取組

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取組(とりくみ)は相撲試合のことをいい、大相撲ではと言ったほうが通りがいい。

取組編成会議[編集]

大相撲の取組は、審判部が取組編成会議を開いて決定する。取組編成会議の構成委員は、審判部長2名、審判部副部長1名、審判委員20名、副理事3名の合計26名で、これに行司5名程度が書記として出席する(2013年3月場所現在)。

幕内の取組編成は、初日、2日目の分は初日の2日前に[1]、3日目以降の分は前日の午前に決定して発表する。また、千秋楽の分は14日目の夕方に編成される。十両の取組編成は、初日の分は2日前に、2日目以降の分は取組とほぼ同時進行で編成される。また幕下以下の取組編成は、2日に1度まとめて編成し、13日目以降の分は12日目に3日分をまとめて決める。

取組編成要領[編集]

取組編成における決まりは、取組編成要領(1971年(昭和46年)7月施行)に表記されている(以下、原文のまま)[2]

第1条
本場所相撲の取組は、取組編成会議において作成する。
第2条
取組編成会議は、審判部の部長、委員を以て組織する。監事は、取組編成会議に同席するものとする。
第3条
取組編成会議には、書記として行司を出席させることができる。但し、発言することは出来ない。
第4条
取組は、当分の間相撲部屋総当りにより編成するものとする。
第5条
取組は、本場所の初日の2日前に初日、2日目の取組をその後は前日に取組を編成し、発表するものとする。
第6条
取組は、段階別に番附順位により編成することを原則とする。但し、下位の力士をその成績により横綱大関と取組ませることができるものとする。
第7条
上の段階の力士に欠場者のあった場合は、下の段階の力士をその成績により上の段階の力士と取組ませることができるものとする。
第8条
病気、怪我等により欠場する力士が生じた場合、相撲部屋の師匠は即刻その旨を審判部長に届出なければならない。
第9条
欠場力士があった場合、審判部長は取組編成会議にその旨を報告し、取組編成を行うものとする。 但し、欠場者の届出が取組編成終了後の場合は、直ちに取組編成会議を開き改めて取組編成を行うものとする。

取組編成の慣例[編集]

幕内・十両の取組編成[編集]

幕内の取組編成は、幕内前半に対戦する下位力士は初日は同地位の力士と対戦するように組む。逆に幕内後半に対戦する上位力士は、千秋楽に同地位の力士と対戦することを慣例としている。十両でも初日には幕内前半の力士と同様に同地位の力士と対戦するように組む。

すなわち、最上位の東横綱は千秋楽が西横綱、14日目が東大関、13日目が西大関という具合になる。横綱対役力士、大関同士の対戦は原則として組まれることになっているが、幕内下位の力士が好成績を挙げる展開になった時には「割を壊す(崩す)」といい、対戦相手が一部、通常とは変更になることがある。開催日が土日となる初日、7日目、8日目には注目の取組が組まれることが多く、初日の取組では、東横綱は小結、西横綱は前頭筆頭あたりが対戦相手として選ばれることが多い。大関同士の取組や横綱-大関戦は、通常は早くても中日(8日目)以降に割が組まれるが、横綱・大関の人数が多いときなどは7日目以前に組まれることもある。1972年(昭和47年)1月場所から翌1973年(昭和48年)11月場所まで、横綱-大関戦および大関同士の取組が毎場所、序盤戦5日目までに19番も組まれたことがある(エピソードの項参照)。

幕下以下の取組編成[編集]

幕下以下の力士は、15日間毎日取組のある十両以上の力士とは異なり、通常1場所7番しか相撲を取らない。原則として、初日か2日目に1番相撲、3日目か4日目に2番相撲を取り、12日目まで同様に6番相撲までを取り、7番相撲は13日目か14日目か千秋楽に取る。全勝力士を多く出さないようにするため、幕下以下の取組編成は、原則としてスイス式トーナメント方式を取り入れている。

1番相撲は東西の同地位の力士同士を対戦させ、初日は奇数枚目同士(幕下東筆頭vs幕下西筆頭、幕下東3枚目vs幕下西3枚目、…)、2日目は偶数枚目(幕下東2枚目vs幕下西2枚目、幕下東4枚目vs幕下西4枚目、…)を原則としている。2番相撲以降は、原則として互いに番付の近い相星(同成績)の力士同士を対戦させる。即ち、2番相撲は1勝同士、1敗同士が対戦する。3番相撲は、2勝同士、1勝1敗同士、2敗同士が対戦する。4番相撲は、3勝同士、2勝1敗同士、1勝2敗同士、3敗同士が対戦する(5番相撲、6番相撲、7番相撲も同様)。ただし休場者・部屋などの関係でその原則に合わない取組が組まれることがある。

