佐藤愛子 (作家)

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佐藤 愛子
(さとう あいこ)
婦人生活』1964年2月号より
ペンネーム 佐藤 愛子
誕生 佐藤 愛子
(1923-11-05) 1923年11月5日(100歳)
大阪府の旗 大阪府大阪市
職業 小説家
エッセイスト
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 甲南高等女学校卒業
ジャンル 小説
エッセイ
代表作 『青い果実』(1950年)
『ソクラテスの妻』(1963年)
『花はくれない 小説佐藤紅緑』(1967年)
『戦いすんで日が暮れて』(1969年)
『女優万里子』(1974年)
『血脈』(1989年-2000年)
『晩鐘』(2014年)
『九十歳。何がめでたい』(2016年)
『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年)
主な受賞歴 直木賞(1969年)
女流文学賞(1979年)
菊池寛賞(2000年)
紫式部文学賞(2015年)
旭日小綬章(2017年)
デビュー作 『青い果実』
配偶者 森川 弘(死別)
田畑麦彦(離婚)
親族 佐藤紅緑(父)
三笠万里子(母)
サトウハチロー(異母兄)
大垣肇(異母兄)
杉山弘幸(娘婿)
杉山響子(長女)
杉山桃子(孫)
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佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年大正12年)11月5日[1] - )は、日本小説家[2]大阪市生まれ、西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑[注 1]と女優・三笠万里子[注 2]の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチロー脚本家劇作家大垣肇。甲南高等女学校(現 甲南女子高等学校)卒業。

経歴[編集]

直木賞受賞までの経緯[編集]

初めの結婚に破れた佐藤愛子は、資産家の子息である田畑麦彦と再婚し一女を設けた。

田畑麦彦は、新人賞クラスの小説家であったが、結婚後は事業家としての活動に力を入れるようになっていった。

その事業だが、いっときは軌道に乗ったようにも思えたが、田畑のある意味、特殊な金銭感覚が禍し、結局は大きな借財を抱えることになった。

佐藤愛子は、その田畑と離婚をする。田畑自身の説明によれば 、「借金の火の粉が妻に降りかからないための偽装離婚」のはずだった。

だが、いざ離婚してみると、田畑は銀座で飲食店を経営する女性と密かに入籍していた。それでも佐藤愛子は、元夫の莫大な借金を返すため、身を粉にして働き続けた。

全国のテレビ局のワイドショーのご意見番から、作家としての本来の仕事まで、馬車馬のように走り続けた。

そんな状況下で一気に書き上げた小説『戦いすんで日が暮れて』 が図らずも、直木賞を受賞する。1969年(昭和44)、佐藤愛子が45歳のときであった。

作品は、文庫本で50ページほどの短編だ。主人公の「私」が、元夫の借金返済のために東奔西走する。実話をもとにした奮戦記である。

以下にそのラストシーンを掲載した。作品中の桃子というのは、主人公の愛娘である。

暮れなずむ空の下で渓流のように車が走っていた。歩道橋に上って南の方を眺めると、既に暮れた鼠色の町の果からヘッドライトをつけた車が際限もなく湧き出して来て、まるで無人車のように機械的な速度でまっしぐらに走り、あっという間に足の下に消え去る。警笛も人声も聞えぬ、ただ轟々と一定の音のかたまりが、環状七号線をゆるがしている。 「うるさいぞオーッ、バカヤローッ!」突然、私は歩道橋の上から、叫んだ。「桃子、あんたもいってごらんよ」桃子は喜んで真似をした。「バカヤローッ、うるさいぞオーッ」私と桃子の声は轟音の中に消えた。私はどなった。 「いい気になるなったら、いい気になるなーッ」車は無関心に流れていた。沿道に水銀灯がともった。轟々と流れる車の川の上で、私と桃子は南の方を向いて立っていた。(終)
直木賞作家 佐藤愛子、『戦いすんで日が暮れて』

「バカヤローッ」、という台詞が読者に鮮烈な印象を与える。

この直木賞受賞後も、佐藤愛子は数々の輝かしい賞を受賞している。

だが、『戦いすんで日が暮れて』が彼女のもっとも素晴らしい作品である、と評する者がいる。「なんといってもその文章に勢いがある」というのが、この識者の観点である。

佐藤愛子は、実は、友人である芥川賞作家 北杜夫楡家の人びとような大作を書いて世に出ることを自身の青図に描いていた。

つまり直木賞受賞に関しては、「ちょっと待った」というのが、佐藤愛子の本音であった。

以上が、直木賞作家 佐藤愛子誕生の経緯である[3][4]

佐藤愛子奨励賞の新設、随筆春秋との関わり[編集]

堀川とんこう(当時はTBSプロデューサー)の母親 堀川としが、実業家として働く傍ら、1993年に同人誌 随筆春秋を創設する。エッセーが専門の純文学同人誌である。それから間もなくのある日、彼女は、直木賞作家 佐藤愛子の自邸を訪れ、随筆春秋の指導者になってくれないかと迫る。応接間で機関銃のようにまくし立てられた佐藤愛子は、とうとうその申し出を引き受けてしまった。佐藤愛子自身、どうしてそんなことになってしまったのか、今もって分からないのだという[5]

また、堀川とんこうの妻 高木凛(脚本家)が、随筆春秋と佐藤愛子とを結びつけるべく、内助の功を尽くした事実も忘れてはならない[5]

つまり、佐藤愛子は、創成期から、随筆春秋の指導者を務めている。2023年で丸30年となる。

2020年には、佐藤愛子自身の希望もあって、既存の随筆春秋賞とは別に、佐藤愛子奨励賞が新設された。佐藤愛子が唯一の審査員である。随筆春秋事務局員らがそれを支える[6]

