栃ノ海晃嘉

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栃ノ海 晃嘉 Sumo pictogram.svg
Tochinoumi Teruyoshi 1959 Scan10010.JPG
1959年。「花田」時代の栃ノ海
基礎情報
四股名 花田 茂廣→栃ノ海 晃嘉
本名 花田 茂廣
生年月日 (1938-03-13) 1938年3月13日(79歳)
出身 青森県南津軽郡光田寺村(現在の田舎館村
身長 177cm
体重 110kg
BMI 35.11
所属部屋 春日野部屋
得意技 左四つ、寄り、上手出し投げ、両前褌、足癖
成績
現在の番付 引退
最高位 第49代横綱
生涯戦歴 478勝261敗104休(64場所)
幕内戦歴 315勝181敗104休(40場所)
優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝1回
幕下優勝1回
敢闘賞1回
技能賞6回
データ
初土俵 1955年9月場所
入幕 1960年3月場所
引退 1966年11月場所
引退後 年寄・中立→春日野→竹縄
備考
金星1個(朝潮1個)
2013年3月17日現在

栃ノ海 晃嘉(とちのうみ てるよし、1938年昭和13年)3月13日 - )は、青森県南津軽郡光田寺村(現在の田舎館村)出身で春日野部屋所属の元大相撲力士、第49代横綱。身長177cm、体重110kg。得意技は左四つ、寄り、上手出し投げ、両前褌、足癖[1]。本名は花田 茂廣(はなだ しげひろ)。花田という苗字で同じ青森津軽地方出身であるが、初代若乃花貴ノ花との血縁はない。年寄春日野時代、姓を『宮古』とするが停年(定年)退職後は再び花田に戻した。現在存命中の歴代横綱の中では最も古い代の横綱である。

来歴[編集]

入門前[編集]

リンゴ園の男子として生まれた花田は6歳の頃に父親を喪い、そのため父の記憶は姿かたちを除いて殆ど残っていない。中学時代には母とも死別したが、兄弟が多かったことで面倒を見てもらうことができ、おかげで高校進学も妨げられなかった[2]1955年(昭和30年)8月、千代の山栃錦一行が青森県大鰐町を訪れた際、既に春日野部屋(師匠は第27代横綱・栃木山)に入門していた中学時代の同級生・須藤良一(後の前頭一乃矢)に出会い力士への憧れが募った[3][2]。直ちに若者頭津軽海と栃錦を通して春日野部屋を紹介してもらい、弘前商業高校(現・弘前実業高校)を3年生の夏で中退して春日野部屋に入門。同年9月場所、本名の「花田」で初土俵を踏んだ。ちなみに高校時代は2年生まで野球部で4番を打ち、3年生から相撲部に転部したといい、本人曰く活躍していたというレベルではなかったとのこと[2]

入門から大関昇進まで[編集]

新弟子検査時点では身長176cm、体重72.3kgしかなく、しかも体重に関しては担当の親方から「もうちょっとだけ足りないから、おまえ、もう一回水飲んでこい」再計量を命じられてこれに応じた上でやっと通過した有様である。このようにあまりに体が小さいことからそもそも家族に入門を猛反対されていたと言い、そのため事後承諾を当てにして須藤に帯同する形で家族や高校に無断で入門を画策した[2]。地元の関係者は突然登校しなくなった花田を心配したが、花田が前相撲で一番出世を果たしたのを知って驚き、その後快く角界へ送り出されたという。なお入門の背景には昭和30年代の就職難があり、後年本人は「私が通っている高校は商業高校で、進学校でもなかったし、高校を卒業して就職しても、今みたいに大きな会社も少なかったものですから、卒業生のほとんどは個人のちっちゃなお店に就職して、帳面をつけるとかがせいぜいでした(中略)力士にでもなって東京へ行けば、力士がダメでも、またなんか仕事があるだろう…って、当時はその程度の考えですよ」と述懐している[2]。当初から相撲に自信は無かった一方で「俺でも少しいくらいは通用するんじゃないかな?」という気持ちで角界入りしたものの、いざ稽古を行うと実力差を思い知らされて気落ちしたという[2]。当時は洗濯は手洗いであり、巡業に行ったら寝る間もなく、昼間立ったまま寝る力士が出るほど力士生活は過酷であった[3]

