米長邦雄

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 米長邦雄 九段
名前 米長邦雄
生年月日 1943年6月10日
没年月日 2012年12月18日(満69歳没)[1]
プロ入り年月日 1963年4月1日(19歳)
棋士番号 85
出身地 山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町
師匠 佐瀬勇次名誉九段
永世称号 永世棋聖
段位 九段
戦績
タイトル獲得合計 19期
一般棋戦優勝回数 16回

米長 邦雄(よねなが くにお、1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日[1])は、将棋棋士。2003年(平成15年)12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年(平成17年) - 2012年(平成24年))。

タイトル獲得数19期は歴代5位永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段(日本棋院から追贈)[2]

2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)[3]

北陸先端科学技術大学院大学特任教授[4](2011年(平成23年)10月1日 - 2012年(平成24年)9月30日[5])。日本財団評議員(2011年(平成23年)4月 - 2012年(平成24年)12月)[6]。財団法人JKA評議員(任期満了予定は2013年(平成25年)3月31日 [7])。日本テレビ番組審議会委員。ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員(1999年(平成11年)12月 - 2007年(平成19年)12月)などを歴任。

山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。中野区立第八中学校東京都立鷺宮高等学校卒業。中央大学経済学部4年次3月(年度末)退学。

人物[編集]

山梨県増穂村(現在の富士川町)の米長家は元々地主の家系であったが、第二次世界大戦後の農地解放により土地を失った。「将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。」と次兄の修が語っている[8]。 小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる[9]。小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという[9]。「小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。」とは次兄の修の談[10]

3人の兄は東京大学に進んだ。そのうちの一人である泰は、全日本学生名人戦で優勝を果たすなどアマチュア強豪として知られ、秋田工業高等専門学校教授として都市工学を専門とし、将棋の棋風分析の一人者として知られる。「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」という言葉は有名である。ただし、実際に米長自身が発言したのかどうかははっきりしていない[11]

2009年(平成21年)1月9日に前立腺癌放射線治療を受けていると発表し、自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載した。2012年(平成24年)12月18日午前7時18分、東京女子医科大学病院で死去[1][12]。戒名は、棋聖院純実日邦居士(きせいいんじゅんじつにっぽうこじ)[13]。「人生すべて感謝である」のブログ更新は、自身最期の更新である。

参議院議員米長晴信は甥[14][15]

弟子[編集]

弟子に先崎学中川大輔伊藤能長岡裕也高崎一生中村太地、元弟子に林葉直子がいる。先崎と林葉は、内弟子として米長宅に住み込んで修行していた。そして、米長最期の弟子が、杉本和陽である。

交友[編集]

升田幸三とはウマが合い、「麦長君」とよばれて親しまれた。また、芹沢博文内藤國雄とも親しい関係で、中原誠とも自称親友の間柄という。

趣味の一つに囲碁があり、『碁敵が泣いて口惜しがる本』という著書もある。囲碁界の無頼派の棋士・藤沢秀行を尊敬して、兄事している。

大の将棋ファンであった山口瞳は米長のことを親しみを込めオランウータンというあだ名をつけた。

1993年(平成5年)の名人位獲得には、若手とともに研究を行ったことが大きな要因であったとされる。米長は徹底的に自分の序盤戦術を洗い直す作業に取り掛かる。名人戦では対局の合間に、当時島朗が主宰して、羽生善治佐藤康光森内俊之で構成された伝説の研究会「島研」に顔を出した[16]。また、1980年(昭和55年)から1990年代にかけて数十人の若手棋士が参加した「中原研究会」に対抗して、数年前から自宅を改造して若手棋士を集めて開いていた研究会「米長道場」で、徹底的に対中原名人戦の研究を重ねた。特に道場の師範代格で、当時序盤研究の第一人者だった森下卓から、大きな示唆をもらったという。なお、米長道場は「若手に教えを請う」という姿勢で運営しており、米長は森下卓のことを「先生」と呼んでいた。

武者野勝巳とゲームの著作権に関して裁判で争った。裁判は米長が武者野に対し和解金を支払うことで解決。ただし、米長は自身のサイトで「和解金」ではなく「解決金」と書いた。

思想[編集]

「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれる。

著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗でぶっちぎりのトップ。もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長のアシストによりA級に昇級した。なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている(精神面もさることながら、その年上がれなくとも翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利になった)。

