は同様に力士を廃業してプロレスラーとなっていた力道山光浩が入れたとされる[10]
  • 1975年に勃発した二所ノ関部屋の後継者問題がこじれ、押尾川部屋への移籍を認められなかったことを不服として、1976年9月場所後に引退してプロレスに転向した元幕内・天龍は、それから間もなく入門した全日本プロレスの興行で断髪式を行った。止め鋏は全日本プロレスの社長だったジャイアント馬場が入れた。奇しくもその会場は、旧両国国技館日大講堂であった。この断髪式はプロレスファンに今一つ理解が得られなかったようであり、2階席の後方から野次が飛んだという。
  • 1987年11月場所後の12月31日、当時の師匠安念山治らと衝突、部屋を飛び出したまま廃業した第60代横綱・双羽黒の断髪式は「北尾光司君を励ます会」という名目で、1988年の3月上旬に東京都内のホテルで行われた。3月場所の直前ということもあり、立浪親方を初め大相撲関係者は誰一人出席せず、止め鋏は双羽黒の実父が入れた。
  • 1997年9月場所後、同じく師匠隆の里俊英と衝突し、失踪したまま引退届を提出した元幕内・力櫻の場合、断髪式は「力櫻断髪の会」という名目で、親しい関係者有志がそれぞれ集まり、止め鋏は小錦八十吉(当時の年寄佐ノ山)が入れた。
  • 2006年9月場所中に対戦相手(勢翔太)に暴行を加え当時の師匠琴ノ若晴將に引退を勧告された元十両・琴冠佑の断髪式は同年10月7日に中央区銀座東武ホテルで行われたが、止め鋏は引退後の勤務先の社長が入れた[11]。角界関係者は寺尾常史(年寄錣山)及び他1名が出席したとされる。
  • 2008年8月に大麻取締法違反の疑いで逮捕起訴猶予)され解雇となった元幕内・若ノ鵬の断髪式は2009年2月1日に行われたが、こちらにも師匠二代目若乃花幹士を初め大相撲関係者は誰一人も出席せず、止め鋏を入れた人物も不明とされる。
  • 元幕内・大日ノ出及び元十両・魁道も断髪式を行ったものの、止め鋏を入れたのは各人の師匠ではなく、前者は母校・日本大学の恩師(当時の相撲部監督)である田中英壽、後者は実父であったが、いずれも師匠が止め鋏を入れなかった理由は不明とされる。

断髪式を行わずに髷を切った例[編集]

力士のシンボルでもある髷を切るということは力士でなくなることを意味するが、日本相撲協会と袂を分かったり現役生活の続行を断念したりする決意を明示すべく、断髪式を経由せず力士本人が自主的に髷を切るケースも見られる。しかし、自主的に髷を切る行為により直ちに引退・廃業が成立することはなく、髷を切っても引退届が提出されていない場合は、現役力士を続行する権利は残り、実際に自主的に髷を切ったものの、引退届が提出されず本場所に帰参して、後に関取に昇進した例も多々存在する。

引退と同時期の自主断髪[編集]

