谷風梶之助 (2代)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 谷風 梶之助 | |||
本名 | 金子 与四郎(梶之助) | |||
愛称 |
仙台の谷風 江戸時代の大横綱 歴代横綱の第一人者 古今十傑 | |||
生年月日 | 1750年9月8日 | |||
没年月日 | 1795年2月27日(44歳没) | |||
出身 |
陸奥国宮城郡霞目村 (現・宮城県仙台市若林区霞目) | |||
身長 | 189cm | |||
体重 | 162kg | |||
BMI | 45.35 | |||
所属部屋 | 伊勢ノ海部屋 | |||
得意技 | 寄り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第4代横綱 | |||
生涯戦歴 | 258勝14敗16分16預5無112休 | |||
幕内戦歴 | 生涯戦歴と同一 | |||
優勝 | 優勝相当成績21回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1769年4月場所(大関) | |||
入幕 | 1769年4月場所(大関) | |||
引退 | 1794年11月場所 | |||
備考 | ||||
2019年6月29日現在 |
谷風 梶之助(たにかぜ かじのすけ、1750年(寛延3年)9月8日(旧暦8月8日) - 1795年(寛政7年)2月27日(旧暦1月9日))は、陸奥国宮城郡霞目村(現:宮城県仙台市若林区霞目)出身の元大相撲力士。本名は金子 与四郎(かねこ よしろう)。
江戸時代に活躍し、大相撲史上屈指の強豪[1]とされる。また、力量・人格の面において、後の横綱の模範とされたが現役中に死去した。この項で扱う谷風は二代目だが、後年の文献などから「初代」と扱われる場合も少なくない[2]。初代は元禄時代の大関で「讃岐の谷風」と称されていたが、これに対して本項目で記す谷風は「仙臺(仙台)の谷風」と称されていた。
歴代横綱では第4代横綱と扱われるが、史実においては初の横綱と見ることができ[3]、事実上の初代横綱[注 2][4]。
来歴[編集]
幼少期からの怪力[編集]
1750年(寛延3年)9月8日(旧暦8月8日)に陸奥国宮城郡霞目村(現:宮城県仙台市若林区霞目)で豪農の一家に長男として生まれる。先祖が長期に渡って国分家の家臣として流鏑馬の矢取りを務めており、苗字帯刀を許されていたという。7歳の時、隣家の主人だった東兵衛から「あの俵を運べたらそれをやろう」と言われて玄米の五斗俵を持って運ぶと、幼いながらもその怪力に驚いた東兵衛はすぐに謝罪し、その場にあった饅頭と取り替えた。入門前には白川の酒造家に奉公していたが、通常は7人程度でようやく持ち上げられる酒を搾る締め木の天秤石をたった一人で持ち上げたと伝わる。
1768年(明和5年)に力士となり、「秀の山」と四股名を名乗った。1769年(明和6年)4月場所には伊達関 森右エ門(だてがせき もりえもん[1]と改名し、看板大関として初土俵を踏む。「伊達関」の四股名は仙台藩の伊達氏より下賜されたものだが、翌場所から伊達の姓を憚り、達ヶ関と改名した(読みは「だてがせき」のまま)。1770年(明和7年)11月場所に前頭筆頭から再スタートを切ると徐々に地力を増し、1776年(安永5年)10月場所に2代目「谷風 梶之助」と改名、1781年(天明元年)3月場所後に大関へ昇進する。1784年(天明4年)には江戸相撲の浦風与八に見出され、江戸に来ていた雷電爲右エ門を預り弟子として鍛え上げたほか、小野川喜三郎や雷電とともに、最初の黄金時代を築いた。後述する横綱制度や結びの一番終了後に執り行われる「弓取式」など、現在も残る相撲界の仕来りの多くがこの時代に作られた。
連勝記録[編集]
谷風は安永7年から全盛期に入り、4年以上土つかずの成績を続けた。その間に声望はカリスマ的なものとなり、江戸相撲最大の黄金時代の立役者となった。だが当時はもちろん、近代になっても数字的な記録への関心は低く、昭和10年代に双葉山定次が連勝を続けている時期にようやく比較対象として谷風の記録が取り上げられるようになった。
谷風の連勝記録を、池田雅雄の作成した成績表[5]によって整理すると、次の四通りの解釈によるものが考えられる(なお、休場や、安永8年10月10日目等に行った幕下相手の五人掛けをどのように扱うかによって更に分かれるが、煩雑過ぎるので休場のときは連勝継続、五人掛けは1勝分という解釈で統一しておく)。
(ア)江戸場所のみを本場所とし、分・預・無勝負なら継続:最高63連勝(安永7年3月初日ー天明2年2月6日目)
