武蔵丸光洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
武蔵丸光洋 Sumo pictogram.svg
Musashimaru Dohyo-iri.JPG
基礎情報
四股名 武蔵丸光洋
本名 武蔵丸光洋(旧名・米国名:フィアマル・ペニタニ)
生年月日 (1971-05-02) 1971年5月2日(45歳)
出身 アメリカ合衆国ハワイ州
アメリカ領サモア生まれ)
身長 192cm
体重 235kg
BMI 63.75
所属部屋 武蔵川部屋
得意技 突き、押し、右四つ(かつては左四つ)
成績
現在の番付 引退
最高位 第67代横綱
生涯戦歴 779勝294敗115休(86場所)
幕内戦歴 706勝267敗115休(73場所)
優勝 幕内最高優勝12回
十両優勝1回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞2回
データ
初土俵 1989年9月場所
入幕 1991年11月場所
引退 2003年11月場所
備考
通算連続勝ち越し記録歴代1位(55場所)
2012年12月20日現在

武蔵丸 光洋(むさしまる こうよう、1971年(昭和46年)5月2日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身(生まれはアメリカ領東サモア[1])で武蔵川部屋所属の元大相撲力士タレント。第67代横綱。本名同じ、旧名・米国名:フィアマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)。身長192cm、体重235kg。現在は年寄武蔵川。得意手は、突き、押し、右四つ(かつては左四つ)、血液型はA型、8人兄弟の4番目、趣味は音楽鑑賞、愛称は「マル」。

2008年(平成20年)4月にフラダンス教室経営の女性と結婚、同年8月23日に故郷のハワイで挙式。2014年(平成26年)6月28日には第1子となる長男が誕生[2]

来歴[編集]

生い立ち[編集]

アメリカ領サモアで生まれる。6歳の時に一家でハワイに移住したが、サモア語しか話せなかったため、友達もなかなか出来なかったという。 小学校時代にアメリカンフットボールを始め、ハワイ州のワイアナエ高等学校でアメリカンフットボールのディフェンスラインとして活躍し、プロ選手としての活躍を目標としていた。大学からも勧誘されたが、経済的理由で進学を断念した[3]

初土俵から幕内昇進まで[編集]

大相撲入りの勧誘を受けたことを機に、過去に相撲との関わりが全く無かったにも拘らず、「大きな体を生かして家計を助けよう」と決心し武蔵川部屋に入門する[3]。師匠の武蔵川親方(元横綱・三重ノ海)は、その少し前に「武蔵坊」という力士をスカウトしながらあっという間に逃げられた[4]ことから、半年のテスト期間を設け、徹底的に鍛えて[5]様子を見てから初土俵を踏ませることにした。そして「これなら大丈夫だ」と見なされ、1989年(平成元年)9月場所に初土俵を踏んだ。四股名は所属する武蔵川部屋と本名のフィアマルの「マル」から付けた。

入門当初、武蔵川は口では「ハワイに帰りたくなったら言ってね」と安心させたが、武蔵丸本人は「そんなこと言えるわけがない」とすでに相撲に本気で打ち込むつもりであった。前相撲が終わってから「ビザが切れて日本に滞在できなくなった」と武蔵川から聞くと、当時日本語が流暢でなかった武蔵丸は「お前はもうこれ以上相撲ができない。もう今日で終わりだよ」と誤って解釈してしまい、半日ほど釈然とせず悔し涙を流したという。尤も、これは一度出国してビザを更新すればよかっただけのことであった[6]

1991年(平成3年)11月場所に終生のライバルとなる貴ノ浪らと同時に新入幕、東前頭12枚目の地位で11勝4敗を挙げて敢闘賞を受賞した。大きな体を生かした突き押しと、右四つからの寄りを得意とした。新入幕前の相撲雑誌には、「ハンマーで固めたようながっしりとした体の力士」で、「と一緒にハワイアンコンビとして若貴兄弟(若乃花貴乃花)の終生のライバルとなるだろう。」と記述されており、新入幕前から大変な期待があったことが伺える。そしてこの通り、後年に曙(第64代横綱)・貴乃花(第65代横綱)・若乃花(第66代横綱)らと4横綱時代を築くこととなった[3]

1992年(平成4年)5月場所に新三役(小結)に昇進。これ以降引退まで常に三役以上の地位を保ち続けた。同年7月場所は終盤まで優勝を争い、11勝4敗の好成績を挙げ、初の技能賞を受賞した。翌9月場所には関脇に昇進し、10勝5敗と二桁勝利を挙げた。その後はやや停滞していたが、1993年(平成5年)11月場所では8日目に横綱・曙を突き落としで破り、13勝2敗の好成績を挙げて史上初となる外国人力士同士による優勝決定戦に進出。再び曙と対戦、敗れて優勝はならなかったが、初の殊勲賞を受賞した。1994年(平成6年)1月場所は大関獲りの場所となり、順調に白星を重ねて12勝3敗の好成績で2回目の技能賞を受賞。同場所後、貴ノ浪と同時に大関昇進を果たす[7]。なお大関昇進時の口上は「日本の心を持って相撲道に精進致します」であった[8][3]