随筆春秋誌|表紙ギャラリー[編集]

略年譜[編集]

  • 1923年 - 11月5日(戸籍上は11月25日)、佐藤洽六(筆名 佐藤紅緑、50歳)とシナ(30歳)の次女として、大阪市住吉区帝塚山で出生した。母親の「シナ」は、元女優の三笠万里子。父親は、先妻の「はる」を棄て、シナ(25歳)と再婚していた。
  • 1925年 - 兵庫県武庫郡鳴尾村(現西宮市)に転居。佐藤愛子は「私の故郷」と呼んでいる[7]
  • 1931年 - 小学校時代、大衆小説の大家である父親に送られてくる雑誌の恋愛小説を読みふける。算術は苦手であった。
  • 1936年 - 4月、神戸の甲南高等女学校に入学。スポーツや演劇でクラスの人気者になる。
  • 1941年 - 3月、甲南高等女学校卒業。雙葉学園で英語の講習会が開かれたのでちょっと行ってみようか、ということになり参加。夏期講習とか春期講習を受けた。当時、佐藤愛子にはすることもなく暇だった。肋膜炎(現在の結核)にはかかっていなかったが、微熱が続いた時期でもあった[8]
  • 1942年 - 防火演習や防空壕掘りなどをして、花嫁修業はせず、無為な青春時代を過ごす。
  • 旧日本陸軍の伊那飛行場跡
    1943年 - 12月、最初の夫となる森川弘と見合結婚し、長野県伊那市で暮らす。佐藤愛子は、「戦争だから、しようがないから結婚していた」という[9]。 森川は、陸軍航空本部勤務のため、飛行場設営隊の主計将校として陸軍伊那飛行場[10]へ赴任。※旧日本陸軍の伊那飛行場跡、の画像あり(右下)。同地(長野県伊那市)で約5か月の新婚生活をおくる[8]。森川は長男で、実家は岐阜県恵那市(旧大井町)で病院を営んでいた。
  • 1944年 - 11月、静岡県静岡市清水区興津に疎開中の実家にて長男 頸介[11]を出産[8]。佐藤紅緑と妻 三笠万里子の隠居用の邸が静岡県の興津にあったことは、佐藤愛子の長編『血脈』にも記されている。なお、興津は「おきつ」と読む。あの有名な三保の松原の近くである。
  • 1945年 - 夫の実家のある大井町にて敗戦を迎える。大井町とは、岐阜県恵那市の旧大井町のことである。「戦争が終わったことで、目の前が開けたような気持になった。普通なら『これで自分の好きな道に進める』とも思うところだが、当時の私にはまだ好きな道なんかなかった」という[8]。人の大勢いる病院で、穏やかな日々を過ごす。この年、次兄が被爆死。つき合いのある女社長と広島へ赴き、2人で宿泊したところ、米軍機により原子爆弾が投下された。現場へ赴くと、辺りは瓦礫の山で、遺体の確認はできなかった。三兄がフィリッピンで戦死。暑さのため、走行する戦車上部のハッチを開け頭を出したところ、被弾した。2人の兄の非業の最期については、佐藤愛子『血脈』に記述がある[3]
  • 1946年 - 復員した夫、長男とともに千葉県東葛飾郡田中村、現柏市で帰農生活に入る。夫の森川弘は軍隊で原因不明の激しい腹痛に悩まされ、その対症療法として、軍医は鎮痛剤としてモルヒネを打った。そのために夫はモルヒネ中毒にかかっていた。夫は、終戦後もモルヒネをどこかから仕入れて来ては、自分で注射するようになっていた。
  • 1947年 - 長女 素子を出産。ネット上には夏子との記述も見受けるが、事実ではない。作品で使った名前ではないか、との憶測もあるが、佐藤愛子自身の弁によると、「私の好みの名前じゃないよ」とのことである[8]。佐藤愛子は、死別した森川弘との間に、上から、長男と長女を設けている。その長男[11]岐阜県恵那市(旧大井町)の実家の病院(森川クリニックHP)を継いだ。病院は開業中[11]である。
  • 1949年 - 父親の佐藤紅緑が死去。享年76歳。 夫のモルヒネ依存症は戦後も治癒せず、そのことが原因で、佐藤愛子と夫の森川弘とは別居することになる。別居先は、世田谷区上馬にあった邸宅は母親がひとりで暮らしていた。
    1951年に、別居した夫・森川弘は病で亡くなった、2人の子供は婚家の両親が引き取った。佐藤愛子は、森川弘とは死別、後年の夫田畑麦彦とは協議離婚した。すなわち佐藤愛子は、1回の死別と1回の離婚を経験した。
    母親に勧められて、田中村の生活を書いた小説を、生前の父親に見せたところ「面白い」と言われて、佐藤愛子は文学を志した。その父親の紹介で、作家 加藤武雄に師事した。ちなみに佐藤愛子は、その後、作家 北原武夫(作家 宇野千代の夫)に師事する。門人には、川上宗薫もいた。佐藤愛子とは異性の親友となった。
  • 1950年 - 同人雑誌「文藝首都」に参加。北杜夫田畑麦彦なだいなだらがいた。同誌に処女作『青い果実』が発表され、同作で文芸首都賞受賞。
  • 1951年 - 夫 森川弘が死去。同人誌に「西風の街」6月号に『宇津木氏の手記』を発表。同人誌仲間と渋谷、新宿を歩きまわる。同人仲間に田畑麦彦がいた。
