北の富士勝昭
![]() | この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
|
| ||||
---|---|---|---|---|
基礎情報 | ||||
四股名 | 竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 → 北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 → 北の富士 勝晃 →北の富士 勝昭 | |||
本名 | 竹澤 勝昭 | |||
愛称 |
現代っ子横綱・香車・槍烏賊 若手三羽烏・名門の二男坊 イレブン横綱・プレイボーイ横綱 夜の帝王 | |||
生年月日 | 1942年3月28日(77歳) | |||
出身 | 北海道旭川市 | |||
身長 | 185cm | |||
体重 | 135kg | |||
BMI | 39.44 | |||
所属部屋 | 出羽海部屋→九重部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け | |||
成績 | ||||
最高位 | 第52代横綱 | |||
生涯戦歴 | 786勝427敗69休(105場所) | |||
幕内戦歴 | 592勝294敗62休(64場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝10回 十両優勝1回 | |||
賞 |
殊勲賞2回 敢闘賞1回 技能賞3回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1957年1月場所 | |||
入幕 | 1964年1月場所 | |||
引退 | 1974年7月場所 | |||
引退後 | 井筒部屋→九重部屋師匠 | |||
他の活動 | NHK大相撲解説者 | |||
備考 | ||||
金星1個(大鵬1個) | ||||
2019年7月3日現在 |
北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき、1942年3月28日 - )は、北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)出身の元大相撲力士。第52代横綱。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。
来歴[編集]
誕生~入門[編集]
1942年3月28日に北海道網走郡美幌町で生まれる。6歳の時に留萌市へ転居して留萌市立留萌小学校へ入学すると、当時北海道で最強であった軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍する。留萌市立港南中学校に進学後も軟式野球の投手で4番を務めるなど、チームの最主力選手として活躍するが、旭川市立光陽中学校に転校した。[要出典]少年期に父が事業に失敗し、3回に渡って夜逃げを経験した。[1]
1954年のある日、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業が行われていたので家族で見に行ったところ、恵まれた体格をした少年を見つけた横綱・千代の山から直々に「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」声をかけられ、これがきっかけで相撲に興味を持つようになった。その後も軟式野球を続けていたが、現役横綱から直接声をかけられたことが忘れられず、北海高等学校・北海道旭川南高等学校・北海道留萌高等学校の各野球部と、北海道増毛高等学校(当時の全国優勝校)・北海道天塩高等学校の各レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に勧誘されていたが、全てを断って中学校卒業と同時に出羽海部屋へ入門した。[2] 靴を買う金すらなく、学生服に下駄履きという姿で上野駅に降りた竹澤は母からいざという時のため換金用に渡されたアズキ三袋を手にしていたが、すぐに転んで道に撒いてしまったという。[3][4]
初土俵~十両で全勝[編集]
1957年1月場所、竹沢という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏む。入門のために上京した際に船酔いしてしまい、これが原因で体重が激減してしまった[5][6]。3月場所は計量直前に大量の水を飮んで体重基準を通過した。
あまりにも痩せていたことから期待に反して出世は遅れ、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」[7]の規約をもう少しで適用され、廃業を余儀なくされるところだったが、当人もそれを知って奮起したという。入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの式守鬼一郎の付き人も務めていた。
1960年には三段目まで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け[8]、急性虫垂炎と腹膜炎を併発した。それでも巡業に同行したものの、実家のある旭川市に到着したところで体調が限界に達したため入院、50日間に及ぶ入院生活を送った[9]。このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から「北の冨士」と改名している[10]。
1963年3月場所で、ようやく十両に昇進した。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成した[11]。
入幕~大関昇進[編集]
1964年1月場所で新入幕を果たすと、この場所では13勝2敗という新入幕力士最多勝の新記録[12]樹立という好成績で敢闘賞を受賞した。この場所、北の冨士と同じように好成績を挙げた清國勝雄・若見山幸平とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。だが本人が後に語ったところによると、この場所で清國が14勝1敗の好成績を残したため全く注目されなかったという[13]。同年3月場所に小結へ昇進すると同年7月場所には関脇に昇進、その取り口は「スピード相撲」と称された。
1965年5月、柏戸剛・大鵬幸喜と共に拳銃をハワイから密輸入し、その証拠隠滅を図ろうと廃棄していたことが発覚して書類送検されたが、日本相撲協会からの処分はなかった。
1966年7月場所後に大関に昇進するが、昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗で、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字である。北の冨士の大関昇進場所当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった[14]当時でも意外と言われた大関昇進だった[15]。
