断髪式

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断髪式(だんぱつしき)とは、大相撲引退した力士がそのシンボルともいえる大銀杏を切り落とす儀式のことを言う。切り落とされた大銀杏は、一般にはガラスケースに入れて保存される。相撲博物館で展示されることもある[1][2]。転じて、近年は芸能人[3]などの力士ではない人が単にの毛を何らかのけじめとして切り落とすことの比喩表現としても少数使われている。

事例[編集]

引退相撲での断髪式[編集]

通常、引退に際し年寄名跡を襲名した力士の場合、引退相撲(「○○(力士名)引退 ○○(年寄名)襲名披露大相撲」と銘打たれて開催されることが通例)において、引退した力士の家族、後援者、恩人、友人らが次々と土俵に上がって、紋付羽織袴姿で座っている引退力士のに少しずつを入れ、最後に師匠に当たる親方が髷を切り落として終了となる。現在では引退力士は椅子の上に座るが、昭和20年代中頃までは土俵の上に正座していた[4]。また土俵の上はロールシートがT字型に敷かれるが、2000年代からはレッドカーペットをイメージした赤いシートが使われることが多い。

力士によっては300人以上が鋏を入れることもあるが、2003年5月場所後に引退相撲を行った貴乃花の場合は、本人の希望もあって、相撲協会関係者、息子、実兄で横綱だった花田勝ら親戚、同期生である魁皇ら50人に留まっている。

土俵上は女人禁制ゆえに、男性のみが鋏を入れる為に土俵に上がることができる。しかし2010年9月場所後に引退相撲及び断髪式を行った千代大海が自身の希望に基づき実母に鋏を入れて貰うべく断髪式の途中で土俵を降り、土俵下で鋏を入れて貰う演出[5]がなされて以降、同様に断髪式の途中で土俵を降りたり、土俵の隣に設けたステージに移動したりして、女性に鋏を入れて貰う演出が多く見られるようになった。

断髪式は引退力士にとって、長年頭の上にあった髷がなくなるため、「本当に大相撲から引退してしまうのだな」という気持ちや、今迄の相撲人生において沢山の想い出が甦るという理由からか、引退時記者会見ではさっぱりとした表情で話をしていた力士であっても、ほとんどの場合感極まって目から大粒の涙を流してしまう場合が多い。

整髪、着替え後は、一種の「お約束」として夫人や母親、娘にネクタイを整えて貰うパフォーマンスを求められることが多い。玉乃島(断髪式時点で独身)は同部屋同期生の玉飛鳥が夫人役を買って出て笑いを取っていた。

引退相撲は原則として毎年1・5・9月の本場所終了後の1週間後の土日に両国国技館で開催される。また横綱・大関など人気力士の断髪式、披露パーティーの模様ともなれば、当日にテレビ中継されることもある。

双葉山の断髪式。鋏を入れる羽黒山(1946年11月19日)。 
羽黒山の断髪式。鋏を入れる時津風(双葉山)(1954年1月30日)。 

断髪式開催当時の師匠以外が止め鋏を入れた例[編集]

本来、引退当時の師匠が年寄名義で止め鋏を入れるものであるが、何らかの理由により不可能となる場合がある。その場合は別の年寄(もしくは元年寄)が代理を務める。引退から断髪式の間に師匠が退職したことにより師弟関係が消滅した場合、元師匠が個人名義で止め鋏を入れることもある。以下にその実例を理由別に挙げる。四股名の後ろには断髪当時襲名していた年寄名跡を記す。

師匠の死去[編集]

