奥野史子

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奥野 史子 Swimming pictogram.svg
選手情報
フルネーム おくの ふみこ
国籍 日本の旗 日本
所属 パシフィックボイス
生年月日 1972年4月14日(44歳)
生誕地 日本の旗 日本京都府京都市
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奥野 史子(おくの ふみこ、1972年4月14日 - 本名・朝原 史子(あさはら ふみこ))は、日本の元女子シンクロナイズドスイミング選手、タレント。夫は元陸上競技選手、北京オリンピック男子4x100mリレーの銅メダリストの朝原宣治

来歴[編集]

生い立ち[編集]

京都府京都市出身で、現在も同市内に在住。京都市中京区にある呉服店に、三姉妹の末っ子として生まれた[1]。4歳のときに、京都市の水泳教室、「京都踏水会」で水泳を始め、さらに6歳(小学校1年生)からシンクロナイズドスイミングを始めた[1]京都市立龍池小学校京都市立城巽中学校を卒業。中学生時代に、井村雅代が代表を務める「井村シンクロクラブ」でシンクロナイズドスイミングの指導を受けた。四天王寺高校に推薦で入学。在学中には、シンクロナイズドスイミングが初めて正式種目となった国体に出場して優勝した。さらに、日本代表としても活躍。1989年FINAシンクロワールドカップパリ大会では、日本チームの一員として銅メダルを獲得。同志社大学商学部への進学後の1991年、世界選手権パース大会でチーム銅メダル、W杯ボン大会でソロ銅メダル・デュエット銀メダル。2年生だった1992年に出場したバルセロナオリンピックではソロで3位、高山亜樹と組んだデュエットでも3位で2つの銅メダルを獲得。同志社大学を卒業した後、同大学院を修了した。1995年1月、腰痛の悪化などを理由に現役引退を表明。その後は、タレントとして各種メディアに出演。また、日本人初のシルク・ドゥ・ソレイユパフォーマーとしてアメリカで活躍。2002年に結婚、直後に妊娠したことを機に、日本でのタレント活動を再開。日本への帰国後には、朝原が副理事長を務める一般社団法人アスリートネットワークの理事としても活動。京都市教育委員や文部科学省中央教育審議会委員などの公職を経て、2015年4月1日付でシンクロナイズドスイミング日本代表時代のコーチだった田中ウルヴェ京と共に、びわこ成蹊スポーツ大学客員教授に就任[2]

シンクロナイズドスイミング選手としての活躍[編集]

1993年、シンクロワールドカップローザンヌ大会ではチームで銅メダルを獲得。しかしロシアの台頭で、ソロとデュエットでメダルを逃し、失意のどん底に落ちるが一念発起する。

1994年世界選手権ローマ大会のソロ種目で、それまでのシンクロの常識を覆す女の情念や怒りを表現した「笑わないシンクロ」、「夜叉の舞」をフリールーティンにて披露する。世界選手権ではソロ種目で史上初の芸術点オール満点を記録し、日本人としても当時最高順位の2位となる銀メダルを獲得。この快挙達成に奥野は思わず嬉し涙を流し、現在でも日本シンクロ界で語り継がれる伝説の演技となった。デュエットでも銀メダル、チームでも銅メダルを獲得。

同年の広島アジア大会ではソロ・デュエットで共に金メダルを獲得。しかし、1995年1月、腰痛の悪化などを理由に現役引退を表明。現役引退後はスポーツコメンテーターとして、各種メディアに出演している。

日本人初の「シルク・ドゥ・ソレイユ」パフォーマー[編集]

1998年の夏期休暇中にラスベガスを訪問。現地で鑑賞したシルク・ドゥ・ソレイユの水中ショー「O(オー)」の公演に感銘を受けたことから、1999年(平成11年)に同集団のトライアウトへ参加した。 トライアウトでは、「難関」とされるオーディションを重ねた末に、自身と同じアトランタオリンピックシンクロ元日本代表団体銅メダリスト選手の河辺美穂と共に日本人として初めて合格。2001年10月、「O」のラスベガス公演で、河辺と共にパフォーマーデビューを果たした[3]。以降もに朝原と結婚するまで、パフォーマーとして「O」に出演していたが、結婚直後に第一子の懐妊が判明したことから、2002年10月にシルク・ドゥ・ソレイユを退団し帰国した。