  • 1923年1月、26代横綱・大錦三河島事件が自らの手で解決できなかったことに責任を取る意味で、その手打ち式の最中に別室で髷を切った。同時に大錦は相撲界を去ることを表明した。
  • 1932年1月、関脇・天竜及び大関・大ノ里らは春秋園事件で相撲協会に対し改革を訴えたが、協会が拒否したため、天竜の主導で事件に参加した関取48人及び取的24人のうち、関脇・出羽ヶ嶽を除く全員が髷を切った。大半の力士がそのまま正式に脱退(廃業)したが、後述の通り、22名は事件から1年後の1933年1月場所に帰参した。
  • 1950年9月場所前に突然廃業した関脇・力道山も断髪式は行わず、自ら髷を切った。師匠玉ノ海梅吉との金銭トラブルもあったとされている[12]
  • 1963年5月場所に入幕した幕内・逆鉾は入幕以降に私生活が乱れ出し、同年秋の準場所開催中に井筒部屋の宿舎から失踪。暫くして発見されたものの、11月場所前に自ら髷を切り、その姿で公の前に現れた。この時点で逆鉾に帰参する意思はなく、そのまま廃業した。
  • 1988年9月場所14日目を二日酔い[13]で休場した幕内・南海龍は、同場所の終了直後、師匠朝潮太郎からの「酒と相撲、どっちを取るんだ。」という詰問に対し「酒は絶対にやめられない。」と言い残し、故郷西サモアに帰国。髷をほどきソバージュにし、アロハシャツ姿で帰国の便に搭乗したという。廃業届は同年10月7日に受理された[14][15]。帰国後に散髪をしたと見られ、1990年新日本プロレス藤波辰爾が結成したドラゴンボンバーズに参加した際は短髪になっていたという。
  • 2008年9月に大相撲力士大麻問題で解雇された元幕内・白露山は、地位保全の訴訟に敗れて角界復帰を断念した折に祖国のロシアへ向かう飛行機の中で自ら髷を切ったが、極めて薄毛であったために素手で引っこ抜いたという。同時に解雇された実兄・露鵬も同様に公的な断髪式は行ったとされていない。
  • 2011年大相撲八百長問題で職務停止2年の処分を受けた元幕内・春日錦(当時は既に引退して年寄・竹縄)は、処分決定後退職届を提出し、同年5月1日に断髪式を行う予定だったがこれを固辞し、自ら理髪店に赴き髷を切った。同様に引退勧告を受けた元幕内・市原(引退時は清瀬海)及び元十両・保志光も公的な断髪式を行ったことは確認できていない[16]
  • 元関脇・阿覧は健康上の問題で限界を悟って2013年9月場所出場を最後に同年10月8日付で引退したが、三保ヶ関部屋関係者以外には全くと言っていいほど引退を知らせておらず、その影響からか公的な断髪式は行わず、自主的に髷を落として帰国した。引退届の提出からわずか2日後に断髪して帰国まで済ませたという極めて一連の動きが手早い例であった。
  • 元幕内・大砂嵐2018年1月3日に自動車事故を起こした件について、日本相撲協会及び師匠大竜忠博への報告を怠ったこと、有効な国際運転免許証が失効していたこと[17]、発覚当初に虚偽の説明をしていたことなどの悪質性を受けて、同年3月9日に日本相撲協会より引退勧告の処分が下され、即日引退を表明した。同年3月29日には師匠が大砂嵐の断髪式を行わない意向を明かし[18]、その意向通り、同年4月1日未明にTBSで放送された『オールスター後夜祭』に『ガチ相撲トーナメント』のサプライズ出場者として出演した際には、既に自主的に断髪を済ませていたと見られ、頭髪をスキンヘッドにして髭を蓄えていた。

自主断髪後の帰参[編集]