  • 鏡岩善四郎(粂川) - 止め鋏不明:現役中に師匠鬼竜山雷八が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。
  • 玉ノ海梅吉(二所ノ関) - 止め鋏不明:現役中に師匠玉錦三右エ門が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。
  • 羽黒山政司(立浪) - 止め鋏双葉山定次:当時の時津風親方。現役中に師匠緑嶌友之助が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していたため、立浪部屋の兄弟子に当たる双葉山が止め鋏を入れた。
  • 栃錦清隆(春日野) - 止め鋏常ノ花寛市:当時の出羽海親方。現役中に師匠栃木山守也が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していたため、一門代表として常ノ花が止め鋏を入れた。
  • 松登晟郎(大山) - 止め鋏前田山英五郎:当時の高砂親方。師匠高登渉が松登の引退相撲直前に亡くなり、部屋を継承したため、一門代表として前田山が止め鋏を入れた。
  • 琴櫻傑將(佐渡ヶ嶽) - 止め鋏佐賀ノ花勝巳:当時の二所ノ関親方。師匠琴錦登が琴櫻引退直後に亡くなり、部屋を継承したため、一門代表として佐賀ノ花が止め鋏を入れた。
  • 輪島大士(花籠) - 止め鋏若乃花幹士:当時の二子山親方。師匠の大ノ海久光が輪島に花籠部屋を譲った後、輪島の引退相撲の直前に亡くなったため、花籠部屋の兄弟子に当たる初代若乃花が止め鋏を入れた。

師匠の退職もしくは廃業[編集]

  • 前田山英五郎(高砂) - 止め鋏朝潮太郎:入門時の師匠。前田山が大関の時に廃業し、二枚鑑札で継承させていたため、本名の薦田長吉。引退相撲が行われた当時健在のため、師匠として止め鋏を入れた。
  • 佐賀ノ花勝巳(二所ノ関) - 止め鋏不明:現役中に先代師匠(玉ノ海梅吉)廃業により、二枚鑑札で部屋を継承していた。ちなみに止め鋏を入れた人物は玉ノ海ではない。
  • 星岩涛祐二(陸奥) - 止め鋏豊山勝男:当時の時津風親方。師匠星甲良夫停年(定年。以下同)退職と共に引退し、部屋を継承していた。師匠は健在だったが(出席したかどうかは不明)、一門代表として豊山が止め鋏を入れた。
  • 琴ノ若晴將(佐渡ヶ嶽) - 止め鋏琴櫻傑將:相撲協会を停年退職していたため、本名の鎌谷紀雄。師匠である先代親方(琴櫻)の停年退職と共に引退し、部屋を継承していた。
  • 潮丸元康(東関) - 止め鋏高見山大五郎:相撲協会を停年退職していたため、本名の渡辺大五郎。師匠である先代親方(高見山)の停年直前に引退、小野川を一時襲名後、停年退職と共に部屋を継承していた。
  • 土佐ノ海敏生(立川) - 止め鋏藤ノ川武雄:入門時の師匠で先代伊勢ノ海親方。相撲協会を停年退職していたため、本名の森田武雄。当初は藤ノ川が協会在職中の2011年5月場所後に開催される予定だったが、大相撲八百長問題の影響で2012年1月場所後に延期されていた(藤ノ川の停年は2011年9月場所後)。当代師匠(北勝鬨準人)も鋏を入れたが、後述する高見盛のように新旧師匠2人掛かりの止め鋏ではなく、別々に鋏を入れる形式であった。
  • 高見盛精彦(振分) - 止め鋏高見山大五郎:入門時の師匠で先代東関親方。相撲協会を停年退職していたため、本名の渡辺大五郎。高見山の退職からは4年が経過していたが、高見盛の希望か当代師匠(潮丸)の計らいか理由は不明。先に潮丸が半分ほど鋏を入れ、高見山が残りを切り落とすという流れだった。また断髪後の四方への礼は新旧師匠が揃って行われた。

師匠の疾病に伴う引退相撲欠席[編集]

  • 竹葉山真邦(中川) - 止め鋏安念山治:当時の立浪親方。師匠の宮城野親方(廣川泰三)が病気療養中で欠席したため、一門代表として立浪が止め鋏を入れた。宮城野親方は、竹葉山の断髪式直後に没している。
  • 起利錦利郎(立川) - 止め鋏藤ノ川武雄:当時の伊勢ノ海親方。師匠の鏡山親方(柏戸剛)は健在だったが、体調を崩し欠席したため、師匠の弟弟子に当たる藤ノ川が止め鋏を入れた。鏡山親方は、起利錦の断髪式から数か月後に没した。