著書『米長の勝負術』では、トーナメントなどの例外を除き、その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスであるとしている[17]。この「米長哲学」は将棋界全体に広く普及し、大相撲などの八百長問題の際に新聞などで引用されることもある。

一時期株取引に熱中し、『米長流株に勝つ極意』という本を出すほどだった。

また、東京都教育委員会委員だった時は、東京都公立学校に対する「日の丸君が代」の強制に尽力した。しかし、2004年園遊会に招待された際、天皇に対し「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と発言したところ、天皇から「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」とたしなめられた。

産経新聞の『正論』執筆者に名を連ねる。

会長として[編集]

2003年(平成15年)、中原誠が会長になったのを受けて、日本将棋連盟の専務理事に就任。そして、2005年(平成17年) 中原誠の後を受け、日本将棋連盟会長に就任。名人戦朝日新聞毎日新聞による共催実現、瀬川晶司のプロ入り試験実現、日本女子プロ将棋協会(LPSA)の独立問題への対応など、個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残している。

また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行ったが、関西本部にあった「将棋博物館」を2006年(平成18年)に閉鎖し、収蔵品を大阪商業大学アミューズメント産業研究所に譲渡したことについては木村義雄十四世名人の娘などから批判を受けた[18]

将棋連盟会長となって以降も、自身のサイトからの情報発信に加え、前述の『正論』や中日スポーツ東京中日スポーツの連載コラム「セブンデイズ」など個人の立場での寄稿を継続している。日本将棋連盟のホームページでは笑顔でWピースの写真を役員紹介の写真に採用している[19]

お色気[編集]

「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」[20]と述べている。42歳のときには、写真週刊誌で鳥取砂丘でのヌード写真を掲載した[21]

平成10年版『将棋年鑑』(1998年)の棋士アンケートにおいて、「あなたのストレス解消法は」の質問に「口に出すわけにはいかない」と答え、「可能ならばやってみたいスポーツは」という質問には「段違い平行棒」と答えている。

2004 - 2005年に、ニッポン放送のケータイサイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。連載中、2004年(平成16年)7月2日に「徹子の部屋」に出演したが、その中で、妻に対する懺悔として、相当のお金をかけて墓を購入したというエピソードを紹介。そのとき妻に言った一言は(実話か否かは不明であるが)「お前の人生は、はかない人生ではない。これからは墓ある人生だ。」であったという。

自他共に認める性豪として知られるだけに、前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。その心の機微が著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。

スキャンダル[編集]

  • 日本テレビの番組「月曜から夜ふかし」に出演して株主優待生活者として有名になった桐谷広人七段(現在は現役を引退)は、升田幸三元名人の弟子で米長の門下生ではないが、桐谷は米長の忠実な子分[22]で、女性関係でもめ事があると、桐谷に解決させ、脅迫文の代筆までさせていたことが週刊誌[23]で暴露されている。また、米長は、桐谷の婚約者を寝取ったことさえあったという。
  • もっとも、これらの醜聞については生前の米長の側から表立った反論はなく、「婚約者を寝取った」ことについても桐谷の言い分以外に客観的な証拠があるわけではない。

ボンクラーズとの対局[編集]

「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」と称してコンピュータ将棋ソフトと2012年(平成24年)1月14日に対戦することが、2011年(平成23年)10月6日に発表された[24]

2012年(平成24年)1月14日のボンクラーズとの対局で、プレマッチに引き続き奇策、先手7六歩に対し後手6二玉を採用した[25][26]ものの、後手の米長が113手で敗れた。

米長自身は電王戦敗戦後に書かれた自著『われ敗れたり』で、コンピューターに読ませない将棋にするのが狙いの練りに練った手で、これが成功し途中までは大優勢だったと述べている[27]

なお『われ敗れたり』には、タイトルホルダーを含めた複数人のプロがボンクラーズに大きく負け越したと書かれており[28]、今後展開されるであろうソフトがいつプロを追い抜いたかという議題においては重要な起点となることが予想されている。

また、『われ敗れたり』は、第24回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞[29]

戦績[編集]

プロ入りしたのは1963年(昭和38年)で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。A級昇級は1971年(昭和46年)、初タイトル1973年(昭和48年)の第22期棋聖戦で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。

1970年(昭和45年)、王位戦で大山康晴に挑戦。これがタイトル初挑戦である。これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする。大山からの初奪取は、1983年(昭和58年)(1982年度)の王将戦棋王戦での2連続奪取(棋王戦は防衛)である。