人物[編集]

私生活[編集]

入学してから間もなく在学中から同志社大時代のゼミの同窓生でも有った現在の夫である朝原宣治と、長らく交際していた[4]。また、一時は同大学の大学院にも在籍していた。2002年に結婚。当時、選手として、奥野が暮らすアメリカに留学していた。

2003年4月には第一子となる女児を、2006年7月には第二子となる男児を出産している。2008年(平成20年)の北京オリンピック男子陸上400mリレー走決勝には、朝原が日本代表チームのアンカーとして出場。3位でゴールに到達したため、夫婦揃ってオリンピックのメダリストになった。奥野は、長女やオリンピック取材中の上泉雄一毎日放送アナウンサー)などともに、会場の北京国家体育場で決勝のレースを観戦。朝原にとって長年の悲願だった、五輪の銅メダル獲得が確定した瞬間には、人目をはばからず号泣しながら大喜びした。

北京オリンピック閉幕後の2008年11月22日の「いい夫婦の日」には、関西地方出身者同士のオリンピック・メダリスト夫婦として、「パートナー・オブ・ザ・イヤー2008」の表彰を受けた。 奥野が出演するレギュラー番組の『かんさい情報ネットten!』(読売テレビ)2011年3月7日分、『上泉雄一のええなぁ!』(MBSラジオ)翌8日にて第三子の妊娠を報告。7月に第三子となる女児を出産した。

社会活動・トライアスロンへの挑戦[編集]

結婚・出産後は、家事・育児・レギュラー番組への出演などと並行しながら、京都市教育委員や文部科学省中央教育審議会委員などの公職を歴任。小児がんと闘う子供・家族の支援団体「チャイルド・ケモ・ハウス」に協力したり、スポーツ・育児・教育関連のシンポジウムでたびたびパネリストを務めたりするなど、社会活動にも積極的に取り組んでいる。

2010年からは、関西を拠点に活動するトップアスリートとして、夫の朝原と共にアスリートネットワークへ参加[5]。2013年2月から、「楽しむスポーツ」と「チャイルド・ケモ・ハウスへの支援」の両立を目標に、トライアスロンへの挑戦を表明[6]。同年4月14日開催の「石垣島トライアスロン2013」で「エイジの部」に出場すると、総合記録3時間16分58秒(総合順位668位)で完走した[7]

番組出演[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 奥野史子さんの基礎データ 財団法人大阪市スポーツ緑振興協会 平成12年、平成22年8月28日閲覧
  2. ^ 2015年度新客員教授のご紹介 『びわこ成蹊スポーツ大学新聞』第23号
  3. ^ 直撃インタビュー、シンクロのスター "O" にデビュー(「週刊ラスベガスニュース」2001年11月5日付記事)などを参照。
  4. ^ 「パートナー・オブ・ザ・イヤー2008」授賞式を参照
  5. ^ アスリートネットワークLabキッズ
  6. ^ 子供たちに笑顔を! 奥野史子 石垣島トライアスロンに挑戦!(パシフィック・ボイス2013年2月28日付ニュースリリース)を参照。
  7. ^ 石垣島トライアスロン2013総合記録 エイジの部を参照。最初のスイム(10km)では、27分2秒のタイムで79位に入っていた。
  8. ^ NHK大阪放送局製作のシリーズ(月4日=1シリーズ原則2日間放送)を2005年4月から担当。一時産休を取った。2010年3月で終了したおしゃれ工房の後継番組すてきにハンドメイドにも引き続いて出演している。
  9. ^ 2007年9月1日「海外スペシャル・ニューカレドニア」で現地を旅行し、スタジオでその様子を報告。VTRのナレーションも担当した。
  10. ^ 同番組のディレクター→プロデューサーである川中恵一(毎日放送ラジオ局制作部)は、奥野の大学時代の同窓生で元・競泳選手。奥野も出場したバルセロナ五輪では、競泳の日本代表として、男子200mバタフライ決勝で5位入賞を果たした。

外部リンク[編集]