  • 後の大関・清水川元吉1926年1月場所で小結に昇進した時期から人気に溺れて乱酒と放蕩に身を持ち崩し、極道(交際女性の兄)が絡む事件を起こし、本場所を放棄し続けた結果、1927年には師匠小錦八十吉から破門を言い渡された[19]。翌年には白川義則陸軍大将の書を持参して日本相撲協会へ復帰を要請したが、門前払いを受けた。帰郷後に頭を丸め、父に伴われて上京し、再度の嘆願を試みたがここでも許されず、父は帰郷後に復帰を嘆願する心血こめた遺書を協会に送り自殺した。これを受けて、師匠が懇意にしていた殿り卯三郎(当時の年寄・荒汐)や、右翼頭山満杉山茂丸などの有力者が清水川の角界復帰を後押しする動きを見せたことで、協会もようやく復帰の是非を問う評議会を開催した。当初出席者の大半は復帰に反対したが、両国梶之助(当時の年寄・出羽海)が「命を殺しての嘆願が、将来、二度とあるか」と反対意見を一蹴し、清水川は1928年10月場所において十両最下位格で復帰するはこびとなった。上述の通り、嘆願活動において自主断髪を行ったため、復帰直後は丸刈り頭で出場した。
  • 上述の春秋園事件で天龍と共に髷を切った力士のうち、綾櫻鏡岩朝潮をはじめとする21名(及び唯一髷を切らなかった出羽ヶ嶽)は、事件から1年後の1933年1月場所に帰参した。その大半は帰参直後には髷が結える程に髪が伸びておらず、ザンバラ頭で土俵に上がったとされる。
  • 後の関脇・玉乃海太三郎幕下時代の1940年に、巡業先の上海で、泥酔して憲兵に暴力を振るいしかも倒してしまい、駆けつけた他の憲兵に拳銃を抜かれる騒ぎを起こした。当時大関羽黒山政司と当代師匠玉ノ海梅吉が懸命に詫びを入れたことで射殺は免れたものの、この取成しが相撲協会からの破門を条件として成されたため、除名となった。処分が除名であった関係上、断髪式は行わず自主的に断髪したとされる。その後は海軍軍属としてトラック諸島テニアン島ガダルカナル島の飛行場建設に従事した。マラリアアメーバ赤痢にかかり命の危機に瀕したが、これも生き延び、病状回復後は徴兵検査を受け陸軍二等兵として陸軍に入営。1947年復員船で帰国後数年間は、故郷の大分や愛媛県野村町でアマチュア相撲のコーチをして暮らしていた。1950年のある日に入門時の師匠玉錦三右エ門の夢を見て角界への復帰を望み始めた矢先に、玉ノ海から破門の解除に伴い帰参を認める旨の連絡を受け、1950年5月場所より幕下格で帰参した。
  • 後の大関・松登晟郎は幕下時代の1948年12月に家業の不振を気に病む余り実家に帰り髷を落としてしまった。しかし、師匠高登渉から説得され帰参を決意。それから半年後の1949年5月場所で新十両となったが、十両昇進当初はザンバラ頭で土俵に上がった[20]
  • 後の関脇・岩風角太郎は三段目時代に同期生の栃光に大きく差を付けられ、廃業を決意し、床屋で髷を切った。その直後、実家に居たところを兄弟子に見つかり部屋に連れ戻され、親方に説得され廃業を撤回した。断髪後の場所には丸刈り頭で土俵に上がった[21]
  • 後の前頭筆頭・淺瀬川健次は三段目時代に廃業を決意し、理容師見習の実弟に髷を切らせたが、若瀬川泰二(当時の年寄・浅香山)の説得を受け入れて帰参した[22]
  • 1964年9月場所を新十両で迎えた八竜鉄右エ門は、場所前の稽古で下半身を故障させ、失意の余り廃業するつもりで自ら髷を切ってしまったが、帰参して新十両の場所は丸刈り頭で出場した[23]
  • 後の関脇・麒麟児和春も幕下時代に生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した挙句に自ら髷を切って脱走したが、直後に師匠佐賀ノ花勝巳から寛容な態度で説得され、帰参して以降は熱心に稽古をするようになった。
  • 後の小結・大豊昌央は三段目時代に右肩を負傷したり、体重の増加に苦心したりしたことで廃業を決心し実家に帰ったが、実父の説得を受け帰参した。その際に実父は大豊に反省の意を込めて髷を切るよう命令し、大豊もこれに同意したとされる。
  • 1978年3月場所を東十両9枚目で迎えた元幕内・小沼克行は、場所前にかねてからの低迷を師匠柏戸剛に咎められたことを憤る余り自ら髷を切ってしまい、当場所をザンバラ髪で出場した[23]
  • 後の幕内・力櫻猛は上述の失踪行為以前、幕下時代にも門限に遅れたことを師匠隆の里俊英に叱責され、反省の意を示すべく髷を切り落とした。
  • 後の前頭筆頭・琴龍宏央も幕下時代の1993年5月場所で7戦全敗を喫した際に嫌気がさして自ら髷を切って脱走したが、後に帰参して現役を続けた。
  • 後の十両・鶴ノ富士智万も三段目時代に体重の増加に苦心したことに嫌気がさして自ら髷を切って脱走したが、後に帰参して現役を続けた。

治療を目的とした自主断髪[編集]

頸椎の負傷(頸椎ヘルニア頸椎骨折など)や脳の負傷(脳挫傷脳出血など)で手術を伴う治療を要する場合や、重症の頭皮疾患(円形脱毛症など)の場合、髷を残したまま治療を続行することは物理的に不可能とされるため、力士が現役中にこれらの治療を要する状況に陥った際は、自主断髪を余儀なくされる。力士がこのような経緯で髷を切る場合は、引退を前提としない(競技復帰を想定している)関係上、形式上の断髪式は行わないことが一般的とされる。後に関取に在位した力士が治療の為に自主断髪を行った前例は存在しないが、2004年3月場所から2012年5月場所まで東関部屋に所属した元三段目太閤丸豊は、後者の理由で入門直後に自主断髪をし、全ての力士生活をスキンヘッドのまま過ごし、話題となった。