1973年(昭和48年)、第22期棋聖戦有吉道夫を破り、初のタイトル獲得。最終局の終盤、劣勢の中でトン死の筋(金を取りながら詰めろ馬取り)で大逆転。米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋に気づいた時30センチくらい飛び上がった」という。

中原誠は、大山以上の天敵であった。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。

2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(昭和50年)(1974年度)の第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。

中原への8度目の挑戦となった1979年度王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。ようやく中原に一矢を報いた。

1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。

この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、振り飛車の雄・森安秀光であった。A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局である[30]この一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。一方の米長は勝っても負けても名人挑戦、降級には関係ない一番。その対局で新手を放ち勝利。米長哲学を実践した一例とされる。

米長は、早指しの棋戦でも力を発揮した。早指し将棋選手権で、1974、1977、1979、1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980、1984、1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。また、公式戦ではないが、決勝戦が持ち時間15分・1分の考慮時間10回の富士通杯達人戦でも、歴代2位タイとなる4度の優勝を果たしている[31]

横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(平成2年)(1989年度)の王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。この時は弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったと自身の著書で書いている。南は対局で横歩を取った。この七番勝負は4-3で米長が王将位を奪取、うち2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。しかし翌年1991年(平成3年)(1990年度)の王将戦で挑戦者となった南に2-4で敗れ防衛に失敗する。

1993年(平成5年)、第51期名人戦で、7度目の挑戦にして悲願の名人位を獲得する。49歳11ヶ月での獲得、50歳での在位(「50歳名人」)は、史上最年長記録である。新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2000人を超える異例の人数の参加があった。この席で米長が「あの子が来年、私のクビを取りにやってくる」と発言。その言葉のとおりに、翌年、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生善治によって名人位を奪われ、以降、米長はタイトル戦の舞台から遠ざかることとなる。

1998年(平成10年)、第56期順位戦で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。B級1組で指す道を選択せずフリークラス宣言をして順位戦から撤退し、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。

2003年(平成15年)12月17日、現役棋士を引退。それに先立って「全棋戦で敗退した時点で引退」という前代未聞の表明[32]を行った。最後の棋戦となった2003年度の王将戦では予選で2人のA級棋士・三浦弘行藤井猛を破り本戦リーグ入りをする。しかし、本戦リーグは6戦全敗で敗退した。3敗目の時点で挑戦の可能性が消滅し、リーグ最終戦での引退が確定したが、その直後の4局目の対局相手は佐藤康光棋聖(当時)であった。佐藤は対局当日、和服(羽織袴)を着用して下座に着いた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。米長は急遽、対局場(将棋会館)に和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した。残る2局は森内俊之竜王(当時)、郷田真隆との対局であったが、彼らも和服を着用。米長は事前に雰囲気を察知し、この2局は自らも朝から和服を着て対局に臨んだ。

棋風[編集]

厚みを重視し、劣勢になると自陣に駒を打ち付け複雑にして逆転を狙う棋風から、「泥沼流」と呼ばれる。本人の性格や見た目から「さわやか流」と呼ばれていたこともあり、米長本人は後者の方が好きだったと言う(ただし、棋風との関連は不明)。

居飛車本格派ながら、定跡研究などによる序盤の構想よりも中終盤の攻防でねじ伏せる勝利が多く、特に将棋の終盤戦術の向上に貢献した。その独特の感覚は「米長玉」などに表れており、現代将棋の終盤の基本パターン「自分の玉を‘Z’(ゼット、絶対詰まない形)にして攻めまくる」に、大きな影響を与えている。四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著『逆転のテクニック』[33]の中で序盤研究に否定的な見解を示し、詰将棋で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。

若手時代から「序盤下手」と揶揄されることが多かった(谷川と共に「序盤の二下手」と呼ばれたこともある)一方で、羽生善治は米長の序盤を「序盤から息を抜けず緊張感を強いられる序盤巧者」と評している。ただ、定跡に挑戦するチャレンジ精神は相当あり、対山田戦では 「▲3七桂対△1三銀型矢倉は千日手」という常識に挑戦した(結果は負けた)。また、対中原戦では総矢倉(これも常識では千日手)で ▲6八銀左という新手を指して勝っている。

また、同じ振り飛車党に対しても大山に対しては位取りをメインにした持久戦を、森安に対しては鷺宮定跡(急戦)を採用するなど、 相手によって戦法を変えることを明言していた。

