相撲部屋

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特定の部屋を応援する幟

相撲部屋(すもうべや)は、大相撲力士を養成する機関であり、力士が所属する各グループ、またその建物である。相撲界では単に部屋とも言う。2017年4月1日現在、45の部屋がある。

概要[編集]

力士・親方・行司・呼出・床山はすべていずれかの相撲部屋に所属しており、力士はいずれかの部屋に所属していなければ本場所に出場することはできない。基本的に親方を中心とする共同生活を営む場であり、幕下以下の力士(取的)は、大部屋で共同生活をする。関取になると個室が与えられるが、結婚するまでは部屋に住むことが基本のルールである。ただし、関取を多く擁している部屋は個室が足りなくなり、やむを得ず関取にマンション暮らしを許す場合がある(春日野部屋や九重部屋など)[1]。また、親方・力士がそれぞれ1人以上所属している必要がある。

相撲部屋は基本的に日本相撲協会から独立した運営形式を取っている。基本的に懲戒処分を受けて離職した力士はその後所属していた相撲部屋での活動を協会から拒否されるが、大相撲八百長問題を受けて一時期協会から解雇されていた蒼国来が処分後も部屋生活を送っていた事実について、地位確認訴訟を担当する蒼国来側代理人は協会からの独立性という点から容認を主張していた。

部屋名は、師匠が名乗っている年寄名跡を被せたものになる。そのため、実質的に同じ部屋でありながら部屋の名称が変更される場合や、全く系統が違うにもかかわらず同じ部屋名を名乗る場合がある。

ほとんどの相撲部屋は、一門と呼ばれるグループのいずれかに所属している(一門制度)。もともとは部屋の系統別の集合体が起源で、一門別に巡業などを行っていた時期が長かったが、巡業が協会に一元化された現在は、相撲協会の役員選挙のためのグループという性質が強くなっている。以前は稽古場がなく、一門の中心の部屋に稽古にいく部屋もあったが、現在は自前の稽古場を持たなければ部屋の設立は認められない。創立から施設の完成までに時間がかかる場合は、仮施設をOBから受けることが原則である。

部屋の増減[編集]

相撲部屋は不変なものではなく、運営する年寄の就任・退職などにより、絶えず分家独立・統合・消滅を繰り返している。 相撲部屋の数は昭和時代まではおおむね30前後で安定していたが、平成時代になると若乃花貴乃花兄弟の活躍によって相撲人気が高まり入門志願者が増え、新しい部屋が次々に作られ一時期は部屋の数が50を超えることもあった(2004年の55部屋が史上最多)。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営に支障をきたしたり、入門から引退までの期間が短い大学相撲出身の年寄が次々と部屋を新設し、それらの年寄が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきた。

基本的に分家独立があっても一門には所属したままだが、かつての九重部屋のように一門から破門されるなどして別の一門に移籍した例もある。

前述のように、親方・力士はそれぞれ1人ずついなければならず、部屋を開いた師匠が停年を迎えるのと前後して、部屋が閉鎖される例が多い。部屋が閉鎖された場合、その部屋に所属していた力士たち(行司呼出床山も含む)は他の部屋へ移籍することになる[2]。後述の部屋新設の基準の厳格化以降、部屋の数は減少傾向にある。

相撲部屋の新設[編集]

もともと部屋の分離独立に関する明確な基準は存在しなかったが、2006年9月28日に年寄が部屋を新設できる条件を定めた規定が設けられた。条件は以下の通りである。

  1. 横綱もしくは大関(大関から陥落した力士も含む)
  2. 三役関脇小結)通算25場所以上
  3. 幕内通算60場所以上(番付制限なし)

これらのいずれかの条件を満たし、師匠の了承を受けることにより、引退後1年以上経過した後、理事会の承認を経て部屋を新設できる[3]

2017年5月場所終了時点で、この条件を満たしている者は以下の通りである。年寄名跡を取得できる力士は、日本国籍を持つ者に限られている。

現役力士(四股名:条件 - 所有する年寄名跡)
部屋付き年寄(年寄名跡 - 現役時の四股名:条件)