これにより全勝力士の人数が番数消化に連れて半数ずつ減って行き、最終的に全勝力士(7戦全勝)は各段毎に1人前後に収まり、当該力士がその場所の各段優勝、若しくは優勝同点となる。ただし、全勝者の番付が離れ過ぎている場合には、星違いの対戦を組むこともある。ほぼ毎場所7戦全勝力士が複数出る三段目序二段より枚数が少ない幕下や序ノ口では、全勝力士が消え、6勝1敗の多人数(幕下では7〜9人程度、序ノ口では3〜5人程度)で優勝決定戦を行うことも稀にある。

段違いの対戦などについて[編集]

休場者の発生により幕内の出場力士が奇数となったときの穴埋めや、いわゆる入れ替え戦などで、幕内対十両(上位力士)の取組が組まれることがあり、これは幕内の取組として扱われる。また同様の理由で、十両対幕下(上位力士)の取組が組まれることがあり、これは十両の取組として扱われる。十両対幕下の場合、十両力士と対戦する幕下力士は番数が1番前倒しになることがある。幕下以下でも同様に、幕下対三段目、三段目対序二段、序二段対序ノ口の取組があり、いずれの場合も上の方の地位の取組として扱われる。全出場者が奇数になった場合は、幕下上位や序ノ口下位で対戦する日をずらしたり、八番相撲を取らせたりして調整する。

同部屋・4親等以内の取組回避[編集]

1965年(昭和40年)1月場所以降は部屋別総当たり制となっているため、同部屋の力士は本割では対戦が組まれない。部屋が異なる場合でも兄弟・従兄弟・叔父などの血縁者同士の場合は、本割では対戦が組まれない。

1962年(昭和37年)11月場所12日目、幕下最後の一番で3勝2敗同士の長谷川(西2枚目・佐渡ヶ嶽部屋)-四季の花(西6枚目・宮城野部屋)戦が組まれていたが、叔父と甥の血縁関係(四季の花の姉が長谷川の母親)に当たるという理由でこの取組が削除されるという出来事があった。両力士の6番相撲は14日目に、それぞれ別の力士と組まれた[3]。ちなみに、以前より宮城野(第43代横綱吉葉山)から2人を対戦させないように審判部に申し入れが出されていたものの、両者は2回対戦している(1回目は1961年(昭和36年)9月場所初日、2回目は1962年(昭和37年)3月場所3日目。結果は四季の花の2戦2勝[4])。従って、「血縁者同士は対戦しない」という不文律はこの取組を境に定着したものと推察される。

これまで不文律とされていたが、2009年(平成21年)1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。また従来は審判部の内規で、入門時の申請に基づいて兄弟などの取組は回避してきたが、2009年1月場所において光龍翔天狼が互いに親戚関係だと訴え、追跡調査をする事例が発生したことから、入門時点で親戚関係も明記させることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる[5]。その後光龍と翔天狼は2010年1月場所で対戦している。

優勝決定戦における同部屋・兄弟による優勝決定戦の代表的な例としては、1995年(平成7年)11月場所の大関3代若乃花-横綱貴乃花がある。

取組表[編集]

奇数日はが上位、偶数日は西が上位となっている。呼出による力士の呼び上げも、奇数日は東方から、偶数日は西方から呼び上げる。

横綱土俵入りの後中入りの時間を利用して、「顔触れ言上」といって土俵上で立行司または三役格行司が、翌日の取組が一枚毎に半紙に書かれた「触れ」を観客に示しながら読み上げる。なお十両以下で取り直しの相撲などで取組進行が遅くなった場合は省略することもある。

お好み[編集]

地方巡業などでは、勧進元や観客の要望に応える形で組まれる取組も多く、こうした取組は「お好み」と呼ばれる。本場所で見ることのできない同部屋対戦や、地元出身の注目力士と横綱、大関との取組などが好まれる。

意味合いは違うが、昭和天皇が威勢の良い相撲を好んだためもあり、昭和の天覧相撲では、1975年(昭和50年)5月場所8日目の前頭筆頭富士櫻-小結麒麟児(現・北陣)戦など激しい突っ張り合いが期待される取組を組むことが恒例になっていた。

エピソード[編集]

江戸時代〜昭和(戦前・戦中)時代[編集]

