不知火諾右衛門

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不知火 諾右衞門
不知火諾右衞門
基礎情報
四股名 不知火 諾右衞門
本名 近久 信次
愛称 天保の三傑
生年月日 1801年
没年月日 1854年8月20日嘉永7年7月27日)(53歳没)
出身 肥後国宇土郡轟村栗崎
(現:熊本県宇土市栗崎)
身長 176cm
体重 135kg
成績
現在の番付 引退
最高位 第8代横綱
幕内戦歴 48勝15敗3分2預1無65休
優勝 優勝相当成績1回
データ
初土俵 1822年(大坂相撲)
入幕 1837年1月場所(江戸相撲)
引退 1844年1月場所(江戸相撲)
備考
2013年6月8日現在

不知火 諾右衛門(しらぬい だくえもん(なぎえもん)、1801年享和元年) - 1854年8月20日嘉永7年7月27日))は、肥後国宇土郡轟村栗崎(現・熊本県宇土市栗崎)出身の元大相撲力士。第8代横綱。本名は近久 信次(ちかひさ しんじ)。

歴代横綱の中で、横綱昇進後に下位番付へ陥落したことのある唯一の力士である[1]

略歴[編集]

1801年に肥後国宇土郡で生まれる。幼い頃から郷里で平穏な生活を送っていたが、ある日巻き込まれた傷害事件によって妻子を残したまま大坂・へ出ることとなり、1822年大坂相撲へ加入、大関まで昇進した。その後、1830年に江戸相撲・浦風門下へ加入し、江戸相撲で再スタートを切る。江戸相撲では黒雲 龍之介濃錦里 諾右衛門と改名し、1837年春場所で新入幕を果たす。その後も順調に番付を上げていき、1839年3月場所に大関へ昇進、肥後藩の抱え力士となると同時に「不知火 諾右衛門」と改名した。なお、下の名の読み方には諸説ある。

この頃(江戸時代後期)の相撲界は、徳川幕府の幕藩体制の瓦解が目に見えてきたことと、谷風梶之助小野川喜三郎と並ぶほどの大力士・名力士が長く登場して来なかったことから人気・活発共に乏しいものだった。1839年10月場所が全休、しかも既に40歳間近だったにもかかわらず、1840年11月に横綱免許を授与されたのは、こうした事情が関係していたものとみられる。しかし、1841年の正月に発表された番付には不知火の名前がどこにも記載されておらず、同年11月場所では三役格に張り出されるも当場所を全休している。江戸相撲と不知火の間に何らかの対立があったのではないかと言われているが、はっきりとした理由は不明である。1842年2月場所では関脇に降格したがこの場所で6勝を挙げ、翌場所は大関に復帰した。

1844年1月場所を最後に現役を引退し、古巣・大坂相撲へ戻って年寄を襲名し、大坂相撲の頭取を務めた。1854年8月20日(嘉永7年7月27日)に死去、53歳没。

「不知火型」の土俵入り[編集]

現在行われている横綱土俵入りの型の一つである「不知火型」の名は、この不知火ではなく弟子である第11代横綱・不知火光右衛門から取っている。

綱を締めて両腕を広げた姿の錦絵が現存しており、これが両腕を広げてせり上がる「不知火型の土俵入り」の根拠であると主張する声(彦山光三)が存在するが、この錦絵は常陸山谷右エ門の「柏手の直後に両腕を広げる土俵入り」が吉田司家によって認められる根拠になったとも伝わっており、大砲万右エ門が行っていた「せり上がった後で両腕を広げる型」の可能性も考えられる[2]

さらに、錦絵用として特別に用いた構えと考えることも可能である(現在の横綱でも銅像[3]優勝額[4]において、実際に綱姿で行なうことの無い構えを用いることがある)ため、どれが正しい型なのかは不明である。江戸時代の横綱であるため、綱の締め方は現在の雲龍型とも不知火型とも異なる「片輪結び」である。

主な成績[編集]

  • 通算幕内成績:48勝15敗3分2預1無65休(江戸相撲)
  • 優勝相当成績:1回(江戸相撲)

場所別成績[編集]

江戸相撲の本場所のみを示す。

場所 地位 成績 備考
文政13年(1830年)11月場所 西二段目28 7勝1敗2休
天保2年(1831年)2月場所 西二段目19 9勝0敗1休
天保2年(1831年)11月場所 西二段目14 5勝2敗1預
天保3年(1832年)11月場所 西二段目10 7勝2敗1休
天保4年(1833年)2月場所 西二段目8 7勝1敗2休
天保4年(1833年)11月場所 不出場
天保5年(1834年)1月場所 不出場
天保5年(1834年)10月場所 不出場
天保6年(1835年)1月場所 西二段目6 5勝1敗1分3休
天保6年(1835年)10月場所 西二段目4 6勝3敗1休
天保7年(1836年)2月場所 西二段目3 1勝4敗1休
天保7年(1836年)11月場所 西二段目1 7勝0敗1分2休
天保8年(1837年)1月場所 西前頭4 3勝0敗7休
天保8年(1837年)10月場所 西前頭3 5勝1敗1無勝負3休
天保9年(1838年)2月場所 西前頭1 2勝1敗3休
天保9年(1838年)10月場所 西前頭1 7勝1敗2休
天保10年(1839年)3月場所 西大関 2勝4敗4休
天保10年(1839年)11月場所 西関脇 6勝1敗3休
天保11年(1840年)2月場所 西大関 8勝0敗2休 優勝相当
天保11年(1840年)10月場所 西大関 10休 場所後11月に横綱免許
天保12年(1841年)1月場所 不出場
天保12年(1841年)11月場所 西三役格張出 8休
天保13年(1842年)2月場所 西関脇 6勝1敗1預2休
天保13年(1842年)10月場所 西大関 4勝1敗5休
天保14年(1843年)1月場所 西大関 10休
天保14年(1843年)10月場所 西大関 2勝4敗4休
天保15年(1844年)1月場所 西大関 3勝1敗3分1預 引退

脚注[編集]

  1. ^ 当時は大関が番付の最高位であり、横綱は「日下開山」を根拠とする免許扱いだった時代である。横綱免許を授与されていても番付はあくまで大関であり、現在の横綱に適用されているような陥落免除は無いため、下位番付への陥落も理論上有り得た。
  2. ^ 弟子である不知火光右衛門は、この「せり上がった後で両腕を広げる」という型の土俵入りだったと伝わる。
  3. ^ 例えば、横綱千代の山・千代の富士記念館にある千代の山雅信千代の富士貢の銅像は「綱を締めて中段の構え」という、現在では見られない形となっている。
  4. ^ 曙太郎の優勝額には「綱を締めて塵を切る」という、実際の土俵では決して行なわない姿がある。

関連項目[編集]