大山康晴

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 大山康晴 十五世名人(九段)
名前 大山康晴
生年月日 1923年3月13日
没年月日 1992年7月26日(満69歳没)
棋士番号 26 
出身地 岡山県倉敷市 
師匠 木見金治郎九段 
永世称号 十五世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将
段位 十五世名人(九段)
戦績
タイトル獲得合計 80期(歴代2位)
一般棋戦優勝回数 44回
通算成績 1308勝782敗(0.647)
順位戦クラス A級以上連続44期

大山 康晴(おおやま やすはる、1923年大正12年)3月13日 - 1992年平成4年)7月26日)は、将棋棋士。棋士番号26。木見金治郎門下。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十五世名人、および、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という、5つの永世称号を保持。

日本将棋連盟会長でもあった。弟子には有吉道夫中田功行方尚史などがいる。1990年(平成2年)に将棋界初の文化功労者顕彰となった。正四位勲二等瑞宝章を受章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県百石町名誉市民・名誉町民。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始め、才能を注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、木見金治郎九段に入門。内弟子となり順調に昇段していった。しかし師匠の木見が数少ない中将棋の指し手で、1938年(昭和13年)は大山も中将棋囲碁に没頭して昇段できなかった。一方で中将棋から駒の連携を重視する用心深く、粘りのある棋風が生まれたと大山自身後年述懐している。

1940年(昭和15年)に17歳で四段の棋士となり、1943年(昭和18年)に六段に昇段。大東亜戦争中の1944年(昭和19年)に召集され、南九州に配属される。上官が将棋好きであった事が幸いし、一度艦載機の機銃掃射を受けたほかは危険な目にもあわず、比較的恵まれた軍隊生活を送った。

木見門下の兄弟子に大野源一角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいる。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。

名人位へ[編集]

戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。1947年(昭和22年)に七段昇段。1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負第三局)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。しかし、第7期名人戦は2勝4敗1千日手で敗れる。この年、A級八段に昇段。

1950年(昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で木村義雄名人に挑戦するも2勝4敗で敗れ名人にまだ及ばなかったが、創設されたばかりの第1期九段戦で第2の公式タイトル「九段」を獲得。

1952年(昭和27年)、大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利、29歳で実力制3人目の名人位に就き、木村を引退に追い込む。名人位を関西にもたらしたのは、阪田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げた事はこの時、有名になった)。以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得る。名人・王将の二冠を3年間保持した。

升田幸三との闘争[編集]

「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」[1]を標榜しながら巻き返しを狙っていた。1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。

その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子揮毫などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。

五冠王時代[編集]

1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。

1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。

二上達也山田道美加藤一二三内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。

中原誠ら次世代の台頭、記録への挑戦[編集]

しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。

その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった(後に中原も同様の理由で現役のまま永世十段を名乗ることになる)。

しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(56歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと[2]。その他、谷川、羽生などにも負け越している。

連盟の運営、将棋の普及、顕彰[編集]

倉敷市芸文館にある倉敷市立大山名人記念館

1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「東京将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。1977年 - 1988年(昭和52年 - 昭和63年)には、第一線のA級棋士でありながら日本将棋連盟の会長に就任、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。

将棋の普及活動にも熱心で、中でも青森県百石町(現・おいらせ町)には「第2のふるさと」と呼ぶほどの入れ込み方であり、百石町名誉市民の称号を贈られ、町の予算で大山の功績を称える「大山将棋記念館」が建てられたほどである。出身地の倉敷市でも、1970年(昭和45年)に名誉市民を贈られ、「倉敷市大山名人記念館」が建てられている。さらに没後の1993年(平成5年)には女流棋士の棋戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている。

1990年(平成2年)には、将棋界で初めて文化功労者に顕彰された。 このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。

また、現役棋士としても、下記の賞を受賞している。

晩年の闘い[編集]

晩年になっても、ガンと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑んだ。還暦を過ぎ、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦した[3]。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)。

この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。

さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦では、ガン治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、初戦の対・高橋道雄戦で敗れた(勝勢になったが、手を間違えて敗局)。これが、大山がフル出場した最後の順位戦となった。

翌1992年(平成4年)度の順位戦も休場せずに生涯現役を貫き、1992年(平成4年)7月、A級在籍のまま死去した。

棋風[編集]