二枚鑑札・引退直後の部屋継承などに伴う師弟関係の消滅[編集]

  • 双葉山定次(時津風) - 止め鋏双川喜文?(双川喜一の息子[6]):双川喜一は大分県警察部で部長を務め、双葉山を立浪部屋に入門させた人物。四股名の由来ともなった。なお、双葉山は当時現役中ながら双葉山道場(のちの時津風部屋)を創設して独立していたが、師匠の立浪親方(緑嶌友之助)も鋏は入れている。
  • 佐田の山晋松(出羽海) - 止め鋏出羽ノ花國市:当時の武蔵川親方。佐田の山現役時代は師匠だったが、引退と共に部屋を継承させ、出羽海から武蔵川になった。
  • 金剛正裕(二所ノ関) - 止め鋏十勝岩豊:当時の湊川親方。現役中に師匠佐賀ノ花勝巳が亡くなった後も後継者は未定であり、正式決定までの間は湊川親方が暫定的に二所ノ関を襲名して、部屋を継承していた。後継者に正式決定した金剛の引退と同時に、十勝岩は名跡を譲り、湊川に戻った。
  • 徳瀬川正直(-) - 止め鋏黒瀬川國行:当時の桐山親方で入門時の師匠。徳瀬川が大相撲八百長問題で引退勧告処分を受け引退する直前に桐山部屋を閉鎖して、徳瀬川ら所属力士4人及び桐山親方は朝日山部屋に移籍していた。

引退力士本人の希望[編集]

  • 孝乃富士忠雄(-) - 止め鋏北の富士勝昭:当時の陣幕親方で入門時の師匠。孝乃富士の現役晩年に、北の富士は千代の富士貢に部屋を譲って、九重から陣幕となった。断髪式当時に、師匠が健在かつ協会在職中でありながら、師匠以外の人物が止め鋏を入れることは当時極めて異例だったが、孝乃富士自ら、「止め鋏は前師匠の北の富士に入れて欲しい」と希望し、実現した。
  • 光法賢一(安治川) - 止め鋏竹葉山真邦:当時の熊ヶ谷親方で入門時の師匠。光法の現役晩年に、金親和行に部屋を譲って、宮城野から熊ヶ谷となった。前述の孝乃富士同様に断髪式当時、師匠が健在かつ協会在職中でありながら、師匠以外の人物が止め鋏を入れることとなった。

師匠の不祥事[編集]

  • 時津海正博(時津風) - 止め鋏豊山勝男:入門時の師匠。相撲協会を停年退職していたため、本名の内田勝男。時津風部屋力士暴行死事件で、当時の時津風親方(双津竜順一)が警察に逮捕されたことにより、日本相撲協会から解雇処分を受けた。これを受けて関係者などの協議の結果、時津海が後継者に推されたことから急遽引退し部屋を継承した[7]

引退相撲を伴わない断髪式[編集]

引退相撲の基準に達しなかった場合や、達しても多額の経費の問題から、引退相撲を行わずに、国技館の大広間等を借りて断髪式を行ったり、関取まで上がれなかった力士の場合は、各部屋の千秋楽後の打ち上げパーティーの会場で断髪式が行われることが多い。その場合、土俵上ではないため女性も鋏を入れることができる。幕下以下の力士は取組で大銀杏を結うことは出来ないが、断髪式の時には結うことが許される。なお、引退相撲を伴わない断髪式の場合、参加資格者は慣習上角界関係者、部屋関係者、親族、友人に限られている。元大関・把瑠都は、引退相撲にすると観覧チケットが高価になってしまうという考えから、「公開形式の断髪式」(引退相撲から関取衆の取組を省略)という方法を実施した[8]