それでも1958年1月場所を除いて関取昇進まで負け越しを経験せず、1959年1月場所に新十両に昇進。栃錦がまだ現役であった頃、雪や北風が吹いても露天興行の土俵で怠らず稽古をする栃錦を見て責任感の強さを感じ、本人曰くこれが自身にとって良い教育になったという[2]序ノ口の頃は50人から60人いる同部屋の力士に稽古土俵を取られまいと朝4時半に起きて稽古土俵に立ったという[3]。あまり早起きしすぎても、声を出して四股を踏んでいると近所迷惑になるため、それには困ったと後年苦笑している[3]1960年(昭和35年)3月場所で新入幕を果たすが、まだこの当時は身長177cm、体重88kg程度であり、勝ち越しは記録できず2場所で陥落。しかし7月場所は14勝1敗で十両優勝、9月場所、四股名を「栃ノ海」と改めて再入幕し、10勝5敗の好成績を挙げた。1961年(昭和36年)5月場所2日目には横綱朝潮から金星を挙げ、翌7月場所では小結に昇進し11勝4敗の成績を挙げ、翌場所関脇に昇進してからは関脇の座を譲らなかった。1962年(昭和37年)5月場所では横綱柏戸に敗れたのみの14勝1敗で初の幕内最高優勝を果たし、13勝2敗の兄弟子・栃光と一緒に場所後、大関に昇進した(この場所は同門の新大関・佐田の山も13勝2敗。さらに12日目から栃光→栃ノ海→佐田の山の順で横綱大鵬を破り、出羽一門総掛かりで大鵬を崩した)[1]。同じ部屋から2人同時に大関に昇進するのはこの組み合わせを最後に50年出ていない(そもそも複数の力士が同時に大関昇進を果たした例自体が少ない)。同部屋であるためか昇進伝達式は2人一緒に行なわれた。

大関昇進から引退まで[編集]

1963年(昭和38年)11月場所では大鵬と柏戸をなで斬りして14勝1敗で2度目の優勝を成し遂げた。この場所14日目の大鵬戦では、低く当たって左差し、右から絞ってもろ差しを果たすと、両差し手を返して大きくなり、がぶって一気に寄り立てた。両上手を取れない大鵬は剣ヶ峰で右小手投げを打つと、右ハズ、左を返して体ごとぶつけるようにして寄り切った[4]。翌1964年1月場所、13勝2敗を挙げて当時横綱先陣争いといわれた佐田の山や豊山に先行して場所後横綱に昇進[1]。しかしこの1月場所は優勝者大鵬(15戦全勝)、次点東前頭13枚目清國(14勝1敗)であり、昇進直前場所が優勝同点でも次点でもない成績での横綱昇進には疑問の声もあった。理事会や横綱審議委員会でも「小兵が横綱を務めることは困難である」という意見が多く出たものの、師匠でもある春日野(第44代横綱・栃錦)が栃ノ海を強く推薦したため昇進に至った。推挙を受けた後、その春日野からは「もう、後は引退だけだよ。ダメなら、すぐ辞めなきゃいけないんだよ」と言い渡され、栃ノ海は引導を渡されたように感じたという[2]。横綱2場所目の1964年5月場所では、千穐楽に大鵬との対戦を制し13勝2敗で3度目の優勝(結局、これが最後の優勝となる)を果たした。ところがその後、椎間板ヘルニアを発症して坐骨神経痛となり、以後は3場所連続8勝7敗を記録し「ハチナナ横綱」と揶揄されたりした。その後は回復し10勝5敗の成績を挙げ、復活するが今度は右上腕の筋肉を断裂というアクシデントにも見舞われた。これは患部が見た目でもわかり(右腕の筋肉が断裂した所でへこんでいる)、押せば肌が直接骨に当たるほどの重傷[5]で、力士としての致命傷になってしまった。毎場所ごとに金星を献上するなど厳しい土俵が続き、結局本格的な再起は果たせず1966年(昭和41年)11月場所を最後に引退。本人は昇進当初「私はあまり大きくない。だからせめて、30歳までは現役を務めたい」[2]と目標を立てていたが、引退時の年齢は28歳8ヶ月で、当時の横綱最年少引退記録を作る結果となってしまった。全休場所を除き全ての場所で金星を配給するという、歴代横綱で唯一の不名誉な記録も作ってしまった。横綱としては満足な成績を残せなかったが、大鵬にとってはかなりの難敵で、幕内での対戦成績は大鵬16勝に対して栃ノ海7勝と健闘、自身が横綱在位中に3場所連続8勝7敗の不名誉な成績だった間にも大鵬を撃破したことがある。また、幕下から十両にかけて栃ノ海(当時、花田)は大鵬(当時、納谷)にとってどうしても勝てない強敵で、幕下時代に初めて対戦してから大鵬が新十両の場所まで4連勝している(翌場所大鵬は初めて花田に勝った)。横綱土俵入りはキビキビとしていて、相撲ぶりがよく表れており評価は高かった。