その後も貴ノ浪とは対照的な取り口ながら実力は伯仲、良き好敵手として長く名勝負を繰り広げた。ちなみに武蔵丸対貴ノ浪の幕内対戦回数58回は、当時大相撲史上第1位の記録であり(2016年5月場所現在、琴奨菊稀勢の里の60回が1位、史上3位は日馬富士対稀勢の里の57回)、対戦成績は武蔵丸の37勝21敗となっている(他十両の地位と1996年11月場所の優勝決定戦でも貴ノ浪と戦っており、共に武蔵丸が2勝)。

西郷隆盛に良く似た容貌で、日本人に親しまれた[9]。武蔵丸を応援する「さつま武蔵丸の会」が結成される[10]など、特に鹿児島県民から愛された。髪は黒の直毛、体型も腰高でなく、またあんこの度合いもハワイの先達力士ほどではなかった。こうした条件が重なって、日本人力士の中に入っても浮き上がることがなく、大関昇進に渋い顔をするファンはあまりいなかった[3]

大関時代[編集]

新大関の1994年3月場所は序盤5連勝したものの、その後は黒星が増えて9勝6敗に留まる。同年5月場所では終盤まで優勝を争ったが、千秋楽に貴ノ花(当時)に敗れ12勝3敗の優勝次点に終わった。しかし続く7月場所では、千秋楽に貴ノ花を下手投げで倒して、15戦全勝で念願の幕内初優勝を達成。武蔵丸と同じハワイ出身の先輩である高見山小錦、曙もなし得なかった史上初の外国出身力士による幕内全勝優勝を果たした。初優勝を遂げた際、武蔵丸の目は真っ赤に充血し、「うれしいよ」を繰り返すばかりで、後は言葉にならなかったと後年に伝わる。優勝パレードでは大雨、暴風、稲光に見舞われ、ずぶ濡れの凱旋となった。[11]12勝の優勝次点に続く全勝優勝と、横綱昇進の基準である「二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績」に値する実績だったが、当時は昇進の目安が厳しかったこともあり殆ど話題にならなかった。次の9月場所は初の綱獲りとなったが、結局11勝4敗に留まり失敗。尚同場所11日目の琴の若戦では、最高位が横綱の力士としては平成以降唯一の水入りを経験した[12]

その後も終盤まで何度も優勝争いに加わる成績を残すが、横綱の曙・貴乃花らにあと一歩届かない成績が続いた。さらに左肩関節の負傷の影響により、1996年から3場所連続で9勝6敗の成績が続き、その後も10勝前後に落ち着いてしまい低迷した。その低迷を挽回すべく右差しで腕を返して寄る相撲に変えたのが功を奏し、これまで分の悪かった貴乃花戦は1997年(平成9年)以降12勝7敗と勝ち越し、晩年は5連勝して終わっている(但し優勝決定戦を除く)。なお武蔵丸は、1996年(平成8年)まで対貴乃花戦では7勝22敗と大敗しており、特に貴乃花の横綱昇進以降は1勝10敗で全く歯が立たなかった。なお、その1勝は1995年(平成7年)11月場所千秋楽に立合い変化で勝ち、若貴兄弟による優勝決定戦を実現させた相撲だった。また、貴乃花との優勝決定戦では4戦全敗である(1995年1月場所、1997年9月場所、2001年1月場所、2001年5月場所)。

1996年1月22日に日本国籍を取得し、本名を「武蔵丸光洋」としている[13]

貴乃花が初日から全休した1996年11月場所は、11勝4敗ながら幕内歴代最多数となる史上初の5人(ほか曙・若乃花・貴ノ浪・魁皇)での優勝決定巴戦となった。1回戦は武蔵丸が若乃花を寄り倒し、魁皇をすくい投げた貴ノ浪と共に巴戦進出へ。そして巴戦でも武蔵丸は1回戦不戦勝の曙と、そして最後は貴ノ浪をそれぞれ寄り切りで下して2連勝、14場所ぶり2回目の幕内優勝を達成する。尚15日制定着後で11勝の優勝は幕内最少勝星タイ記録(1972年1月場所の栃東以来24年ぶり2度目)である。ちなみに武蔵丸は全勝から12勝までの優勝も経験しており、11勝~15勝の5通りの勝利数での優勝を経験した唯一の力士である(2016年現在)。続く1997年1月場所は2回目の綱獲りだったが、優勝の若乃花に及ばす惜しくも12勝3敗に留まった。貴乃花が途中休場した翌1998年(平成10年)1月場所も混戦となったが、12勝3敗で武蔵丸が7場所ぶり3回目の幕内優勝。同年3月場所3回目の綱獲りに挑むが、前半戦の取り零しが響いて8勝7敗と又しても失敗に終わった。

1999年(平成11年)1月場所は、序盤から中盤にかけて黒星が先行、幕内昇進後初の負け越しも懸念されたが終盤持ち直し、7勝7敗で迎えた千秋楽の武蔵丸は貴乃花を土俵際で突き落とし、辛うじて8勝7敗と勝ち越した。

その次の3月場所は、場所終盤の11日目から当時の3横綱(貴乃花・若乃花・曙)が全員休場し、横綱不在となってしまった(ほか新大関の千代大海、関脇武双山らも途中休場。なお3横綱の全員休場は、1950年1月場所の羽黒山東富士照國以来49年ぶり)。この異常事態に当時の時津風理事長(元大関・豊山)が異例の謝罪会見を行っている。それでも武蔵丸と貴ノ浪の当時2大関が奮起し、千秋楽は両者12勝2敗同士の相星決戦となって場所を盛り上げた。その千秋楽結びの一番は武蔵丸が貴ノ浪を寄り切って完勝、13勝2敗で4度目の幕内優勝を果たした。また武蔵丸は同場所で、幕下時代から続く通算連続勝ち越しが51場所となり、当時の北の湖が持つ50場所[14]を更新する新記録を達成した。