それ故か北の冨士自身、新大関が決まった時も、まさか自分が大関に昇進するとは思っていなかったため何も用意しておらず、大関昇進の決定伝達を行う日本相撲協会からの使者を迎える際に必要な紋付や足袋も全く持っていなかった。そのため、紋付は当時兄弟子であった佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での昇進伝達式に間に合わせたという。
幕内初優勝・横綱昇進へ[編集]
大関時代に九重が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には、九重に付いていくか出羽海に留まるか大いに悩んだという。そして出した決断は、九重に付いて行き、所属も九重部屋に変えることだった。それまでは佐田の山がいたために2番目の気楽な立場に甘んじていたが、独立後は部屋頭となった。独立した当初の九重部屋は経営が決して楽ではなく、既に大関に昇進していた北の富士が巡業で九重と布団を譲り合う時期もあったという。[4]一方で、出羽錦や佐田の山などの怖い兄弟子がいなくなったことから遊び放題になり、後述の初優勝を決めてからはさらに遊びが激しくなったと、2016年の自著で語っている[16]。その独立後最初の場所となる1967年3月場所では、佐田の山を倒して14勝1敗で悲願の幕内初優勝を決め、一緒に移籍した松前山武士も十両優勝を達成した。
だが初の綱獲りが期待された1967年5月場所は、過度の緊張と稽古不足から5勝10敗、次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう[17]。初の大関角番となった1967年9月場所は、四股名の「冨」に点を付けて「富」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。しかし、その後もしばらくは10勝前後の成績に留まり、その間に清國・玉乃島らの綱獲り挑戦(失敗)も発生した。
1969年夏巡業の頃から、大の稽古嫌いで知られていた北の富士は人が変わったように稽古に打ち込んだ。その背景には、入門するまで1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である村上精一郎が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された[18]。同年9月場所は大関・玉乃島と最後まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、11月場所は13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に協会は、北の富士の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、全委員の反対によって却下された[19]。それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人稽古を皆勤した。その巡業に帯同した大鵬が「あれが本当に北の富士だろうかと目をうたがうようなときがあった。ワシも大関から横綱のころにかけては人後に落ちない稽古をした自負はあるが、いまの北の富士も稽古にはすごく熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だと感じさせられる場面はかなりあった」と評するほどの熱心さであった[18]。その甲斐あってか、1970年1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成し、場所後に行われた横綱審議委員会でも文句無しの評価を受け、同場所の優勝決定戦で北の富士に敗れ優勝同点だった玉乃島と共に、ようやく念願の横綱へ昇進した。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録だった。[20]昇進伝達式では「一生懸命やらせていただきます」と口上を述べた[21]。
横綱昇進・玉の海との対戦[編集]
同時昇進した玉の海(玉乃島が横綱昇進と同時に改名)とは最大のライバルだったが、「島ちゃん」「北さん」と呼びあう親友でもあった。歴代横綱の親睦会である「横綱会」に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになり、玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を歌い、栃錦清隆に「びっくりした。時代が変わったものだねぇ」と言われた。
土俵入りの稽古の際に、九重からは「せり上がりのときは、地球を持ち上げるような気持ちでな」と指導されていた[22]。北の富士の横綱土俵入りは雲龍型で行っていたが、1971年8月の巡業で例外がある。この時の巡業は北海道を中心に巡回したA班(北の富士が参加)と、東北地方から信越へ向かったB班(玉の海が参加)に別れて行われていたが、B班が秋田県南秋田郡八郎潟町での巡業中、玉の海が急性虫垂炎を起こして入院した。この一報を聞いたA班は北海道岩見沢市での巡業を終えて帰京しようとした矢先だったため、北の富士がB班に加入して土俵入りを行うこととなった。しかし、現地にある玉の海用の綱は北の富士と異なる不知火型だったうえ、玉の海の付き人の力士が雲龍型の綱締めを知らなかったため、北の富士は玉の海の土俵入り用具一式を借りて不知火型の土俵入りを行った。巡業とはいえ、横綱として雲龍型・不知火型両方の土俵入りを行ったことは史上初だった[23]。
両者の対戦は、1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 北の富士勝敗 (通算成績) |
玉の海勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1964年5月場所 | 千秋楽 | ●(0) | ○(1) | 栃ノ海 | 初対戦 |
1964年7月場所 | - | - | - | 富士錦 | 対戦なし。 |
1964年9月場所 | 7日目 | ●(0) | ○(2) | 大鵬 | |
1964年11月場所 | 4日目 | ○(1) | ●(2) | 大鵬 | |
1965年1月場所 | 14日目 | ○(2) | ●(2) | 佐田の山 | |
1965年3月場所 | 13日目 | ●(2) | ○(3) | 大鵬 | |
1965年5月場所 | 8日目 | ○(3) | ●(3) | 佐田の山 | |
1965年7月場所 | 11日目 | ○(4) | ●(3) | 大鵬 | |
1965年9月場所 | 3日目 | ●(4) | ○(4) | 柏戸 | |
1965年11月場所 | 9日目 | ●(4) | ○(5) | 大鵬 | |
1966年1月場所 | - | - | - | 柏戸 | 対戦なし。 |
1966年3月場所 | 2日目 | ●(4) | ○(6) | 大鵬 | |