年寄襲名した力士でも、北桜(年寄小野川襲名、現・年寄式秀)のように、外部の会場で断髪式を行った者もいる。元前頭筆頭・琴龍(幕内通算51場所、準年寄として1年間在籍)、元前頭筆頭・朝乃若(幕内通算54場所、引退前の場所まで連続1145回出場、年寄・若松を取得)、元前頭筆頭・富士乃真(年寄錦戸襲名、現・陣幕)は引退相撲は行わず琴龍・富士乃真は国技館大広間、朝乃若は国技館土俵を利用して部屋関係者だけの独自の断髪式を行っている。

他にも井筒部屋の元小結・陣岳も引退後、年寄・春日山を襲名したが引退相撲は行っていない(引退翌年、弟弟子の逆鉾が実父の停年まで一時的に年寄・春日山を襲名したため退職)。

年寄を襲名しなかった幕内経験者では、元小結・巴富士千代天山、元幕内・大和が千秋楽の打ち上げパーティーの席で断髪式を行っている。

他に、元幕内・常の山は「ここが私の原点である」との理由から部屋の稽古土俵で断髪式を行っている[9]

三段目で弓取り力士だった千代の花は、千秋楽当日まで国技館、打ち上げパーティーの会場で弓取りを行い、直後に断髪式を行った。

近年では、富風皇牙(共に元十両)のように、協会の引退相撲興行という形ではなく、自主的な断髪式の場合で国技館の土俵を使用する場合もある。

また、元小結・宮錦(のちの年寄・芝田山)は引退直後、翌年の職務分掌で勝負検査役(現・勝負審判)に抜擢される事が決まったため、引退相撲を行う事なく、急きょ、部屋で断髪式を行った。

有志による断髪式[編集]

師匠(もしくは、角界そのもの)との喧嘩別れのような形で廃業・引退した力士は、自主的な断髪式は行えても師匠に止め鋏を入れて貰えるどころか師匠に顔を出して貰うことすら難しくなる。

過去の例を示すと、1987年11月場所後の12月31日、当時の師匠だった立浪親方(元関脇・安念山)らと衝突、部屋を飛び出したまま廃業した第60代横綱・双羽黒の断髪式は「北尾光司君を励ます会」という名目で、1988年の3月上旬に東京都内のホテルで行われた。3月場所の直前ということもあり、立浪親方を初め大相撲関係者は誰一人出席せず、最後の止め鋏は双羽黒の実父が入れた。

1997年9月場所後、同じく師匠の鳴戸親方(元横綱・隆の里)と衝突し、失踪したまま引退届を提出した元幕内・力櫻の場合、断髪式は「力櫻断髪の会」という名目で、親しい関係者有志がそれぞれ集まり、最後の止め鋏は元大関の小錦(当時佐ノ山親方)が入れた。

二所ノ関部屋の後継者問題がこじれ、角界に嫌気が差してプロレスに転向した元幕内・天龍は、転向後に入門した全日本プロレスの興行で断髪式を行った。止め鋏は全日本プロレスの社長だったジャイアント馬場が入れた。奇しくもその会場は、旧両国国技館の日大講堂であった。天龍の断髪式は今一つプロレスファンの理解が得られなかったようであり、2階席の後方から野次が飛んだという。

不祥事により引退を余儀なくされた力士もまた然りであり、そもそも(道義的な問題から)断髪式自体を行えないケース(後述)も存在する。過去の例を示すと、2006年9月場所中に対戦相手()に暴行を加え当時の師匠だった佐渡ヶ嶽親方(元関脇・琴ノ若)に引退を勧告された元十両・琴冠佑の断髪式は引退後の勤務先の社長が止め鋏を入れた。2008年8月に大麻取締法違反の疑いで逮捕起訴猶予)され解雇となった元幕内・若ノ鵬の断髪式は2009年2月1日に行われたが、こちらにも師匠の間垣親方(56代横綱・二代目若乃花)を初め大相撲関係者は誰一人も出席せず、最後の止め鋏を入れた人物も不明とされる。

元幕内・大日ノ出及び元十両・魁道も断髪式を行ったものの、止め鋏を入れたのは各人の師匠ではなく、前者は母校・日本大学の恩師(当時の相撲部監督)である田中英壽、後者は実父であったが、師匠が止め鋏を入れなかった理由は不明とされる。