翌5月場所、武蔵丸は通算4回目の綱獲りとなった。場所前半で平幕力士に2敗を喫して心配されたが、その後連勝を続けて優勝争いの先頭に立ち、千秋楽は11勝3敗と1差で追う横綱曙との対戦となる。その千秋楽結びの一番は、武蔵丸が曙を押し倒して13勝2敗の成績で5度目の幕内優勝を決める。また大関として2場所連続優勝を果たし、ついに5月場所後に横綱昇進となった。連覇を果たしたものの、直近3場所合計34勝(平成時代の横綱昇進者では最低記録)の成績や3月場所が3横綱不在だったことに注文が付いたが、当時通算52場所連続勝ち越し中だった安定感と、優勝5回の実績を評価された形で昇進が認められた。なお大関32場所目での横綱昇進は、琴櫻と並ぶ史上1位タイのスロー昇進だった。因みに大関在位32場所の間負け越し・角番は一度も経験しなかったが、これは大相撲史上最長の記録[15][3]である。またこの昇進を最後に、日本国籍を持つ横綱は2016年(平成28年)現在17年に渡り1人も誕生しない状態が続いている。

横綱時代[編集]

横綱昇進伝達式では「横綱の名を汚さぬよう心・技・体に精進します」と予定していたところ言い間違えて「横綱の名を汚さぬよう・・・。ショウジン・タイにいたします」という不思議な口上を述べてしまうというハプニングが起こった[16]。横綱昇進披露では、初土俵を踏む前にハワイのタロイモで作ったを出席者に振舞った[17]横綱土俵入りは、師匠の武蔵川親方同様に雲龍型を選択、土俵入りの指導も武蔵川親方が行った。しかし武蔵丸の横綱土俵入りは、せり上がりがかなり不安定で四股の足があまり高く上がらない事もあり、200kgを超える力士としては今一つ重量感に欠け、決して上手いとは言い切れなかった。

新横綱の1999年7月場所は優勝を逃すも、千秋楽に曙を破って弟弟子の関脇(当時)・出島の援護射撃を果たすなどの活躍で12勝3敗の成績をおさめ、次の9月場所も12勝3敗で横綱として初の幕内優勝を成し遂げた[18]。そして翌11月場所も千秋楽の11勝3敗同士の相星決戦で貴乃花を掬い投げで下して[19]12勝3敗で連覇を果たす。また横綱に昇進した1999年は、武蔵丸にとって初めての年間最多勝を受賞。但し、当時は他の横綱が不調または休場していた時期であり、しかも全て12・13勝での低レベルな幕内優勝であった。

2000年(平成12年)1月場所には左尺骨手根伸筋附着部炎のため、4日目から初土俵以来初めての途中休場となる。先場所まで継続中だった連続勝ち越し記録がストップとなった。この頃から故障が目立つようになり、以降左手首の故障に悩まされることになる。また同年5月場所は、場所直前の稽古中に左膝を捻挫したため、初めて初日から全休となった。同年9月場所、14日目で武蔵丸一人14戦全勝で5場所ぶり8回目の優勝が決まったが、千秋楽は横綱曙に敗れて1994年7月場所以来の15戦全勝はならなかった。結局2000年の優勝はこの一度だけに終わった。

2001年(平成13年)は1月場所と5月場所、貴乃花との優勝決定戦に進出するも、2回共に敗れて優勝を逃している。特に同年5月場所、14日目の武双山との一番で巻き落としで敗れた際、右半月板損傷の大怪我を負っていた横綱貴乃花(その後7場所連続休場、貴乃花の優勝もこれが最後だった)に対し、千秋楽の本割り結びの一番は突き落としであっさり下すも、優勝決定戦でも気を遣ったのかまさかの上手投げに横転し優勝を逃した(のちに武蔵丸は「貴乃花のケガが気になってしまいやりにくかった」とコメント)。その後7月場所からは、貴乃花の長期休場により実質上7場所の間一人横綱の時代が続いた。同年9月場所は平幕力士に5つも金星を献上(歴代の横綱で1場所5個もの金星配給は歴代ワースト記録)してしまい9勝6敗と不調だったが、翌11月場所は13勝2敗で7場所ぶり9回目の優勝となった。またこの2001年、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞している(仮に11月場所も優勝を逃した場合、優勝が一度も無いまま史上初の年間最多勝という珍記録となっていた)。

2002年(平成14年)1月場所は、左手首の故障再発で途中休場するものの、同年3月場所・5月場所と2連覇を達成。7月場所は首痛の影響で終盤崩れて10勝5敗に終わるも、翌9月場所の千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。その優勝のインタビューで武蔵丸は「今までの優勝の中で一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。」と笑顔でコメントする。しかし皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又二人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化、靱帯剥離骨折により6日目から途中休場した(前日の取組では貴ノ浪と対戦し下手投げで敗れていた)。場所後に手術を決行したものの左手首は結局全快する事はなく、現役最終盤の頃にはほぼ全ての腱が切れており、左手の握力が20kgを切るほど重症化していた[6]

現役引退[編集]