  • 1952年 - 「冷焔」を発表。その後、しばらく文学創作への自信を喪失。
  • 1953年 - 母親と衝突し、信州伊那谷の鉱泉に約一カ月滞在。田畑麦彦が訪れ合流し関西地方まで共に旅行をしたことが、結婚の契機となる。6月に実家を出て自立。聖路加国際病院で庶務課員、病院ハウスキーパーとして働き始める
  • 1954年 - 『埋もれた土地』を「三田文学」に発表。
  • 1955年 - 12月、聖路加病院を退職。佐藤愛子自身が、作家以外の仕事に就いたのは、後にも先にも、このときだけであった。
  • 1956年 - 田畑麦彦(本名:篠原省三)と2度目の結婚。披露宴が4月1日であったため、嘘(エイプリルフール)だと思いこみ、出席しなかった招待客もいた。同年、田畑と暮らしていた渋谷区初台の家を売却。さらに、母親の世田谷区上馬の家も売却し、世田谷区太子堂で、母親 シナとも同居を開始。新居は文学仲間のサロンとなった。
  • 1957年 - 田畑、川上宗薫らと同人誌「半世界」を創刊。
  • 1959年 - 「三田文学」に作品掲載
  • 1960年 - 3月、田畑と(愛子にとっては次女)響子を出産。母との共同出資で自宅を新築。
  • 1962年 - 最初の著作『愛子』を刊行。 田畑麦彦が第1回文藝賞を受賞。 田畑の父親は生前、東京急行電鉄の社長を務めていたことがある。同年より、田畑麦彦は佐藤愛子と共に産業教育教材販売会社「日本ソノサービスセンター」の設立と経営に参画する。大雑把に言うと、教育映画を作成し、それを使って企業などの社員教育を行う会社である。田畑麦彦は、1964年より日本ソノフィルムやエスプリ企画の代表取締役社長を務めるが、事業の失敗により離婚。佐藤愛子はその経緯を『戦いすんで日が暮れて』に書き直木賞を受賞した。なお、田畑麦彦の父親は大実業家の篠原三千郎で、東京急行電鉄の創業者 五島慶太の右腕でもあった。その関係で、1期だが、同社(東京急行電鉄)の社長も務めた。なお渋沢社史データベース[12]によると、昭和19年(1944年)2月24日、東急電鉄 社長に篠原三千郎、副社長に池辺稲生が各就任と記述。田畑麦彦自身は、いわば銀のスプーンをくわえ出生したといえる。それ故にか、その金銭感覚には常ならざるものがあり、後年大きな借財を抱えることになった。
  • 1963年度 - 上半期『ソクラテスの妻』で芥川賞候補[13]。連続して下半期『二人の女』で芥川賞候補。
  • 1966年 - この頃からエッセイの注文が増える。
  • 1967年 - 12月、夫である田畑麦彦の会社が倒産した。妻である佐藤愛子は、夫の借金を背負う。倒産額は2億円で、その内の3500万円位を佐藤愛子が引き受ける[14]。債権者に追われ、原稿料が会社の債務返済に消えていく日々が続いた。借金返済のために多数のジュニア小説(現在はジュブナイル・ノベル)を執筆した。
  • 1968年- 1月、「借金から身を守るための偽装離婚」という夫・田畑麦彦の説得を受け入れ離婚。
  • 1969年度上半期 - その体験を描いた『戦いすんで日が暮れて』で直木賞を受賞。波乱万丈の人生経験は、その後の執筆活動にも活かされた。
  • 1972年 - 母シナが死去。享年78歳。
  • 1979年 - 4月、『幸福の絵』(新潮社)を刊行し、女流文学賞を受賞。
  • 1980年 - 娘・響子と共に、タイインドエジプトギリシアイタリアイギリスへ23日間外国旅行。11月『娘と私のアホ旅行』を刊行。この前年(1979年)にメス犬のチビを飼う[8]
  • 1984年 - 迷いイヌのタロを飼う。
  • 1988年 - 秋に響子がジュエリーデザイナー杉山弘幸と結婚。一人暮らしとなる。
  • 1989年 - 7月から『血脈』(第1部)を「別冊文藝春秋」に連載開始。
  • 1991年 - 孫・桃子が生まれる。
  • 1994年 - 娘一家と一緒に住むため、2世帯住宅を新築。
  • 2014年 - 91歳で作家人生最後の作品と位置付けた長編小説『晩鐘』を刊行[15]
  • 2020年 - 指導者を務める同人誌 随筆春秋で、既存の随筆春秋賞とは別に、佐藤愛子奨励賞が新設された。
  • 2023年 ‐ 10月25日、『九十歳。何がめでたい』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』の映画化が公表された[16]。今回は、短編エッセイ集が映画化される稀有なケースである。監督である前田哲もその件について肯定的な考えを持っている。「エッセイなんて映画にならないわよ」という佐藤愛子の一声に対し、「それが、映画になります。だからこそ、面白いのです」と語った[17]
  • 2023年 ‐ 11月5日、満100歳の誕生日を迎えた。