元関脇・阿覧は健康上の問題で限界を悟って2013年9月場所出場を最後に10月8日付で引退したが、三保ヶ関部屋関係者以外には全くと言っていいほど引退を知らせておらず、その影響からか公的な断髪式は行わず、仲間内で髷を落として帰国した。引退届の提出からわずか2日後に断髪して帰国まで済ませたという極めて一連の動きが手早い例であった。

断髪式以外で力士が自主的に髷を切った例[編集]

力士のシンボルでもある髷を切るということは力士でなくなることを意味するが、相撲界(あるいは相撲協会)に二度と戻らない決意を明示すべく、断髪式を経由せず力士本人が自主的に髷を切るケースも見られる。しかし、自主的に髷を切る行為により直ちに引退・廃業が成立することはなく、髷を切っても引退届が提出されていない場合は、現役力士を続行する権利は残り、実際に自主的に髷を切ったものの、引退届が提出されず本場所に帰参して、後に関取に昇進した例も多々存在する。

引退と同時期の自主断髪[編集]

1923年1月、横綱・大錦三河島事件が自らの手で解決できなかったことに責任を取る意味で、その手打ち式の最中に別室で髷を切った。同時に大錦は相撲界を去ることを表明した。

1932年1月、天竜らは春秋園事件で相撲協会に対し改革を訴えたが、協会が改革を拒否したため天竜の主導で事件に参加した力士は髷を切った(出羽ヶ嶽のみ拒否)。

力道山1950年9月場所前に突然廃業したが、断髪式は行わず、自ら髷を切った。師匠の二所ノ関親方との金銭トラブルもあったとされている[10]

1963年5月場所に入幕した幕内・逆鉾は入幕以降に私生活が乱れ出し、同年秋の準場所開催中に井筒部屋の宿舎から失踪。暫くして発見されたものの、11月場所前に自ら髷を切り、その姿で公の前に現れた。この時点で逆鉾に帰参する意思はなく、そのまま廃業した。

2008年9月に大相撲力士大麻問題で解雇された元幕内・白露山は、地位保全の訴訟に敗れて角界復帰を断念した折に祖国のロシアへ向かう飛行機の中で自ら髷を切ったが、極めて薄毛であったために素手で引っこ抜いたという。同時に解雇された実兄・露鵬も同様に公的な断髪式は行ったとされていない。

2011年大相撲八百長問題で職務停止2年の処分を受けた元幕内・春日錦(当時は既に引退して年寄・竹縄)は、処分決定後退職届を提出し、同年5月1日に断髪式を行う予定だったがこれを固辞し、自ら理髪店に赴き髷を切った。同様に引退勧告を受けた元幕内・市原(引退時は清瀬海)及び元十両・保志光も公的な断髪式を行ったことは確認できていない[11]

自主断髪後の帰参[編集]

後の大関・松登は幕下時代に成績が伸び悩み、苦しんだ時期があり、自ら髷を切って廃業を決意した。しかし、師匠・大山から説得され、十両昇進時はザンバラ頭で土俵に上がった[12]

後の関脇・岩風角太郎は三段目時代に同期生の栃光に大きく差を付けられ、廃業を決意し、床屋で髷を切った。その直後、実家に居たところを兄弟子に見つかり部屋に連れ戻され、親方に説得され廃業を撤回した。断髪後の場所には丸坊主で土俵に上がった[13]

後の前頭筆頭・淺瀬川健次は三段目時代に廃業を決意し、理容師見習の実弟に髷を切らせたが、当時の浅香山親方(元・若瀬川)の説得を受け入れて帰参した[14]

1964年9月場所を新十両で迎えた八竜鉄右エ門は、場所前の稽古で下半身を故障させ、失意の余り廃業するつもりで自ら髷を切ってしまったが、帰参して新十両の場所は丸刈り頭で出場した[15]

後の関脇・麒麟児和春(年寄・北陣)も幕下時代に生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した挙句に自ら髷を切って脱走したが、直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、帰参して以降は熱心に稽古をするようになった。