2003年(平成15年)1月場所から5月場所まで、左手首手術後のリハビリ専念の為3場所連続全休。その間同年1月場所9日目に平成の大横綱・貴乃花が引退、同場所後に朝青龍が第68代横綱に昇進。同年7月場所へ4場所振りに出場したが、又しても左手首痛の影響からか2勝3敗と不振、6日目から途中休場(朝青龍も9日目で5勝4敗と不調で10日目より途中休場、横綱不在となった)。翌9月場所も怪我の治療により全休。そして次の11月場所で進退を掛けるも6日目で3勝3敗と波に乗れず、結果的に現役最後の相撲となった2003年11月場所・7日目の土佐ノ海戦では、引っ掛けにあっけなく自ら土俵を割ってしまい、思わず天を仰いだ[20]。その日の夜、武蔵川部屋で武蔵丸自ら現役引退を伝えると、部屋の弟弟子である武双山、雅山武雄山らは揃って号泣し、また当時平幕に落ちていた好敵手の貴ノ浪も、翌8日目の支度部屋で大粒の涙を流したという。なお、この引退によりこれ以降番付から日本国籍を持つ横綱が姿を消すことになった。

現役引退の記者会見では、かつて高校時代にアメフトの試合で首を痛めており[21]入門当初から左肩には殆ど力が入らなかったということを明らかにした[22][23]。武蔵川親方にすら引退会見のその時まで語ったことのなかった痛みを抱えながら、14年間で通算連続勝ち越し55場所(歴代1位)[3]、外国出身力士最多の幕内706勝(引退当時、2014年1月場所2日目に白鵬が更新)外国出身力士最多優勝回数12回(引退当時。現在は白鵬が保持)などを記録した。

2004年(平成16年)10月2日に引退相撲が行われ、露払い雅山、太刀持ち武双山を従えて最後の土俵入りを披露した。

引退後は、年寄・武蔵丸として武蔵川部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた[20]。当時武蔵丸は年寄名跡を取得していなかったため、本来は年寄として活動することはできないが、横綱は引退後5年間は現役時の四股名で一代年寄として活動できる制度があり、武蔵丸はこれを利用していた。

任期が切れる直前の2008年10月22日、武蔵丸は停年(定年。以下同)退職していた朝嵐大三郎が所有していた年寄名跡「振分」を借り(2010年4月7日からは高見盛精彦が所有)、日本相撲協会理事会は、武蔵丸の年寄振分襲名を承認した[24][25]。これにより、武蔵丸は引き続き武蔵川部屋付き親方として協会に残ることが決まった。一代年寄の年限間際になっても年寄株取得を巡る動きは表沙汰にならず、帰国して実業家の道を歩むなどと報道されてもいたため、このニュースはいささか意外感を持って受け止められた。翌日付の東京中日スポーツによると、問題が山積している角界で、何か力になれることはないかと考えるようになったからだという。なお借り株での襲名のため、引退から5年経過した同年11月場所中に委員待遇を解かれ、全年寄の序列最下位となった[26]2012年8月30日、停年退職していた旭國斗雄が所有している年寄名跡「大島」へ名跡変更することが承認され、3代目大島親方となった[27]

2013年2月4日、先代武蔵川親方の停年退職により年寄名跡「武蔵川」を取得し、年寄・武蔵川を襲名した[3][28]。同年4月1日付で内弟子の力士2人と床山1人を連れて武蔵川部屋を独立(事実上の再興)し、師匠として後進の指導に当たっている。なお、部屋の弟子の武蔵国は実の甥である。

相撲協会の職務では監察委員を務めている。借株時代は規定により平年寄に留め置かれていたが、名跡を取得してから1年が経った2014年4月の職務分掌で主任に昇格している。5年以内に年寄名跡を取得しなかった影響もあるが、元横綱が引退から10年以上かけて主任以上に昇格した例は極めて珍しい。2015年2月の職務分掌では主任昇格から1年弱で委員に昇格。

2010年からデイリースポーツ相撲評論家を務めているほか、小錦らが所属する芸能事務所KPに所属し、「武蔵丸」名義でタレント活動も行っている。2014年3月には、国技館すぐ近くのJR両国駅に大関時代の優勝額を寄贈し、以前からあった師匠・三重ノ海の優勝額と一緒に展示されている。

取り口など[編集]

入幕から大関時代初期までは安定感のある突き押しを武器にして、期待に違わぬ快進撃を続けた。アメフトの技術を応用したことによるもので、幕内時代の鬼雷砲との対戦ではアメフトばりのタックルで鬼雷砲を土俵際まで吹っ飛ばしている。しかし、1996年頃から太り過ぎもあって次第に突き押しの回転が鈍り、突き押しでは曙ほどの破壊力を示すことができなくなり、また四つ相撲では腰が軽く簡単に転んでしまう上に左肩の致命的な故障(先述)の影響で相手に右上手を引かれるといとも簡単に崩れるなど、物足りなさの残る内容で苦闘を強いられることになった。

その後、突き押し主体の相撲では、覇権を握る貴乃花には通じないことを悟り、1997年頃から取り口をモデルチェンジした。すなわち右を差し、その太い右腕を返して相手を浮かせながら出て行く取り口である。この安定感と破壊力が両立されたスタイルを身につけて横綱昇進を果たし、1999年〜2002年頃までライバルの曙・貴乃花・若乃花・貴ノ浪らが怪我による不振や相次ぐ引退に喘ぐ中、第一人者としての責任を全うした。