四冠王になる前には、「角頭歩戦法」や「新鬼殺し戦法」といった奇抜とも言える序盤戦術を開拓していた。「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年(昭和50年)の王将戦第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。しかし「角頭歩」についてはすぐ相手側の「回避策」が出てしまったが、それに影響を受けた戦法「立石流」の源泉となった。また「新鬼殺し戦法」は初心者向けのハメ手と戒められていた鬼殺しを立派な一戦術として確立させている。また2011年(平成23年)12月21日に行われたコンピュータ将棋「ボンクラーズ」とのエキシビジョンマッチで敗北したものの、ボンクラーズの初手▲7六歩に対し2手目に△6二玉(本人は「新米長玉」と呼称している)という珍しい手を繰り出した。

四冠王となった頃に「米長流急戦矢倉」の開発、対振り飛車における「玉頭位取り」や「鷺宮定跡」の整備といった功績がある。

「矢倉は将棋の純文学」という有名な表現は米長の言葉である[34]。これは米長によれば(矢倉は)高尚である、と言った意味での発言ではなく、角が上下にギザギザネチネチと動き、ネチネチと押したり引いたりし、相手の出方を見てネチネチと手を変え、と言ったそのネチネチさを指して「純文学」と表現したとのことである[35]

昇段履歴[編集]

  • 1956年(昭和31年) 6級 = 奨励会入会
  • 1959年(昭和34年) 初段
  • 1963年(昭和38年) 4月1日 四段 = プロ入り
  • 1965年(昭和40年) 4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1966年(昭和41年) 4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1969年(昭和44年) 4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1971年(昭和46年) 4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1979年(昭和54年) 4月1日 九段(九段昇格規定30点)
  • 1998年(平成10年) 4月1日 「永世棋聖」を名乗る
  • 2003年(平成15年)12月17日 引退

主な成績[編集]

  • 通算成績 対局数1904、1103勝 800敗、タイトル戦での持将棋1局
  • 順位戦A級以上 26期連続・通算26期(第26=1971年度 - 第30期、第36期=1977年度 - 第56期)[36]
  • 竜王戦1組 通算12期(第1期=1988年 - 第11期, 第14期)

獲得タイトル[編集]

後記の年表も参照。

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 備考
名人 七番勝負
4-6月
93(第51期) 8 1期
十段 七番勝負
10-12月
84(第23期)-85 6 2期 2
竜王 七番勝負
10-12月
1 十段戦を発展解消して
創設されたタイトル戦
王位 七番勝負
7-9月
79(第20期) 6 1期
王座 五番勝負
9-10月
棋王 五番勝負
2-3月
78(第4期), 80-83 7 5期
(歴代2位)
4
(歴代2位)
棋聖 五番勝負
6-7月
73前(第22期), 80前,
83後-85後
12 7期
(歴代4位)
5 永世棋聖
(1998.4.1から名乗る)
王将 七番勝負
1-3月
82(第32期)-83, 89 8 3期 2
登場回数合計48、 獲得合計19期歴代5位

一般棋戦優勝[編集]

将棋大賞[編集]

  • 第1回(1973年度) 最多対局賞
  • 第2回(1974年度) 最多対局賞・技能賞
  • 第4回(1976年度) 最多対局賞
  • 第5回(1977年度) 最多対局賞
  • 第6回(1978年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第8回(1980年度) 最多勝利賞・最多対局賞
  • 第11回(1983年度) 最優秀棋士賞
  • 第12回(1984年度) 最優秀棋士賞
  • 第17回(1989年度) 殊勲賞
  • 第21回(1993年度) 特別賞
  • 第27回(1999年度) 升田幸三賞 ・・・ 「米長玉」(よねながぎょく)により

記録(歴代1位のもの)[編集]

  • 最年長名人獲得 49歳11か月(50歳名人)
  • 最年長名人失冠 50歳11か月
  • 十段リーグ連続在籍16期(十段獲得期間含む)

主な対戦相手との勝敗[編集]