(イ)江戸場所のみを本場所とし、分・預・無勝負でも中断:最高27連勝(安永9年10月5日目ー天明2年2月6日目)
(ウ)江戸・京阪場所とも本場所とし、分・預・無勝負なら継続:最高98連勝(天明2年2月8日目ー天明6年11月3日目)
(エ)江戸・京阪場所とも本場所とし、分・預・無勝負でも中断:最高43連勝(安永7年3月初日―安永8年7月7日目)
このうち、一般的に知られているのは(ア)の解釈によるもので、1782年(天明2年)2月場所7日目に小野川喜三郎に敗れるまで、江戸本場所では1778年(安永7年)3月場所初日から土着かずの63連勝(分1・預1・全休1場所を挟む)、小野川戦の翌日から43連勝を記録した。この63連勝は、約157年後に双葉山定次が69連勝を達成するまでの最多連勝記録とされている[注 3]。だが、この記録も双葉山の連勝が評判になるまでは一般に認知されていなかった。双葉山が63、64連勝を達成した1938年5月場所10、11日目の朝日新聞の記事でも、谷風の記録は全く話題になっていない[6]。ただ、酒井忠正は既に過去の記録を調査しており、(ア)の解釈に基づいて、それまでの最多連勝記録を谷風の63連勝と認定していた。だが彼は「このことを双葉山に話したなら、そのために心を乱し固くなりはせぬかと、ことさら秘めて」、64連勝が達成された日の夜に「初めて双葉にそのことを話し成功を祝した」という[7]。そして場所後、『相撲』誌に掲載した「双葉山と古今先人の比較」[8]で、双葉山が谷風の記録を破る「未曾有の新記録」を樹立したと公表した。また、酒井はこのとき、谷風に続く記録が梅ヶ谷藤太郎 (初代)の59連勝(ママ)、太刀山峯右エ門の56連勝であることも発表した。すると、当時存命していた太刀山は「西ノ海嘉治郎 (2代)戦(1912年1月場所8日目)で負けたのは八百長だったが、連勝記録を知っていたら八百長などしなかった」と残念がったという[9]。太刀山はこの西ノ海戦の前日まで43連勝、翌日から56連勝しているので、西ノ海に勝っていれば百連勝を達成していたことになる。太刀山の現役時代は記録への関心が薄く、谷風の連勝など全く知られていなかったことを示す逸話である。
酒井が認定して以来、一般的には(ア)の解釈によるものが公認記録のごとく扱われて今日に至っている。しかし、池田雅雄は1971年から『相撲』誌に連載した「歴代横綱正伝」で、当時は江戸場所のみを本場所と扱うべきではなく、大阪2場所、京都1場所を加えた年5回の本場所制だったとする説を唱え[10]、以後(ウ)の解釈による記録も知られるようになった[11]。この解釈によれば、1779年(安永8年)9月場所(京都)4日目から1782年(天明2年)2月場所6日目まで84連勝(ただ、勝敗不明の日を一つ挟む[12])、7日目に小野川に敗れたが、翌8日目から1786年(天明6年)11月場所3日目まで98連勝を達成しており[13][14]、2020年現在でも未だに破られていない最多記録となる(ただ、この98連勝は途中に「5分5預3無(無勝負)」を挟んでいるため、「分・預でも連勝は中断される」とする解釈であれば、この時期の谷風の連勝は23に留まる[15])。小野川との対戦で勝利していれば、江戸・京都・大坂を通じて183連勝を達成していることとなる。
一方、(イ)(エ)のように、分・預・無勝負でも中断するという解釈によれば、谷風の連勝は大きく減少する。これについて酒井忠正は、江戸時代には現在のような取り直し制度が無く、双葉山もその時代であれば両國梶之助(瓊ノ浦)戦での物言いや、玉錦三右エ門戦での水入りが分・預になっていた可能性があることから、谷風の連勝を分・預などで中断するのは酷であるとしている[8]。だが、池田雅雄は「預りの相撲内容をつぶさに検討すれば、谷風の不利の場合のほうが目立って多い」、『角抵著聞』に「勝負なし、もめ(物言い)は大方負けなり」と批評されていることから「双葉山に破られるまで157年間もレコードを保持した」などという論は成立しないという [16]。能見正比古も、江戸時代は分・預・無勝負などの曖昧なルールが、横綱大関を傷つけないように用いられることがしばしばあり[17]、抱え大名の勢力関係によって星が動かされていた可能性もあるとして、明治以前の連勝は参考記録にとどめておくべきだとしている[9]。
現役死[編集]
1789年(寛政元年)11月19日[18]、小野川喜三郎と共に吉田司家から最初の横綱免許を授与された。これが事実上の横綱制度発祥とする見方が定説で、当時の錦絵には市川團十郎などの歌舞伎役者や当時の美女などと共に谷風が描かれている[19]。1791年(寛政3年)6月11日には徳川家斉の上覧相撲で小野川との取組を行い、この時に将軍家から賜った弓を手に、土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