1966年5月場所 | 14日目 | ●(4) | ○(7) | 大鵬 | |
1966年7月場所 | 千秋楽 | ○(5) | ●(7) | 大鵬 | |
1966年9月場所 | 千秋楽 | ●(5) | ○(8) | 大鵬 | 北の富士、大関昇進 |
1966年11月場所 | 11日目 | ●(5) | ○(9) | 大鵬 | 玉乃島、大関昇進 |
1967年1月場所 | 11日目 | ○(6) | ●(9) | 大鵬 | |
1967年3月場所 | 10日目 | ○(7) | ●(9) | 北の富士(1) | |
1967年5月場所 | 12日目 | ○(8) | ●(9) | 大鵬 | |
1967年7月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(9) | 柏戸 | |
1967年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(9) | 大鵬 | |
1967年11月場所 | 11日目 | ●(10) | ○(10) | 佐田の山 | |
1968年1月場所 | 11日目 | ●(10) | ○(11) | 佐田の山 | |
1968年3月場所 | 13日目 | ●(10) | ○(12) | 若浪 | |
1968年5月場所 | 13日目 | ●(10) | ○(13) | 玉乃島(1) | |
1968年7月場所 | 12日目 | ○(11) | ●(13) | 琴桜 | |
1968年9月場所 | 10日目 | ●(11) | ○(14) | 大鵬 | |
1968年11月場所 | 千秋楽 | ○(12) | ●(14) | 大鵬 | |
1969年1月場所 | 千秋楽 | ○(13) | ●(14) | 大鵬 | |
1969年3月場所 | 12日目 | ●(13) | ○(15) | 琴桜 | |
1969年5月場所 | 10日目 | ○(14) | ●(15) | 大鵬 | |
1969年7月場所 | 10日目 | ○(15) | ●(15) | 清国 | |
1969年9月場所 | 11日目 | ●(15) | ○(16) | 玉乃島(2) | |
1969年11月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(16) | 北の富士(2) | |
1970年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(17) | 北の富士(3) | 千秋楽北の富士1敗、玉乃島2敗で対戦 優勝決定戦は北の富士勝利。 |
1970年3月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(17) | 大鵬 | 北の富士、玉乃島とも横綱に昇進 |
1970年5月場所 | 13日目 | ○(18) | ●(17) | 北の富士(4) | |
1970年7月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(17) | 北の富士(5) | |
1970年9月場所 | 千秋楽 | ○(20) | ●(17) | 玉の海(3) | |
1970年11月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(18) | 玉の海(4) | |
1971年1月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(19) | 大鵬 | |
1971年3月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(20) | 玉の海(5) | |
1971年5月場所 | 千秋楽 | ○(21) | ●(20) | 北の富士(6) | 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦 |
1971年7月場所 | 千秋楽 | ●(21) | ○(21) | 玉の海(6) | |
1971年9月場所 | 千秋楽 | ○(22) | ●(21) | 北の富士(7) | 最後の対戦 |
- 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗。
北の富士と玉の海の対戦は、両者が交互に優勝を重ねて「北玉時代」とも言われたが、長くは続かなかった。巡業中に入院した玉の海が、1971年9月場所後に虫垂炎が悪化したために緊急入院する。早急に手術して経過は順調だったが、退院前日だった同年10月11日、併発した右肺動脈幹血栓症による急性冠症候群で急逝した。玉の海の早過ぎる死に、巡業先の滋賀県坂田郡米原町(現:米原市)で訃報を聞いた北の富士は、人目をはばからず号泣した。同年11月場所に13勝2敗で8回目の優勝を連覇で遂げた千秋楽の11月28日は、玉の海の四十九日の法要が行われたため、北の富士は優勝パレードを後回しにして法要の席に駆け付けた。
不振・物言いが付く貴ノ花戦[編集]
玉の海との突然の別れから間もない1971年11月場所中、銃刀法違反で逮捕され保釈中であった男のいる西福岡署へあいさつに行ったことが報じられる[24]。これをきっかけとして暴力団関係者からの祝儀を受けたことが発覚したため、協会から戒告処分を受ける。事件そのものについても文部省(当時)が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。土俵でも一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は不振が続いてしまう。
3連覇の期待がかかり、優勝争いの本命とみられていた1972年1月場所では、初日にいきなり大関・琴櫻との取組が組まれて敗れると、8日目の関脇・貴ノ花戦では、北の富士のつき手・かばい手か、貴ノ花が生き体か死に体なのかで大きな話題となった。25代木村庄之助は北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、物言いによって北の富士の勝ちとなった(決まり手は浴びせ倒し)。しかし、2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士は「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っている。[25]
その後、10日目まで6勝4敗、さらに12・13日目と連敗する乱調ぶりで、14日目より胃炎・高血圧などの体調不良で途中休場となった(7勝7敗1休)。これにより、1967年9月場所 - 1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは26場所で止まった[26]。北の富士の不振によって、この場所は千秋楽まで4敗が3人、それを5敗の力士5人が追う大混戦となった。[27]