  • 1791年(寛政3年)4月場所より、幕内力士は千秋楽に出場せず、幕下以下力士のみの取組となった。これは1909年(明治42年)頃まで続いた。
  • 1909年6月場所、両国常設館(旧両国国技館)が開館され、江戸時代より続いた晴天10日間興行が晴雨に関わらず10日間興行と改められ、それまで幕内力士は千秋楽を休場していたものが10日間皆勤出場となり、千秋楽にも幕内力士の取組が行われるようになった。
  • 1943年(昭和18年)5月場所(開催は4月)、戦局がますます激しくなる中、4日目を終わったところで警戒警報の発令により取組が途中3日間休止となり、再開後の10日目(4月18日)、午後3時の定時ニュースが流れた後、「連合艦隊司令長官・山本五十六元帥の戦死」の臨時ニュースが流れ取組が一時中止、竹下勇海軍大将大日本相撲協会会長が追悼の辞を土俵上で読み上げ、その後再会最初の取組前頭17枚目龍王山-同10枚目青葉山戦は、再三の取り直しに勝負がつかず引き分け協会預りとなり、翌11日目の朝「敢闘精神の欠如」として2人に無期限出場停止とする前代未聞の裁定を下すが、2日間の出場停止で許され13日目より再出場した。

昭和(戦後)時代[編集]