人物[編集]

  • 借金返済のため全国のテレビ局に出演すると共に、全国の会場で講演をし、戦後の世相の乱れ等を厳しく批判した。その結果、父親と同様「憤怒の作家」と言われ、「男性評論家」と呼ばれていた時期もある。小説のほかにも、身の回りの人物や事件をユーモラスに描いたエッセイを多数執筆。「娘と私」シリーズ等が知られている。
  • 父である佐藤紅緑をルーツに、佐藤愛子自身も含めサトウハチローら異母兄弟や子孫たちに伝わる「佐藤家の荒ぶる血」をまとめた長編小説『血脈』を十数年かけて執筆し、話題となる。
  • 近年は自身の心霊体験に基づく著作も多い。

エピソード[編集]

  • 遠藤周作は、エッセイの中で、「灘中学校時代、通学電車で乗り合わせた彼女(佐藤愛子)は、我々のマドンナ的な存在だった」と記述している。その阪急電車の中で、遠藤周作は、佐藤愛子にアピールするために、吊革にぶら下がり、でんぐり返しをして、「ウィキウィキ」と声を上げ、チンパンジーの真似をした、とも。これらは、後年、悪戯好きの遠藤周作の作り話だったことが、佐藤愛子の筆により周知される。遠藤周作が、佐藤愛子とは仲のよい異性の友達であったことを思わせる微笑ましいエピソードである。
  • 川上宗薫は、『戦いすんで日が暮れて』では「川田俊吉」の名で登場。佐藤愛子は川上宗薫との友人関係を「ネコ(佐藤)と手まり(川上)みたいなもん」と表現し、「川上さんには、わたしはホッとひと息つくというか、男でいうなら、会社で上役の機嫌をとり下の連中との人間関係に神経遣ってくたびれ果てて、赤提灯の飲み屋に寄ってひと息つく、そういう感じがある」「だから、これは恋愛の対象とか、結婚の対象とかにはならない」と発言している[18]
  • 川上宗薫は、たびたび佐藤愛子の自宅を訪れては、食事をし、泊まっていった。2人は恋愛関係ではないかと取沙汰する者もいた。誤解を払拭するために、佐藤愛子は、作品中の紙面を割いている。佐藤愛子はそのころ夫の田畑麦彦と同居していた[3]
  • 食事会に参加するため銀座を歩いていると偶然、川上宗薫と一緒になった。すると、「なあ、愛ちゃん。おれ、今日、こんな大きなウンコ〇回もしたんや」などと彼はいう。それを佐藤愛子が、「そんなことは人前ではいわないものよ」とたしなめる。川上宗薫という人物は、佐藤愛子の表現をとおして観察すると、とてもユニークで面白い。世間的にいえば、いわゆる「破綻」した側面も持っているが、佐藤愛子はそれを大らかに受け止めている。そういう2人関係性が面白く、読者を喜ばせる[3]
  • 借金に苦しんでいる佐藤愛子に、「なあ、愛ちゃん。おれ、今なら金貸せるよ。金額をいってくれないか」と川上宗薫が申し出た。後にも先にも、金を貸そうか、といってくれたのは、川上宗薫だけであった、と佐藤愛子は述懐する[3]。官能小説の分野で成功していた川上宗薫には財力もあったからだろうが、夫(後に元夫)の田畑麦彦の借金に苦しむ佐藤愛子に、彼は、救いの手を差し伸べたのである。そのことに感謝した佐藤愛子は、川上宗薫が一番の異性の友達であった、とその文脈で記している[3]
  • 田畑麦彦と佐藤愛子の自邸に、川上宗薫はたびたびやって来ては食事をして行く。その日もやって来て、「明日は夫婦で東北に出張だから……」と断りを入れても、川上宗薫は帰ろうとしない。佐藤愛子は空腹を訴える彼のためにおにぎりを握ってやった。結局、川上宗薫はそのまま泊まり、翌日は、田畑麦彦と佐藤愛子とに挟まれ、川の字になって、東北の出張へ赴いた。川上宗薫は、官能小説の分野で成功を収めた人物である。芥川賞にも5回ノミネートされてる。そんな川上宗薫だが、その素顔には、大人と子供とが同居したような面があった。それを佐藤愛子が優しい眼差しで描いている[3]