  • 高見山・小錦・曙らといった、ハワイ出身力士の欠点である下半身の脆さが殆ど無く、入門以前から抱えていたものを除けば怪我も少なかった。寧ろ足腰の強さは折り紙つきであり、錣山(元関脇・寺尾)が「バスケットもうまかったですよ。200キロの人間がダンクシュートをするなんて、世界的にもあまりいないんじゃないかと思います。一度垂直跳びをやる機会があったんですが、僕は一生懸命やっても69センチくらい。ところが、武蔵丸は80センチ跳んでいました。」とその脚力について証言していた[29]
  • 大成を実現させた右差し、腕を返して出る取り口は左上手を必要としない、まさに右腕一本で掴んだものだった。1996年の頃から左手首が満足に使えなかったようであり、片腕で取っても勝てるように喜んで取り口を変えたという[6]
  • その取り口には安定感が有り、「混戦に強い」と言われた事もあったが、何故か優勝決定戦には非常に弱く、7回決定戦に出場した内の幕内優勝達成は1回(5人の幕内優勝決定戦を制した1996年11月場所)のみであった。
  • 近年、外国人力士が土俵上でエキサイト気味になることがしばしばあるが、現役時代の武蔵丸は終始淡々としていて、そのようなことは殆ど無かった。さらに武蔵丸は土俵外で話題になることも少なかったため、外国人力士としては比較的地味な印象が強かった。だが同じハワイ出身の小錦は「マルは息抜きが上手だった。俺は神経質過ぎるところがあったけど。でも武蔵丸は平気だった。切り替えがうまいんだよね」と精神面を語ったことがある[30]

エピソード[編集]

  • 硬い肉と白米が好き。特に白米に至っては、大相撲ハワイ巡業の解説を行う為にハワイに行った際に「ハワイはご飯が出ないから辛いね」とまで発言したほど。米に馴染めたことが、相撲取りとして成功する一因にもなっている。
  • まだ新弟子のころ、部屋に大量のサバが差し入れられたことがあった。武蔵丸は「オレがやるよ」と、包丁を握り締めて駆け寄ってきた。周囲が好奇心で見守る目の前、鮮やかにサバを三枚におろしてみせ、周りを驚かせた。[11]しかし武蔵丸がちゃんこ場に立つと先代武蔵川は「お前はちゃんこ番をやりにハワイから来てるんじゃないんだよ。稽古やれ!」と叱ったという。[23]
  • かなりのゲーム好きで知られた。場所中に後輩達を引き連れ、アーケードゲームで遊んでいる姿を相撲ファンによく目撃されている。
  • 特命リサーチ200Xというテレビ番組で打撃の威力を計測した際、張り手で1トン以上(1150kg)を記録した。更に立ち合いの威力では2トン以上(2280,5kg)を記録した。
  • 2002年1月7日の稽古総見を欠席した際にプロレス観戦をしていたことに対して、当時横綱審議委員会の委員を務めていた内館牧子は「社会人として最低」などと非難した。これにたいして師匠の武蔵川は「手首の故障が理由で欠席しただけ」と話し、抗議する意向を示した。 内館の自著によると、この件がきっかけとなって自身が「横審の魔女」の異名を冠するようになったのだという[31]
  • めちゃイケ数取団のコーナーにゲスト(兄貴)出演した際は、ゲームそのものは4敗と振るわなかったものの、罰ゲームの関取団との相撲では流石の貫録を見せつけ、真っ向勝負で打ち負かした。真剣相撲で関取団に土をつけたのは武蔵丸ただ一人である。その時の対戦相手で現在は同じ事務所に所属する火の竜には現役時代にも対戦し勝利している。
  • 2007年6月に武蔵川部屋創立25周年パーティーが開催され、その席で師匠の武蔵川が還暦土俵入りを行なったが、元横綱が露払い・太刀持ちに起用されることが多いにもかかわらず、元横綱の武蔵丸は起用されず、実際に起用されたのは露払いが雅山、太刀持ちが出島だった[32]
  • 2007年7月7日に行われた第3回アメリカンフットボール・ワールドカップ開幕・日本対フランス戦(川崎市等々力陸上競技場)でコイントスを行った。ちなみにその際に着用したユニフォームの背番号は第67代にちなんで67番であった。
  • 2007年8月26日にロサンゼルスの新選組の夏祭りにゲストとして参加した。
  • ハワイ出身力士の先輩である元大関で現在はタレントの小錦と共演すると、薄くなった頭髪をイジられることが多い。(すぽると!ボクらの時代など)
  • 2010年2月4日、第68代横綱・朝青龍が度重なるトラブルに責任を取り、突然現役引退を表明。その朝青龍が引退記者会見で思い出の一番に、「両親の目の前で横綱武蔵丸を倒した相撲(2001年5月場所初日)」を述べた事に触れ、当の武蔵丸本人は「そうだったの。今まで何十番、何百番と相撲取ったけど、その一番と言われたら嬉しいよね。でもこういう形で引退するのは、今も信じられないし大変残念だ」と神妙な面持ちでコメントしていた。
  • 引退後240キロあった体重は、夫人の協力有ってダイエットに成功し150キロまで減った。しかし武蔵川部屋を再興してからは弟子に稽古をつけるために体重を少しずつ元に戻している。
  • 引退から丸10年が経過した2013年12月31日には日本航空の恒例行事である餅つきで自身が杵柄を取った際に石臼が割れてしまう事態が発生した。[33]
  • 部屋創設後、ハワイ出身者であることから弟子集めのパイプを持っておらず大変苦労したと言い、相撲未経験者や運動未経験者などを勧誘せざるを得ないことなど思いの丈をテレビ番組で語っていた[34]
  • 土俵上で塩撒きを過剰に行うことに関しては批判的であり、横綱時代の体験に基づき「自身が取る頃には土俵がほとんどが、塩の状態になってしまっている。塩が土俵上にあると滑りやすくなる」と話したことがある[34]
  • 同じ1971年(昭和46年)生まれで、新入幕・1991年11月場所、新大関・1994年3月と共に同時昇進で、大相撲史上最多(当時)の幕内58回も対戦したライバル・貴ノ浪こと音羽山親方が2015年(平成27年)6月20日、43歳の若さで急性心不全の為に死去。東京都内の取材に応じた武蔵丸は「今の関取にはない、しぶとさを持っていた。リーチが長く足技もあり、何をしてくるかわからない。嫌な相手だった」と現役時代を振り返った後、「まだ気持ちの整理がつかない。友達が1人、いなくなってしまった…」と寂しそうに語っていた[35]
  • 昭和の大横綱千代の富士(第58代横綱)こと九重親方が2016年(平成27年)7月31日、61歳で膵臓癌により病死。九重親方と同じく当時観察委員を務めた武蔵丸は8月3日、九重部屋を弔問に訪れた時記者陣に対し「(直前の7月場所中に)疲れた、きついと言っていた。そんなことを言う人じゃないからびっくりした」と明かし、又同場所を途中休場する際に九重親方から直接電話を受けたという。さらに武蔵丸は「自分が(大相撲界へ)入門した時は30回ぐらい優勝していた。(住む)世界が違う人だった」と先輩横綱を悼んでいた[36]