1795年(寛政7年)1月9日、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、35連勝で現役のまま没した。44歳没。このことから風邪を「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が生前に「土俵上でわしを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、わしが風邪にかかった時に来い」と語った頃に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。
没後[編集]
谷風の没後、出身地である宮城県仙台市では昔から俚謡で「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風、いま伊達模様」と謡われ、現在でも伝わっている[14][1][20]。谷風の墓は1928年(昭和3年)に参道設置や周辺整備が行われたが、大日本帝国陸軍飛行学校の仙台飛行場(現:陸上自衛隊霞目駐屯地)の拡張に伴い、1942年(昭和17年)に仙台市若林区霞目へ移転した。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で墓石が大きく動いたが、幸いにも背後の木に支えられて倒壊を免れた[21]。なお、墓の東方には「霞目字谷風」という地名が残るほか、仙台駅西口には「谷風通[22]」との愛称が付けられた道路がある[23]。
仙台市青葉区の勾当台公園には、谷風像が設置されている(北緯38度15分59.6秒 東経140度52分19.9秒 / 北緯38.266556度 東経140.872194度)。新横綱が誕生してから最初に行われる仙台巡業の際には、この谷風像の前で新横綱による土俵入りを奉納するのが恒例となっている[24]。
人物[編集]
横綱としての力量だけでなく、人間的にも立派で品格抜群である[25][1]ために、谷風は歴代横綱の第一人者と称され、実質的な初代横綱として模範とされる大横綱である[25][20]。天下無双の大横綱に相応しい実績から、四股名「谷風」は2019年現在においても「止め名」とされており、1901年(明治34年)1月場所終了後に大砲万右エ門が横綱に昇進する際に周囲から襲名を勧められたが、「笑い者になりたくない」と言って固辞したという。
全盛期の体格は身長189cm・体重169kgのあんこ型で、足袋の中には白米が一升五合入ったと言われる。また、谷風の末裔の家に保管されている大腿骨は約48cmあり[26]、大腿骨は法医学的には身長の1/4ほどと言われているが、4倍すると192cmとなり、言い伝えられている身長が決して誇張ではない(むしろ低く見積もっている)ことを示す証拠となっている。なお、谷風のものと伝えられている手形を記載した江戸時代の書物(復刻本)も存在する[27]。
実力、品格の反面、晩年は大変気難しい部分もあったとされており、1790年(寛政2年)に入った頃には15歳程度だった妾が取り成さないと稽古場にも現れなかったという事実が数々の古典や文献に記されている。三木貞一の随筆によれば、ある時、既に横綱免許を授与されていた谷風は弟子のことで「殴り殺してやる」と言い放つほど激高しており、他の多くの弟子が揃って詫びを入れても聞き入れず、それどころかますます腹を立てていたところに、弟子の一人が当時17歳だった谷風の妾を呼び、自室に籠ったまま出てこない谷風を宥めたことであっさり事が収まったとされている[28][2]。
エピソード[編集]
- 落語「佐野山」では、病気の母親を抱える十両力士・佐野山がいることを知った谷風が、相撲会所に根回しをして回向院興行での取組を作らせた。これを谷風の贔屓筋は勝利を確信して懸賞を付けたが、谷風がわざと負ける八百長のような相撲を取った。しかし、江戸っ子からは人情相撲だと喝采を浴び、谷風はその後、佐野山の母親の枕元で病魔退散の四股を踏んだと伝わる。事実ではないものの、このような話が作られるほど谷風の人格ぶりが世間に浸透していた[29]。
- 弟(異母弟)の達ヶ関森右エ門も前頭筆頭まで昇進した幕内力士である。谷風とは大相撲史上二組目となる兄弟幕内力士で、それ以降は昭和時代の若乃花幹士・貴ノ花利彰兄弟が登場するまで現れなかった。
主な成績[編集]
江戸相撲の本場所のみを示す。