この規定になって以降、部屋を新設したのは

の4例である。この規定以降木瀬部屋が2012年4月に北の湖部屋から独立、中川部屋が2017年1月に追手風部屋から独立が承認されているが、木瀬部屋は2010年5月31日の閉鎖処分の解除による再興のため[4]、中川部屋は閉鎖処分に伴い消滅した旧春日山部屋の再興のため[5][6]新設には当たらないとされている。

相撲部屋継承者[編集]

1998年5月1日より年寄名跡の新制度が施行され、現役力士が理事会で相撲部屋継承者と認められれば、通常の年寄襲名条件ではなく、例外規定を適用し、現役を引退して部屋を継承することが可能となった。条件は以下の通りである。

  1. 幕内通算12場所以上[7]
  2. 幕内・十両(関取)通算20場所以上[7]

この条件のうちいずれか1つを満たし、理事会で相撲部屋継承者と認められれば、現役を引退して部屋を継承できる。

2017年5月場所終了時点で、この条件を満たしている力士[8]は以下の通りである。年寄名跡を取得できる力士は、日本国籍を持つ者に限られている。

(四股名 - 条件)

この規定になって以降、現役を引退し部屋を継承したのは

の2例である。

なお、部屋の師匠が停年もしくは逝去したことに伴い部屋付きの親方が師匠になる場合は条件等の制限はない。

伝統など[編集]

相撲界では昔から「部屋持ち親方は娘が生まれると赤飯炊いて喜ぶ」と言われていた。これは、完全な実力主義の相撲界にあっては親方の息子が必ずしも部屋の後継者になれるとは限らないため、親方の娘を有力な弟子と結婚させて養子縁組を行い部屋を継承させることが古くから積極的に行われていた伝統によるものである。現在でも、部屋持ちの親方は男の子が生まれるより女の子が生まれることを喜ぶ者が多い。実際、師匠が有力な弟子を婿に迎え入れ部屋を継承させることは、現在でもよく見られることである。ただし、直接の弟子ではなく同門の別の部屋の力士が継承する場合もある。他の一門の力士が継承することは非常に珍しいが、公式に禁止されているわけではなく、一時期宮城野部屋を継承していた金親(宮城野部屋は伊勢ヶ濱(旧立浪)一門、金親は出羽海一門の北の湖部屋出身)といった実例も存在する。また、高望山の高島部屋、太寿山の花籠部屋、武蔵丸の武蔵川部屋など、自分や師匠などが所属していた相撲部屋が消滅していた場合に部屋を再興することも相撲界ではよく見られる。

相撲部屋はまた、師匠を父親とした大家族制の体裁も持つ。近年では核家族化の傾向も手伝って、力士志願の若者の中にもこうした大所帯での生活になじめない者も多く、多数の兄弟子がいる大部屋をむしろ避ける傾向も見られる。出羽海や高砂などといった名門部屋でも、大部屋としてまとまっていくのは難しくなってきている。元横綱の栃ノ海は停年退職後に相撲部屋の小規模化の弊害について「稽古相手が少ないから強くならない。少ない弟子が部屋を去ることを恐れて親方が弟子に甘くなりがちである」とする趣旨の指摘を行ったことがある[9]

どれだけ所属力士が多くても、ほとんどの部屋では稽古土俵は1つである。「他人の相撲を見るのも稽古のうち」という意味合いと、「他人を押しのけて土俵に上がるようでなくてはならない(それくらいの稽古に対する積極性と気概が必要だ)」という考え方による。過去にはまれに2つの土俵を備えた部屋もあった。

平成の時代からはウェイトトレーニング設備を備えた部屋も多い。昭和時代までは器具で作った筋肉は相撲では役に立たないと敬遠される傾向があった(隆の里霧島など昭和世代の力士にもウェイトトレーニングを取り入れた例はあった)が、平成に入って貴乃花や武双山[10]らの成功もあって、力士が他のトレーニングジムへ通う煩を避けるためもあり、こうした傾向が進んでいる。入門時の基準にこうした設備の充実を挙げる新弟子も少なくない。2010年代に入った現在では九重部屋や伊勢ヶ濱部屋が筋力トレーニングを行う部屋の代表となっている。