3月場所も序盤から取り零しが続いて早々に優勝争いから脱落し、勝ち越したものの9勝6敗に終わる。その同年3月場所7日目、貴ノ花との結びの一番では、北の富士が左足で外掛けをかけながら貴ノ花を土俵外へ追い詰めたが、土俵際で両者がほぼ同時に倒れ込み、またも物言いが付く大相撲となった。式守伊之助の軍配は北の富士に挙がったが、協議によって北の富士の左足が僅かに先に出ていたと判定され、北の富士の勇み足・行司差し違えで貴ノ花の勝利となる。この一番は先場所も北の富士のつき手・かばい手を巡って揉めており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が軍配を差し違えてしまう珍事となった。
加速する不振~現役引退[編集]
次の5月場所、北の富士は8日目まで3勝5敗の絶不調、9日目には横綱として前代未聞の「不眠症」で途中休場した。休場するには医師の診断書が必要であるが、極度の不振とはいえ、身体に悪いところはどこにも見当たらない。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」と医師がようやく診断書を書いた、というエピソードが本人の口から語られている。続く7月場所を右手中指の脱臼で全休したが、休場中にハワイへ旅行をしていたことが明るみに出て協会から厳重注意を受けた[28]。北の富士は直ちに帰国して詫び、場所後の夏巡業に参加した。
同年9月場所は3回目の全勝優勝を果たして完全復活をアピールするが、一人横綱の8場所中で輪島大士(同5月場所)と高見山大五郎(同7月場所)が初優勝を果たし、貴ノ花と輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。1973年1月場所後に琴櫻が横綱へ昇進して2人横綱となると、3月場所には14勝1敗で10回目の優勝を果たし、7月場所にも14勝1敗で琴櫻と決定戦を行うなど、健在ぶりを印象づけた。だが、それ以後の1年間は皆勤が1場所だけと急速に衰えていき、3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に旭國斗雄、2日目に大受久晃と連敗して体力の限界を感じ、現役を引退した。引退を発表した当日は平気であったが、翌日に引退が大々的に報道されて自分が引退したことを初めて自覚し、その日は眠れなかったという[29]。なお北の富士の引退で戦前・戦中生まれの横綱経験者は全員引退したこととなる。
引退後[編集]
元々は協会に残るつもりはなく、北海道に帰郷してちゃんこ店を開こうとしていた[22]が、年寄・井筒(12代)を襲名。引退相撲は翌1975年2月2日に行われ、太刀持ち・北の湖、露払い・輪島を従えて横綱土俵入りを執り行っている。断髪式の後に白のタキシード姿で登場し、自らの持ち歌を披露して会場・関係者を驚かせた[30]。
井筒部屋(現在の部屋と別系統)を興したが、1977年に千代の山が没すると、12代九重を襲名し自らの井筒部屋と合同させる形で九重部屋を継承した。その後、先代から引き継いだ千代の富士を第58代横綱に育て上げ、昭和の大横綱として大成させた。千代の富士は北の富士の指導について自著『負けてたまるか』の中で「親方はあまりガミガミ言わないが、ここぞというとこにチクッと何か言って、こっちの気持ちをくすぐったり、反発心を起こさせる。やる気を起こさせるコツをよく知っているのだ。後は見て見ないふりをする」と振り返っている[31]。1987年には北勝海を第61代横綱に育成、さらに孝乃富士・巴富士を小結まで昇進させた[32]。
1981年7月場所後、千代の富士が横綱に昇進した時には、「ウルフ(千代の富士のあだ名)、辞める時はスパッと潔く・綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と、千代の富士に引き際の美学を説いた[33][34]。当時の千代の富士は面食らいながらも、1991年5月場所限りで引退した時は正にこの言葉通り、潔いものだった[要出典]。1992年には引退したばかりの千代の富士に九重部屋を譲って、18代陣幕に名跡交換[35] し、自身は九重部屋の部屋付きの親方となった。ところが、直後に千代の富士の13代九重と金銭問題で仲違いし、1993年10月に北勝海の8代八角が興した八角部屋に移籍した。1992年5月場所直前には、まともに相撲が取れる状態ではないにもかかわらず出場した北勝海に対して、既に部屋を千代の富士に譲っていたにも関わらず、北の富士は北勝海を諭し、北勝海に引退を決意させたといわれている。[要出典]後年、千代の富士との関係は改善された模様であり、後述の還暦土俵入りの際にも千代の富士が率先して随行するなど退職後も交流が続いていた。また、北の富士自身は千代の富士との不仲を一切否定している[36][31]。
審判部副部長(役員待遇)時代に不祥事(知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていた)を起こし、一度委員(無任所)に降格されながらも審判部副部長に返り咲き、理事昇格後は長らく審判部長を務めた。その後は新設された広報部長を務めた。しかし北の富士は2016年のインタビューで「広報らしいことは何もやってなかった。フィルムを提供するなどして、儲けることばかり。当時の協会はそういう考えだった。インターネットを扱える人間も全くいなかったしね」と当時を振り返っていた[37]。
かつて九重部屋の弟子だった千代の富士(のち九重親方)が2016年7月31日、61歳で膵臓癌により死去。2013年1月に大鵬、2015年11月は北の湖前理事長と、昭和の大横綱の相次ぐ訃報に、北の富士は「何でだろうねえ、強い順番で逝っちゃうんだ…」とショックを隠せず、「これは、もう若いも何も…千代の富士本人が一番悔しいでしょう」と追悼のコメントを述べていた[38]。
相撲協会を退職・ホテルで還暦土俵入り[編集]
1998年に相撲協会理事選の候補から外されたことで日本相撲協会を退職[39]。将来は理事長に就くことを期待されていたが本人は「もともといつまでもやる気はないよ。地位にすがるのはみっともないだろ」と後年話している。[40]一方で2016年には「それにしてもウチの部屋は高砂一門内ではもとは"外様"で弱小部屋だったんだ。それで私も相撲協会を離れることとなった。遠い因縁を探すとね」と派閥争いに敗れたことを認めるかのような発言を残している[41]。その後はNHK専属で相撲解説を務めている。大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるケースは、テレビ放送開始以来初めてである。
2002年2月には満60歳を祝い太刀持ち・千代の富士(九重親方)、露払い・北勝海(八角親方)と共に、横綱昇進を果たしたかつての弟子二人を従えての還暦土俵入りが行われたが、相撲協会から退職していたために両国国技館が使えず、都内のホテル(ホテルイースト21東京)のホールを借りての還暦土俵入りとなった[42]。
解説者として[編集]
![]() |