  • 1949年(昭和24年)5月場所より、1944年(昭和19年)1月場所以来5年ぶりに取組が15日制となるが、この時は幕下以下各段も15番取ることになった(この場所序ノ口のみ14番、1951年(昭和26年)9月場所まで。翌1952年(昭和27年)1月場所より三段目以下は8日制となり、1953年(昭和28年)3月場所より幕下以下が8日制となる)。ちなみにこの間、幕下以下の優勝で最高の成績は1950年(昭和25年)9月場所の序二段・柏潟で14勝1敗、同じく最低の成績での優勝は1951年1月場所の序ノ口・郡山の8勝7敗。
  • 1953年3月場所3日目の取組表は、結びの一番関脇三根山-横綱東富士戦を除く序ノ口からの取組114番すべての東西を入れ違えて印刷してしまい、その「」のまま最後まで押し切ったため、東西を間違える力士が続出。十両、幕内の土俵入りも各力士が混迷するという事態が起きた。
  • 1960年(昭和35年)7月場所より幕下以下の取組を、それまでの8日制を改めて7日制とした。
  • 1961年(昭和36年)5月場所4日目、前頭13枚目佐田の山-十両筆頭清ノ森(のち清勢川、清乃盛、清の盛)戦で清ノ森が勝利した。場所が終わってみれば幕内最高優勝は佐田の山(12勝3敗)で十両優勝は清ノ森(12勝3敗)、十両優勝力士が幕内最高優勝力士に黒星をつけるという、当時としては話題の取組となった。
  • 1961年11月場所、前頭筆頭の開隆山は全取組15番の内、横綱・三役との取組が一場所最多の13番(初日-横綱柏戸、3日目-小結岩風、4日目-大関北葉山、5日目-横綱初代若乃花、6日目-横綱大鵬、7日目-横綱朝潮、8日目-大関若羽黒、9日目-大関琴ヶ濵、10日目-関脇佐田の山、12日目-関脇栃ノ海、13日目-小結出羽錦、14日目-小結冨士錦、千秋楽-関脇羽黒山)あったが、見事3横綱(柏戸、大鵬、朝潮。朝潮戦は不戦勝)2大関(若羽黒、琴ヶ濵)から白星を挙げ、9勝6敗と勝ち越し殊勲賞を受賞、翌場所の新三役(小結)昇進を手中にした。
  • 1966年(昭和41年)5月場所より、幕下付出は幕下最下位から相撲を取らせることにした。
  • 1971年(昭和46年)6月に取組編成要領を決定し、幕内下位でも大きく勝ち越した力士を、横綱・大関と取り組ませることとした。
  • 1972年1月場所初日、いきなり横綱北の富士-大関琴櫻戦が組まれ(初日の横綱-大関戦は史上初)、翌2日目には大関同士の清國前の山戦が組まれている。これ以降、翌1973年11月場所まで毎場所、序盤戦5日目までに組まれた横綱-大関戦および大関同士の取組は全部で19番ある。このうち横綱-大関戦が7番、大関同士の取組が12番ある。しかし翌1974年(昭和49年)は5月場所4日目の大麒麟北の湖戦の大関同士1番のみだった。また1977年(昭和52年)には、同じく5日目までに組まれた横綱-大関戦は4番、大関同士の取組は5番という記録が残っている。この年は3月場所から9月場所まで5大関(貴ノ花若三杉(のち2代若乃花、現・間垣)、魁傑三重ノ海旭國)がいたため、下位に各同部屋力士もいることから取組編成上、前半戦までに対戦することもあった。取組の詳細は下記の通り(すべて5日目までの取組、太字は横綱)。
    • 1972年(横綱-大関4番、大関同士6番)
    • 1月場所 初日 ●北の富士 - 琴櫻○、 2日目 ●清國 - 前の山○
      • この場所千秋楽結びの一番に、前頭5枚目先代栃東-大関清國戦が組まれたが、平幕力士が千秋楽結びで相撲を取ることは極めて異例で、清國を破った栃東は史上初めて平幕力士として千秋楽結びで白星をあげた(11勝4敗で初優勝)。ちなみに1972〜1973年の2年間に千秋楽結び前の取組に出場した平幕力士は1972年7月場所の北の湖(7枚目、対大関琴櫻)、同年9月場所の栃東(4枚目、対大関琴櫻)、1973年3月場所の富士櫻(12枚目、対大関輪島)、同年9月場所の高見山(4枚目、対大関貴ノ花)の4人。
    • 3月場所 初日 ○前の山 - 大麒麟●、 5日目 ●北の富士 - 大麒麟○
    • 5月場所 2日目 ○大麒麟 - 琴櫻●
    • 7月場所 3日目 ●琴櫻 - 清國○