引退後[編集]

引退後、大鵬や柏戸、豊山らかつてのライバル達が部屋持ち親方となる中で、年寄・中立として春日野部屋(第44代横綱・栃錦)の部屋付き親方であり続けた。協会の職務としては主に審判部と巡業部を担当し、自身が幕内時代に1日50番の申し合いをこなしていたこともあって[6]常々より「稽古しない力士には勝ってほしくない」と発言するなど稽古態度により力士の好き嫌いがはっきりと分かれる性分であった[7]。栃錦停年後の後継も内定していたが、栃錦の停年目前の急逝で1990年平成2年)、春日野部屋を急遽継承[1]。この時、栃錦子飼いの筆頭弟子である13代玉ノ井との間に確執が生じたとも言われる。還暦を無事迎えたが、還暦土俵入りは行わず赤い綱だけをもらっている。原因は前述の負傷の後遺症のためであるという。横綱昇進後に発生した傷病に苦しみ不成績場所が多かったことで評価を落としてしまったが、こと技能に関しては栃錦以上、と再評価を望む声は多い。また、引退後の審判委員としての説明も明快であった。相撲解説もまた一級品で、受け答えを一度も外す事がなかった。

2017年4月27日に第50代横綱・佐田の山(のち出羽海理事長)が79歳で死去した為、同年5月現在において生存している横綱経験者の中では最年長者であり、最古参である。

取り口[編集]

前捌きが巧く、両前褌を取って拝むように寄り進む型や左差し右おっつけの型の鋭さ、変化や出し投げや切り返しなどの技の切れ味、いずれも超一級品の技能だった[8][1]。自ら「入るときは小さく、入ったら大きく」と解説するような、もろ差しになるときの鮮やかさもまた素晴らしかった[1]。激しい廻し争いを物語るように両手の指先はたこでカチカチになっていたという。しかし新弟子の頃は春日野から一切廻しを取らずにひたすら押す稽古を仕込まれ、春日野からは「お前は体が小さいんだから、相手に廻しがあると思って相撲を取ってはダメだよ」「左差し手も深く差してはいけない。相手に上手を取られたら、小さいんだから勝てないよ」と言われた。稽古前の準備運動も入念にやらされ、四股と鉄砲の量がものすごく、とりわけ四股は立てなくなるぐらいやらされた。稽古は厳しかったが栃ノ海は春日野に対して「感謝しかない」と述べており「栃錦関の時代は、師匠もまだ若かったですし、もっと厳しい指導をされていたんじゃないかなと思いますよ」と話している[3]。関取に昇進してからしばらくは、右上手を深く取りに行ったところをがら空きの脇に差されて腕を返され体が浮くことがあったため、脇を締めて前ミツを取りに行って出し投げで崩したり親指を相手の脇の下につっ込んで持ち上げる左ハズを徹底したりした[3]

エピソード[編集]