引退後長期間髷を残した例[編集]

  • 1901年1月場所を最後に現役を引退して年寄・二十山を襲名、二十山部屋を創立した17代横綱・小錦は、引退後も7年間髷を付けたまま勝負検査役取締役に就任した。腰が低く、誠実・真面目な人柄で平年寄と変わらぬ働き振りであったため人望を集めたとされる。なお、髷を切った具体的な時期・断髪式の実施の有無は不明とされる。
  • 1977年9月場所を最後に廃業した元十両・力駒は、直後の1977年11月26日に師匠吉葉山潤之輔が死去したため、「師匠に止め鋏を入れていただかないと髷を落とせない」と言い続け、廃業以降20年以上に亘り髷を残し続けた。50歳の時に行った“20年越しの断髪式”では、先々代の遺影が見守る中、現役時代の弟弟子で当時の宮城野部屋師匠竹葉山真邦が止め鋏を入れた。
  • 1981年11月場所で廃業した元幕内・大旺は、師匠初代若乃花幹士とその娘婿だった2代目若乃花幹士との対立に巻き込まれる形で断髪式が行われなかった。大旺は髷をつけたまま相撲料理店を開き「一国一城の主になったら髷を切る」というつもりだったが、逆に髷が店のシンボルになったため「切るに切れない」状況になってしまった。しかし、2014年、相撲協会の停年にあたる65歳を前に断髪をした。
  • 2010年大相撲野球賭博問題で解雇処分になった元大関・琴光喜は、解雇後、日本相撲協会を相手取って「地位保全」を裁判所に訴えていたが、敗訴が確定。2015年2月7日に都内のホテルで「けじめをつける」という意味で断髪式を行った。断髪式には師匠の佐渡ヶ嶽こそ姿を見せなかったものの、白鵬日馬富士鶴竜の当時現役の3横綱、弟弟子の大関・琴奨菊など350人が鋏を入れ、当時相撲協会の理事を任務していた貴乃花光司が止め鋏を入れた[24]。元大関とはいえ、不祥事で解雇された力士の断髪式に現役の横綱・大関、さらに協会の理事も出席したというのは上述の例と比べても異例であった。
  • 2011年の大相撲八百長問題で八百長に関与したとして引退勧告処分を受けたものの関与を否定し、引退届を提出しなかったため解雇処分になった元十両・星風も、解雇後に日本相撲協会を相手取り、力士としての地位確認と慰謝料を求める訴訟を起こしたが、2012年5月24日の第一審で敗訴。同判決が下された後の記者会見では、髷をほどいた総髪姿だったため、少なくとも解雇から約1年2ヶ月間は髷(が結える長さの頭髪)を残していたと見れる[25]。最終的に2013年10月29日付で上告が退けられたことで、解雇が確定した[26]2014年2月24日にはIGFに参戦を表明し、デビュー日も発表されたが[27]、同日の記者会見では短髪になっていた。断髪式の実施の有無は不明とされる。

ライフイベントの一環としての断髪式[編集]

結婚式・披露宴と同時に断髪式を行った例[編集]

  • 昭和以降の最高齢力士だった高砂部屋の一ノ矢(最高位・三段目6枚目)は46歳11ヶ月で迎えた2007年11月場所限りで引退し、翌2008年2月2日に自身の結婚式のプログラムの一環として断髪式を行った。結婚式の前半では大銀杏姿を披露し、式典の途中に組み入れられた断髪式では新婦(当時40歳の雑誌編集者)も鋏を入れた。
  • 2011年大相撲八百長問題で引退勧告を受け、引退した元小結・白馬2008年10月に時天空の実妹と結婚、2009年3月には長女が誕生していた。その後、幕内定着・三役昇進を遂げて結婚披露の時機を見計らっていた矢先に処分を受けたため、処分から間もない2011年6月18日に断髪式と結婚披露宴を同時に行うはこびとなった[28]
  • 2012年5月場所で、幕内在位経験者として初めて序ノ口まで陥落し、同場所を全休して場所後に引退した琉鵬(最高位・前頭16枚目)は、同年9月15日に同郷の女性と結婚し、同月30日に東京都内のホテルで結婚披露宴を兼ねる形式で断髪式を行い、当時の大関・鶴竜を含む約200名の披露宴出席者も鋏を入れた。
  • 2014年1月場所限りで引退し、直後に同い年の女性と結婚した元十両・琴国は、同年4月27日にホテルイースト21東京にて断髪式と結婚披露宴を同日に行ったが[29]上述の3力士と異なり、式典の一環に断髪式を組み込む形ではなく、同一の会場で前半に断髪式・後半に結婚披露宴と、それぞれ分離する形式で行われた[30]
  • 2016年1月場所限りで引退し、年寄・安治川を襲名した元前頭筆頭・土佐豊は引退直後にマジシャン・小泉エリとの婚約を発表し、同年3月に入籍した。借株であった関係上、引退相撲を伴う断髪式は行わず、当初から断髪式と結婚式を同日に行う計画がなされていた。上述の琴国と同様に、同一の会場で前半の断髪式と後半の結婚式を分離する形式で、2016年10月2日に行われた[31]