場所 | 地位 | 成績 | 備考 |
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明和6年(1769年)4月場所 | 西大関 | 4勝0敗3休 | 7日目の成績不明。 |
明和6年(1769年)10月場所 | 西大関 | 0勝1敗7休 | |
明和7年(1770年)3月場所 | 西大関 | 3勝0敗5休 | |
明和7年(1770年)11月場所 | 西前頭1 | 7勝1敗 | 優勝同点相当 |
明和8年(1771年)3月場所 | 西前頭3 | 8休 | |
明和8年(1771年)10月場所 | 西小結 | 5勝0敗1分2預 | |
安永元年(1772年)11月場所 | 西小結 | 6勝0敗2休 | 優勝相当 |
安永2年(1773年)3月場所 | 西前頭1 | 5勝1敗1分1預 | |
安永2年(1773年)10月場所 | 西前頭1 | 5勝2敗1預 | |
安永3年(1774年)4月場所 | 西前頭1 | 6勝0敗2休 | 優勝相当(2) |
安永3年(1774年)10月場所 | 西小結 | 5勝0敗2分1休 | |
安永4年(1775年)3月場所 | 西小結 | 4勝0敗 | 優勝相当(3) |
安永4年(1775年)10月場所 | 西小結 | 5勝1敗2預1休 | |
安永5年(1776年)1月場所 | 西前頭1 | 興行中止と思われる | |
安永5年(1776年)10月場所 | 西小結 | 7勝0敗1無勝負 | 優勝相当(4) |
安永6年(1777年)4月場所 | 西関脇 | 2勝1敗5休 | |
安永6年(1777年)10月場所 | 西小結 | 5勝1敗1分1預 | 優勝相当(5) |
安永7年(1778年)3月場所 | 西関脇 | 9勝0敗1休 | 優勝相当(6) |
安永7年(1778年)11月場所 | 西関脇 | 10休 | |
安永8年(1779年)3月場所 | 西関脇 | 9勝0敗1休 | 優勝相当(7) |
安永8年(1779年)10月場所 | 西関脇 | 9勝0敗1休 | 優勝相当(8) |
安永9年(1780年)3月場所 | 西関脇 | 6勝0敗 | 優勝相当(9) |
安永9年(1780年)10月場所 | 西関脇 | 8勝0敗2預 | 優勝相当(10) |
安永10年(1781年)3月場所 | 西大関 | 9勝0敗1休 | 優勝相当(11) |
天明元年(1781年)10月場所 | 西関脇 | 9勝0敗1休 | 優勝相当(12) |
天明2年(1782年)2月場所 | 西大関 | 6勝1敗3休 | 63連勝で止まる。 |
天明2年(1782年)10月場所 | 西大関 | 7勝0敗1預1無勝負1休 | 優勝相当(13) |
天明3年(1783年)3月場所 | 西大関 | 5勝0敗1無勝負4休 | 優勝相当(14) |
天明3年(1783年)11月場所 | 西大関 | 8勝0敗1分1休 | 優勝相当(15) |
天明4年(1784年)3月場所 | 西大関 | 6勝0敗2預2休 | 優勝相当(16) |
天明4年(1784年)11月場所 | 西大関 | 3勝0敗7休 | |
天明6年(1786年)3月場所 | 西大関 | 10勝 | 優勝相当(17) |
天明6年(1786年)11月場所 | 西大関 | 3勝1敗6休 | 43連勝で止まる。 |
天明7年(1787年)5月場所 | 西関脇 | 興行中止 | |
天明7年(1787年)11月場所 | 西関脇 | 6勝1敗1分1預1休 | |
天明8年(1788年)4月場所 | 西関脇 | 7勝0敗1分1預1休 | 優勝相当(18) |
天明8年(1788年)11月場所 | 西関脇 | 7勝0敗1分1預1休 | |
寛政元年(1789年)3月場所 | 西関脇 | 7勝1敗1分1休 | |
寛政元年(1789年)11月場所 | 西関脇 | 6勝0敗1分3休 | 7日目に小野川とともに横綱免許。 |
寛政2年(1790年)3月場所 | 西大関 | 4勝0敗1分1預1無勝負2休 | |
寛政2年(1790年)11月場所 | 西大関 | 7勝1敗1分1休 | |
寛政3年(1791年)4月場所 | 西大関 | 6勝1敗1無勝負2休 | |
寛政3年(1791年)11月場所 | 西大関 | 10休 | |
寛政4年(1792年)3月場所 | 西大関 | 8勝0敗2休 | 優勝相当(19) |
寛政4年(1792年)11月場所 | 西大関 | 3勝0敗 | 優勝相当(20) |
寛政5年(1793年)3月場所 | 西大関 | 7勝0敗2休 | 優勝相当(21) |
寛政5年(1793年)11月場所 | 西大関 | 5勝0敗2分3休 | |