多くの相撲部屋は、一般人の希望があれば稽古の見学を受け入れている。ただし、見学中は力士たちの稽古を妨げることのないよう私語を禁止するなど、部屋では見学者が守らなければならない一定のルールを設けているのが原則である。

一門別部屋一覧[編集]

Nuvola apps kview.svg 地図外部リンク
大相撲
Searchtool.svg 相撲部屋の所在地両国国技館周辺の東京都墨田区に集中立地している)
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2017年4月1日現在の相撲部屋(6大一門、計45部屋)。

出羽海一門[編集]

二所ノ関一門[編集]

時津風一門[編集]

高砂一門[編集]

伊勢ヶ濱一門[編集]

貴乃花一門[編集]

2014年3月場所までは一門扱いではなかったため、貴乃花グループと称した。

過去に存在した部屋[編集]

平成以降[編集]

デフォルトでは消滅年月の昇順。部屋名は50音順ソート、師匠の列は番付順ソート。

部屋名 師匠 一門 消滅年月 備考
かすかやま/春日山部屋 05-前頭1・大昇 立浪・伊勢ヶ濱 1990年7月 春日山親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士は安治川部屋へ移籍
ふししま/藤島部屋 02-大関貴ノ花 二所ノ関 1993年2月 名跡変更/藤島部屋と二子山部屋が合併
藤島二子山に名跡変更し、名称を二子山部屋に変更
おおなると/大鳴戸部屋 03-関脇高鉄山 立浪・伊勢ヶ濱 1995年1月 大鳴戸親方の廃業により部屋消滅
所属力士・行司は桐山部屋へ移籍
くまかたに/熊ヶ谷部屋 05-前頭8・芳野嶺 立浪・伊勢ヶ濱 1996年5月 熊ヶ谷親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士は立浪部屋へ移籍
きせ/木瀬部屋 05-前頭9・清ノ森 立浪・伊勢ヶ濱 2000年2月 木瀬親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士・床山は桐山部屋へ移籍
たつたかわ/立田川部屋 03-関脇・青ノ里 時津風 2000年9月 立田川親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士は陸奥部屋へ移籍
わかまつ/若松部屋 02-大関・朝潮 高砂 2002年2月 名跡変更/若松部屋と高砂部屋が合併
若松高砂に名跡変更し、名称を高砂部屋に変更
かふとやま/甲山部屋 05-前頭1・大雄 時津風 2002年7月 所属力士が0人となり部屋消滅
親方は湊部屋へ移籍
なかたち/中立部屋 04-小結両国 出羽海 2003年1月 名跡変更/中立境川に名跡変更し、名称を境川部屋に変更
たいほう/大鵬部屋 01-横綱大鵬 二所ノ関 2004年1月 名称変更/一代年寄大鵬の停年退職に伴い大嶽親方が部屋を継承
名称を大嶽部屋に変更
ふたこやま/二子山部屋 02-大関・貴ノ花 二所ノ関 2004年2月 名称変更/貴乃花親方が部屋を継承し、名称を貴乃花部屋に変更
たけくま/武隈部屋 03-関脇・黒姫山 立浪・伊勢ヶ濱 2004年3月 所属力士が0人となり部屋消滅
親方は友綱部屋へ移籍
おしおかわ/押尾川部屋 02-大関・大麒麟 二所ノ関 2005年3月 押尾川親方が停年前に部屋を閉じる
親方・所属力士は尾車部屋へ、呼出は大嶽部屋へ、床山は尾車部屋へ移籍
はたちやま/二十山部屋 02-大関・北天佑 出羽海 2006年6月 二十山親方死去に伴い部屋消滅
所属力士・呼出は北の湖部屋へ移籍
いせかはま/伊勢ヶ濱部屋 05-前頭1・和晃 立浪 2007年01月 伊勢ヶ濱親方が停年前に部屋を閉じる