病床での断髪式[編集]

  • 元小結・大翔鳳は、1999年3月場所後の精密検査の結果、膵臓癌が発見され、闘病のため同年6月11日付で引退し準年寄・大翔鳳を襲名。引退相撲を伴う断髪式を予定していたものの、闘病が長引く見込みだったことから「時機を逸するといけないから」として、日本大学時代の同級生で親友でもあった舞の海らによって、1999年10月3日に高輪プリンスホテルで急遽断髪式が行われ、自身の引退直前に7代立浪を襲名し部屋を継承した旭豊勝照が止め鋏を入れた。闘病の影響からか、140キロ以上あった体重は90キロ程までに激減し、断髪式当日には髷がなければ元力士とは思えないほどに痩せていた。整髪後の挨拶では病気の克服を出席者の前で誓っていたが、その断髪式からわずか2か月後の同年12月4日、治療の甲斐もなく膵臓癌により32歳の若さで没した。
  • 元小結・時天空も、2016年1月場所前に、悪性リンパ腫で当面の間抗がん剤の投与による入院加療を要するとの診断が下されたことが公表された[32][33]。これにより当場所以降休場を続けた。療養中は土俵への復帰の希望を持ちつつ、抗がん剤治療の副作用で髪が抜けることを覚悟し、2015年11月場所前に、入門当初の師匠豊山勝男をはじめ、当代師匠時津海正博、母校・東京農業大学相撲部総監督、そして家族ら数人が見守る中、病室でひっそりと“復活を願っての断髪式”が行なわれた[34]。以降、療養に専念も、2016年9月場所前には復帰を断念し現役を引退し年寄・間垣として後進の育成を行う事となった。上述の経緯もあり、引退会見には髷頭に紋付袴姿ではなく、丸刈り頭にスーツ姿で応じていた[35]。引退後は年寄として業務に当たったが程なく病状が悪化、翌2017年1月31日午前1時12分、悪性リンパ腫により37歳の若さで没した[36]
  • 元幕内・翔天狼も、日本国籍取得直後の2017年9月場所を休場。同年の夏からを患っていることが白鵬によって公表された[37]。2017年12月28日付で引退し、年寄・春日山を襲名して藤島部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たる事となった。引退会見は行わず、暫しの療養専念期間を経て2018年3月に年寄の職務に復帰したが、その期間中に抗がん剤の副作用で頭髪が少なくなり「少しでも残っているうちに」と部屋の床山を呼び、残った僅かな頭髪で大銀杏を結って貰い、直後に「2人きりの断髪式」を行った[38]

その他[編集]

物理的に断髪式が行えなかったケース[編集]

力士が現役中に没した場合、物理的に断髪式が行えない関係上、51代横綱・玉の海正洋や幕内・龍興山一人がそうであったように、髷を残したまま納棺されるケースが一般的とされる。前例は不明であるが、髷を残した年寄が没した場合も同様とされる。

  • 1998年3月10日汎血球減少症による肺出血のため現役力士の身分のまま30歳の若さで没した元小結・剣晃敏志は、病名が判明する前の1997年5月場所後に大阪市内の病院に入院し、同年7月場所以降一度も出場することなく全休を続けた。病名が判明して以降治療に専念していたが、その間に抗がん剤の副作用で髪が全て抜け落ちてしまい、断髪式を行えなかったとされる。

エピソード[編集]