      • この場所、横綱北の富士が全休し、大関大麒麟も5日目から休場したため、結果的に大関以上同士の取組はこの一番だけで、千秋楽結びの一番は、大関清國と関脇長谷川の対戦になった。
    • 9月場所 5日目 ○北の富士 - 大麒麟●
    • 11月場所 初日 ○輪島 - 大麒麟●、 3日目 ●清國 - 琴櫻○
      4日目 ○清國 - 北の富士
  • 1973年(横綱-大関3番、大関同士6番)
    • 1月場所 2日目 ●清國 - 琴櫻○、 4日目 ○大麒麟 - 貴ノ花●
    • 3月場所 2日目 ●大麒麟 - 清國○、 5日目 ●琴櫻 - 清國○
    • 5月場所 4日目 ●清國 - 貴ノ花○
    • 7月場所 5日目 ●大麒麟 - 琴櫻
    • 9月場所 4日目 ●大麒麟 - 清國○
    • 11月場所 3日目 ○大麒麟 - 貴ノ花●、 4日目 ●清國 - 輪島
  • 1974年(大関同士1番)
    • 5月場所 4日目 ●大麒麟 - 北の湖○
  • 1977年(横綱-大関4番、大関同士5番)
    • 3月場所 初日 ○貴ノ花 - 旭國●、 4日目 ○北の湖 - 三重ノ海●
    • 5月場所 3日目 ○旭國 - 三重ノ海●、 5日目 ○北の湖 - 魁傑●
    • 7月場所 3日目 ○旭國 - 三重ノ海●、 5日目 ○北の湖 - 魁傑●
    • 9月場所 3日目 ○輪島 - 三重ノ海●、 4日目 ○旭國 - 魁傑●
      5日目 ○魁傑 - 三重ノ海●
  • なお序盤戦5日目までの横綱ー大関戦に関しては、部屋別総当たり制が始まった1965年(昭和40年)1月場所より9月場所まで8番の割が組まれ、この年序盤戦に組まれた横綱ー大関戦としては最多。詳細は下記の通り(太字は横綱)。
  • 1965年(横綱-大関8番)
    • 1月場所 3日目 ○大鵬 - 北葉山●、4日目 ○佐田の山 - 栃ノ海
    • 3月場所 2日目 ●北葉山 - 栃ノ海
    • 5月場所 2日目 ○北葉山 - 栃ノ海
    • 7月場所 2日目 ●栃光 - 佐田の山○、4日目 ○栃ノ海 - 北葉山●
    • 9月場所 2日目 ○栃ノ海 - 北葉山●、5日目 ●栃光 - 佐田の山
      • 上記の取組の中でも横綱栃ノ海-大関北葉山戦は序盤戦に4番(2日目3番、4日目1番)と最も多く組まれている。
  • ちなみに1970年(昭和45年)以降の横綱-関脇戦、大関-関脇戦の序盤戦5日目までの取組となると、横綱-関脇戦では1970年3月場所から翌1971年(昭和46年)11月場所まで毎場所あり、全部で21番。1973年1月場所から翌1974年7月場所にも毎場所あり、全部で18番の取組があった。大関-関脇戦では1970年11月場所から1974年9月場所まで5年にわたり毎場所あり、全部で69番の取組がある。
  • 史上最多の関脇5人の番付となった1972年7月場所、前頭筆頭の豊山は、ただ一人関脇5人全員との取組(2日目-対三重ノ海、3日目-対魁傑、6日目-対貴ノ花、8日目-対輪島、9日目-対長谷川)があった。豊山は三重ノ海、貴ノ花には敗れたが魁傑、輪島、長谷川に勝ち、3大関(大麒麟、清國、琴櫻)からも白星を挙げ(対大麒麟は不戦勝)、10勝5敗の活躍で翌場所の三役昇進を決めた。
  • 蔵前国技館の開催が最後の1984年9月場所、13日目を終えて幕尻に近い前頭12枚目・多賀竜(現・鏡山)が1敗で単独トップ、大関・若嶋津(現・松ヶ根)と前頭6枚目・小錦が2敗で追う展開になった。翌14日目、本来は大関・若嶋津と横綱・千代の富士(現・九重。同場所は既に4敗と不調だった)の取組が行われる予定だったが、平幕の小錦と多賀竜の二人が優勝争いに加わっていたため、千代の富士-若嶋津の割が壊され(消され)、千代の富士-小錦・若嶋津-多賀竜の取組にそれぞれ変更された。結果この対戦は小錦と多賀竜の平幕力士がそれぞれ勝利、若嶋津は3敗と後退し優勝争いから脱落[6]。千秋楽も大関同士の琴風(現・尾車)-朝潮(現・高砂)の割が崩され、ひとり2敗の小錦が琴風と、単独トップで1敗の多賀竜が朝潮とそれぞれ取組が変更された。結果千秋楽は小錦が琴風に敗れ12勝3敗となったため、この時点で多賀竜の平幕優勝が決まった(多賀竜も朝潮に敗れ、多賀竜の成績は13勝2敗)。