親方・所属力士・世話人は桐山部屋へ、行司は高島部屋へ移籍
あしかわ/安治川部屋 01-横綱・旭富士 立浪 2007年11月 名跡変更/安治川伊勢ヶ濱に名跡変更し、名称を伊勢ヶ濱部屋に変更
あらいそ/荒磯部屋 04-小結・二子岳 二所ノ関 2008年9月 荒磯親方が停年直前に部屋を閉じる
親方と呼出は松ヶ根部屋へ、所属力士は花籠部屋へ移籍
きせ/木瀬部屋 05-前頭1・肥後ノ海 出羽海 2010年5月 木瀬親方の不祥事により部屋が閉鎖処分
親方・所属力士は北の湖部屋へ移籍
2012年4月に閉鎖処分の解除に伴い再興
むさしかわ/武蔵川部屋 01-横綱・三重ノ海 出羽海 2010年9月 名称変更/藤島親方が部屋を継承し、名称を藤島部屋に変更
きりやま/桐山部屋 04-小結・黒瀬川 立浪 2011年1月 桐山親方の停年前に部屋を閉じる
親方・所属力士・若者頭・世話人・呼出、床山の一部は朝日山部屋へ、行司・床山の一部は追手風部屋へ、呼出の一部は友綱部屋へ移籍
たかしま/高島部屋 03-関脇・高望山 立浪 2011年6月 所属力士が0人となり部屋消滅
親方は春日山部屋へ移籍
たこのうら/田子ノ浦部屋 05-前頭1・久島海 出羽海 2012年02月 田子ノ浦親方死去に伴い部屋消滅
所属力士は出羽海部屋春日野部屋へ移籍
おおしま/大島部屋 02-大関・旭國 立浪 2012年04月 大島親方の停年により部屋消滅
所属力士は友綱部屋へ移籍
はなかこ/花籠部屋 03-関脇・太寿山 二所ノ関 2012年05月 花籠親方が停年前に部屋を閉じる
親方・所属力士は峰崎部屋へ移籍
なかむら/中村部屋 03-関脇・富士櫻 高砂 2012年12月 中村親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士・床山は東関部屋へ、行司は八角部屋へ移籍
にしょのせき/二所ノ関部屋 03-関脇・金剛 二所ノ関 2013年01月 所属力士が0人となり部屋消滅
親方は松ヶ根部屋春日野部屋へ移籍
はなれこま/放駒部屋 02-大関・魁傑 二所ノ関 2013年02月 放駒親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士・行司は芝田山部屋へ移籍
まかき/間垣部屋 01-横綱・若乃花 貴乃花 2013年03月 間垣親方が停年前に部屋を閉じる
親方・所属力士は伊勢ヶ濱部屋へ移籍
みほかせき/三保ヶ関部屋 02-大関・増位山 出羽海 2013年10月 三保ヶ関親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士・世話人・行司・呼出は春日野部屋へ、床山は北の湖部屋へ移籍
なると/鳴戸部屋 05-前頭8・隆の鶴 二所ノ関 2013年12月 名跡変更/鳴戸田子ノ浦に名跡変更し、名称を田子ノ浦部屋に変更
まつがね/松ヶ根部屋 02-大関・若嶋津 二所ノ関 2014年12月 名跡変更/松ヶ根二所ノ関に名跡変更し、名称を二所ノ関部屋に変更
あさひやま/朝日山部屋 02-大関・大受 伊勢ヶ濱 2015年1月 朝日山親方が停年直前に部屋を閉じる
親方・所属力士・世話人・床山の一部は伊勢ヶ濱部屋へ、若者頭・呼出・床山の一部は浅香山部屋へ移籍
きたのうみ/北の湖部屋 01-横綱・北の湖 出羽海 2015年11月 名称変更/一代年寄北の湖死去に伴い山響親方が部屋を継承
名称を山響部屋に変更
かすかやま/春日山部屋 05-前頭11・濵錦 伊勢ヶ濱 2016年10月 春日山親方の師匠不適格処分に伴い部屋が強制的に一時閉鎖処分
親方・所属力士・世話人・行司・呼出・床山は追手風部屋へ移籍
2017年中川部屋として再興

平成以前[編集]