2010年より東京中日スポーツにて自伝「はやわざ御免」を連載している。
5月場所12日目、横綱・白鵬翔は、大関・豪栄道豪太郎の首投げに敗れた。勝負は土俵際でもつれ豪栄道の体も飛んだが、白鵬の右肘が先に土俵外につくという際どい一番だった。白鵬は取組後に礼をせず、その後も土俵下でぼうぜんと立ち尽くした。北の富士は中継で「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」とコメントした[43]。
2017年は、前年末に不整脈に伴う心臓手術を受け、自宅療養のため、1月場所の解説出演を見送ることになった[44]。ただし、1月場所千秋楽の放送中、電話出演している。
3月場所中、新入幕の宇良を贔屓するコメントが目立った。千秋楽でも宇良と逸ノ城の取組が土俵際でもつれて物言いがつく一番になり、VTRが流れると北の富士氏は「あ、(逸ノ城が)早い、手をついているよ」と全力でフォロー。行司差し違えで宇良の勝ちになると「アッハハハ」と上機嫌に笑った。アナウンサーから宇良について聞かれると、「売店に宇良のTシャツが売っているから、買いたいぐらい」と終始ノリノリだった。その後、勝ち越しを決めた宇良のインタビュー映像が流れてくると「かわいいね」と一言。角界でいうところの「かわいがり」ではなく、本来の意味での「かわいい」である。北の富士は基本的に小兵力士が好きである[45]。
11月場所は孫弟子の北勝富士と隠岐の海が共に11勝を挙げ、前者は技能賞を、後者は敢闘賞を獲得。しかしそれぞれ14日目と千秋楽を連敗しており、孫弟子が連敗したことに千秋楽のNHK中継で「今日も続けてやられたかという感じ、全然相撲にならなかった」、「こんな負け方をすると、本人もおそらく(三賞にも)うれしくないですよ。今日は完全に当たり負け。立ち合いもずれています」「今日の相撲は2人ともがっかりしている。今日は私としては不満足」とコメントした[46]。
7月場所4日目、日本相撲協会に「右膝蓋腱損傷、右脛骨結節剥離骨折の疑いで2週間の安静を要する」との診断書を提出して休場した白鵬に対し、NHKの解説の中で予想だにしなかったと驚き、注意不足を指摘した上で最近は小さなけがをよくすると嘆いた[47]。千秋楽、同場所14日目に幕内初優勝を決めた御嶽海が3度目の殊勲賞と2度目の技能賞に輝いた。優勝インタビューで流した御嶽海の涙に対し、「勝負を終わったときは冷静だったのであの涙は意外だった。テレビ観戦だが、泣かせていただきました」と感激した様子だった[48]。
2019年1月場所4日目、この場所限りで引退した稀勢の里が十両昇進を果たした頃について、「出世の早さはめざましかった。当然横綱になる人と思わせた。解説しながら貴乃花より稀勢の里の方が上と発言したことを覚えている」と懐かしそうに振り返った[49]。
人物[編集]
立合いの搗ち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げあり外掛けありと躍動感ある取り口だった[50]。引き技も早かった。また左脇が固く、右四つの型をもつ玉の海に右差しを許すことがほとんどなく、これは千代の山譲りといわれる。外掛けも自信があり「俺の外掛けを内掛けに返したのは玉の海くらいだ」と言っていた。勢いに乗ると手がつけられないが、反面守勢にまわると脆く、無謀な首投げや二丁投げをみせてかえって体勢が悪くなることもあった。四つ相撲の取り手であったが「ゆるいと気持ち悪い」という理由でカタフンにしていた[51]。
現役時代は稽古嫌いで知られており、サインを求められる際に「何か言葉を入れてください」と頼まれても、「忍耐」「努力」とは書かなかったという。本人曰く「『努力』と書いて努力しなかったらみっともない」「琴櫻関ならピッタリくるけどワシが書いても似合わない」。2016年になっても自身が乗ったタクシーの運転手から「親方、稽古しなかったでしょう」と言われたが、本人は後年自著で稽古しなくなったのは現役終盤期のことであって若い頃はきちんとやっていたと主張していた。特に出羽海部屋時代は佐田の山、栃光、栃ノ海などの面々が揃う中で稽古をやらされたという[52]。玉ノ海梅吉からは「底の浅い現代相撲」とその取り口を評され、本格的な右四つの相撲であったライバルの玉の海が好まれたのとは好対照をなした。北の富士は後年「稽古を見ていない割には『稽古が足りない』とか言うんだよ」と当時の批判に対して反論した。出羽の海部屋から破門された形で独立した九重部屋に移籍したことからか、天竜はさらに甚だしく、放送で「あいつは生意気ですよ」と言ったことがある[41]。
現役当時から栃王山とキャバレー「月世界」を共同経営し、札幌市や名古屋市で相撲料理店「ちゃんこ 北の富士」を経営するなど、熱心に副業を手がけていた。さらに、低音を生かした歌声が評価されてレコード吹き込みを勧められ、1967年に発売した「ネオン無情/チャンコ花唄」は50万枚を売り上げた[53][54][55]。その後も何枚かレコードを出して、1969年には当時の人気歌番組「夜のヒットスタジオ」にも「歌手」として出演している(曲は「君を慕いて」)。しかし、大関で成績が停滞していた時期と重なったために、相撲解説者の天竜三郎から「本職は歌手で相撲は内職だろう」と批判されたこともあり、横綱昇進後は歌手との兼業を控えるようになった(2007年に三保ヶ関が28年振りにリリースした新曲「水玉のスカーフ」のカップリング曲、「女房に捧ぐ」では三保ヶ関とのデュオで久々に歌声を披露している[56])。
北の富士は様々なあだ名を受けたが、それについて「四十五年秋場所から次の年の大阪場所まで四場所続けて十一勝四敗。「イレブン横綱」なんていうありがたくないニックネームをちょうだいした。まあ、おれほどいろんな呼ばれ方をされた横綱はいなかったんじゃないかな。『現代っ子横綱』はまだしも、『夜の帝王』と呼ばれては、飲まないわけにはいかない。現役を引退してから新聞記者と付き合うようになって『おれは銀座で三、四億円は使った』なんて話を冗談でしたら、ぱっと広まってね。そこまでいかなくても、飲んだのは事実だけど」と新聞社のインタビューで答えている[22]。
エピソード[編集]
![]() |
- 元大関・清國とは幕内の取組で52回も対戦したが、これは当時で大相撲の歴代最多記録だった[57]。
- 2019年5月場所終了時点で、十両と幕内の双方で15戦全勝優勝を達成した唯一の力士である。
- 親方時代に大相撲会場にオーロラビジョンを設置してはどうかという意見があったが「土俵を見なくなる」という理由で却下されたことなどを自著で明かしている[58]。
- 解説者になってからはファンから着物姿を楽しみにされることがあり、本人も「飲みに行っても『今日は着物じゃないんですか』と言われる。勘弁してほしいよ。そのうち、ゴルフも着物でやらなくちゃいけなくなるよ(笑)」と苦笑している[59]。
評論家として[編集]
- 若貴ブームをきっかけとして協会が興行の努力を怠るようになったと指摘しており「たとえば巡業。力士がホテルの個室に泊まり、ガードマンが花道で警備する。お相撲さんに触ってはいけません、とね」とファンと力士の身近な触れ合いが無くなった点を言及していた。[60]