30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。

対戦相手 対局 勝率 タイトル戦
中原誠 187 80 106 0.430 獲得6 敗退14
大山康晴 104 46 58 0.442 獲得2 敗退4
加藤一二三 104 63 41 0.606 獲得1 敗退1
内藤國雄 69 34 35 0.493 獲得0 敗退1
谷川浩司 64 31 33 0.484 獲得1 敗退1
森安秀光 55 29 26 0.527 獲得3 敗退0
桐山清澄 55 34 21 0.618 獲得0 敗退2
有吉道夫 53 38 15 0.717 獲得1 敗退0
二上達也 50 36 14 0.720 獲得0 敗退1
勝浦修 44 30 14 0.682 獲得1 敗退0
森雞二 43 30 13 0.698 獲得1 敗退0
大内延介 40 28 12 0.700
南芳一 35 14 21 0.400 獲得1 敗退1
以下、参考(30局未満)
塚田正夫 12 10 2 0.833
升田幸三 6 6 0 1.000
羽生善治 26 10 16 0.385 獲得0 敗退1

※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録。

タイトル戦12連敗(1987年名人戦第3局から1989年名人戦第4局まで)は記録である。


将棋タイトル獲得記録
順位 獲得回数 棋士名
1位 95期 羽生善治 *
2位 80期 大山康晴
3位 64期 中原誠
4位 27期 谷川浩司 *
5位 19期 米長邦雄
6位 17期 渡辺明 *
7位 13期 佐藤康光 *
8位 12期 森内俊之 *
9位タイ 8期 木村義雄 | 加藤一二三 * 
*は現役棋士

その他表彰[編集]

年表[編集]

  • タイトル戦の氏名は対戦相手。色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。色付き以外のマス目は敗退。
    o : 勝ち、 x : 負け、 j : 持将棋、 s : 千日手による日程繰り延べ(例外的措置)
  • 将棋大賞は、最優秀 : 最優秀棋士賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞
年 度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-9月
王座
9-10月
十段
10-12月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 備 考
1963年 11 12 1963.4.1プロ入り
1964年 古豪新鋭 20 8
1965年 27 11 (大山が3年度連続
 五冠独占)
1966年 12 13
1967年 15 10
1968年 24 7
1969年 連盟杯 27 12
1970年 大山康晴
xxxox
24 18 A級昇級を決める
1971年 30 14 A級八段1年目
1972年 29 19
1973年 <第22期>
有吉道夫
xooo
中原誠
xooxxx
39 28 <第1回>

内藤國雄
ooxxx
1974年   中原誠
xoxoxx
中原誠
xoxxoox
早権(前期) 45 30 技能賞
大山康晴
xxx
1975年   30 21
 
1976年 <第35期>
中原誠
xooxxox
<第28期> <第17期>

 
<第15期>

 
<第26期>

 
<第2期>

 
36 26
<第29期>
大山康晴
oxxox
1977年   中原誠
oxxxox
早権(後期) 42 23 (中原が五冠王に)
 
1978年 <第36期>
 
  中原誠
xxxooox
加藤一二三
ooxxo
NHK 47 22 最優秀
勝 対
 
1979年 中原誠
ooxxxx
  中原誠
xooxoxso
中原誠
xxoxx
中原誠
xoxx
早権 45 25
 
1980年 中原誠
xojxxx
中原誠
ooxo
中原誠
xxxx
大山康晴
oxxxx
中原誠
ooxo
日シ 早権
名将
55 32 勝 対
二上達也
oxxx
持1
1981年   加藤一二三
oxoxxx
森安秀光
oxoxo
名将 35 28
 
1982年   大山康晴
xoooo
大山康晴
ooo
連盟杯 40 25 1982.7.30
通算600勝(365敗)
 
1983年   森雞二
ooxoo
森安秀光
oxoo
41 22 最優秀
森安秀光
oxoo
1984年 谷川浩司
ooo
中原誠
oxxooxo
中原誠
xoxxx
桐山清澄
oxxx
日シ 38 27 最優秀 四冠王(= 十段戦)
永世棋聖資格獲得
(永世棋王獲得失敗)
中村修
xoxoo
1985年 勝浦修
oxoo
中原誠
xooxoxo
名将 41 20
中村修
ooo
1986年 桐山清澄
xxox
高橋道雄
xxxx
福崎文吾
xxooxx
日シ 名将 35 25 5年ぶりの無冠
 
1987年 中原誠
ooxxxx
  35 31 1987.8.28
通算800勝(494敗)
 
年 度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-9月
王座
9-10月
竜王
10-12月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 備 考
1988年 <第46期>
 