国技館辺に展示されている栃ノ海の手形
  • 部屋伝統の技とスピーディな取り口で人気があった[9]
  • 初代若乃花とは同郷で偶然にも苗字が一致していることから巡業で目を付けられることが多く、これは初の上位総当たり戦を目前とした時期から始まったという。本人は土俵に上がると若乃花の顔を直視できないほど恐怖心を刷り込まれた一方で横綱が威厳を示すにはあれぐらいしなければならないとも受け止めていた。このかわいがりが功を奏したのか、若乃花が引退した1962年5月場所に優勝を果たして大関昇進を射止めた。本人はこれについて「人生とは何が起こるかわからないものです。大関に上がった時でさえ、102キロ。こんな小兵な私が大関に昇進できたのです。」と振り返っている[2]
  •  千代の山に関しては入門前に故郷で映画『三太と千代の山』を見て知り、実際に出会った時には映画スターと間近に接するような気分であったといい、胸を出してもらった時の思い出について「私も千代関の胸にぶつかったことが2、3回ありましたよ。ガツンと硬い壁にぶつかる感じで、あっという間に吹き飛ばされたと思いますが、あの筋骨隆々の体に触れられただけでも光栄でした」と後に述懐している[3]
  • 入門の時期については最良であったと判断しており、後のインタビューでは「もし、私が須藤君のように中学を卒業してすぐに入門していたら、大関になれたかというと、たぶん無理だったでしょう。体のできていない私が15歳で入門したら、あちこちケガをして、大関どころか十両にも上がれなかったと思います。高校に入って、ある程度体の基礎ができてきて、相撲の経験も多少あったからこそ、順調な出世ができたのだと思っています。私は入門の時期というものも、相撲人生を左右することがあると思います」とコメントしている[2]
  • 横綱時代には相当にプレッシャーを感じていたようであり、本場所が近づくにつれて体重が減少する、夜はアルコールでも飲まないと眠れない、というなどの苦労を覚えていた。現役時代はただ苦しいとばかり感じていたそうであり、現役時代に「ああ、よかったなあ」と思ったのは3回優勝したその晩のみだったと後に回答している。横綱時代はプレッシャーでまともに睡眠を取ることができなかったものの1966年11月場所の7日目に引退を発表してからは横綱の地位から解放されたこともあって2日間は眠り続けたそうである[2]
  • 鶏モモのローストが大好物で、一度に23本食べたこともあったという。
  • 若乃花勝と同年齢の長男康行も春日野部屋へ1986年(昭和61年)3月に入門し、「日の出海」という四股名で「栃ノ海2世」を目指したが、序二段4枚目が最高位で関取になれずに廃業した[10]。力士生活は5年ほどで101勝105敗11休であった。尚、若乃花は当初、日の出海の入門に触発され、中学卒業後に角界入りを志したが「他人のマネはダメだ」と言う親方の一言で、高校に進学。2年後、弟・貴花田(後の貴乃花)の中学卒業と同時に、高校を中退し入門。日の出海が廃業する頃には既に幕内上位に定着していた。
  • 停年退職後、横綱・白鵬の独走が続いている状況を見て「元気な横綱が2、3人おって、競い合うようになれば一番理想的ですよね。そうは言っても、昇進の基準を甘くして、私みたいな横綱ができたら、またそれはかわいそうだし、やっぱりいいものを作ろうと思えば、吟味しないといけないわけですから」と複雑そうに話していたことがある[2]
  • 国鉄スワローズ~ヤクルトアトムズで活躍した投手・渋谷誠司は、高校の野球部の2学年後輩にあたるが、前述の通り花田が3年次に相撲部に転部しているため、同時に在籍した期間はほぼない[11]
  • 1963年3月場所中、同じ小兵同士という縁で阪神タイガース吉田義男と対談を行った。そこで栃ノ海は若手時代にキャッチボールをしてはしょっちゅう部屋の近くの民家のガラスを割って春日野に怒られたことなどを話した[11]

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:478勝261敗104休 勝率.647
  • 幕内成績:315勝181敗104休 勝率.635
  • 大関成績:101勝44敗5休 勝率.697
  • 横綱成績:102勝69敗84休 勝率.596[12]
  • 現役在位:64場所
  • 幕内在位:40場所
  • 横綱在位:17場所
  • 大関在位:10場所
  • 三役在位:6場所(関脇5場所、小結1場所)
  • 連続6場所勝利:72勝(1963年9月場所~1964年7月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:22場所(1961年3月場所~1964年9月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:6場所(1963年9月場所~1964年7月場所)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:3回(1962年5月場所、1963年11月場所、1964年5月場所)
  • 十両優勝:1回(1960年7月場所)
  • 幕下優勝:1回(1958年7月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:7回
    • 敢闘賞:1回 (1962年5月場所)
    • 技能賞:6回 (1960年11月場所、1961年5月場所、1961年7月場所、1961年11月場所、1962年1月場所、1962年5月場所)
  • 金星:1個(朝潮1個)

場所別成績[編集]