後の小結・大豊昌央(年寄・荒汐)は三段目時代に右肩を負傷したり、体重の増加に苦心したりしたことで廃業を決心し実家に帰ったが、実父の説得を受け帰参した。その際に実父は大豊に反省の意を込めて髷を切るよう命令し、大豊もこれに同意したとされる。

1978年3月場所を東十両9枚目で迎えた小沼克行は、場所前にかねてからの低迷を鏡山に咎められたことを憤る余り自ら髷を切ってしまい、当場所をザンバラ髪で出場した[15]

後の幕内・力櫻猛は上述の失踪行為以前、幕下時代にも門限に遅れたことを鳴戸に叱責され、反省の意を示すべく髷を切り落とした。

後の前頭筆頭・琴龍も幕下時代の1993年5月場所で7戦全敗を喫した際に嫌気がさして自ら髷を切って脱走したが、後に帰参して現役を続けた。

後の十両・鶴ノ富士智万も三段目時代に体重の増加に苦心したことに嫌気がさして自ら髷を切って脱走したが、後に帰参して現役を続けた。

引退後長期間髷を残した例[編集]

1901年1月場所を最後に現役を引退して年寄・二十山を襲名、二十山部屋を創立した17代横綱・小錦は、引退後も7年間髷を付けたまま勝負検査役取締役に就任した。腰が低く、誠実・真面目な人柄で平年寄と変わらぬ働き振りであったため人望を集めたとされている。なお、髷を切った具体的な時期・断髪式の実施の有無は不明とされている。

1977年9月場所を最後に廃業した元十両・力駒は、直後の1977年11月26日に師匠(8代宮城野・43代横綱吉葉山)が死去したため、「師匠に止め鋏を入れていただかないと髷を落とせない」と言い続け、廃業以降20年以上に亘り髷を残し続けた。50歳の時に行った“20年越しの断髪式”では、先々代の遺影が見守る中、現役時代の弟弟子で当時宮城野部屋師匠となっていた10代宮城野(元幕内・竹葉山)が止め鋏を入れた。

1981年11月場所で廃業した元幕内・大旺は、師匠の二子山とその娘婿だった2代目若乃花との対立に巻き込まれる形で断髪式が行われなかった。大旺は髷をつけたまま相撲料理店を開き「一国一城の主になったらマゲを切る」というつもりだったが、逆に髷が店のシンボルになったため「切るに切れない」状況になってしまった。しかし、2014年、相撲協会の停年にあたる65歳を前に断髪をした。

2010年大相撲野球賭博問題で解雇された元大関・琴光喜は、解雇後、日本相撲協会を相手取って「地位保全」を裁判所に訴えていたが、敗訴が確定。2015年2月7日に都内のホテルで「けじめをつける」という意味で断髪式を行った。断髪式には白鵬日馬富士鶴竜の現役3横綱、弟弟子の大関・琴奨菊など350人が鋏を入れ、貴乃花親方が止め鋏を入れた[16]。元大関とはいえ、不祥事で解雇された力士の断髪式に現役の横綱・大関、さらに協会の理事も出席したというのは上述の例と比べても異例であった。

結婚式と同時に断髪式を行った例[編集]

昭和以降の最高齢力士だった高砂部屋の一ノ矢(最高位・三段目6枚目)は46歳11ヶ月で迎えた2007年11月場所限りで引退し、翌2008年2月2日に自身の結婚式のプログラムの一環として断髪式を行った。結婚式の前半では大銀杏姿を披露し、式典の途中に組み入れられた断髪式では新婦(当時40歳の雑誌編集者)も鋏を入れた。

2011年大相撲八百長問題で引退勧告を受け、引退した元小結・白馬2008年10月に時天空の実妹と結婚、2009年3月には長女が誕生していた。その後、幕内定着・三役昇進を遂げて結婚披露の時機を見計らっていた矢先に処分を受けたため、処分から間もない2011年6月18日に断髪式と結婚披露宴を同時に行うはこびとなった[17]

