太田雄貴

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太田 雄貴
Baldini and Ota cropped.jpg
ロンドン五輪でフルーレ団体決勝戦を終え、アンドレア・バルディーニと健闘を称え合う太田
基本情報
所属 森永製菓
誕生日 1985年11月25日(30歳)
身長 171cm[1]
 
獲得メダル
日本の旗 日本
男子 フェンシング
オリンピック
2008 北京 フルーレ個人
2012 ロンドン フルーレ団体
世界選手権
2015 モスクワ フルーレ個人
アジア競技大会
2006 ドーハ フルーレ個人

太田 雄貴(おおた ゆうき、1985年11月25日 - )は、滋賀県大津市出身の、日本フェンシング選手。種目はフルーレ同志社大学商学部卒、森永製菓所属。マネジメント契約先はスポーツビズ

右利き。キレのあるアタック[要曖昧さ回避]を特徴とする。

来歴[編集]

幼少時代は、滋賀県大津市比叡平にて過ごす。

高校時代にフェンシングをしていた父の勧めで小学3年生からフェンシングを始め、小、中学と共に全国大会を連覇している。平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、高校2年の時には全日本選手権で優勝した(2009年3月現在最年少記録)。

2004年1月から岡崎直人山口徹らとアテネオリンピック出場権をかけて多くの国際大会に出場した。3月の韓国国際大会で8位入賞を果たすとその後も確実に上位に進出して出場権を獲得。アテネオリンピックでは3回戦でロシアのGANEEV Renalに敗れ、9位となった。

2006年カタールドーハで開催されたアジア競技大会では、準決勝で2005年の世界選手権2位の張亮亮中華人民共和国の旗 中国)を破る大金星を挙げ勢いに乗り、決勝では李天雄韓国の旗 韓国)を破って優勝。フェンシング男子フルーレ個人では1978年バンコク大会以来28年ぶりとなる金メダルを獲得した。

2008年、北京オリンピックフェンシング男子フルーレ個人に出場、日本人選手初の決勝戦へ進出。8月13日の決勝戦ではベンヤミン・クライブリンクドイツの旗 ドイツ)と対戦し9 - 15で敗れるが、日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得した[2]。また、太田が銀メダルを獲得するまでは、フェンシングは1896年の第1回アテネ五輪で正式競技に採用された8競技の中で、日本が唯一五輪メダルを獲得していない競技であった。

銀メダル獲得直後のインタビューで「就職先募集中」と語っており[3]、大学院に進むことも示唆していたが、複数のオファーの中から、高校時代からサポートを受けていた森永製菓に2008年11月1日入社した[4][5]。ちなみに森永製菓での所属は「健康事業本部ウイダー事業部マーケティング担当」[6]

2009年4月より、森永製菓所属のままフランスのフェンシングのクラブチーム「エクス=アン=プロヴァンス」に期限付きで在籍[7]。渡仏2戦目となる4月5日の「ルブニュー・チャレンジ」で同チーム加入後初優勝。決勝では北京五輪で敗れたクライブリンクを破っての優勝だった[8]。5月、日本選手で初めて国際フェンシング連盟ランキングの1位となる。同年6月にフェンシング・ワールドカップハバナ(キューバ)大会で5年ぶりの勝利をあげた[9]

2012年、ロンドンオリンピックの初戦(2回戦)でいきなりベンヤミン・クライブリンクと再戦。15-5で勝利し、前回の雪辱を果たすが、3回戦でアンドレア・カッサーラに延長の末14-15で敗れた。男子フルーレ団体戦(太田、千田健太三宅諒淡路卓)では準々決勝でランキング2位の中国に45-30で勝利。準決勝では3位のドイツと対戦、最終ラウンドドイツ2点リードで迎えた残り10秒から同点に追いつき、延長の末41-40で勝利。決勝ではランキング1位のイタリアに39-45の善戦の上敗れるも、日本史上初となる団体銀メダル獲得となった。

2012年12月19日、フェンシング普及の為、「SUPER FENCING」を立ち上げた。

2014年9月に開幕した仁川アジア大会では日本チームにとって1974年テヘランアジア大会以来となる団体フルーレ優勝に貢献した。

2015年7月16日、モスクワで行われたフェンシング世界選手権の男子フルーレ個人でアレクサンダー・マシアラスアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国)を15-10で破り初優勝を果たし、2016年リオデジャネイロオリンピック出場権を獲得した[10]。2016年8月7日、リオデジャネイロオリンピックの個人フルーレの初戦となったラウンドオブ32でギレルミ・トルドに敗れた。

主な成績[編集]

  • 全日本選手権
    • 優勝(2002年、2007年)
  • 牧杯ジュニア選手権大会
    • 優勝(2002年、2004年:京都府大山崎町)
  • 国民体育大会
    • 団体優勝(2008年=京都府チーム)
  • 世界ジュニア選手権大会
  • アジア競技大会
    • 優勝(2006年:ドーハ)
    • 団体優勝(2014年:仁川)
  • アジア選手権
    • 優勝(2015年:シンガポール)
  • オリンピック
    • 9位(2004年:アテネ)
    • 2位(2008年:北京)
    • フルーレ団体戦・準優勝(2012年:ロンドン)
  • ワールドカップ 通算2勝(2004年テヘラン大会、2009年ハバナ大会)
  • フェンシング世界選手権
    • フルーレ個人・優勝(2015年:モスクワ)

エピソード[編集]

  • フェンシングを始めたきっかけは、父に「スーパーファミコン(とゲームボーイソフトも1本)を買ってあげる」と勧誘されたからである[2]。兄と妹にも推進したが興味を示されず、最後の砦の雄貴を誘う父の苦肉の策であった。「スーファミを買ってもらえたらすぐ辞めるつもりだった」が、父の飴と鞭の指導に乗せられフェンシングにのめり込んでいった。その父は、映画『怪傑ゾロ』に憧れてフェンシングを始めている[2]
  • 野球やサッカーをやっていた同級生にフェンシングの全身タイツを馬鹿にされ悔しい思いをしたと述べたことがある。
  • 中学1年の時に当時インターハイ2位の選手に練習試合で勝利したことがある。
  • 初優勝時の全日本選手権決勝の相手は市ヶ谷廣輝(現香川県立三本松高等学校教員)であった。太田は幼い頃市ヶ谷に何度か指導を受けており、事実上の師弟対決でもあった[3]
  • 北京五輪当時の所属クラブである「京都クラブ」は、同志社大学卒業後もフェンシングの練習に専念するため就職しなかった関係で、所属先が存在しない太田が「さすがに無職・ニートとは書けないから」との理由で発足させたクラブ。そのため所属選手は太田1人のみで、クラブとしての実体はほとんどない。
  • NHK衛星第1テレビでは、当初北京オリンピックフェンシング決勝を当日深夜に録画で放送する予定だったが、決勝進出に伴い生放送に変更された。同局地上波の総合テレビでは予定通り当日深夜に録画放送された。
  • 2008年度ベストジーニストアワード(協議会選出部門)受賞[11]
  • 愛車はアウディ・S3。自動車雑誌「ENGINE」の取材の中で明かしている。
  • 2020年夏季オリンピック招致活動にプレゼンターとして携わり、2013年5月のスポーツアコード、同年7月の開催計画説明会、および9月第125次IOC総会でスピーチを行った。開催地が東京に決定し、大粒の涙を流す姿が話題となった。


その他の出演[編集]

出典[編集]

外部リンク[編集]