  • 60代のころ、北海道浦河町に建てた別荘で、ラップ現象ポルターガイスト現象と呼ばれる心霊現象に悩まされた。何人もの霊能者に相談し、約20年かかって、ほぼ解決した[19]北海道浦河町は、襟裳岬もほど近い日高山脈の麓の町である。昆布漁をはじめとする漁業はもちろんのこと、日高は、競馬馬のサラブレッドの産地でもある。JRA日本中央競馬会の「日高育成牧場」という大規模な施設を擁している。そんな日高の町の海を見渡す丘には、アイヌ民族の古戦場がある。そこは、地形的に見ても、家が建つような場所ではない。佐藤愛子の別荘は、そんな場所に建築された。それが霊障の原因である、と佐藤愛子はある霊能者からアドバイスを受ける。現実の問題であれ、霊の問題であれ、佐藤愛子はどんな困難にも立ち向かう[3]
  • 2度の離婚の後、プロ野球の別当薫(女学生時代の憧れの人でもあった)と不倫関係となる[20]。佐藤愛子自身は、最初の結婚相手である森川弘とは死別であると公言している。その後、縁あって結ばれた作家 田畑麦彦とは、田畑の入れ智恵により、いわゆる偽装離婚をしている。会社経営に乗り出し、莫大な借財を抱えていた田畑が妻である佐藤愛子に迷惑をかけたくない、という理由で、偽装離婚の話を持ち出したのだ。つまり、佐藤愛子には当時、離婚の意思はなかったわけである。そういう意味では、佐藤愛子は、「私は一度も離婚などしたことはない」という風に自分では思っている。(このあたりの事実は佐藤愛子著『血脈』にも記されている)[3]それを、「二度の離婚の挙句、今度は不倫」という風に書かれたことに、佐藤愛子は目をつぶるわけにはいかなかった。
  • 佐藤愛子著『マドリッドの春の雨』は、短編小説集(角川書店 1989年1月20日 初版発行)である。表題作は、400字詰原稿用紙で40枚弱の作品だ。その初出を調べると、「野性時代」1981年1月号となっている。1970年代から1980年代前半にかけては、角川春樹ひきいる角川映画が隆盛をきわめた時代だった。角川映画は大量にCMを流し、小説と映画とを同時に売り出すことに成功した。そんな当時の時代を象徴するような作家というと、まず、片岡義男が挙げられる。片岡義雄は、『スローなブギにしてくれ』という短編青春小説を書き、それを原作とした同名の角川映画が大ヒットを記録した。片岡義男の小説には、その時代のおしゃれな物やかっこいい道具などがたくさん登場する。純文学というよりも、娯楽性の高い文章だった。よって、純文学界の重鎮からは渋い顔をされた(当時の文学雑誌に記事が掲載された)。『マドリッドの春の雨』だが、最初の数ページを読むと、あの角川映画片岡義男が流行(はやり)だった時代と同じ匂いを、この作品に感じる。計算してみると、当時の佐藤愛子も、主人公の母親とちょうど同じ年代である。帯封の写真は、若かりしころの浅野温子である。片岡義男の『スローなブギにしてくれ』を連想させる[21]。ちなみに、『マドリッドの春の雨』の冒頭は、以下のとおりである。―― 母親はもう間もなく五十歳になろうとし、娘はこの春、十八歳の誕生日を迎えたばかりだった。母親は男と別れて二年目だった。「桜田さん、どうしているのかなあ」娘は時たま、思い出したように呟いた。独り言のようにいっているが、半分は母親に聞かせようとしている。―― 参考までに、当該短編集の4番目の『電話の中の皿の音』は、別れた元夫 田畑麦彦のことを綴った作品である。
  • 堀川とんこうはTBS時代、『安ベエの海』(1969年)、『愛子』(1973年)という佐藤愛子原作のテレビドラマと関わった。前者はプロデューサー助手として、後者ではプロデューサーだった。『安ベエの海』は、佐藤愛子の初期の短編小説芥川賞候補ともなった『加納大尉夫人』が原作だ。『愛子』は、やはり佐藤愛子の自伝的小説である。堀川は、佐藤愛子の自宅を時々訪れては、取材などを行うようになっていた。 堀川とんこう著『ずっとドラマを作ってきた』(1998年新潮社)の58ページ以降に、当該事実が綴られている。
  • 同人誌 随筆春秋において、2020年から佐藤愛子奨励賞が新設された。随筆春秋賞とは独立した賞である。佐藤愛子は、随筆春秋の指導者を30年近く務めている(2022年現在)。2021年には、第2回 佐藤愛子奨励賞の受賞者が決定した[6]