2016年1月場所限りで引退し、年寄・安治川を襲名した元前頭筆頭・土佐豊は引退直後にマジシャン・小泉エリとの婚約を発表し、同年3月に入籍した。借株であった関係上、引退相撲を伴う断髪式は行わず、当初から断髪式と結婚式を同日に行う計画がなされていた。一ノ矢及び白馬のケースと異なり、式典の一環に断髪式を組み込む形ではなく、同一の会場で前半に断髪式・後半に結婚式と、それぞれ分離する形式で、2016年10月2日に行われた[18]

病床での断髪式[編集]

元小結・大翔鳳は、1999年3月場所後の精密検査の結果、膵臓癌が発見され、闘病のため同年6月11日付で引退し準年寄・大翔鳳を襲名。引退相撲を伴う断髪式を予定していたものの、闘病が長引く見込みだったことから「時機を逸するといけないから」として、日本大学時代の同級生で親友でもあった舞の海らによって、1999年10月3日に高輪プリンスホテルで急遽断髪式が行われ、自身の引退直前に部屋を継承した7代立浪(元小結・旭豊)が止め鋏を入れた。闘病の影響からか、140キロ以上あった体重は90キロ程までに激減し、断髪式当日には髷がなければ元力士とは思えないほどに痩せていた。整髪後の挨拶では病気の克服を出席者の前で誓っていたが、その断髪式からわずか2か月後の同年12月4日、治療の甲斐もなく膵臓癌により32歳の若さで没した。

元小結・時天空も、2016年1月場所前に、悪性リンパ腫で当面の間抗がん剤の投与による入院加療を要するとの診断が下されたことが公表された[19][20]。これにより当場所以降休場を続けた。療養中は土俵への復帰の希望を持ちつつ、抗がん剤治療の副作用で髪が抜けることを覚悟し、2015年11月場所前に、入門当初の師匠である14代時津風(元大関・豊山)をはじめ、現師匠の16代時津風(元前頭・時津海)、母校・東京農業大学相撲部総監督、そして家族ら数人が見守る中、病室でひっそりと“復活を願っての断髪式”が行なわれた[21]。以降、療養に専念も、2016年9月場所前には復帰を断念し現役を引退し年寄・間垣として後進の育成を行う事となった。上述の経緯もあり、引退会見には髷頭に紋付袴姿ではなく、丸刈り頭にスーツ姿で応じていた[22]。引退後は年寄として業務に当たったが程なく病状が悪化、翌2017年1月31日午前1時12分、悪性リンパ腫により37歳の若さで没した[23]

その他のエピソード[編集]

早稲田大学大隈講堂で断髪式を行った元関脇・笠置山(止め鋏不明)は切り取った髷を窓から外に投げ、「髻(もとどり)の切られる窓に落葉かな」と俳句を詠んだ。

1986年7月場所を最後に引退し、年寄・不知火を襲名した元関脇・青葉城は切り取った髷を断髪式の直後に「未練は無い。」と言い放った上で、両国国技館のゴミ箱に惜しげもなく破棄した。

2001年1月場所後に引退した元十両・梅の里の断髪式は、師匠である当時の高砂親方(元小結・富士錦)が病気により出席できず、実兄である錦戸親方(元関脇・水戸泉)が止め鋏を入れた。当時、錦戸も現役を引退して4ヶ月しか経っておらず、自身の引退相撲も終えていなかったため、髷が残った年寄が止め鋏を入れるという一見不思議な写真が相撲誌に掲載された。

2004年9月場所10日目の取り組みを最後に引退した元十両・琴岩国の断髪式も同様の理由で当時の師匠(53代横綱・琴櫻傑將)ではなく、当時現役だった兄弟子・琴ノ若晴將が止め鋏を入れた[24]

2016年11月場所を最後に引退し、年寄・荒磯を襲名した元幕内・玉飛鳥の断髪式では、国技館の土俵上で行われ、片男波親方(元関脇・玉春日)による止め鋏の際に、玉飛鳥の長男も急遽土俵に上がり、片男波と“共同”で止め鋏を入れた。

脚注[編集]