<第52期> <第29期>
 
<第36期>
 
<第1期>
島朗
xxxx
<第38期>
 
<第14期>
 
勝抜(6連勝) 24 26
<第53期>
1989年 谷川浩司
xxxx
  南芳一
oxxxooo
29 26 殊勲賞
 
1990年   南芳一
oxoxxx
26 21
 
1991年 中原誠
xxxox
  26 25
 
1992年   31 17
 
1993年 中原誠
oooo
  17 18 特別賞 悲願の名人位獲得、
50歳で名人在位(初)
 
1994年 羽生善治
xxxoox
  29 24 1994.12.12
通算1000勝(657敗)
 
1995年 26 18 (羽生が七冠独占)
1996年 15 20
1997年 14 19 A級からの陥落決定
1998年 9 10 フリークラス宣言、
永世棋聖を名乗る
1999年 7 12 升田賞
2000年 8 15
2001年 6 15
2002年 9 14
2003年 4 11 2003.12.17引退
年 度 名人 棋聖 王位 王座 十段 王将 棋王 一般棋戦 将棋大賞 備 考
合計 登場8回
獲得1
登場12回
獲得7
登場6回
獲得1
登場なし 登場6+1回
獲得2
登場8回
獲得3
登場7回
獲得5
優勝16 1103勝800敗、タイトル戦の持将棋1
タイトル戦登場48、獲得19(歴代5位)


著書[編集]

  • 楽しい詰将棋入門 山海堂, 1972
  • 将棋中級入門 初段をめざす中級者のために 山海堂, 1972
  • あなたの棋力を採点する1 - 3 山海堂, 1972 - 1973
  • 角頭歩戦法 山海堂, 1974
  • 新鬼殺し戦法 山海堂, 1974
  • 最強中飛車 日本将棋連盟, 1974
  • 将棋入門 基礎から実戦まで 文研出版, 1974
  • 振飛車破り あなたもプロになれる 山海堂, 1974
  • あなたならどう指す次の一手1 山海堂, 1975
  • 将棋再入門 中級脱出 ひかりのくに, 1975
  • 米長将棋勝局集 講談社, 1976
  • 一手・三手の詰将棋 山海堂, 1976
  • 楽しい詰将棋入門 続 山海堂, 1976
  • 日本将棋大系8 六代大橋宗英 筑摩書房, 1979.10
  • ヤグラ将棋好局集 日本将棋連盟, 1979.9
  • 米長将棋名局集 筑摩書房 1980.11
  • あいつより強くなれる将棋の本 二見書房, 1980.3
  • 米長の将棋1 居飛車対振飛車上 平凡社, 1980.6(MYCOM将棋文庫DXとして2004年復刊)
  • 米長の将棋2 居飛車対振飛車下 平凡社, 1980.8(〃)
  • 米長の将棋3 矢倉戦法 平凡社, 1980.10(〃)
  • 米長の将棋4 ひねり飛車・横歩取り 平凡社, 1980.12(〃)
  • 米長の将棋5 棒銀・腰掛銀 平凡社, 1981.2(〃)
  • 米長の将棋6 奇襲戦法 平凡社, 1981.4(〃)
  • 人間における勝負の研究 - さわやかに勝ちたい人へ 祥伝社, 1982.6 ISBN 4-396-31049-8
  • 米長邦雄九段のアマチュア将棋指南道場30講 全国縦断 小学館, 1982.9
  • 歴史への招待26 日本放送出版協会, 1983.5
    • 「戦国最強武田軍団」米長邦雄著を収録