寛政6年(1794年)3月場所 | 西大関 | 5勝0敗5休 | |
寛政6年(1794年)11月場所 | 西大関 | 4勝0敗6休 | 35連勝、場所後死去。 |
江戸本場所における通算成績は、49場所で258勝14敗16分16預5無112休、勝率.949である。優勝相当成績は21回を数え、現在の年6場所制で大横綱とよばれる貴乃花光司(優勝22回)、北の湖敏満(優勝24回)などに比肩する優勝回数を、現在の3分の1しかない年2場所制で達成した計算となる。また、江戸本場所で優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上を達成したのは、大相撲の長い歴史の中で谷風だけである。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 三木貞一が手掛けた『初代谷風梶之助』という項目があり、仙台藩出身の力士と出ている。初代は讃岐高松藩主・松平家の抱え力士だったため、本項の谷風を初代扱いしていたと思われる。
- ^ 初代・明石志賀之助から3代目・丸山権太左衛門までは「日下開山」と呼ばれる称号としての名称で、番付として確立されている現在の横綱とは異なる。日下開山である明石から丸山までの3名を横綱として扱ったのは10代目・雲龍久吉で、谷風の横綱免許は小野川喜三郎と同時免許だが、横綱代数では谷風の方が先に吉田司家から横綱免許を受けたため。
- ^ 双葉山定次の記録から約70年後、2010年に白鵬翔が挑んだが、谷風と同じ63連勝で稀勢の里寛に敗れ、更新はできなかった。
出典[編集]
- ^ a b c d 郷土見守る大横綱 (21) 内館牧子の仙台だより - 読売新聞 2005年1月26日
- ^ a b 吉村昭編『日本の名随筆 別巻2 相撲』(作品社)[注 1]
- ^ 田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.26
- ^ 谷風梶之助 - デジタル大辞泉 2010年11月1日
- ^ 池田雅雄「歴代横綱正伝」⑧ー⑩(『相撲』1971年8-10月、ベースボールマガジン社)
- ^ 『朝日新聞縮刷版』1938年5月21・22日、 朝日新聞社
- ^ 酒井忠正 『相撲随筆』1995年5月、ベースボールマガジン社
- ^ a b 酒井忠正 双葉山と古今先人の比較 相撲 4(1) 1939年1月 日本大相撲協会
- ^ a b 能見正比古 記録の功罪 相撲 26(14)[367] 1977年12月 ベースボール・マガジン社
- ^ 池田雅雄「歴代横綱正伝」④(『相撲』1971年8月、ベースボールマガジン社)
- ^ 能見正比古『横綱物語』1975年11月、講談社
- ^ 言わんでもの記 10連勝が止まった時・谷風 - 相撲評論家之頁 2011年5月10日
- ^ 【大相撲豪傑列伝 (2)】- 98連勝した土俵入りの祖 谷風梶之助 - 産経ニュース(Web) 2008.10.4
- ^ a b 第4代横綱 谷風梶之助 - 横綱伝
- ^ 池田雅雄「歴代横綱正伝9」「相撲」1971年9月)。なお、安永7年3月(江戸)から、同8年7月(大阪)にかけて、京阪場所も含め、分け預かりなしで43連勝しており、これがこの解釈による彼の連勝のベストである。
- ^ 池田雅雄「歴代横綱正伝」⑤(『相撲』1971年9月、ベースボールマガジン社)
- ^ 能見正比古 江戸時代 横綱が誕生し職業相撲が確立された 国技大相撲の100傑 1980年5月 講談社
- ^ 著者不詳『寸錦雜綴』吉川弘文館(日本随筆大成・巻4)1927年、135頁
- ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p60-62
- ^ a b 第4代横綱 谷風梶之助 - 大相撲クイズ 綱の系譜
- ^ (8)横綱・谷風ゆかりの家/「土俵際」墓は耐え抜く(河北新報 2011年6月8日)
- ^ 仙台市道青葉1282号・区画街路南34号線(西端 - 東端)の愛称
- ^ 商店街を歩いてみよう!(仙台市)
- ^ 二代目 谷風梶之助 相撲の歴史+あれこれNAVI
- ^ a b 谷風梶之助 - メインウェーブ 史上最強力士RANKING
- ^ 白鵬よ連勝記録抜いてくれ!谷風の子孫がエール - スポーツ報知 2010年11月2日
- ^ 著者不詳『寸錦雜綴』吉川弘文館(日本随筆大成・巻4)1927年、136頁
- ^ 松浦清『甲子夜話』巻九
- ^ 金ではなく情なら許される? 江戸時代に喝采を浴びた八百長相撲 YOMIURI ONLINE