村上隆 (ゴルファー)
Takashi MURAKAMI | |
---|---|
基本情報 | |
名前 | 村上隆 |
生年月日 | 1944年5月25日(78歳) |
身長 | 174 cm (5 ft 9 in) |
体重 | 80 kg (176 lb) |
出身地 | 静岡県田方郡伊東町(現・伊東市) |
経歴 | |
成績 | |
優勝回数 | 11勝 |
賞金王 | 1975年 |
賞金ランク最高位 | 日本男子:1位 (1975) |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2017年 |
選出部門 | プレーヤー |
2017年2月13日現在 |
村上 隆(むらかみ たかし、1944年5月25日 - )は静岡県田方郡伊東町(現・伊東市)出身のプロゴルファー。
人物[編集]
実家はサザンクロスCCのごく近くで、ゴルフ場に囲まれた地で育った[1]。伊東南中学時代は近所のゴルフ場でキャディのアルバイトをしていた。卒業後は川奈ホテルに入社し、キャディを勤めながら杉本英世に弟子入りしてプロを目指す[2]。その後は東京よみうりカントリークラブに移籍し、1963年にプロテスト合格。1964年にプロデビューし、1967年にグランドモナークで初タイトルを獲得して以降、直実に勝ち星を伸ばしていく。1969年にオーストラリアPGAで地元のブルース・デブリンに次ぐ2位に入ると[3]、1972年にはニュージーランドPGAで地元のボブ・チャールズと並んで尾崎将司に次ぐ2位を記録[4]。同年にはマレーシアオープンでマーティ・ボーエン( アメリカ合衆国)、ウォルター・ゴドフリー(
ニュージーランド)、スクリー・オンシャム(
タイ)を抑えてアジアサーキット初優勝を果たすと[5]、シンガポールオープンでは河野高明と日本勢ワンツーの2位[6]、香港オープンではゴドフリーに次ぐ2位と活躍[7]。ワールドカップ日本代表にも初選出され、団体戦では河野とのペアで呂良煥&謝敏男(
中華民国)に次ぎ、ティーニー・ブリッツ&ゲーリー・プレーヤー(
南アフリカ共和国)、ブルース・クランプトン&ビル・ダンク(
オーストラリア)、ジム・ジェイミーソン&トム・ワイスコフ(アメリカ)を抑えての2位と健闘。個人戦では謝敏男、河野、ブリッツに次ぎ、クランプトン・呂良煥とタイの4位に入った。同年には月刊パーゴルフで、戸田藤一郎が有望な若手選手をコーチする「戸田道場」という連載に登場し、村上は戸田からパッティングを教えられた[8]。1975年、5月に同年創設された日本プロマッチプレーに優勝して初代チャンピオンになると同時に初の日本タイトル獲得で調子に乗ると[9]、9月には日本オープンを最終日に66を出して勝ち[9]、10月にはプレーオフの末に日本プロ優勝、11月には日本シリーズをも制して空前絶後の日本タイトル4試合を1年間で制覇する"日本4冠王、年間グランドスラム"という現在でもただ一人の快挙を達成し、その年の日本男子プロゴルフツアー賞金王に輝く[9]。特に日本シリーズでは開幕直前に新聞記者から初の年間グランドスラムがかかっていることを聞き、村上は後に「プレッシャーを感じて大会を迎えた。」と振り返っている[2]。それまでは優勝に届かず「万年2位」などと囁かれたこともあったが[2]、10年間所属して知り尽くした東京よみうりCCで得意のショートアイアンとパットの冴えを見せてスコアを伸ばした[9]。同年には3年ぶりにワールドカップ日本代表へ選出され、団体では島田幸作とのペアでルー・グラハム&ジョニー・ミラー(アメリカ)、謝敏男&郭吉雄(中華民国)に次ぎ、ボブ・シアラー&イアン・スタンレー(オーストラリア)、フアン・カブレラ&ホルヘ・ソト(
アルゼンチン)、ベン・アルダ&エレウテリオ・ニーバル(
フィリピン)を抑えての3位、個人でもジョニー・ミラー、アルダ、謝敏男、シアラー、ルー・グラハムに次ぐ6位と健闘。青木功・尾崎の「AO時代」から「AOM時代」と呼ばれる一時代を築き[2]、1976年にはマスターズ初出場を果たし、2年連続選出となったワールドカップでは初日をトップで通過。結果は個人がエルネスト・ペレス・アコスタ(
メキシコ)、ブライアン・バーンズ(
スコットランド)、デール・へイズ(南アフリカ)、郭吉雄(中華民国)、サイモン・オーウェン(ニュージーランド)、ジェリー・ペイト(アメリカ)、マニュエル・ピネロ(