  • 米長の名局 一手精読・現代将棋 6、筑摩書房、1984
  • <カン>が<読み>を超える 米長邦雄,柳瀬尚紀 朝日出版社, 1984.6(文庫化にあたって『「運とカン」を磨く』に改題)
  • 逆転のテクニック 悪い将棋はこう指せ! 上・下 日本将棋連盟, 1984.11
  • 泥沼流人生相談 あなたの人生に「実力」をつける本 ネスコ, 1985.8
  • 米長流四間飛車撃破 筑摩書房, 1985.11
  • 碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣 祥伝社, 1985.4
  • 米長流必ず勝つ基本手筋 有紀書房, 1986.12
  • 米長流株に勝つ極意 強い金、強い運で挑め サンマーク出版, 1986.10
  • 米長流速攻居飛車 筑摩書房, 1986.8
  • 米長流攻め方の基本手筋 有紀書房, 1987.4
  • 米長上達シリーズ 昭文社, 1988.1
  • 米長流基本手筋実戦の急所 有紀書房, 1988.3
  • 米長のスーパーアドバイス 日本将棋連盟, 1988.3
  • 人生一手の違い 「運」と「努力」と「才能」の関係 祥伝社, 1989.12
  • 米長流基本手筋実戦の攻防 有紀書房, 1991.1)
  • 運を育てる 肝心なのは負けたあと クレスト社, 1993.7 ISBN 4-87712-007-6
  • 泥沼流振り飛車破り さわやか自戦記 日本将棋連盟, 1994.1
  • 人間における運の研究 米長邦雄,渡部昇一 致知出版社, 1994.2
  • 最強中飛車 日本将棋連盟, 1994.4
  • 米長の勝負術 実戦次の一手70問+さわやかエッセー70題 毎日コミュニケーションズ, 1995.11 ISBN 4-89563-644-5
  • 人生、惚れてこそ 知的競争力の秘密 米長邦雄,羽生善治 クレスト社, 1996.3(文庫化にあたって『勉強の仕方』と改題)
  • 勝負の極北 なぜ戦いつづけるのか 藤沢秀行,米長邦雄 クレスト社, 1997.3(文庫化にあたって『戦いはこれからだ』と改題)
  • ふたたび運を育てる ピンチとチャンスは同じもの クレスト社, 1998.6
  • 一流になる人二流でおわる人 野村克也,米長邦雄 致知出版社, 1999.5
  • 幸せになる教育 子どもも親も先生も校長も 海竜社, 2001.8
  • 宮本武蔵の次の一手 決して後悔しない人生論 説話社, 2002.12
  • 達人の道 米長邦雄達人戦勝局集 毎日コミュニケーションズ, 2004.3
  • 勝負師 内藤國雄,米長邦雄 朝日新聞社, 2004.8)
  • 大局を観る 米長流・将棋と人生(NHK人間講座) 日本放送出版協会, 2004.10. --
  • 不運のすすめ 角川書店, 2006.7
  • 六十歳以後 植福の生き方 海竜社, 2007.5 ISBN 978-4-7593-0972-0
  • 名人の脳ドリル詰将棋 面白くて脳に効く! 米長邦雄監修 主婦と生活社編 主婦と生活社, 2008.3
  • 癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~ ワニブックスPLUS新書, 2009.10
  • われ敗れたり—コンピュータ棋戦のすべてを語る 2012.2 ISBN 9784120043567