平成時代[編集]

  • 1991年(平成3年)3月場所6日目、史上初の外国人幕内力士同士の大関小錦-小結の取組が行われた。勝負は押し出しで曙の勝ち。
  • 1992年(平成4年)5月場所、一人横綱北勝海(現・八角)が場所前に引退、西大関霧島(現・陸奥)が4日目から、東関脇栃乃和歌(現・春日野)が10日目からそれぞれ途中休場、西関脇曙も3日目に小錦と対戦済み、という事情が重なって、千秋楽結びの一番は東大関小錦に東小結安芸ノ島(現・高田川)が当てられた。小結力士が千秋楽の結びで取るのは昭和以降初、関脇以下力士としても1972年7月場所の西張出関脇長谷川以来のことだった。
  • 1992年11月場所、番付通りなら千秋楽結びの一番は東大関小錦に西大関曙となるはずだったが、小錦が2日目から休場。そのままでは史上初の外国出身力士同士の千秋楽結びの一番は見送りとなるはずだったが、西張出大関霧島も中日8日目から休場(翌場所で関脇に陥落)、結果的に曙と東関脇武蔵丸(現・武蔵川)によって実現することになった。なお、小錦と曙はこれ以前にも同年7月場所で千秋楽結びの一番を取るはずだったがこの場所では曙が全休、また翌1993年1月場所では優勝を争う曙と貴花田の一番を千秋楽に組むために割がくずされ、結果的にこの両者による千秋楽結びの一番は一度も実現せずに終わってしまった。
  • 1994年(平成6年)1月場所3日目、序二段の取組に、あわや同部屋同士の対戦となりそうなミスがあった。周防山-滝下の一番で、ともに押尾川部屋の力士。もちろん事前にわかったため、「相撲はありませんので、あらかじめご了承ください」の場内アナウンスがあり、取組は削除された。同例としては1987年(昭和62年)11月場所7日目に、同じ序二段で東関部屋力士同士、武田-高見富士の取組があり、同様に削除された。
  • 1994年5月場所3日目、幕内前半戦で元大関同士の前頭5枚目小錦-同11枚目霧島戦は1959年(昭和34年)3月場所14日目、前頭19枚目大内山-同8枚目三根山戦以来35年ぶりの元大関同士の取組となったが、その上幕内最高優勝経験者同士の取組となると、小錦-霧島戦が史上初となった。
  • 1994年5月場所千秋楽、一人横綱曙の途中休場の関係で、結びの一番は東大関貴ノ浪(現・音羽山)-東関脇琴錦(現・中村)戦。西大関2代貴ノ花は貴ノ浪とは同部屋(二子山部屋)で対戦出来ず、東張出大関武蔵丸と貴ノ浪との割を千秋楽に組むと武蔵丸以外の役力士との対戦を終えている貴ノ花の千秋楽の相手が平幕力士になってしまうためだった。この相撲、琴錦が一方的に貴ノ浪を押し出して勝利したが、千秋楽結びで関脇が勝ったケースは、1955年(昭和30年)3月場所の大内山(対横綱千代の山戦)以来39年ぶりだった。
  • 1994年7月場所3日目、十両で蒼樹山(現・枝川)-若翔洋の取組が組まれたが、東から登場すべき蒼樹山(東筆頭)が西から登場し、西から登場すべき若翔洋(東6枚目)が東から登場した。幕下以下では東西逆に登場することは時々あるが十両以上では珍しく、この日は休場力士による割返しも行われていなかったという。
  • 1995年(平成7年)7月場所、新入幕の前頭7枚目土佐ノ海(現・立川)は初日大関3代若乃花、2日目横綱貴乃花との取組が組まれた。初日に新入幕力士が初顔で大関と対戦することは昭和以降では初めて。同じく新入幕力士が2日目に横綱と対戦した前例としては1941年(昭和16年)5月場所、前頭11枚目双見山男女ノ川と対戦、初顔で見事金星を挙げた。土佐ノ海は初日、2日目と連敗、この場所7勝8敗と負け越し。
  • 1996年(平成8年)11月場所前、横綱貴乃花は9月場所後の巡業で脇腹をひねり背筋に肉離れを起こしていた。ケガが完治しない中、貴乃花は同年11月場所を当初は強行出場する意向を表明したが、11月場所初日の前日に急性腸炎による高熱で急遽入院したため、一転して休場。この日発表された初日および2日目の取組は、急遽佐渡ヶ嶽審判部長(元横綱・琴櫻)をはじめ、審判委員を招集し割り返しが行われた。貴乃花1人の休場で幕内は20番のうち16番、十両に至っては13番すべての取組が変更になった。初日前日に取組が変更になった前例は、1975年(昭和50年)3月場所、横綱北の湖と対戦する予定だった小結旭國が膵臓炎で入院、「初日から横綱が不戦勝では格好がつかない」と判断され割り返しが行われたが(北の湖は西関脇黒姫山と対戦)、それ以来21年ぶりの珍事だった。
