堤千代
堤 千代(つつみ ちよ、1917年9月20日 - 1955年11月10日)は、日本の小説家である。出生名堤 文子(つつみ ふみこ)、結婚後本名は福留 文子(ふくどめ ふみこ)。女性初の直木賞作家として知られる。
人物・来歴[編集]
1917年(大正6年)9月20日、東京都牛込区矢来町で、大蔵省の職員であった堤光芳の次女として生まれる[1]。1940年(昭和15年)、「小指」およびその他の作品で第11回直木賞受賞[2]、22歳10か月の受賞年齢は、現在でも直木賞の最年少記録である。幼時より心臓に重い疾患を抱えていたため、学校には通えず、家で寝たきりのような生活の中で多数の小説を執筆していた。1955年(昭和30年)11月10日、脳血栓を併発し満38歳で早逝した。
生年にまつわる疑問[編集]
実妹、大屋絹子は1991年に千代の出生から、自身が結婚し別居する終戦直後までの回想録、『オフェリアの薔薇 堤千代追想記』を私家出版している。この中で千代の生年を明治44年(1911年)と記している。これが正確であれば、直木賞受賞時の年齢は28歳10ヵ月となり、最年少記録ではなくなる[3]。だが、同書には文藝春秋昭和15年9月号にある受賞発表記事の切り抜きが掲載されており、そこにある千代の略歴には大正6年生とある。また、同じく報知新聞昭和15年8月の切り抜きもあり、そこでも千代の年齢を24歳(数え)としている。堤家は千代、絹子を含めて1男4女で、千代の上に姉がいるので混合があったかもしれないが定かではない[1]。
主な作品[編集]
- 小指(新潮社 1940、ゆまに書房 2000)
- 再会(新潮社 1941)
- 夕雀草(新潮社 1941)
- 柳の四季(新潮社 1942)
- 我が家の風(新潮社 1943) - 1943年映画化(監督田中重雄、大映)[4]
- 青い手袋(新星株式会社出版部 1946)
- 匂い刷毛(労働文化社 1946)
- ラヴ・レター(近代社 1947)
- 我が恋は世の早く(労働文化社 1947)
- 文鳥(東西社 1947)
- 白粉帖(世界社 1947)- 1947年映画化(監督野淵昶、大映)[4]
- 小鳥の接吻(華頂書房 1948)
- 光は露に宿りて永遠に(ロマンス社 1948)
- 花うばら(東方社 1953)
- 恋人(東方社 1953)
- ひなぎく物語(東方社 1954)
- 若い瞳(東方社 1954)
- かた想い(東方社 1954)
- れい子の道(東方社 1954)
- ねむの木さけども(東方社 1954)
- 清ら妻(山田書店 1955)
- 小紋鳥(東方社 1955)
- 朱い花々(東方社 1955)
- ひとすじの流れ(和同出版社 1956)主婦之友に連載された自伝
- 愛(東方社 1956)
- 花は散れども(東方社 1957)
少女小説[編集]
- みんなきた道(光文社 1950)
- どこかで星が(ポプラ社 1953)
- カナリヤの歌う日(集英社 1953)
- かえで鳥の歌(ポプラ社 1954) - 絵:江川みさお
- 遠い夢の日(ポプラ社 1954)
- 雀待てども(ポプラ社 1955)
- やや子物語(ポプラ社 1955)
脚注[編集]
- ^ a b 大家絹子 『オフェリアの薔薇 堤千代追想記』(1991年、私家版)
- ^ 堤千代(ツツミチヨ)とは - コトバンク
- ^ 2番目に若いのは、23歳で受賞した朝井リョウ。
- ^ a b 堤千代、日本映画データベース、2012年10月4日閲覧。
外部リンク[編集]
- 堤千代 - ウェイバックマシン(2000年10月18日アーカイブ分) - 直木賞のすべて
- 小指
- 堤千代 - 日本映画データベース