- ある雑誌の写真を見て、ある横綱が着ている着物の襟にしわが寄っていることに気付いた際「昔は、こんなことありえないですよ。横綱の着物にシワなんて。弟子がきちんと着物をたためなくなってるんですね。昔は、頭をコヅかれながら覚えさせられましたよ。これは、ちょっとみっともないですね。外国から来た横綱本人が気がつかないのは仕方ないにしても」と批判している[61]。
- 『大相撲ジャーナル』2013年10月号のコラムでは同年3月場所の優勝インタビューで観客に対して大鵬に対する黙祷を求める、7月場所の優勝インタビューでこの場所を最後に引退する龍皇について話す、雑誌『相撲』の表紙写真として部屋の序ノ口・(当時)石浦と2人で映るなどの白鵬の行為を「どれも私事じゃないかな」と指摘し、公私混同であるとして批判した。
- 力士達が内容を顧みずテレビ番組に出演することに対しては批判的であり、2014年1月場所直前に幕内力士達が出演する腕相撲対決のテレビ収録が行われた事実に対して「専門に鍛えている人間にかなうはずがない。怪我をした力士もいた。協会広報部もなぜ番付発表後の時期に許可したのか」と厳しく詰めていた。また、力士の大食いを見世物にすることも快く思っていない[62]。
- 隠岐の海に対して辛辣なコメントが多く、あまりに辛辣なコメントが多かったため、彼の両親に口を聞いてもらえなくなった。父親の方とはその後和解したが、母親の方とは今でも口を聞いていない。2014年か2015年に隠岐の島に行ったときは、隠岐の海に対する物言いの厳しさから、現地で酔っ払い数人に絡まれた[63]。
- 2016年に出版された自著では「いま、テレビのほうも、ちょっと長くなると、気がはやって、自分がしゃべろうとする。そういうのが多い感じですね」とNHK大相撲中継のアナウンサーの傾向について話している[58]。
主な成績[編集]
- 通算成績:786勝427敗69休 勝率.648
- 幕内成績:592勝294敗62休 勝率.668
- 大関成績:208勝107敗 勝率.660
- 横綱成績:247勝84敗62休 勝率.746
- 現役在位:105場所
- 幕内在位:64場所
- 横綱在位:27場所
- 大関在位:21場所
- 三役在位:11場所(関脇9場所、小結2場所)
- 連勝記録(幕内):21(1971年9月場所初日 - 1971年11月場所6日目)
- 年間最多勝:3回(1969年:63勝27敗、1970年:75勝15敗(玉の海と同数)、1971年:73勝17敗)
- 連続6場所勝利:78勝(1969年9月場所 - 1970年7月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:26場所(現在歴代7位タイ、当時玉の海の27場所に次ぎ玉錦と並んで歴代2位タイ・1967年9月場所 - 1971年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1969年9月場所 - 1971年5月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:6場所(1969年9月場所 - 1970年7月場所)
各段優勝[編集]
- 幕内最高優勝:10回(全勝3回)(1967年3月場所、1969年11月場所、1970年1月場所、1970年5月場所、1970年7月場所、1971年5月場所、1971年9月場所、1971年11月場所、1972年9月場所、1973年3月場所)
- 同点:1回
- 次点:3回
- 十両優勝:1回(1963年11月場所)
三賞・金星[編集]
- 三賞:6回
- 殊勲賞:2回 (1966年1月場所、1966年3月場所)
- 敢闘賞:1回 (1964年1月場所)
- 技能賞:3回 (1964年5月場所、1964年11月場所、1966年5月場所)
- 金星:1個(大鵬1個)
場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1957年 (昭和32年) |
(前相撲) | 新序 2–1 |
東序二段131枚目 3–5 |
x | 東序二段123枚目 4–4 |
西序二段104枚目 4–4 |
1958年 (昭和33年) |
東序二段91枚目 6–2 |
西序二段58枚目 1–7 |
西序二段76枚目 6–2 |
東序二段39枚目 3–5 |
西序二段46枚目 2–6 |
西序二段61枚目 5–3 |
1959年 (昭和34年) |
東序二段48枚目 6–2 |
東序二段16枚目 6–2 |
東三段目93枚目 6–2 |
東三段目65枚目 2–6 |
西三段目78枚目 3–5 |
西三段目83枚目 3–5 |
1960年 (昭和35年) |
西三段目94枚目 7–1 |
西三段目51枚目 4–4 |
西三段目48枚目 4–4 |
東三段目47枚目 2–5 |
西三段目67枚目 休場 0–0–7 |
西三段目102枚目 6–1 |
1961年 (昭和36年) |
東三段目62枚目 5–2 |
東三段目27枚目 4–3 |
西三段目14枚目 5–2 |
西幕下81枚目 6–1 |
西幕下54枚目 2–5 |
東幕下70枚目 5–2 |
1962年 (昭和37年) |
西幕下45枚目 5–2 |
西幕下32枚目 4–3 |
西幕下29枚目 6–1 |
東幕下11枚目 3–4 |
西幕下12枚目 3–4 |
西幕下15枚目 6–1 |
1963年 (昭和38年) |
西幕下4枚目 6–1 |
西十両18枚目 9–6 |
東十両11枚目 10–5 |
東十両6枚目 4–11 |
東十両17枚目 11–4 |
西十両5枚目 優勝 15–0 |
1964年 (昭和39年) |
東前頭10枚目 13–2 敢 |
東小結 4–11 |
東前頭5枚目 9–6 技 |
西関脇 9–6 |
東関脇 6–9 |
東前頭筆頭 10–5 技 |
1965年 (昭和40年) |
西関脇 8–7 |
西関脇 5–10 |
東前頭3枚目 8–7 ★ |
東前頭2枚目 8–7 |
東小結 10–5 |
東関脇 9–6 |
1966年 (昭和41年) |
東関脇 10–5 殊 |
東関脇 8–7 殊 |
東関脇 10–5 技 |
東関脇 10–5 |
西大関 10–5 |
東大関 10–5 |
1967年 (昭和42年) |
東大関 10–5 |
東大関 14–1 |
東大関 5–10 |
西大関 7–8 |
西張出大関 10–5[64] |
東大関 8–7 |
1968年 (昭和43年) |
東張出大関 10–5 |
西大関 9–6 |
西張出大関 10–5 |
東張出大関 10–5 |
東張出大関 8–7 |
西大関 11–4 |
1969年 (昭和44年) |
西大関 11–4 |
西大関 9–6 |
東張出大関 9–6 |
西大関 9–6 |
東張出大関 12–3 |
西大関 13–2 |
1970年 (昭和45年) |
東大関 13–2[65] |
東横綱 13–2 |