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:779勝294敗115休 勝率.726
  • 幕内成績:706勝267敗115休 勝率.726
  • 大関成績:353勝127敗 勝率.735
  • 横綱成績:216勝67敗115休 勝率.763
  • 幕内在位:73場所
  • 横綱在位:27場所
  • 大関在位:32場所(横綱昇進者では琴櫻と並び、歴代最長在位記録)
  • 三役在位:11場所(関脇9場所、小結2場所)
  • 連勝記録:22(2001年5月場所4日目-2001年7月場所10日目)
  • 年間最多勝:1999年(70勝20敗)、2001年(73勝17敗)
  • 連続6場所勝利:73勝(2001年1月場所〜2001年11月場所)
  • 通算連続勝ち越し記録:55場所(歴代1位、1990年11月場所〜1999年11月場所)
  • 幕内連続勝ち越し記録:49場所(白鵬の51場所・北の湖の50場所に次いで歴代3位、1991年11月場所〜1999年11月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:10場所(1994年5月場所〜1995年11月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:5場所(1994年11月場所〜1995年7月場所、1999年3月場所〜1999年11月場所)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:12回(1994年7月場所、1996年11月場所、1998年1月場所、1999年3月場所、1999年5月場所、1999年9月場所、1999年11月場所、2000年9月場所、2001年12月場所、2002年3月場所、2002年5月場所、2002年9月場所)
  • 十両優勝:1回(1991年7月場所)
  • 三段目優勝:1回(1990年5月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(1989年11月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:4回
    • 殊勲賞:1回(1993年11月場所)
    • 敢闘賞:1回(1991年11月場所)
    • 技能賞:2回(1992年7月場所、1994年1月場所)
  • 金星:なし
    • 武蔵丸の入幕当時、在位していた北勝海・旭富士が現役晩年だったことと、二人共に対戦前に休場・引退により、平幕時代に横綱と対戦が一度も無かった。横綱初挑戦は関脇時代の対曙戦。ちなみに、同時入幕だった貴ノ浪も同様で、現役時代後半とはいえ、自身が大関から平幕に落ちた後、本割で実現した横綱戦はライバル・武蔵丸との対戦だった。

場所別成績[編集]

  

武蔵丸光洋
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1989年
(平成元年)
x x x x (前相撲) 西 序ノ口 #41
優勝
7–0
1990年
(平成2年)
東 序二段 #56
6–1
 
西 三段目 #94
6–1
 
東 三段目 #40
優勝
7–0
東 幕下 #25
5–2
 
西 幕下 #11
2–5
 
西 幕下 #24
6–1
 
1991年
(平成3年)
東 幕下 #9
4–3
 
西 幕下 #4
4–3
 
東 幕下 #1
5–2
 
東 十両 #11
優勝
11–4
東 十両 #3
10–5
 
東 前頭 #12
11–4
1992年
(平成4年)
東 前頭 #3
9–6
 
西 前頭 #1
9–6
 
西 張出小結
8–7
 
東 小結
11–4
西 関脇
10–5
 
東 関脇
9–6
 
1993年
(平成5年)
東 張出関脇
10–5
 
東 関脇
10–5
 
東 関脇
9–6
 
西 関脇
8–7
 
東 関脇
8–7
 
西 張出関脇
13–2[37]
1994年
(平成6年)
東 関脇
12–3
西 張出大関
9–6
 
東 張出大関
12–3
 
西 大関 #1
15–0
 
東 大関 #1
11–4
 
西 大関 #2
12–3
 
1995年
(平成7年)
西 大関 #1
13–2[38]
 