受賞[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『愛子』(現代社、1959年)のち角川文庫 
  • 『おさげとニキビ』(秋元書房、1962年)のち文庫 
  • 『愉快なやつ』(秋元書房、1963年)のち文庫 
  • 『ソクラテスの妻』(光風社、1963年)のち中公文庫 
  • 『美人の転校生』(秋元書房、1964年)のち文庫 
  • 『加納大尉夫人』(光風社、1965年)のち角川文庫 
  • 『まんなか娘』(秋元書房、1965年)のち文庫 
  • 『花はくれない―小説・佐藤紅緑』(講談社1967年)のち文庫 
  • 『微笑みのうしろに』(集英社・コバルト・ブックス、1968年)のち文庫 
  • 『さて男性諸君』(立風書房、1968年)のち角川文庫 
  • 『忙しいダンディ』(講談社、1969年)のち角川文庫 
  • 『鼓笛隊物語』(潮出版社、1969年)
  • 『青春はいじわる』(集英社(コバルト・メイツ)、1969年)のち文庫 
  • 『女の庭』(光風社書店、1969年)
  • 『戦いすんで日が暮れて』(講談社、1969年)のち文庫 
  • 『母について―詩集』(詩宴社、1969年)
1970年代
  • 『おしゃれ失格』(みゆき書房、1970年
  • 『ああ戦友』(文藝春秋、1970年)『束の間の夏の光よ』角川文庫、1980 
  • 『三十点の女房』(講談社、1970年)
  • 『赤い夕日に照らされて』(講談社、1970年)
  • その時がきた』(中央公論社、1971年)のち文庫 
  • 『愛子の小さな冒険』(文藝春秋、1971年)のち角川文庫 
  • 『ああ戦いの最中に』(講談社、1971年)「憤激の恋」角川文庫 
  • 『九回裏』(文藝春秋、1971年)のち角川文庫
  • 『天気晴朗なれど』(読売新聞社、1971年)のち集英社文庫 
  • 『さよならのうしろに』(講談社、1971年)
  • 『マッティと大ちゃん』(講談社、1971年)のち秋元文庫 
  • 『アメリカ座に雨が降る』(講談社、1972年)のち角川文庫 
  • 『鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)のち集英社文庫 
  • 『愛子の風俗まんだら』(朝日新聞社、1972年)「愛子の獅子奮迅」集英社文庫 
  • 『破れかぶれの幸福』(白馬出版、1972年)
  • 『躁鬱旅行』(光文社・カッパ・ノベルス)、1972年)のち角川文庫 
  • 『赤鼻のキリスト』(光文社・カッパ・ノベルス、1972年)のち集英社文庫 
  • 『或るつばくろの話』(講談社、1973年)のち角川文庫 
  • 『黄昏の七つボタン』(講談社、1973年)のち文庫
  • 『忙しい奥さん』(読売新聞社、1973年)のち角川文庫 
  • 『愛子のおんな大学』(講談社、1973年)のち文庫 
  • 『豚は天国へ行く』(広済堂出版(Kosaido blue books)、1973年)
  • 『私のなかの男たち』(講談社、1974年)のち文庫 
  • 『女優万里子』(文藝春秋、1974年)のち集英社文庫 
  • 『丸裸のおはなし』(大和書房、1974年)のち集英社文庫 
  • 『ぼた餅のあと』(番町書房、1974年)のち角川文庫 
  • 困ったなア』(集英社・コバルト・ブックス、1974年)
  • 『坊主の花かんざし』(読売新聞社、1975年)のち集英社文庫 
  • 『父母の教え給いし歌』(文藝春秋、1975年)のち集英社文庫 
  • 『女の鼻息男の吐息』(立風書房、1975年)
  • 『あなない盛衰記』(光文社、1975年)のち集英社文庫 
  • 『ただいま初恋中』(秋元文庫、1975年)
  • 『続・坊主の花かんざし』3,4まで(読売新聞社、1976年)のち集英社文庫
  • 『黄昏夫人』(実業之日本社、1976年)のち角川文庫 
  • 『悲しき恋の物語』(毎日新聞社、1976年)のち角川文庫 
  • 『一番淋しい空』(読売新聞社、1976年)のち角川文庫 
  • 『朝雨女のうでまくり』(文化出版局、1976年)のち角川文庫 
  • 『女の学校』(毎日新聞社、1977年)のち集英社文庫 
  • 『好きになっちゃった』(集英社文庫 花)、1977年)
  • 『雨が降らねば天気はよい』(集英社文庫コバルト、1977年)
  • 『娘と私の部屋』(立風書房、1977年)のち集英社文庫 
  • 『こんな幸福もある』(海竜社、1977年)のち角川文庫 
  • 『男の学校』(毎日新聞社、1978年)のち集英社文庫 
  • 『一天にわかにかき曇り』(文化出版局、1978年)のち角川文庫 
  • 『娘と私の時間』(集英社、1978年)のち文庫 
  • 『幸福の絵』(新潮社、1979年)のち集英社文庫 
1980年代
  • 『むつかしい世の中』(作品社、1980年)野地角川文庫 
  • 『枯れ木の枝ぶり』(文化出版局、1980年)のち角川文庫 
  • 『奮闘旅行』(光風社出版、1980年)「総統のセレナード」角川文庫 
  • 『娘と私のアホ旅行』(集英社、1980年)のち文庫 
  • 『女はおんな』(集英社、1981年)のち文庫 
  • 『愛子の百人斬り』(角川書店、1981年)
  • 『こんないき方もある』(海竜社、1981年)のち角川文庫 
  • 『男友だちの部屋』(集英社、1981年)のち文庫 
  • 『愛子の日めくり総まくり』集英社文庫、1981 
  • 『愛子の新・女の格言』(角川書店、1982年)のち文庫 
  • 『娘と私の天中殺旅行』(集英社、1982年)のち文庫 
  • 『男はたいへん』(集英社、1982年)のち文庫 
  • 『こんな考え方もある』海竜社、1982 のち角川文庫 
  • 『躁病のバイキン』読売新聞社、1982 のち光文社文庫 
  • 『たいへんだア青春』集英社文庫 コバルトシリーズ 1982
  • 『こちら2年A組』みつはしちかこ絵 秋元ジュニア文庫 1982
  • 『女の怒り方 その習性その触覚その性癖』(青春出版社、1982年)のち集英社文庫 
  • 『花はいろいろ』(集英社、1983年)「花は六十」文庫 
  • 『男たちの肖像』(集英社、1983年)のち文庫 
  • 『日当りの椅子』文化出版局、1983 のち角川文庫、PHP文庫   
  • 『古川柳ひとりよがり』(読売新聞社、1984年)のち集英社文庫 
  • 『スニヨンの一生』(文藝春秋、1984年)のち文庫 
  • 『人生・男・女 愛子のつぶやき370』文化出版局、1984 
  • 『うらら町字ウララ』(新潮社、1984年)「ウララ町のうららかな日」文庫
  • 『ミチルとチルチル』(中央公論社、1984年)のち文庫 
  • 『老兵は死なず』(読売新聞社、1985年)のち角川文庫、PHP文庫  