スペイン)に次ぎ、エイモン・ダーシー(
アイルランド)、ボブ・シアラー(オーストラリア)と並ぶ8位タイに終わったが、最終日には優勝争いに加わるなど健闘。団体では山本善隆とのペアでセベ・バレステロス&ピネロ(スペイン)、ペイト&デイブ・ストックトン(アメリカ)、郭&許勝三(中華民国)、バーンズ&サム・トーランス(スコットランド)に次ぎ、アコスタ&マルガリート・マルティネス(メキシコ)と並んでタイの5位に入った。海外での活躍も評価され、第1回報知プロスポーツ大賞・男子ゴルフ部門を受賞。国内では不振を極めていたが、全日空札幌オープンでは最終日6位スタートながら、12番ホールでイーグルを出すなど67の好スコアをマーク。上位が崩れたこともあって通算20勝目を達成するが、2位には尾崎、3位には青木とAOM揃い踏みとなった[10]。1977年のハワイアンオープンでは初日73で66位と不振な出足であったが[11]、ブルース・リンツキーに次ぎ、ドン・ジャニュアリーと並んで2位タイに入る。当時の日本人プロのアメリカツアー遠征で最高の2位入賞を果たし、世界的にもショートゲームの第一人者として名声を博す[1]。帰国時には羽田空港で夫人の出迎えを受け、笑顔を見せた[12]。1980年代にはサンケイスポーツ評論家を務め、第一線を退いた現在は故郷・伊東で悠々自適に生活しており、ジャガイモや里芋、大根などの栽培を楽しんでいる[2]。
2017年には陳清水、清元登子、河野、島田幸作、涂阿玉と共に第5回日本プロゴルフ殿堂入りを果たす[13]。
主な優勝[編集]
レギュラー[編集]
- 1967年 - グランドモナーク
- 1968年 - ロレックストーナメント
- 1969年 - 全日本ダブルス(杉本とペア)
- 1970年 - 全日本ダブルス(杉本とペア)
- 1971年 - 西日本サーキット宇部
- 1972年 - 全日本ダブルス(尾崎将とペア)、東北クラシック、長野県オープン
- 1973年 - 全日本ダブルス(杉本とペア)、長野県オープン
- 1974年 - 中日クラウンズ、ゴルフダイジェストトーナメント
- 1975年 - 日本プロマッチプレー、日本オープン、日本プロ、日本シリーズ
- 1976年 - 全日空札幌オープン、関東プロ、ブリヂストンオープン
- 1977年 - ゴルフダイジェストトーナメント
海外[編集]
- 1972年 - マレーシアオープン
脚注[編集]
- ^ a b 日本ゴルフツアー機構 - 村上 隆選手のプロフィール
- ^ a b c d e 村上隆氏が日本プロゴルフ殿堂入り!ただ一人「年間グランドスラム」達成など
- ^ “Devlin eases up but wins PGA title easily”. The Canberra Times (Australian Capital Territory, Australia) 44 (12464): p. 14. (1969年11月10日) 2020年12月1日閲覧。
- ^ “Japanese wins NZ golf title”. The Canberra Times (Australian Capital Territory, Australia) 46 (13,014): p. 11. (1972年1月10日) 2019年9月28日閲覧。
- ^ “Murakami tops”. The Gazette (Montreal): p. 17. (1972年3月13日)
- ^ “It's Kono's title as Jumbo crashes”. The Straits Times: p. 31. (1972年3月6日)
- ^ “Godfrey Takes Hong Kong Open Under Pressure”. The Canberra Times: p. 10. (1972年4月3日) 2020年1月8日閲覧。
- ^ 菅野徳雄のゴルフ一刀両断 | ゴルフ会員権の売買・購入・売却|TKゴルフサービス
- ^ a b c d 「年間グランドスラム」の村上隆。″ピンクパーサー”ト阿玉(台湾)ら6人。 新たに日本プロゴルフ殿堂入り
- ^ 大会の歴史 第47回ANAオープンゴルフトーナメント
- ^ 村上隆(殖産住宅) 男子プロゴルファー "ハワイ・オープンゴルフ" 第1日
- ^ 1977年02月09日 村上と正美夫人 ゴルフの村上隆が帰国
- ^ 顕彰者紹介 | 日本プロゴルフ殿堂