東 大関 #1
12–3
 
東 大関 #1
12–3
 
東 大関 #1
12–3
 
東 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
10–5
 
1996年
(平成8年)
西 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
9–6
 
東 大関 #2
9–6
 
東 大関 #2
10–5
 
東 大関 #2
11–4
 
西 大関 #1
11–4[39]
 
1997年
(平成9年)
西 大関 #1
12–3
 
西 大関 #1
12–3[40]
 
東 大関 #1
9–6
 
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
13–2[38]
 
東 大関 #1
12–3
 
1998年
(平成10年)
西 大関 #1
12–3
 
東 大関 #1
8–7
 
西 大関 #1
10–5
 
西 大関 #1
12–3
 
東 大関 #1
11–4
 
東 大関 #1
11–4
 
1999年
(平成11年)
東 大関 #1
8–7
 
東 大関 #1
13–2
 
東 大関 #1
13–2
 
西 横綱
12–3
 
西 横綱
12–3
 
東 横綱
12–3
 
2000年
(平成12年)
東 横綱
2–2–11[41]
 
東 横綱 #2
11–4
 
東 横綱 #2
休場[42]
0–0–15
東 横綱 #2
10–5
 
西 横綱
14–1
 
東 横綱
11–4
 
2001年
(平成13年)
西 横綱
14–1[38]
 
西 横綱
12–3
 
西 横綱
13–2[38]
 
西 横綱
12–3
 
東 横綱
9–6
 
東 横綱
13–2
 
2002年
(平成14年)
東 横綱
1–3–11[43]
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
10–5
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
4–2–9[44]
 
2003年
(平成15年)
東 横綱
休場[45]
0–0–15
東 横綱
休場[45]
0–0–15
西 横綱
休場[45]
0–0–15
西 横綱
2–4–9[46]
 
西 横綱
休場[47]
0–0–15
西 横綱
引退
3–5–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士との幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
16* 22** 旭豊 7 2 湊富士 8 1 琴稲妻 7 0
朝青龍 5 4 安美錦 2 1 安芸乃島 32 11 琴別府 4 2
小錦 8 7 魁皇 26 20 琴錦 26 18 琴龍 6 1
高見盛 4 1 旭鷲山 17 2 琴ノ若 29 13 敷島 4 0
千代大海 11 9 旭天鵬 10 1 琴光喜 7 3 大善 6 2
闘牙 15 0 旭道山 8 2 貴闘力 37 8 千代天山 6 3
水戸泉 10 3 智ノ花 4 1 貴ノ浪 37* 21 浪乃花 6 0
小城錦 11 2 蒼樹山 10 0 貴乃花 19 29**** 追風海 6 0
栃東 16 8 霧島 6 2 玉春日 14 3 肥後ノ海 11 2
栃乃洋 17 4 寺尾 14 3 玉乃島 5 2 三杉里 18 2
栃乃和歌 23 0 時津海 4 0 若の里 10 5 北勝力 2 0
舞の海 5 1 土佐ノ海 28 6 若乃花 24* 14 朝乃翔 5 0
隆乃若 9 2 濱ノ嶋 8 0 剣晃 12 3 巌雄 4 0
久島海 7 1 鬼雷砲 4 1 北勝鬨 6 0 海鵬 3 3
  • 他に優勝決定戦巴戦も含む)で、若乃花・貴ノ浪に各1勝、曙に1勝2敗、貴乃花に4敗がある。

太字は2015年現在、現役力士

年寄名変遷[編集]

  • 武蔵丸 光洋(むさしまる こうよう)2003年11月 - 2008年10月
  • 振分 光洋(ふりわけ-)2008年10月 - 2012年8月
  • 大島 光洋(おおしま-)2012年8月 - 2013年2月
  • 武蔵川 光偉(むさしがわ みつひで)[48]2013年2月 -

TV出演[編集]