  • 『マドリッドの春の雨』(角川書店、1985年)のち文庫 
  • 『男と女のしあわせ関係』(青春出版社、1985年)のち集英社文庫 
  • 『バラの木にバラの花咲く』(集英社、1985年)のち文庫 
  • 『幸福という名の武器』(海竜社、1985年)のち集英社文庫 
  • 『幸福の終列車』光文社文庫、1985 
  • 『虹が…』(角川書店、1986年)のち文庫 
  • 『娘と私のただ今のご意見』(集英社、1986年)のち文庫 
  • 『ひとりぽっちの鳩ポッポ』(読売新聞社、1986年)のち集英社文庫 
  • 『夕やけ小やけでまだ日は暮れぬ』(実業之日本社、1987年)のち角川文庫 
  • 『こんな暮らし方もある』(海竜社、1987年)のち角川文庫 
  • 『今どきの娘ども』(集英社、1987年)のち文庫 
  • 『こんなふうに死にたい』新潮社、1987年)のち文庫 
  • 『耳の中の声』(中央公論社、1988年)のち文庫 
  • 『さんざんな男たち女たち 憤怒のぬかるみ』青春出版社、1988年)のち集英社文庫 
  • 『窓は茜色』(中央公論社、1988年)のち文庫 
  • 『夢かと思えば エッセイ集』(立風書房、1988年)
  • 凪の光景』(朝日新聞社、1988年)のち集英社文庫 
  • 『こんな女でなくっちゃ 好きになったら別れるまで』(青春出版社、1989年)「こんな女もいる」角川文庫 
1990年代
  • 『淑女失格 私の履歴書』(日本経済新聞社、1990年)のち集英社文庫 
  • 『人生って何なんだ!』(中央公論社、1990年)のち集英社文庫 
  • 『こんな老い方もある』(海竜社、1990年)のち角川文庫 
  • 『ヴァージン』(実業之日本社、1991年)のち角川文庫 
  • 『マリアの恋』(中央公論社、1991年)
  • 『何がおかしい』角川文庫、1991 
  • 『上機嫌の本』(PHP研究所1992年)のち文庫 
  • 『神さまのお恵み』(PHP研究所、1992年)
  • 『メッタ斬りの歌』集英社文庫、1992 
  • 『死ぬための生き方』(海竜社、1993年)のち集英社文庫
  • 『自讃ユーモア短篇集』集英社 1993 のち文庫 
  • 『我が老後』(文藝春秋、1993年)のち文庫 
  • 『娘と私と娘のムスメ』(学習研究社、1994年)のち集英社文庫 
  • 『戦いやまず日は西に』(海竜社、1995年)のち集英社文庫 
  • 『なんでこうなるの 我が老後』(文藝春秋、1995年)のち文庫 
  • 『虹は消えた』(角川書店、1995年)のち文庫 
  • 『結構なファミリー』(日本放送出版協会1996年)のち集英社文庫 
  • 『幸福の里』読売新聞社、1997年)「幸福のかたち」ハルキ文庫 
  • 風の行方』(毎日新聞社、1997年)のち集英社文庫 
  • 『だからこうなるの 我が老後』(文藝春秋、1997年)のち文庫 
  • 『不運は面白い幸福は退屈だ 人間についての断章327』(海竜社、1999年)のち集英社文庫:編集者が以前の著書50冊以上から箴言らしき言葉を選んだ。年譜もある。
2000年代
  • 『そして、こうなった 我が老後』(文藝春秋、2000年)のち文庫 
  • 『老残のたしなみ 日々是上機嫌』(集英社、2000年)のち文庫 
  • 『不敵雑記 たしなみなし』(集英社、2001年
  • 『血脈』文藝春秋、2001 のち文庫 
  • 『犬たちへの詫び状』(PHP研究所、2001年)のち文春文庫 
  • 『私の遺言』(新潮社2002年)のち文庫 
  • 『これが佐藤愛子だ 自讃ユーモアエッセイ集』全4巻 集英社 2002 のち文庫 
  • 『それからどうなる 我が老後』(文藝春秋、2004年)のち文庫 
  • 『冥途のお客』(光文社、2004年)のち文春文庫 
  • 『日本人の一大事』(海竜社、2004年)のち集英社文庫
  • 『『血脈』と私』(文藝春秋、2005年)「佐藤家の人びと 「血脈」と私」文庫 
  • 『冥途のお客 夢か現か、現か夢か』(光文社、2005年)
  • 『まだ生きている 我が老後』(文藝春秋、2006年)のち文庫 
  • 『今は昔のこんなこと』文春新書、2007 のち文庫  
  • 『老い力』海竜社、2007 のち文春文庫 
  • 『こんなことでよろしいか 老兵の進軍ラッパ』集英社 2008 のち文春文庫 
  • 『わが孫育て』文藝春秋 2008 のち文庫 
  • 『院長の恋』(2009年、文藝春秋)のち文庫 
  • 『女の背ぼね』海竜社 2009 のち文春文庫 
  • 『樂天道』海竜社 2009 のち文春文庫 
2010年代
  • 『老兵の消燈ラッパ』文藝春秋 2010 のち文庫 
  • 『お徳用 愛子の詰め合わせ』(文藝春秋、2011年)のち文庫 2013
  • 『これでおしまい 我が老後』文藝春秋 2011 のち文庫 
  • 『ああ面白かったと言って死にたい 佐藤愛子の箴言集』海竜社 2012
  • 『かくて老兵は消えてゆく』文藝春秋 2013
  • 『幸福とは何ぞや 佐藤愛子の箴言』海竜社 2013
  • 『晩鐘』(2014年、文藝春秋)(モデル:田畑麦彦
  • 『佐藤愛子の箴言集2 そもそもこの世を生きるとは』海竜社 2014
  • 九十歳。何がめでたい』(2016年小学館
  • 『佐藤愛子の役に立たない人生相談』(2016年ポプラ社)のち文庫
  • 『それでもこの世は悪くなかった』(2017年、文藝春秋)
  • 『役に立たない人生相談2 好きなようにやればいい。』(2018年ポプラ社
  • 『人生は美しいことだけ憶えていればいい』(2019年PHP研究所)
  • 『気がつけば、終着駅』(2019年、中央公論新社)
2020年代
  • 『何がおかしい 新装版』中央公論新社、2020年11月。ISBN 978-4-12-005354-2 角川文庫1991年刊の抜粋版。
  • 『冥界からの電話』新潮社〈新潮文庫〉、2021年7月。ISBN 978-4-10-106414-7 
  • 『九十歳。何がめでたい 増補版』小学館〈小学館文庫〉、2021年8月。ISBN 978-4-09-406766-8 エッセイ、対談等を加えて文庫化。
  • 『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』小学館、2021年8月。ISBN 978-4-09-396552-1 
  • 『愛子の格言 新装版』中央公論新社、2021年11月。ISBN 978-4-12-005475-4 角川文庫1989年刊「愛子の新・女の格言」の加筆修正版。
  • 『凪の光景』文藝春秋、2022年1月。ISBN 978-4-16-791818-7 
  • 『風の行方(上下)』文藝春秋、2022年6月。 
  • 『思い出の屑籠』(2023年11月、中央公論新社

