横山隆一
| 横山 隆一 | |
|---|---|
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『アサヒグラフ』1950年9月27日号 | |
| 本名 | 同じ |
| 生誕 |
1909年5月17日[1] |
| 死没 |
2001年11月8日(92歳没)[1] |
| 国籍 |
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| 職業 | 漫画家 |
| 活動期間 | 1930年代 - 2001年 |
| ジャンル |
4コマ漫画、幼年漫画、 ナンセンス漫画 |
| 代表作 |
『フクちゃん』 『デンスケ』 『おんぶおばけ』 他 |
| 受賞 |
第8回日本漫画家協会賞 大賞(1979年)[3] 文化功労者(1994年)[3] |
横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日[1] - 2001年11月8日[1])は高知県高知市[1]出身の漫画家、アニメーション作家。
概要[編集]
政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し[4]、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」[2]を設立したほか、広告や絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた[1]。
略歴[編集]
高知市堺町[3]の生糸商の長男[1]。高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)卒業[1]。1927年[3]に彫刻家を目指し上京、東京美術学校を受験するが2度にわたり失敗[1][4]。1928年に川端画学校に入学したほか、同郷の彫刻家・本山白雲に入門[1]。その間横山は、『アサヒグラフ』『新青年』[1]『月刊マンガ・マン』[4]などに漫画を投稿し続けており、本山に漫画家への転身をすすめられて堤寒三を紹介され、堤の門下に転じる[1]。また、北澤楽天が横山の漫画に惚れ込み、時事新報社の自身の部屋に横山を招き、面会をしている。この経験は横山に自信を与えたという[4]。
このころ『月刊マンガ・マン』の寄稿者だった近藤日出造や杉浦幸雄らと知り合った[1]。昭和初期の漫画界は文壇・画壇をもじって「漫画壇」とも呼ばれ、新聞や雑誌は少数のベテランが独占しているような状態で、横山ら若手はプロとしての発表の場がなかなか得られなかった。横山・近藤・杉浦の3人を中心に「漫画市場に若手が結束して売り込もう」「殴り込みをかける」といった意見が高まり[4]、1932年[1][3]に「新漫画派集団」の結成にいたった。
「線を大胆に簡略化した絵と奇抜な発想[4]」で抜きん出ていた横山は、「新漫画派集団」の中で最初に名が売れていった。杉浦は横山の作風を「昭和のピカソ」と評し、「奇想天外の発想はだれもついていけなかったのに、みんながマネをしようとして失敗した」と語っている[4]。
太平洋戦争中は、自身の作品『フクちゃん』が日本海軍のプロパガンダとしてアニメーション映画化された。その一方、『フクちゃん』は、敵国である米軍の宣伝ビラ『落下傘ニュース』にも(当然)無断で使用された[5]。
戦後の1945年10月、横山らは「新漫画派集団」を「漫画集団」に改組し、新進の漫画家を多く世に出すことに貢献した[4]。
横山は1961年に、日本初のテレビアニメシリーズ『インスタントヒストリー』を制作した。この作品は1分程度の放送であったために、後発の手塚治虫による30分のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の陰に隠れた存在となってしまっている。
2001年11月8日、脳梗塞[3]のため神奈川県鎌倉市内の病院で死去[2]。翌年に「横山隆一記念まんが館」が開館することが決定していたが、開館を待たずに亡くなった。横山の娘は新聞取材に対し「現代ではおどろおどろしい絵や話のものが漫画と呼ばれてしまっている。本当の意味での『漫画』は終わった[要出典]」と語っている。
受賞歴[編集]
- 漫画作品
- 1966年 毎日出版文化賞特別賞(『勇気』)[2][3]
- 1979年 第8回日本漫画家協会賞 大賞(『百馬鹿』)[3]
- 1992年 第21回日本漫画家協会賞 文部大臣賞(日本の漫画文化に貢献した全業績)[2]