  • 1986年7月場所を最後に引退し、年寄・不知火を襲名した元関脇・青葉城は切り取った髷を断髪式の直後に「未練は無い」と言い放った上で、両国国技館のゴミ箱に惜しげもなく破棄した。
  • 2001年1月場所後に引退した元十両・梅の里の断髪式は、当時の師匠富士錦猛光が病気により出席できず、当時部屋付きの錦戸親方で実兄でもある水戸泉政人が止め鋏を入れた。当時、水戸泉も現役を引退して4ヶ月しか経っておらず、自身の引退相撲も終えていなかったため、髷が残った年寄が止め鋏を入れるという一見不思議な写真が相撲誌に掲載された。
  • 2004年9月場所10日目の取り組みを最後に引退した元十両・琴岩国の断髪式も同様の理由で当代師匠琴櫻傑將ではなく、当時現役だった兄弟子・琴ノ若晴將が止め鋏を入れた[39]
  • 2016年11月場所を最後に引退し、年寄・荒磯を襲名した元幕内・玉飛鳥の断髪式では、国技館の土俵上で行われ、師匠玉春日良二による止め鋏の際に、玉飛鳥の長男も急遽土俵に上がり、玉春日と“共同”で止め鋏を入れた。
  • 2016年10月に春日山部屋の名跡継承騒動に伴う師匠辞任勧告が生じ、2016年10月19日に当代師匠濱錦竜郎がそれを受諾して春日山部屋の閉鎖が決定した際は、これを受けて所属力士23人中12人が日本相撲協会へ引退届を提出し、保留期間を経て同年11月場所終了後の11月30日に12人全員の引退届が正式に受理された。同年12月23日には川崎市内のホテルにて、上述12人とは別に引退の意向を表明した2人を加えてた力士14人の合同断髪式が行われた[40]。当該14人は春日山部屋閉鎖に伴い、登録上追手風部屋の預り弟子となっていたものの、止め鋏は当代師匠大翔山直樹ではなく春日山部屋の前師匠濱錦で、しかも14人もの多人数の断髪式を同時に行うという、異例尽くしの断髪式としてスポーツ紙各社に報道された。

脚注[編集]