CM出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 武蔵丸日記「大阪出張、ビジネスマン!」2009年10月2日 - 出生地がサモア沖地震 (2009年)の被害に遭ったことへの言及がある。
  2. ^ 武蔵川親方に待望の第1子・男の子誕生 DAILY SPORTS ONLINE 2014年6月30日
  3. ^ a b c d e f g h 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)172ページから173ページ
  4. ^ 初土俵から2場所目の昭和62年11月場所において、序ノ口で全勝優勝を果たしているが、その次の場所には引退。後に武蔵川親方は、「素質はあいつの方が上だったはずだ」と語っている。
  5. ^ このテスト期間から「ノーベルト、プッシュ、プッシュ」と突き押しの相撲を徹底的に仕込まれた。
  6. ^ a b c 久保誠『武蔵丸光洋氏から学ぶ―社会人の鉄則』日本人事労務研究所代表取締役
  7. ^ 大関同時昇進は1977年1月場所後の若三杉・魁傑(再)以来。但し二人共新大関だと1972年9月場所後の輪島・貴ノ花以来となる。
  8. ^ 主な力士の大関昇進時の口上 nikkansports.com 2011年11月30日9時16分
  9. ^ もっとも西郷本人の写真は、写真嫌いもあって一枚も残っておらず、武蔵丸に似ているとされるよく知られる肖像画銅像は後世の画家や彫刻家が親族の顔や証言を参照して想像で作ったため、本当に似ているかどうかは現在においては定かではない。ただし体格については、大男ぞろいであった西郷家歴代の男たちと比しても劣らぬ立派なものであった。
  10. ^ 化粧回しも贈られている。
  11. ^ a b 日刊スポーツ 1994年7月18日付日刊スポーツ紙面
  12. ^ 但し当時武蔵丸の地位は大関だった為「現役横綱の水入り」は平成以降皆無である。
  13. ^ KONISHIKIオフィシャルサイト[1]
  14. ^ それから16年後の2015年(平成27年)7月場所で白鵬も連続勝越記録が51場所となり、北の湖を超える(通算2位・幕内1位)記録となった。
  15. ^ 横綱昇進者で同じく大関負越・角番無しでの史上2位は、旭富士の17場所。
  16. ^ 第71代横綱・鶴竜誕生!口上シンプル「一生懸命努力」 Sponichi Annex 2014年3月27日 05:30
  17. ^ この酒は「横綱になるまでは飲まない」という理由で封印していたため、横綱昇進を果たしたことで開封できるようになった。
  18. ^ この場所千秋楽結びの一番で武蔵丸は若乃花に勝利しての優勝だったが、若乃花はこれで7勝8敗となり一場所15日制になって以降大乃国以来2度目の横綱皆勤負け越しの屈辱を味わってしまう。尚もし武蔵丸が若乃花に負ければ、11勝4敗同士の最低成績での優勝決定戦へ2度出場する珍記録となる所だった。また、この場所においては次点の力士(11勝)が安芸ノ島ただ一人という混戦ぶりだった。
  19. ^ 貴乃花が上下真っ逆さまの体勢になるほどの豪快な掬い投げであり、ちょうど空穂づけの定義を満たしているが、現在では空穂づけは決まり手として採用されていない。
  20. ^ a b 日刊スポーツ紙面2003年11月16日付
  21. ^ 引退から数年後に雑誌『相撲』で「たまたま首の防具を付けずに試合に出たら負傷して選手生命を断たれた」と具体的に証言したことがある。
  22. ^ 首の後遺症によって、現役時代はダンベルを右手で20kgのものを持てたのに対し、左手では6kgがやっとであった。
  23. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2016年11月号12ページから13ページ
  24. ^ 武蔵丸親方が年寄「振分」襲名 MSN産経ニュース(2008年10月22日)
  25. ^ 武蔵丸親方が年寄「振分」襲名 スポーツ報知 2008年10月22日
  26. ^ 年寄・武蔵丸時代は委員待遇の平年寄だったため、給料は委員と同じであり、序列は平年寄の最上位だった。それが持ち株で襲名している平年寄よりも格下とされ、しかも借り株で襲名の平年寄の序列は襲名期間によって決まるため、序列最下位に置かれた。
  27. ^ 振分親方が「大島」に変更 大相撲の元横綱武蔵丸 日本経済新聞(電子版) 2012年8月30日
  28. ^ 日本相撲協会 新体制”. 2013年2月4日閲覧。
  29. ^ [虎四ミーティング]錣山矩幸(元関脇・寺尾)<前編>「細身でも強かった理由」 現代ビジネス Sportsプレミア 2012年4月13日
  30. ^ KONISHIKIから見た武蔵丸 武蔵丸光洋公式ウェブサイト
  31. ^ 内館牧子『「横審の魔女」と呼ばれて』(朝日新聞出版)
  32. ^ これは見栄え(肉体の張り具合や左右のバランス)を考慮したもので、共に最高位大関で当時現役の出島と雅山を起用した方がバランスがよいと判断したため、と思われる(還暦土俵入りでは、太刀持ちが元横綱、露払いが元大関以下という組み合わせは例がない)。太刀持ちが武蔵丸では、露払いを務める部屋の他の力士は最高位が大関であるため、綱を張れない(例として、元武双山の藤島親方)。
  33. ^ JALの大晦日恒例餅つき、臼が割れる番狂わせ 羽田空港国際線ターミナルで Aviation Wire 2013年12月31日 23:20
    因みにその石臼は円柱形ではなく半球形であり、厚さも通常の半分弱であった。
  34. ^ a b ジョブチューン 2013年10月19日放送分
  35. ^ 貴ノ浪急死:元横綱・武蔵丸「心の広い人だった」毎日新聞 2015年06月22日記事
  36. ^ 武蔵川親方が弔問「世界が違う人」前九重親方と同じ監察委員務めるスポニチ 2016年08月03日記事
  37. ^ と優勝決定戦
  38. ^ a b c d 貴乃花と優勝決定戦
  39. ^ 曙・3代若乃花貴ノ浪魁皇と優勝決定戦
  40. ^ 貴乃花・曙・魁皇と優勝決定戦
  41. ^ 左尺骨手根伸筋附着部炎により4日目から途中休場
  42. ^ 左膝関節捻挫により全休
  43. ^ 左手関節三角線維軟骨複合体損傷により4日目から途中休場
  44. ^ 左手関節三角線維軟骨複合体損傷(陳旧性靱帯剥離骨折)により6日目から途中休場
  45. ^ a b c 左手関節三角線維軟骨複合体損傷(陳旧性靱帯剥離骨折)術後により全休
  46. ^ 左手関節挫傷により6日目から途中休場
  47. ^ 左手関節挫傷により全休
  48. ^ 「偉」は、先々代武蔵川から受け継がれた通字(先々代は「喜偉」、先代は「晃偉」)。先代までと同様「ひで」と読むが、日本相撲協会公式サイト英語版では当初「Mitsuhiro」と誤植されてしまい、後に訂正された。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]