小細工やひっかけを軽蔑し、正面から実力で押す正攻法の棋風を貫いた。小技を得意とした真剣師出身の花村元司を下したあと「花ちゃん、あんたは所詮素人だもんね」と言い放った。

受けの達人として知られる。相手に攻めさせてから指し切りにさせてしまう「受け潰し」を得意とした。最初のチャンスは見送る主義で、優勢となっても勝ちを急がず、常に安全に勝つことを目指した[4]。終盤での強靭な粘りと、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術は「終盤が二度ある」「二枚腰」と讃えられた[5]

羽生善治将棋世界2006年8月号の中で、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と発言している。「まあこんなところだろう」という感じて手が伸びてくるのがピッタリ当たりまさに名人芸ともいうべき指しまわしであると著書「決断力」に述べられている。

好きな駒は金将。金銀の使い方が非常に巧みで、現在においてもその受けは棋士の研究対象となっている。ただし、かつてニッポン放送アナウンサー塚越孝に「最も好きな駒は何か」と質問された際、大山は対局に影響するので答えられないと返答した。それでも塚越は同じ問いをし、大山は香車と答えている(「つか金フライデー」2008年2月28日配信分)。

若い頃は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した(体力がなくなって、大野源一に相談したところ、大野が「振り飛車をやればいい。振り飛車なら、体力を使わなくて楽だよ。」と答えたため)[6]。この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、この他に、振り飛車はどの対局も序盤の指し方が大して変わらないので、研究時間等の短縮が簡単にできたためとも言われている[7]

しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(このため、大山が公式戦で相振り飛車を指したことはほとんど無く、後年にはたった一局しか棋譜が残っていない)。

鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった[8]

相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。

盤外戦[編集]

対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「盤外戦」を駆使した面がしばしば強調される。

例えば有名な高野山の決戦である。A級1位だった升田が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には対局の日程も場所も事前に通知は無かった一方で、毎日新聞社は大山には高野山への豪勢な送迎をしていた。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていた。という説もある。

だが上記の「毎日側の陰謀」については。河口俊彦の評伝『大山康晴の晩節』(新潮文庫)では「毎日新聞にそんな悪意はなかったはずだ。(略)陰謀云々は、升田流の云いがかりである」(P.132)とある。また、毎日新聞側の証言として、「高野山の決戦」後に毎日新聞社に入社した井口昭夫の大山伝『名人の譜』(日本将棋連盟)では、以下のように記述されており(P.49~60)、やはり「陰謀説」を否定している。

  • 「B級1位を参画」という制度変更は、「順位戦の開始前」にされていた筈だ。(升田は知らなったかもしれないが)順位戦が終わった段階での、制度変更は考えられない。なお「B級1位を参画」は七段時代の升田が、木村名人との五番勝負に勝った結果として「B級の逸材にも挑戦のチャンスを与えよう」という流れである。
  • 高野山の対局の担当者に聞いてみたところ。当時は食糧難で対局場所を探すのも困難であり、食糧が十分確保されている高野山が対局場所として適所としてあげられた。なお、「途中は寒くても、寺に入ってしまえば防寒の用意は発達している」と高野山側の説明を受けていた。
  • 毎日側は升田に連絡しようとしたが、升田の所在がわからず困惑していた。朝日新聞側の担当者も、升田に連絡がつかないことを心配していた。

なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っているという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰ったとか、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するようせまったとかの逸話が伝えられている[9]。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲る事はなかった。

その他の棋類[編集]

日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中象棋協会(のちに日本シャンチー協会)を設立して会長職を務めシャンチー(中国象棋)の普及にも努めた。

昇段履歴、永世称号襲名・襲位[編集]

  • 1935年 入門
  • 1940年 四段
  • 1941年 五段
  • 1943年 六段(B級)
  • 1947年5月10日 七段
  • 1948年4月1日 八段(A級)
  • 1958年4月17日 九段(1954年時点での名人3期達成による)
  • 1973年10月31日 永世王将を名乗る(特例)
  • 1976年 11月17日 十五世名人を襲位(特例、将棋の日
  • 1992年7月26日 A級現役のまま逝去(69歳没)

主な成績[編集]

タイトル・永世称号[編集]