- 1994年 文化功労者[3] - 漫画家としては初の受賞[2]。
- 1999年 第10回早稲田大学芸術功労者表彰[6]
- アニメーション作品
- 1957年 第8回ブルーリボン賞特別賞(『ふくすけ』)、第12回毎日映画コンクール教育文化映画賞(『ふくすけ』)[2]
- 叙勲
人物・エピソード[編集]
- 画家の横山ふさ子は三女。漫画家の横山泰三は実弟。また、近藤日出造は義弟(妹の夫)である[4]。
- 弟・泰三の『プーサン』の映画化作品に弟とともに出演している。
- 戦後50年を迎えた頃、かつて米軍が宣伝ビラに『フクちゃん』を無断使用したことに対する原稿料180円(当時の横山に支払われていた原稿料の相場)を、横山が自身一流のシャレとしてアメリカ大使館に請求したところ、大使館側は快諾し、横山に領収書を書かせ、請求どおりに支払った。時代を経て、通貨価値や流通貨幣は変わっていたが、横山は現在流通する日本円180円でこれを受領している。
- 鉄道ファンとして有名で、鎌倉市御成町の自邸に鉄道模型の大規模なレイアウトを所有していた[4]。
- かつての自邸跡地には現在スターバックスコーヒー鎌倉御成町店が建っている。桜の木、藤棚、プール等が残されているほか、店内に『フクちゃん』の原画が展示されている[7]。
主な作品[編集]
漫画[編集]
アニメ[編集]
- フクチャンの奇襲(1942年)
- フクチャンの増産部隊(1943年)
- フクチャンの潜水艦(1944年)
- おんぶおばけ(1955年)
- ふくすけ(1957年)
- ひょうたんすずめ(1959年)
- インスタントヒストリー(1961年)
- おとぎマンガカレンダー(1962年)
- おとぎの世界旅行(1962年)
- 動物村ものがたり(1970年)
- 隆一まんが劇場 おんぶおばけ(1972年) - エイケン製作
- フクちゃん(1982年) - シンエイ動画製作
その他[編集]
- ヒュー・ロフティング原作の絵本『もりのおばあさん』挿絵(岩波書店、1954年)
- 崎陽軒『ひょうちゃん』(陶器製醤油入れ)デザイン(1955年)
- 船橋ヘルスセンターのCMキャラクターデザイン(1962年)
- ブリヂストンタイヤ『どこまでも行こう』アニメCM「タイヤくん」のキャラクターデザイン(1968年)
随筆[編集]
- フクちゃん随筆 講談社 1967
- わが遊戯的人生 日本経済新聞社 1972 のち「人間の記録」日本図書センター
- 隆一コーナー 六興出版 1982.6
- 私の履歴書 文化人 7 坂本繁二郎.熊谷守一.横山隆一.奥村土牛.谷口吉郎.浜田庄司.棟方志功 日本経済新聞社 1984.1
- 大衆酒場 かまくら春秋社 1985.7
- 鎌倉通信 高知新聞社 1995.10
- 鎌倉通信 其の2 高知新聞社 1999.11
- 猫が通れば道理引っ込む - 参加
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 横山隆一 コトバンク - 典拠は『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『デジタル大辞泉』、『百科事典マイペディア』、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、『世界大百科事典』第2版、『日本大百科全書 ニッポニカ』
- ^ a b c d e f g h 横山隆一 東文研アーカイブデータベース - 典拠は『日本美術年鑑』
- ^ a b c d e f g h i 少年の心の持ち主、横山隆一 横山隆一記念まんが館
- ^ a b c d e f g h i j 寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』毎日新聞社、1990年 pp.10-20「新漫画派集団の誕生」
- ^ 『落下傘ニュース』に掲載された『フクちゃん』は次のサイトにて公開されている。
連合国軍(国立国会図書館所蔵) (2012年11月22日). “憲政資料室収集文書1235 米軍投下ビラ”. マニラ米軍司令部. 2015年5月1日閲覧。 - ^ 表彰データベース 早稲田大学
- ^ http://www.starbucks.co.jp/store/concept/kamakura/index.html
関連項目[編集]
- 早稲田大学 - フクちゃんが、一時体育会のマスコットキャラクターとして用いられた。
- 鈴木伸一 - おとぎプロ出身。
外部リンク[編集]