  • 2000年(平成12年)3月場所、本来ならあるべき横綱同士の対戦がなくなるという異例の事態が起きた。12日目まで幕尻の前頭14枚目貴闘力が全勝、13日目に武蔵丸、14日目に曙の両横綱と対戦しており、横綱同士の対戦は14日目の武蔵丸-貴乃花戦、千秋楽の貴乃花-曙戦の2番で、貴闘力の活躍で曙-武蔵丸の取組がなくなるという史上初めての珍事となった。幕尻の力士が好成績で横綱と対戦することも、1979年(昭和54年)9月場所13日目に前頭14枚目の朝汐(現・高砂)が横綱三重ノ海と対戦して以来2度目であった。幕尻の貴闘力が2日連続で横綱戦に割が組まれたことも、横綱同士の対戦より優勝争いを優先する取組として割が組まれている。貴闘力は両横綱には敗れたが、千秋楽関脇雅山(現・二子山)を破り、13勝2敗で見事初優勝を果たした。
  • 2000年5月場所7日目、三段目の千代白鵬朝ノ霧戦で、朝ノ霧の廻しが外れて局部が露出したため、審判委員がすぐさま取組停止を命じ、朝ノ霧の反則負けとなった。前例に1917年(大正6年)5月場所3日目、十両の取組で幕下・友ノ山-十両・男嶌戦で同様に男嶌の廻しがはずれ反則負けとなって以来、83年ぶりの不浄負けとなった。
  • 2000年11月場所6日目、平成時代に入ってからは異例の早さで魁皇(現・浅香山)対出島(現・大鳴戸)戦という、大関同士の取組が組まれていた。3横綱・5大関と上位力士が多く、さらに休場の力士が一人もいなかったことによるものと思われる。また、同じく6日目の十両全12番(当時)の取組で史上初めて西方力士が全て勝ちとなった。
  • 2002年3月場所初日、この場所新入幕の鳥羽の山がこの日の朝稽古で負傷したため急遽休場することとなった。このため、この日の対戦相手だった高見盛(現・振分)は不戦勝となったが、初日2日前に発表されていた2日目の取組は割返しが行われ、対戦予定だった貴闘力は不戦勝とはならなかった。
  • 2004年(平成16年)7月場所7日目の幕内取組は異例の早さで進行した。十両の取組で3番物言いがつき、2番が取り直しとなったため、午後3時50分の幕内土俵入りが4時30分頃にずれ込み、約40分も遅れたことが原因だ。通常3回程度の仕切り回数を幕内後半戦の途中(大関戦の前)まで、幕下以下と同様の1回とした。よって翌中日8日目には幕内取組開始を15分繰り上げた。
  • 2009年11月場所千秋楽結びの一番で横綱白鵬が横綱朝青龍を破り15戦全勝で12回目の優勝を果たしたが、1958年(昭和33年)より年6場所制以降、横綱同士の取組(本割り)で年6場所を通して6連勝することは白鵬が史上初。横綱対決の連勝記録としても翌2010年(平成22年)1月場所千秋楽結びの取組で勝利し7連勝と記録を伸ばした(この記録は1942年(昭和17年)1月場所、双葉山が男女ノ川に7連勝、68年ぶりのタイ記録)が、朝青龍の場所中の不祥事による場所後の引退により連勝記録は途切れることになり新記録はならなかった。ちなみに横綱同士で平幕からの対戦成績で大差がついた例としては、陣幕久五郎不知火光右衛門戦、陣幕の13勝無敗2引き分け。大鵬-佐田の山戦、大鵬の27勝5敗。千代の富士-旭富士(現・伊勢ヶ濱)戦、千代の富士の30勝6敗がある。
  • 2010年5月場所4日目、十両で蒼国来春日王戦が組まれたが、二人は初めての対戦ということで、関取以上では史上初の中国出身力士と韓国出身力士の取組となった。また9月場所で蒼国来は新入幕、春日王は3月場所以来の再入幕で、初日早々、春日王(東13枚目)ー蒼国来(西13枚目)の割が組まれ、幕内でも同様に史上初の取組となった。
  • 2010年5月場所5日目、前頭2枚目栃ノ心は大関魁皇(現・浅香山)を破り、初日から5大関(対戦順は把瑠都日馬富士琴欧洲琴光喜、魁皇)との取組で、初日新大関把瑠都に敗れたものの、2日目より4日連続で4大関より白星を挙げた。関脇以下で4日連続で4大関を破った前例として1987年(昭和62年)3月場所の小結益荒雄(現・阿武松)以来23年ぶり栃ノ心が史上2人目。益荒雄は初日横綱双羽黒を破り、2日目より4日連続で4大関(対戦順は大乃国(現・芝田山)、朝潮、若嶋津、北天佑)に勝ち、6日目に5人目の大関北勝海には敗れたものの、7日目には横綱千代の富士にも勝ち、この場所2横綱4大関を倒している。
  • 2010年7月場所、一連の野球賭博問題で解雇となった大関琴光喜以下、謹慎休場となった力士が14人。7月9日に行われた取組編成で、十両以上で通常の取組数より6番(幕内3番、十両3番)少ない幕内18番、十両11番となった。このうち初日の幕内取組で謹慎休場者が全員日本人力士のため、18番のうち日本人力士同士の取組がわずか5番(後半戦に限れば1番のみ)となった。
  • 2011年(平成23年)5月技量審査場所6日目、大関琴欧洲は前頭4枚目豪風に敗れ2日目より5連敗となったが、5連敗の相手がすべて平幕力士(前頭2枚目栃煌山、同3枚目北太樹、同2枚目豊真将、同筆頭豪栄道、豪風)。大関が平幕力士に5連敗するケースは1960年5月場所の琴ヶ濵以来51年ぶり。琴ヶ濵はこの場所初日より3連勝だったものの、4日目より平幕力士を相手に6連敗(前頭2枚目冨士錦、同5枚目時津山、同6枚目成山、同筆頭安念山、同5枚目若前田、同2枚目鶴ヶ嶺)、10日目より休場した。琴欧洲は7日目、前頭2枚目安美錦に勝ち6連敗は免れた。しかし9日目に隠岐の海、10日目阿覧の平幕力士に連敗(結果的に平幕相手に2勝7敗)、右膝を痛め11日目より休場した。