論文[編集]

研究本等[編集]

  • 金子将棋教室 米長邦雄VS中原誠の巻 金子金五郎 晩声社 1980.6
  • 米長邦雄の運と謎 運命は性格の中にある 団鬼六著 山海堂 1994.4
  • 米長邦雄ともに勝つ 加古明光 毎日新聞社 1997.7
  • 米長邦雄の本 日本将棋連盟(編)日本将棋連盟 2004.4

ゲーム監修[編集]

DVD[編集]

  • 東京の窓から1 どうする?だれがやる?人間教育 石原慎太郎,米長邦雄 2007.1

その他[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c “米長邦雄氏が死去…最年長で将棋名人に就位”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2012年12月18日). http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121218-OYT1T00602.htm 2012年12月18日閲覧。 
  2. ^ “故 米長邦雄 日本将棋連盟会長に囲碁八段位追贈”. 日本将棋連盟. (2012年12月21日). http://www.shogi.or.jp/topics/2012/12/post-666.html 2012年12月23日閲覧。 
  3. ^ a b “米長邦雄・前会長に旭日小綬章”. 日本将棋連盟オフィシャルサイト (日本将棋連盟). (2013年1月15日). http://www.shogi.or.jp/topics/2013/01/post-677.html 2013年1月17日閲覧。 
  4. ^ 研究者総覧(北陸先端科学技術大学院大学)
  5. ^ 寄附講座「思考の可視化」を開設 - 日本将棋連盟の米長会長を特任教授に招へいし、人工知能などの研究を推進 - (北陸先端科学技術大学院大学)
  6. ^ 評議員名簿(日本財団)
  7. ^ プロフィール(財団法人JKA)
  8. ^ 湘南ふじさわウォーキングクラブ内 米長修氏寄稿文
  9. ^ a b 「米長邦雄の本」より。
  10. ^ 湘南ふじさわウォーキングクラブ内 米長修氏寄稿文
  11. ^ この発言は、元々は芹沢博文による(米長がこう言ったという)冗談であり、本人はこのような発言をしていないという。しかし、あながち間違っていないと思い、積極的に訂正しなかったともしている(読売新聞・「時代の証言者」による)。ちなみにこれには続きがあり、その兄によれば「馬鹿でなければあんな奴の兄は務まらない」。
  12. ^ 訃報 米長邦雄日本将棋連盟会長 - (日本将棋連盟)
  13. ^ 「人生の投了、早すぎた」米長さん葬儀に700人 最後の別れ惜しむ - (産経新聞)
  14. ^ 米長邦雄さん死去:原点は「縁台将棋」 兄弟や大人相手に腕磨く /山梨 毎日新聞山梨版 2012年12月19日配信 2013年2月1日閲覧
  15. ^ 参院選に出る 米長邦雄氏のおいの評判 (livedoorニュース 週刊ゲンダイ2006年8月29日掲載 2011年7月2日閲覧)
  16. ^ 当時は「将棋世界」誌などで米長の「島研」参加がセンセーショナルに報道されたが、真に序盤研究目的だったのか、中原名人(当時)に対する盤外戦術だったのかは不明。
  17. ^ この段落は特記無き場合、1995年『米長の勝負術』(毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-89563-644-5) p.56「米長流勝負哲学」を典拠とする。
  18. ^ 『将棋博物館」閉鎖で木村名人の娘を怒らせた「米長会長」』 週刊新潮 2006年(平成18年)11月30日号
  19. ^ 日本将棋連盟米長邦雄会長の弾けっぷりが話題 | web R25 2011年(平成23年)6月1日
  20. ^ 『ふたたび運を育てる - ピンチとチャンスは同じもの』37頁 米長邦雄著 クレスト社 1998年(平成10年)6月 ISBN 978-4-877-12069-6
  21. ^ 写真週刊誌FOCUS 1985年(昭和60年)11月1日号 新潮社
  22. ^ 若手時代は米長の研究相手でもあり、「米長の将棋」など、米長の著書の構成なども担当していた。
  23. ^ 「週刊現代」や「週刊新潮」など。米長の生前から度々記事になっている。ただし「週刊現代」と米長は後に和解し、米長は亡くなるまでコラム(「名棋士今昔物語」など)を連載した。
  24. ^ 「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」のお知らせ!”. 日本将棋連盟 (2011年10月6日). 2012年1月27日閲覧。
  25. ^ 米長はこの手について「練りに練った作戦でしたが、負けると「奇策」などと書かれます。」と、一部報道に対し嫌悪感を示している。米長邦雄の家”. 2012年1月27日閲覧。
  26. ^ 米長元名人 負けてもファン増加? | web R25 2012年1月18日
  27. ^ 『われ敗れたり』 pp.67, 94-97, 103-104
  28. ^ 『われ敗れたり』 pp.67, 94-97, 103-104
  29. ^ 第24回将棋ペンクラブ大賞! - (将棋ペンクラブ)
  30. ^ 後手番森安の四間飛車に先手番の米長は▲5七銀左から鷺宮定跡含みの駒組みを進める。森安の△6四歩を見て米長は▲4五歩と仕掛けたが、ここで森安は△7四歩と突いた。当時はそれが普通だったのだが、米長はこの局面で▲4六銀の新手から作戦勝ちを収め、そのまま勝利する。米長曰く、「△7四歩の先に△6三金であったら、この手(▲4六銀)は成立しなかった」という(角交換後の▲3一角がない)。その後、△6四歩▲4五歩の局面では△6三金が一般的となり、先に△7四歩と突く形は姿を消した。
  31. ^ 歴代最多優勝は谷川浩司の5回(2014年現在)。他に中原誠が4回優勝している。
  32. ^ 先に引退届を出した上で、残った対局の予定を消化するというのが原則である。
  33. ^ 『逆転のテクニック - 悪い将棋はこう指せ!』(上巻) 米長邦雄著 日本将棋連盟 ISBN 978-4819701112
  34. ^ [1]
  35. ^ 『日本将棋用語事典』pp.157-160
  36. ^ 第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31 - 35期の順位戦は存在しない。つまり、米長のA級以上在籍は、26期連続である。
  37. ^ 米長邦雄会長が「地方教育行政功労者表彰」を受ける(日本将棋連盟)

参考文献[編集]

  • 原田泰夫(監修)、荒木一郎(プロデュース)、森内俊之ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版 ISBN 4-490-10660-2
  • 米長邦雄、2012、『われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る』、中央公論社 ISBN 978-4-12-00356-7

関連項目[編集]

外部リンク[編集]