  1. ^ 全国こども電話相談室 スポーツ TBS 2016年6月1日閲覧
  2. ^ 第四十八代横綱 大鵬を偲んで インターネットミュージアム内写真 2016年6月1日閲覧
  3. ^ 水島新司は『風雲!たけし城』にゲスト出演した際、プロ野球パ・リーグの順位予想を行いこれが外れたため、二度目のゲスト出演に際して頭を丸めたが、当日の新聞テレビ欄には「断髪式」との文が書かれた。
  4. ^ 1946年の横綱双葉山1950年の横綱前田山の断髪式では土俵中央に正座しているが、1953年の横綱照國、翌1954年の横綱羽黒山の断髪式では椅子に座っている。双葉山と羽黒山については、画像も参照のこと。
  5. ^ 千代大海の母美恵さん断髪式ではさみ 2010年10月3日 日刊スポーツ紙面
  6. ^ 日本相撲協会映画部制作の映画『双葉山物語』より。「双葉山育ての親・双川喜一氏に代わって、令息が最後の鋏を入れる」というナレーションで、長男の喜文とは断定できず。
  7. ^ “現役の時津海が引退し、時津風を襲名「何も言えない」”. 朝日新聞. (2007年10月9日). http://www.asahi.com/special/071005/TKY200710090455.html 2016年6月4日閲覧。 
  8. ^ 角界史上初!!把瑠都が公開断髪式 Daily Sports Online 2013年12月10日
  9. ^ 通常であれば稽古土俵での断髪式は幕下以下の力士が行うもの。
  10. ^ 増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』より。
  11. ^ 清瀬海は両国の理髪店で断髪し、落とした髷は「そんなもん捨てて下さい」と理髪師に頼んで捨てて貰った。 - 「挫折」の受け止め方 元幕内力士 清瀬海(市原孝行) アサ芸+ 2012年5月17日
  12. ^ 「歴代大関大全」86頁。 ベースボールマガジン社 2008年。
  13. ^ 「戦後新入幕力士物語」第2巻 92頁。
  14. ^ 淺瀬川はその後正式に引退し、年寄・浦風を襲名。1971年10月3日蔵前国技館にて引退相撲を伴う正式な断髪式を行い、その際に切り落とした髷は現在、本人が経営するちゃんこ料理店・「ちゃんこ浅瀬川」の店内に飾られている。
  15. ^ a b 八竜及び小沼は、自主的に髷を切った直後には帰参し本場所にも出場したものの、髷を切るまでに至った原因(負傷・師匠との確執)はその後も払拭できず、1年も経過しないうちに正式に廃業した。
  16. ^ 元大関琴光喜が断髪式 横綱ら350人出席 nikkansports.com 2015年2月7日
  17. ^ 元小結白馬が結婚式で断髪式 2011年6月18日付 日刊スポーツ
  18. ^ 元幕内の土佐豊、断髪式&披露宴 3月にタレント・小泉エリと結婚 2016年10月2日付 スポーツニッポン
  19. ^ 時天空、悪性リンパ腫で闘病中「頑張って克服したい」 スポーツニッポン 2016年1月8日閲覧
  20. ^ 時天空、悪性リンパ腫のため闘病中 病状は回復傾向 スポーツ報知 2016年1月8日閲覧
  21. ^ ライター・武田葉月の記事「病室での断髪式。異色のモンゴル出身力士・時天空、涙の引退秘話」より。
  22. ^ 元時天空の間垣親方が引退会見「生きていくため」治療に向き合う Sponichi Annex 2016年8月30日 05:30
  23. ^ “元小結時天空の間垣親方が悪性リンパ腫で死去37歳”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2017年1月31日). http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1772502.html 2017年1月31日閲覧。 
  24. ^ 琴ノ若は既に、13代佐渡ヶ嶽として部屋を継ぐことが内定しており、12代佐渡ヶ嶽が療養中は師匠の代理を務めていた。その時期と琴岩国の引退が重なった結果、現役力士が断髪式の止め鋏を入れるという珍事につながった

関連項目[編集]