  1. ^ 全国こども電話相談室 スポーツ TBS 2016年6月1日閲覧
  2. ^ 第四十八代横綱 大鵬を偲んで インターネットミュージアム内写真 2016年6月1日閲覧
  3. ^ 水島新司は『風雲!たけし城』にゲスト出演した際、プロ野球パ・リーグの順位予想を行いこれが外れたため、二度目のゲスト出演に際して頭を丸めたが、当日の新聞テレビ欄には「断髪式」との文が書かれた。
  4. ^ 1946年の横綱双葉山1950年の横綱前田山の断髪式では土俵中央に正座しているが、1953年の横綱照國、翌1954年の横綱羽黒山の断髪式では椅子に座っている。双葉山と羽黒山については、画像も参照のこと。
  5. ^ 千代大海の母美恵さん断髪式ではさみ 2010年10月3日 日刊スポーツ紙面
  6. ^ 日本相撲協会映画部制作の映画『双葉山物語』より。「双葉山育ての親・双川喜一氏に代わって、令息が最後の鋏を入れる」というナレーションで、長男の喜文とは断定できず。
  7. ^ “現役の時津海が引退し、時津風を襲名「何も言えない」”. 朝日新聞. (2007年10月9日). http://www.asahi.com/special/071005/TKY200710090455.html 2016年6月4日閲覧。 
  8. ^ 角界史上初!!把瑠都が公開断髪式 Daily Sports Online 2013年12月10日
  9. ^ 通常であれば稽古土俵での断髪式は幕下以下の力士が行うもの。
  10. ^ 斎藤文彦 (2016年9月20日). 昭和プロレス正史(上巻)356ページ. イースト・プレス. 
  11. ^ 元十両琴冠佑が断髪式・式には部屋の親方や力士は出席せず 2006年10月7日 サンケイスポーツ
  12. ^ 増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』より。
  13. ^ 当初は「腹痛」を休場の理由としたが、直ちに虚偽と発覚した。
  14. ^ 1988年11月場所の番付編成会議終了後に廃業届が提出された関係上、同場所の番付には南海龍の四股名は掲載されたが、廃業届の提出に先立ち、高砂一門での話し合いや、当代理事長初代若乃花幹士への相談の結果「番付にはそのまま記載するが、仮に戻って来ても出場はさせない」という処遇が決定していた。
  15. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p23
  16. ^ 清瀬海は両国の理髪店で断髪し、落とした髷は「そんなもん捨てて下さい」と理髪師に頼んで捨てて貰った。 - 「挫折」の受け止め方 元幕内力士 清瀬海(市原孝行) アサ芸+ 2012年5月17日
  17. ^ “大砂嵐「運転した」=無免許容疑、県警が捜査-長野” (日本語). 時事ドットコムニュース. 時事通信社 (東京: 時事通信社). (2018年1月22日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2018012200973&g=spo 2018年1月22日閲覧。 
  18. ^ 元大砂嵐の師匠・大嶽親方 処分対象外も給与の一部自主返納 Sponichi Annex 2018年3月30日 05:30 (スポーツニッポン新聞社、2018年4月4日閲覧)
  19. ^ 番付には1928年1月場所まで掲載された。
  20. ^ 「歴代大関大全」86頁。 ベースボールマガジン社 2008年。
  21. ^ 「戦後新入幕力士物語」第2巻 92頁。
  22. ^ 淺瀬川はその後正式に引退し、年寄・浦風を襲名。1971年10月3日蔵前国技館にて引退相撲を伴う正式な断髪式を行い、その際に切り落とした髷は現在、本人が経営するちゃんこ料理店・「ちゃんこ浅瀬川」の店内に飾られている。
  23. ^ a b 八竜及び小沼は、自主的に髷を切った直後には帰参し本場所にも出場したものの、髷を切るまでに至った原因(負傷・師匠との確執)はその後も払拭できず、1年も経過しないうちに正式に廃業した。
  24. ^ 元大関琴光喜が断髪式 横綱ら350人出席 nikkansports.com 2015年2月7日
  25. ^ 請求が退けられ、記者会見する大相撲元十両星風のボルド・アマラメンデ氏 ― スポニチ Sponichi Annex スポーツ(2012年5月24日付 )”. 2018年5月13日閲覧。
  26. ^ 大相撲の八百長問題 元星風の解雇有効が確定 スポーツニッポン 2013年10月30日
  27. ^ 日刊スポーツ 元十両の星風4月IGFで格闘家デビュー(2014年2月25日掲載) 2014年2月25日閲覧。
  28. ^ 元小結白馬が結婚式で断髪式 2011年6月18日付 日刊スポーツ
  29. ^ 元十両琴国が断髪式&結婚披露宴 nikkansports.com 2014年4月27日20時48分
  30. ^ 「元十両・琴国 結婚披露宴・断髪式」”. 青木工務店. 2018年5月11日閲覧。
  31. ^ 元幕内の土佐豊、断髪式&披露宴 3月にタレント・小泉エリと結婚 2016年10月2日付 スポーツニッポン
  32. ^ 時天空、悪性リンパ腫で闘病中「頑張って克服したい」 スポーツニッポン 2016年1月8日閲覧
  33. ^ 時天空、悪性リンパ腫のため闘病中 病状は回復傾向 スポーツ報知 2016年1月8日閲覧
  34. ^ ライター・武田葉月の記事「病室での断髪式。異色のモンゴル出身力士・時天空、涙の引退秘話」より。
  35. ^ 元時天空の間垣親方が引退会見「生きていくため」治療に向き合う Sponichi Annex 2016年8月30日 05:30
  36. ^ “元小結時天空の間垣親方が悪性リンパ腫で死去37歳”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2017年1月31日). http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1772502.html 2017年1月31日閲覧。 
  37. ^ 元幕内翔天狼、がん闘病中…力士会から見舞金”. 2018年4月5日閲覧。
  38. ^ 【絆トーク】がん闘病中の春日山親方が床山と行った2人きりの“断髪式” - サンスポ”. 2018年6月12日閲覧。
  39. ^ 琴ノ若は既に、13代佐渡ヶ嶽として部屋を継ぐことが内定しており、12代佐渡ヶ嶽が療養中は師匠の代理を務めていた。その時期と琴岩国の引退が重なった結果、現役力士が断髪式の止め鋏を入れるという珍事につながった。
  40. ^ 旧春日山の14力士が断髪式 師匠辞任で部屋消滅”. 2018年4月22日閲覧。

関連項目[編集]