共著編[編集]

  • 『男の結び目』(田辺聖子と共著、 大和書房、1975年)のち集英社文庫 
  • 『日本の名随筆 82 占』編 作品社 1989
  • 『冬子の兵法愛子の忍法』(上坂冬子と共著、海竜社、2001年)のち文春文庫 
  • 『あの世の話』江原啓之共著 青春出版社 1998 のち文春文庫 
  • 『愛子とピーコの「あの世とこの世」』(文藝春秋、2008年
  • 『人生論 あなたは酢ダコが好きか嫌いか: 女二人の手紙のやりとり』(小島慶子と共著、小学館、2020年)

テレビ番組[編集]

親族[編集]

交友関係[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 本名は、佐藤洽六(さとう こうろく)。
  2. ^ 本名は、佐藤シナ。1893年1972年

出典[編集]

  1. ^ 「九十歳。何がめでたい」2016年、小学館、37頁。
  2. ^ https://www.shinchosha.co.jp/writer/1624/ 左記、新潮文庫のウェブページに佐藤愛子の写真と簡単な経歴が掲載されている。
  3. ^ a b c d e f g h i 佐藤愛子の作品『血脈』に、当該事実が描かれている。小説であるが、大筋において事実が盛り込まれている。『血脈(下)』(文藝春秋刊)の「あとがき」には、作者自身の筆で、「暴露小説だと批判されるかもしれないとも思った」と記している。以下が、本書のAmazon販売サイト。https://www.amazon.co.jp/dp/4167909804/
  4. ^ 佐藤愛子著『晩鐘』 2014年 文藝春秋刊の284ページ冒頭には、以下のように書かれている。―― いかなる神のご差配か。倒産して間もなく原稿料欲しさに書きなぐった小説が直木賞を受賞したものですから、それで私は雑多な仕事がどっと来ていました。背負った借金を返すためには、どんなつまらない仕事でも喜んで引き受けました。―― 倒産というのは夫 田畑麦彦の会社のことである。佐藤愛子が直木賞を受賞した作品は『戦いすんで日が暮れて』という、会社経営で失敗した田畑麦彦の借金を返すための奮戦記である。この記述からも、佐藤愛子がその直木賞を喜んだとは思えない。
  5. ^ a b これらの事実は、随筆春秋創刊号(1993年発刊)にも、記述されている。随筆春秋創刊号は以下のAmazon版売サイトに掲載されている。https://www.amazon.co.jp/dp/491058501X/
  6. ^ a b https://zuishun-episode.amebaownd.com/posts/34241301左記の随筆春秋資料室HPに、佐藤愛子奨励賞についての記述がある。それによると、2021年には、第2回 佐藤愛子奨励賞 受賞者が決定し、2022年には、第3回目を迎える、という。
  7. ^ 佐藤愛子「淡路島」(『文藝春秋』2007年5月号)
  8. ^ a b c d e f このあたりのことは、佐藤愛子と田畑麦彦の長女である、杉山響子のブログ「のろ猫プーデルのひゃっぺん飯 おかわりっ!!」の中に記述がある。タイトルは「ちょっとコワイWikipedia」URLは以下。https://ameblo.jp/podel1007/entry-12652162336.html
  9. ^ 北杜夫『マンボウ談話室』p.115(講談社、1977年)
  10. ^ 「空港探索・2」というブログに、旧陸軍伊那飛行場のことが特集されている。https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/ina-airfield それに当該飛行場に関しての記述がある。以下は、それをもとに編集した文章である。―― 陸軍恵伊那飛行場というのが正式名称である。種別は陸軍の秘匿飛行場。面積は150万㎡。東大本郷キャンパスのおよそ3倍というところだ。所在地は、長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市上の原他)。標高は650m~700m。滑走路は、1,300m×80m(芝)。1943年8月に軍用地として接収され、着工から1年で完成した。同年11月からは、上伊那各地の住民による勤労奉仕が実施された。――
  11. ^ a b c 森川勁介(2022年現在、70代後半)は、恵那市長島町の病院(森川クリニック)の医師。
  12. ^ 渋沢社史データベース”. 公益財団法人渋沢栄一記念財団情報資源センター(旧・実業史研究情報センター). 2022年5月16日閲覧。
  13. ^ 佐藤愛子『出身県別 現代人物事典 西日本版』p889 サン・データ・システム 1980年
  14. ^ 佐藤[2011:愛子の詰め合わせ 205]
  15. ^ a b “91歳・佐藤愛子さん「晩鐘」、紫式部文学賞に”. YOMIURI ONLINE. (2015年8月3日). https://web.archive.org/web/20150810070623/http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150803-OYT1T50151.html 2015年8月6日閲覧。 
  16. ^ https://www.shogakukan.co.jp/pr/medetai/ 小学館|公式Webページ内に、映画化に関する情報が記述されている。
  17. ^ 朝日新聞 (2023.10.25). “ENTERTAINMENT:『九十歳。何がめでたい』映画化”. 朝日新聞デジタル. 
  18. ^ 吉行淳之介『新面白半分対談』p.40-41(講談社1975年
  19. ^ 佐藤愛子著『私の遺言』
  20. ^ 佐藤愛子『マドリッドの春の雨』
  21. ^ https://eiga.com/movie/37397/ 左記、映画.comに映画「スローなブギにしてくれ」についての記述あり。主役「さち乃」を演じたのが、女優 浅野温子だった。
  22. ^ “春の叙勲4080人 森元首相、作家の佐藤愛子さんら受章”. J-CAST. (2017年4月29日). https://www.j-cast.com/2017/04/29296877.html 2023年1月26日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]