ここでは名のみを示す。消滅後に名前が復活し現存するまたは平成以降に消滅したものは含まない。

各種部屋別記録[編集]

最多横綱昇進
出羽海部屋 8人(大錦卯一郎栃木山守也常ノ花寛市武藏山武安藝ノ海節男千代の山雅信佐田の山晋松三重ノ海剛司
最多幕内優勝
九重部屋 52回(北の富士勝昭10回、千代の富士貢31回、北勝海信芳8回、千代大海龍二3回)
  • 元千代の山の旧九重部屋は師匠の死で消滅、独立して井筒部屋を興していた元北の富士がこれを吸収して、新九重部屋となったもので、ふたつの九重部屋は厳密には別の部屋という見方もある。同様に、千代の富士引退とともに、元北の富士は部屋を譲り、独立した八角部屋(元北勝海)に所属したので、これも別の部屋という考え方も可能になる。北の富士の10回および千代大海の3回の優勝を数えないとすれば、39回になる。そうなると、出羽海部屋の49回が最多にみえるが、出羽海部屋も、1922年6月の常陸山死去のあと、独立して入間川部屋を興していた元両国が吸収したともいえるので、常陸山時代の常陸山1回、両国1回、大錦5回、栃木山5回、常ノ花1回を減らせば36回になる。すると、玉錦7回(粂川時代の2回をカウントしない)、佐賀ノ花1回、玉乃海1回、大鵬32回、金剛1回の計42回の二所ノ関部屋が最多となる。
最多連続幕内優勝
出羽海部屋 10場所連続(大正6年1月~大正10年5月、栃木山守也5回、大錦卯一郎4回、常ノ花寛市1回)
九重部屋 10場所連続(昭和60年9月~昭和62年3月、千代の富士貢8回、北勝海信芳2回)
同一部屋力士による三賞独占(受賞者3人以上)
出羽海部屋(昭和24年5月、殊勲賞:千代の山雅信、敢闘賞:羽島山昌乃武、技能賞:五ツ海義男
優勝も同部屋の増位山大志郎
藤島部屋(平成3年5月、殊勲賞:貴花田光司、敢闘賞:安芸ノ島勝己:貴闘力忠茂、技能賞:該当者なし)
二子山部屋(平成5年5月、殊勲賞:若ノ花勝、敢闘賞:貴ノ浪貞博、技能賞:貴闘力忠茂
優勝も同部屋の貴ノ花光司

脚注[編集]

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  1. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p66
  2. ^ 全員まとめて同じ部屋へ移籍するのが原則だが、旧田子ノ浦部屋の力士8名が2つの部屋に分かれて移籍した例もある。
  3. ^ “相撲部屋継、新設には理事会の承認が必要に”. スポニチアネックス (スポーツニッポン新聞社). (2011年9月30日). http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/09/30/kiji/K20110930001725120.html 2016年1月21日閲覧。 
  4. ^ 木瀬部屋の師匠である肥後ノ海直哉は幕内通算53場所で部屋新設の条件を満たしていない。
  5. ^ 2016年10月の閉鎖処分の際に新たな師匠が就任する場合に部屋の再興が認められることになっていた
  6. ^ 中川部屋の師匠である旭里憲治は幕内通算4場所のため部屋新設の条件を満たしていない。
  7. ^ a b 日刊スポーツ 2017年3月4日
  8. ^ 通常の条件で年寄名跡を取得できる力士は除く
  9. ^ 大相撲:第49代横綱・栃ノ海の花田茂広さんに聞く 毎日新聞 毎日新聞 2013年03月30日 11時02分
  10. ^ 『相撲』2012年5月号に掲載された先代武蔵川先代大島の対談では、先代武蔵川が「リハビリ用であってこれを主体として稽古を行うつもりはなかった。」と積極的な利用の意図が無かったことを話していた。
  11. ^ 「貴乃花親方が一門離脱を正式表明」スポーツ報知 2010年1月8日の記事を参照。
  12. ^ a b 「貴乃花親方支持派6人が二所ノ関一門離脱」日刊スポーツ 2010年1月19日の記事を参照。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]