西横綱 14–1 |
東横綱 13–2[66] |
東横綱 11–4 |
東張出横綱 11–4 |
1971年 (昭和46年) |
東張出横綱 11–4 |
東張出横綱 11–4 |
東張出横綱 15–0 |
東横綱 8–7 |
西横綱 15–0 |
東横綱 13–2 |
1972年 (昭和47年) |
東横綱 7–7–1[67] |
東横綱 9–6 |
東横綱 3–6–6[68] |
東横綱 休場[69] 0–0–15 |
東横綱 15–0 |
東横綱 10–5 |
1973年 (昭和48年) |
東横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
東横綱 9–6 |
東張出横綱 14–1[70] |
西横綱 8–3–4[71] |
東張出横綱 10–5 |
1974年 (昭和49年) |
東張出横綱 3–6–6[72] |
東張出横綱 休場[73] 0–0–15 |
東張出横綱 休場[74] 0–0–15 |
東張出横綱 引退 0–3–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴[編集]
- 竹沢 勝昭(たけざわ かつあき):1957年1月場所 - 1959年3月場所
- 竹美山 勝明(たけみやま かつあき):1959年5月場所 - 1960年7月場所
- 北の冨士 勝明(きたのふじ かつあき):1960年9月場所 - 1967年7月場所
- 北の富士 勝明(きたのふじ - ):1967年9月場所 - 1968年1月場所
- 北の富士 洋行( - ひろゆき):1968年3月場所[75]
- 北の富士 勝昭( - かつあき):1968年5月場所 - 1971年1月場所
- 北の富士 勝晃( - かつあき):1971年3月場所 - 1972年5月場所
- 北の富士 勝昭( - かつあき):1972年7月場所 - 1974年7月場所(NHK大相撲解説者としてもこの名前)
年寄変遷[編集]
- 井筒 勝昭(いづつ かつあき):1974年7月9日 - 1977年11月4日
- 九重 勝昭(ここのえ - ):1977年11月4日 - 1992年4月1日
- 陣幕 純樹(じんまく じゅんき):1992年4月1日 - 1994年11月6日
- 陣幕 克昭( - かつあき):1994年11月6日 - 1998年1月31日(退職)
テレビ出演[編集]
テレビ番組[編集]
CM[編集]
ラジオ出演[編集]
関連項目[編集]
大相撲[編集]
出身地[編集]
人物[編集]
作品[編集]
著書[編集]
- 九重勝昭『爆笑大相撲 角界ウラばなし』日之出出版 1983
- 九重勝昭『速攻管理学 "勝ち"をつかむ人材は、こうして育てろ!』(日之出出版、1988年)
- 九重勝昭『土俵で燃えろ 北の富士一代』(東京新聞出版局、1991年)
- 北の富士勝昭『土俵愛 国技・大相撲復興のための四十八手 緊褌一番』(日之出出版、2009年)ISBN 978-4-89198-131-0 C0075
レコード[編集]
脚注[編集]
- ^ 【舞の海の相撲俵論】もののあはれにふれて(1/3ページ) 産経ニュース 2015.12.18 08:39
- ^ 数々の勧誘を全て断り大相撲に進んだ背景には他に、中学の野球部の活動で右肘を故障してしまい高校入学までに治る見込みがなかったという事情があった。
- ^ 現代に『アズキ相場』という言葉が伝わるように、当時はアズキは先物取引に利用されるなど有価証券さながらの扱いを受けていた。
- ^ a b 『天下盗り狼~千代の富士 貢 ─ 九重三代風雲録~』(徳間書店)
- ^ [新弟子検査では体重不足として不合格だったが、前場所から施行された「自費養成力士制度」によって前相撲に進むことができた(この制度は1年で廃止)
- ^ 『近世日本相撲史』第4巻
- ^ いわゆる「定年制度」。厳密には対象力士への養成費支給を停止するものであった。
- レジェンドインタビュー 大相撲元横綱 北の富士勝昭さん 毎日新聞2016年5月14日 東京夕刊
- ^ 北の富士は入門してから3年ほど、1日に20~30発は兄弟子に意味もなく殴られるなど、もとより理不尽な目に遭っていた。
- 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P116
- ^ 東京中日スポーツ・2010年6月24日付 「はやわざ御免 - わが相撲人生」
- ^ ただし9月場所はまだ入院中で全休しており、実際には次の11月場所からこの四股名で土俵に上がった
- ^ 1場所15日制が定着した1949年5月場所以降、十両での15戦全勝は北の冨士以降も栃光正之・豊山勝男・把瑠都凱斗・栃ノ心剛が達成している。北の冨士以外の4人も、その後大関に昇進している。
- ^ 北の冨士が初優勝した1967年3月場所で陸奥嵐、北の冨士が千秋楽解説を務めた2014年9月場所で逸ノ城がタイ記録を樹立した(2014年9月28日放送『NHK大相撲』秋場所より)。
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P186
- ^ 『相撲』2012年1月号によると、この時期の一応の昇進基準の目安として「直前3場所合計30勝前後」が存在していた。
- ^ 近年の報道によれば「三役地位に3場所連続で在位し、かつその合計の勝ち星が33勝以上」が大関昇進の目安と言われているが、協会はその目安を否定している。平成以降では千代大海・稀勢の里・豪栄道が合計32勝で新大関となった例外もある
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P53
- ^ 当時は、「大関の地位で3場所連続負け越した場合は、関脇へ陥落」となっていた。1969年7月場所以降に現在の規定(大関で2場所連続負け越した場合は関脇へ陥落)に変更。
- ^ a b 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p92-97
- ^ その後、横綱審議委員会で横綱昇進を見送られた力士は、25年経った1994年9月場所後の貴乃花光司がいるが、貴乃花も同年11月場所後に横綱昇進を決めている。
- ^ 現在は琴櫻傑將(1967年11月場所 - 1973年1月場所)・武蔵丸光洋(1994年3月場所 - 1999年5月場所)の32場所。
- ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p63
- ^ a b c 『いま語る 私の歩んだ道〈2〉』 (北海道新聞社、2006/02) ISBN 4894533561
- ^ この後、不知火型の土俵入りをしている白鵬が、宇佐神宮の奉納土俵入りで雲龍型の土俵入りを行ったことがある。これは、大分県宇佐市は白鵬が崇拝する双葉山の故郷であり、双葉山の土俵入りが雲龍型であった為、これに敬意を表する形で行ったことによるものである。
- ^ 大相撲ジャーナル』2017年12月号p41