勝敗詳細・対戦相手等は、「大山康晴の戦績 」を参照。

タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号
名人 1952(第11期)-56, 59-71 25 18期
(歴代1位)
13
(歴代1位)
十五世名人(1976.11.17に襲位)
九段 1950(第1期)-51, 58-61 8 6期
(歴代1位)
4
(歴代1位タイ)
十段 1962(第1期)-67, 69, 73 14 8期 6
(歴代1位タイ)
永世十段(1988年付け)
王位 1960(第1期)-71 15 12期
(歴代2位)
12
(歴代1位)
永世王位
棋王 2
 
棋聖 1962後(第1期)-65後,
66後, 70前, 74前-77前
22 16期
(歴代1位タイ)
7
(歴代1位)
(2度達成)
永世棋聖(1965年付け)
王将 1952(第2期)-54, 57-61,
63-71, 79-81
26 20期
(歴代1位)
9
(歴代1位)
永世王将(1973.10.31から名乗る)
登場回数合計112、 獲得合計80期 (歴代2位

一般棋戦優勝[編集]

合計44回

将棋大賞[編集]

  • 第1回(1973年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞
  • 第2回(1974年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第3回(1975年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第4回(1976年度) 連勝賞
  • 第7回(1979年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞(いずれも最年長記録、56歳)
  • 第13回(1985年度) 特別賞
  • 第19回(1991年度) 特別賞
  • 第20回(1992年度) 東京将棋記者会賞

おもな記録[編集]

生涯成績 1433勝781敗 勝率0.647

  • 通算勝数 1433勝(歴代1位)
  • 通算優勝回数- 124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44・非公式戦0)
  • 通算公式戦優勝回数- 124回(歴代1位、タイトル戦80・一般棋戦44)
  • タイトル戦獲得 80期(歴代2位)
  • タイトル戦連続獲得 19期(歴代1位、1963年度名人戦 - 1966年度名人戦)
  • タイトル戦連続登場 50回(歴代1位、1957年度名人戦 - 1967年度十段戦)
  • 順位戦A級在籍・名人在位 連続45年44期(歴代1位)
  • 十段位在位(九段戦込み) 14期(歴代1位)
  • 同一タイトル戦連覇 13期(名人戦)(歴代2位)
  • 同一タイトル戦連続登場 21期(名人戦、王将戦)(歴代1位)
  • タイトル戦最年長奪取 56歳11ヶ月(王将戦)(歴代1位)
  • タイトル戦最年長防衛 59歳 0ヶ月(王将戦)(歴代1位)
  • タイトル戦最年長失冠 59歳11ヶ月(王将戦)(歴代1位)
  • タイトル戦最年長挑戦 66歳11ヶ月(棋王戦)(歴代1位)
  • 名人最年長防衛 48歳 3ヶ月(歴代1位)
  • 名人最年長挑戦 63歳 2ヶ月(歴代1位)
  • 最年長A級 69歳4ヶ月(A級棋士のまま死去)(歴代1位)

豆知識[編集]

  • ゴルフを初めてやった大山は、「こんな面白いものが将棋に悪くないはずがない」と言ってきっぱりやめてしまった」と伝えられることも多いが。実際はゴルフはある程度、熱心にたしなんだ後に、「将棋によくない」ときっぱりやめた[10]
  • 自宅最寄り駅の荻窪駅から自宅へ帰る途中や将棋会館最寄り駅の千駄ヶ谷駅から将棋会館へ歩いて向かう途中、人に追い越されると悔しくて抜き返したという。
  • 1968年にビクターレコードよりリリースされた三沢あけみの楽曲「勝負」を作詞した。
  • 河口俊彦が大山の人物像を描いた「大山康晴の晩節」は、第15回(2002年度)将棋ペンクラブ大賞を受賞している。
  • 河口俊彦によると、大山に禁煙を勧められた河口が「(やめた方がいいのは)わかってはいるんですけどねえ」と答えると、「わかっているのに実行しないとは信じられない」というような目で見られたという。
  • 藤井猛九段は『大山康晴全集』の全棋譜を並べるほど熱心に大山将棋を学んだという。このため、藤井の指し手には大山将棋の影響が表れていると言われる。
  • 坂口安吾の小説『九段』には、若き大山九段のウヌボレ屋な一面と、坂口安吾との偶然の縁が描かれている。
  • バトルロイヤル風間の将棋4コマ漫画にも初期にはよく登場し、将棋と全然関係ないシーンで大山が「ワシにまかせろ!」なる怒号と共に出てきて、強引に片付けてしまうのが定番のギャグだった。風間によると「ネタに詰まるとすぐ大山」だったとの事で、これが縁で大山と風間の対談も実現している。対談は漫画にされ将棋マガジンに掲載された。風間は「大山は将棋しか考えない鉄人だった」と語っている。この時、国会議員に立候補しないのかと風間が聞いたところ、大山は「たとえなっても歩にすぎないので馬鹿馬鹿しい。王将にだったらなるが」という意味の返答をした。
  • 55年組の強豪の南芳一九段は、かつて「リトル大山」の異名を取った。
  • 渡辺明は、その風貌、終盤の強さや逆転術などから、四段時代より「大山の再来」といわれてきた。
  • 食べ物では「嫌いなものは特にない」一方で「辛いものが好き」。カレーライスでは30倍カレーを普通に平らげるほど辛さに強く、同じく激辛好きの林葉直子と意気投合することが多かった[11]