栃ノ海晃嘉[13]
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1955年
(昭和30年)
x x x x 西 新序
3–0 
x
1956年
(昭和31年)
西 序二段 #83
5–3 
西 序二段 #46
5–3 
東 序二段 #22
6–2 
x 東 三段目 #87
6–2 
x
1957年
(昭和32年)
西 三段目 #60
6–2 
東 三段目 #37
7–1 
東 幕下 #81
4–4 
x 西 幕下 #80
5–3 
東 幕下 #64
7–1 
1958年
(昭和33年)
東 幕下 #51
3–5 
東 幕下 #54
6–2 
西 幕下 #41
4–4 
東 幕下 #40
優勝
8–0
西 幕下 #6
4–4 
西 幕下 #5
7–1 
1959年
(昭和34年)
西 十両 #23
9–6 
東 十両 #21
8–7 
西 十両 #16
10–5 
西 十両 #8
9–6 
西 十両 #5
9–6 
東 十両 #4
10–5 
1960年
(昭和35年)
東 十両 #1
8–7 
西 前頭 #15
7–8 
東 前頭 #17
5–10 
東 十両 #5
優勝
14–1
東 前頭 #14
10–5 
東 前頭 #8
11–4
1961年
(昭和36年)
東 前頭 #2
休場
0–0–15
東 前頭 #11
9–6 
東 前頭 #5
10–5
東 小結
11–4
東 関脇
8–7 
東 関脇
9–6
1962年
(昭和37年)
東 関脇
9–6
西 関脇
9–6 
西 関脇
14–1
東 張出大関
9–6 
東 張出大関 #2
10–5 
西 張出大関
9–6 
1963年
(昭和38年)
東 張出大関
9–6 
西 張出大関
8–2–5[14] 
西 大関
10–5 
東 張出大関
8–7 
東 張出大関 #2
11–4 
西 大関
14–1 
1964年
(昭和39年)
東 大関
13–2 
東 張出横綱
10–5 
東 張出横綱
13–2 
東 横綱
11–4 
東 横綱
9–6 
西 横綱
0–3–12[15] 
1965年
(昭和40年)
東 張出横綱
8–7 
東 張出横綱
8–7 
東 張出横綱
8–7 
西 張出横綱
7–4–4[16] 
西 張出横綱
10–5 
西 張出横綱
5–6–4[17] 
1966年
(昭和41年)
東 張出横綱
休場
0–0–15
西 張出横綱
10–5 
東 張出横綱
1–3–11[18] 
東 張出横綱
休場
0–0–15
西 張出横綱
休場
0–0–15
西 張出横綱
引退
2–5–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 花田 茂廣(はなだ しげひろ)1955年9月場所-1956年9月場所
  • 花田 茂宏(- しげひろ)1957年1月場所
  • 花田 茂廣(- しげひろ)1957年3月場所
  • 花田 茂広(- しげひろ)1957年5月場所-1958年1月場所
  • 花田 茂宏(- しげひろ)1958年3月場所
  • 花田 茂広(- しげひろ)1958年5月場所-1959年9月場所
  • 花田 茂廣(- しげひろ)1959年11月場所-1960年7月場所
  • 栃ノ海 晃嘉(とちのうみ てるよし)1960年9月場所-1966年11月場所

年寄変遷[編集]

  • 栃ノ海 晃嘉(とちのうみ てるよし)1966年11月-1967年2月(一代年寄
  • 中立 晃嘉(なかだち -)1967年2月-1967年3月
  • 中立 大嗣(- ひろつぐ)1967年3月-1990年1月
  • 春日野 大嗣(かすがの -)1990年1月-1990年3月
  • 春日野 晃将(- てるまさ)1990年3月-2003年2月
  • 竹縄 晃将(たけなわ -)2003年2月-2003年3月

参考資料[編集]

  • 第49代横綱 栃ノ海晃嘉 光文社のインタビュー
  • 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p82-83
  • ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p29
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 光文社
  3. ^ a b c d e f g 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p45-47
  4. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p43-44
  5. ^ 年寄・中立だった当時に本人が「腰はまだいい時もあったから何とかなったけど右腕の筋肉が切れて離れたのはどうにもならなかった」と証言している。
  6. ^ 大相撲:第49代横綱・栃ノ海の花田茂広さんに聞く 毎日新聞 2013年03月30日 11時02分
  7. ^ 巡業でもほとんど稽古しない金城興福板井圭介などに手を焼いたと伝わっている。
  8. ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p77
  9. ^ 澤田一矢(編)『大相撲の辞典』1995年、142頁。
  10. ^ のちに日の出海は東京神田で「相撲茶屋 栃ノ海」を経営した。
  11. ^ a b 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p78-83
  12. ^ 年6場所制定着(1958年)以降昇進した横綱の中で唯一の勝率5割台でありなおかつ年6場所制定着以降の横綱最低勝率である。
  13. ^ Tochinoumi Teruyoshi Rikishi Information” (English). Sumo Reference. 2007年7月24日閲覧。
  14. ^ 左腰部打により10日目から途中休場
  15. ^ 右鎖骨骨折・椎間板ヘルニアに伴う坐骨神経痛により3日目から途中休場
  16. ^ 右大腿部挫傷により11日目から途中休場
  17. ^ 椎間板ヘルニアにより11日目から途中休場
  18. ^ 右上腕二頭筋ヘルニアにより4日目から途中休場

関連項目[編集]