  • 2012年(平成24年)5月場所4日目、初日から3連敗だった新入幕の前頭13枚目皇風が同9枚目時天空極め倒しで破り入幕後初白星を挙げたが、1945年(昭和20年)6月(夏)場所4日目、前頭9枚目笠置山が同4枚目双見山に勝ち現役最後の白星を挙げて以来、早大出身幕内力士としては67年ぶりの白星となった。
  • 2012年5月場所、終盤の幕内優勝争いがもつれ、14日目終了の時点では3敗力士が大関稀勢の里、前頭4枚目栃煌山、同7枚目旭天鵬の3名、4敗力士が横綱白鵬、前頭5枚目隠岐の海、同6枚目碧山の3名という状況であった。しかし、栃煌山の対戦相手だった大関琴欧洲が千秋楽の朝に突然休場。これにより割返しが出来ずに琴欧洲-栃煌山戦は栃煌山の不戦勝となった。また栃煌山以外の3敗力士だった稀勢の里が大関把瑠都に敗れ、旭天鵬が関脇豪栄道に勝つという結果になったことから優勝決定戦が栃煌山-旭天鵬の組み合わせとなり、大相撲史上初となる平幕力士同士の優勝決定戦となった。また優勝決定戦出場力士が当日の本割で不戦勝となったことも珍しいケースとなった。
  • 2012年7月場所、14日目終了時点で横綱白鵬、大関日馬富士が14戦全勝で楽日決戦となり、日馬富士が勝ち15戦全勝で3回目の優勝を果たしたが、横綱・大関が千秋楽で全勝対決(15日制以降、優勝決定戦を含む)することは史上初。また本来なら白鵬の千秋楽の対戦相手は東正大関の稀勢の里であるが、結果的に14日目まで全勝を守った日馬富士(番付上の地位は西大関2)を千秋楽に白鵬との全勝対決が組まれることになった。白鵬―稀勢の里は14日目に組まれており、上述の取組編成の慣例に照らせば少なくとも13日目の午前中の時点で、千秋楽結びを白鵬―日馬富士戦にすることは既定路線だったことになる。12日目終了時点で、全勝のふたりに対して稀勢の里ら後続は3敗差をつけられており、優勝争いは事実上ふたりに絞られていた。休場や同部屋で対戦が出来ない以外の理由(優勝争いを優先など)で、本来千秋楽結びの一番を取るはずの力士が別の取組に回された例としては、1975年5月場所の東大関初代貴ノ花1993年1月場所の西大関6代小錦らがいる。
  • 2012年9月場所12日目の取組、十両の德勝龍里山戦で、里山が德勝龍をすそ取りで破り8勝4敗で勝ち越しを決めたものの左足首を負傷した。里山は激痛に顔をしかめ立ち上がれない状態のままで、行司4代式守慎之助(現・12代式守錦太夫)の勝ち名乗りを受けた。里山は左足関節外側靱帯損傷のため13日目より休場した。
  • 2012年9月場所14日目、前頭11枚目若の里-同11枚目旭天鵬戦は、両者通算800勝以上(若の里804勝、旭天鵬814勝)という史上初の取組となった。勝負は若の里がもろ差しから寄り切って通算805勝目を挙げた。
  • 2012年11月場所、6日目に鶴竜―琴欧洲戦、7日目に鶴竜―琴奨菊[7]と前半戦(7日目まで)で大関同士の対戦が2番組まれた。前半戦で大関同士の対戦が組まれるのは2000年11月場所、6日目に魁皇―出島戦が組まれて以来12年ぶりのことである。鏡山審判部長(元関脇・多賀竜)は、「今場所はカド番3人で(前半の大関戦を)考えた。」と述べている[8]。この場所は中日にも横綱―大関戦が組まれるなど[9]、この後も大関以上同士の取組が前倒しで組まれた。

脚注[編集]

  1. ^ 本場所の初日が新聞休刊日と重なることが多いため、2日目の取組を紙面に載せるために2日分をまとめて決める必要がある。
  2. ^ [1] 財団法人 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定(抜粋)より
  3. ^ 相手力士はもちろん既に6番を消化しているので、番数違いの対戦ということになった。
  4. ^ 相撲 1982年7月号 89〜91頁 戦後新入幕力士 長谷川戡洋の巻(上) 佐竹義惇
  5. ^ 日本相撲協会:「いとこ以内は取組回避」明文化 毎日新聞 2009年 1月29日
  6. ^ 大関若嶋津は前1984年7月場所で15戦全勝しこの9月場所に横綱昇進を目指したが、この敗戦が響いて綱取りは絶望となった。
  7. ^ 大関対決が泣く!立ち合い変化でバタッ、満員の館内ブーイング スポニチ 2012年11月18日7時38分配信
  8. ^ 12年ぶり前半戦大関対決は欧洲快勝 観客の反応は スポニチ 2012年11月17日6時00分配信
  9. ^ 日馬富士 琴欧洲を投げ捨て1敗ターン!母祝福に奮闘誓う スポニチ 2012年11月19日6時00分配信

関連項目[編集]