語録[編集]

  • よい道具を持て。
  • 助からないと思っても助かっている。(終盤で「もう駄目だ」というような局面でも、落ち着いて局面を見渡せば助かる手筋が見つかることが多いので、最後まであきらめずに指す事が大事である。元々は不調時に後援者から贈られた陶器に書かれていた言葉で、本人が気に入ってその後よく使ったもの。)
  • 平凡は妙手に勝る。
  • 一回目のチャンスは見逃せ。
  • 終盤は二度ある。
  • 最善形にしたらあとは悪くなるだけ。
  • 名人戦のような大きな勝負で変則作戦を用いるのは気合の充実を欠いているから。
  • 一時期強いというのは一時力(いっときぢから)といって誰にでもある。頂点を維持してこそ強者である。
  • 長所は即欠点につながる(前記バトルロイヤル風間との対談)。
  • 現役を引退すれば十五世名人の称号を許されることになったが、死ぬ前に墓を建て戒名をもらったようなもの。老いた父から「その十五世というのを5つ取れよ」と激励された。(永世名人資格獲得の就任式でのスピーチ内容[12]より抜粋)
  • 50の新人(いつまでも「過去の自分を懐かしんではいけない」という自分への戒めでもある)。

主な出演[編集]

CM[編集]

主な著書[編集]

ほか多数

参考図書[編集]

関連する顕彰[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 香落ち(自分の香車を落とすハンディ戦)にしてまでも勝つこと。
  2. ^ 将棋世界2008年7月号「イメージと読みの将棋観」より。
  3. ^ この棋王戦挑戦者決定トーナメントにおいて、19歳で竜王にあった羽生善治に勝っている。
  4. ^ 升田幸三は晩年、自著の中で、修業時代は大山は攻めの棋風だったがすぐに相手から逆襲されて潰されたので、しぶとい受けの棋風になり、一方で升田自身は受けの棋風だったが簡単に相手から攻め潰されたので、自分から討って出る攻めの棋風になったと述懐していた。
  5. ^ 米長邦雄『逆転のテクニック—悪い将棋はこう指せ!』(日本将棋連盟、上巻、ISBN 978-4819701112) 。
  6. ^ 振り飛車は、当時のアマチュアには棒銀と並んで人気があった一方で、プロ棋界ではいきなり角道を止める振り飛車は受け身で消極的とされ、若手棋士が指すと年輩棋士から叱責を受けるほどだった。そのような風潮の中で、升田・大山の両巨匠が振り飛車党に転向したことは衝撃的なことだった。
  7. ^ 藤井猛・鈴木宏彦著「現代に生きる大山振り飛車」より
  8. ^ 将棋ニュースプラス2007年8月3日配信分「将棋列伝」より
  9. ^ 河口俊彦『大山康晴の晩節』
  10. ^ 井口昭夫『名人の譜』(日本将棋連盟)P.139
  11. ^ 林葉直子女流名人・王将(当時)「大山先生ってば、ほんとうに可愛いんだわ」 - 将棋ペンクラブログ・2013年10月22日
  12. ^ 山本武雄著 改定新版「将棋百年」(1976年、時事通信社)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]