- ^ その後、日本相撲協会には「貴ノ花が勝っていたのではないか?」という抗議が殺到した。この一番を裁いた木村庄之助は進退伺いを協会に提出して出場停止処分を受けたが、3月場所前に廃業した。
- ^ 1972年1月場所であと1勝して勝ち越せば、当時の連続勝ち越し記録の第1位だった玉の海の27場所と並んでいた。
- ^ 加えて、大麒麟將能・前の山太郎の二大関が全休または途中休場、琴櫻・清國の大関同士の取組が14日目にあったため、千秋楽結びの一番に清國と前頭5枚目・栃東知頼が相撲を取る事態となった(千秋楽では琴櫻と関脇・三重ノ海剛司の対戦も組まれたが、番付上は清國が大関上位だったため、琴櫻 - 三重ノ海戦は結び前となった)。栃東が敗れれば10勝5敗の力士8人による優勝決定戦となるところで栃東が勝利・初優勝を果たしたが、11勝4敗の成績は15日制となった1939年5月場所以来で最低だった(1944年5月場所 - 1949年1月場所は15日制ではなかった。15日制に戻って定着した時期は1949年5月場所からで、1996年11月場所に武蔵丸が5人での優勝決定戦の末、11勝4敗で優勝している)。
- ^ 日刊スポーツ 2017年11月22日
- ^ 北の富士氏、稀勢の涙に納得「肩の荷が下りたと思う」/初場所 SANSPO.COM 2019.1.16 16:32(産経新聞社、2019年1月21日閲覧)
- ^ だがこの催しは春日野の顰蹙を買い、ひいては力士の副業・テレビ出演禁止化につながった。北の富士勝昭・嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p47-48
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p70-72より、陣幕貢『負けてたまるか』を孫引き
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p39
- ^ 春日野が栃錦清隆の横綱昇進時にこれと同様の言葉を語っている。北の富士は、栃錦と親しかった師匠の千代の山を通じてこの話を聞かされていたという。
- ^ 自著でも部屋の力士たちの士気に与える影響を考えて心が折れたものは早々と次の人生を歩ませる方針を主張している。
- ^ あまりに早い名跡交換だったためか、新・九重の千代の富士がその事実を失念してしまい、色紙にサインする際に「陣幕」とサインしそうになったというエピソードが大相撲放送の解説中で語られている。
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p39
- ^ 大空出版『相撲ファン』vol.4 13頁から14頁
- ^ 北の富士さん、九重親方弔問「強い順番で…」 日刊スポーツ 2016年8月1日記事
- ^ 一門内で行われた予備選挙で千代の富士が自身を支持しなかったことが原因となって候補から外された。
- ^ 【舞の海の相撲俵論】もののあはれにふれて(3/3ページ) 産経ニュース 2015.12.18 08:39
- ^ a b 大空出版『相撲ファン』vol.4 14頁
- ^ 北の富士以外に国技館外で還暦土俵入りを行ったのは1937年の太刀山(上野精養軒)と、2007年の三重ノ海(ホテル・グランパシフィック・メリディアン)の二人がいる。)
- ^ 白鵬判定にぼう然も「子供でも分かる」と北の富士氏日刊スポーツ2015年5月21日
- ^ 北の富士さんNHK解説見送り 昨年末に心臓手術,日刊スポーツ,2017年1月9日
- ^ 週刊ポスト2017年4月14日号
- ^ 北の富士氏、“孫弟子”北勝富士、隠岐の海の連敗に苦言「がっかりしている」 2017年11月26日18時8分 スポーツ報知(報知新聞社、2017年11月26日閲覧)
- ^ 北の富士氏、白鵬は弱ってきた「あれだけ不死身を誇った体が」/名古屋場所 SANSPO.COM 2018.7.11 18:26(産経新聞社、2018年9月16日閲覧)
- ^ 北の富士氏、御嶽海は天の恵み「泣かせていただきました」/名古屋場所 SANSPO.COM 2018.7.22 16:06 (産経新聞社、2018年9月16日閲覧)
- ^ 北の富士氏、スピード出世の稀勢は「貴乃花より上と発言したことを覚えている」/初場所 SANSPO.COM 2019.1.16 16:20(産経新聞社、2019年1月25日閲覧)
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p23
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p32-33
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P52
- ^ 相撲人名鑑(北の富士 勝昭)(2008年9月19日閲覧)
- ^ 北の富士さん一喝!「高砂が悪い」…朝青龍問題、スポーツ報知、2007年8月12日。
- ^ 後年自著で売上の実数としては20万枚だったと語っており、収益は九重(元横綱・千代の山)に先取りされることはなかったという(北の富士によると九重はそういうことをする親方ではなかったとのこと)。
- 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p49
- ^ どちらも作詞・内館牧子、作曲・船村徹で、二人とも横綱審議委員会メンバーである。
- ^ その後、2001年に武蔵丸-貴ノ浪戦に更新され(58回対戦)、2019年現在の史上最多幕内取組は琴奨菊 - 稀勢の里戦の66回
- ^ a b 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P170
- ^ 大空出版『相撲ファン』vol.4 15頁
- ^ 北海道新聞夕刊 「私の中の歴史-力のサムライ伝」 2005/08/01
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P156-157
- ^ 『大相撲ジャーナル』2014年4月号13頁
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P16-17
- ^ 1969年5月場所以前の「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度の下での大関角番
- ^ 玉乃島と優勝決定戦
- ^ 前乃山と優勝決定戦
- ^ 神経性胃炎・高血圧・慢性腸炎により14日目から途中休場
- ^ 不眠症により9日目から途中休場
- ^ 右手中指第 2関節脱臼及び捻挫により全休
- ^ 琴櫻と優勝決定戦
- ^ 左第11肋骨骨折により11日目から途中休場
- ^ 高血圧により9日目から途中休場
- ^ 右膝関節捻挫により全休
- ^ 右膝関節捻挫により全休
- ^ 姓名判断で勝明の名では交通事故に遭うと言われた際、「ならせめて海外旅行に行きたいなあ」と思って「洋行」に改名したといわれる。
|
|
|
|
|