明武谷力伸

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Myobudani 1959 Scan10016.JPG
基礎情報
四股名 明歩谷 清 → 明歩谷 清之輔 → 明歩谷 清 → 明武谷 清 → 明武谷 巖 → 吉葉洋 一覺 → 明武谷 清 → 明武谷 力伸 → 明武谷 憲尚 → 明武谷 力伸 → 明武谷 皇毅 → 明武谷 保彦
本名 明歩谷 清
愛称 起重機[1]・八頭身力士・七人の侍
生年月日 (1937-04-29) 1937年4月29日(80歳)
出身 北海道阿寒郡阿寒町(現:釧路市
身長 189cm
体重 113kg
BMI 31.63
所属部屋 高島部屋吉葉山道場
宮城野部屋
得意技 左四つ、吊り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 関脇
生涯戦歴 624勝580敗6休(88場所)
幕内戦歴 414勝450敗6休(58場所)
優勝 序二段優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞4回
データ
初土俵 1954年3月場所[1]
入幕 1959年7月場所[1]
引退 1969年11月場所[1]
備考
金星3個(大鵬2個、佐田の山1個)
2014年3月9日現在

明武谷 力伸(みょうぶだに りきのぶ、1937年4月29日 - )は、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)出身の元大相撲力士。本名は明歩谷 清(みょうぶだに きよし)[1]

来歴[編集]

1937年4月29日に、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)で開拓農家を営む家に三男として生まれる。既に小学6年生で身長が176cmに達しており、さらに力が強かったことで両親から家業を手伝わされたが、清少年は家業を手伝うのが大嫌いで、その代わりに次第に力士を志し始めるようになった。1953年のある日に羽黒山政司吉葉山潤之輔一行が地元へ巡業に来た際に、吉葉山と親しかった郷里の元三段目力士と共に宿舎を訪問し、ちゃんこを御馳走になったことで喜んで実家へ戻り、両親に報告して入門を打ち明けた。しかし両親からは大反対されたことで対立したが、通っていた雄別中学校の校長が「絶対に大物になるから、3年以内に(関取)昇進出来なかったら身の振り方を善処する」と両親を説得し、高島部屋へ入門、1954年3月場所で初土俵を踏んだ。

高島部屋へ入門してからしばらく経ったある日、吉葉山が現役中に設立した「吉葉山道場」(後の宮城野部屋)へ移籍した。中学の校長が両親に約束した「初土俵から3年」という約束の期限に達した1957年3月場所後に両親が吉葉山道場へ訪れて帰郷を命じるも、師匠の吉葉山が「横綱になった私も関取昇進を決めるまで4年かかりましたから。」と説得して1年の猶予を両親に求め、これにより続投を許された。11月場所で新十両昇進を果たし、1959年7月場所で新入幕を果たした。この場所は7勝8敗と負け越し、1場所で陥落したものの、3度目の入幕後は幕内に定着した。気の弱さから取組・稽古などへの積極性に欠けていたが、周囲からの忠告を受け、さらに部屋頭としての責任も感じるようになってからは自分にも若い者にも厳しくなった。

長身を生かして左四つからの吊り・上手投げで人気を博した。越しが高いので立ち合いは遅かったが、師匠からは早く立つことよりも右上手を取ることだけを研究しろと指導された[2]。さらに上位力士に強く、1961年9月場所では場所後に横綱へ昇進する大関・大鵬幸喜と、大関・柏戸剛との優勝決定巴戦を行い[1]、幕内最高優勝こそ果たせなかったものの敢闘賞を受賞する活躍を見せた[3]三役三賞受賞の常連として大関昇進を期待されたが、ちょうどその頃は同系統に三役以上に番付を得る力士が自身以外にいなかった[4]ため系統別総当たり制の下で不利に立たされ[5]、柏戸に対して優勝決定戦を含む19戦全敗と全く歯が立たなかったり、昇進を目前とした1965年3月場所の初日と2日目を連続して勇み足[6]で落として失速するなど、結局昇進の夢は叶わなかった。それでも筋肉質な長身と彫りの深い顔は外国人女性に人気があった[1]

1967年頃までは右上手を取ると力が出たが、それ以降はがっぷり四つになっても強くなくなり、外掛けを喰らって敗れることが増えた[7]。1968年1月場所では初土俵から1000回連続出場の記録を達成したことで協会から特別表彰を受けた[1]1969年11月場所を最後に現役を引退して年寄・中村を襲名、宮城野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たったほか、勝負審判も務めた。しかし、妻の影響でキリスト教系の「エホバの証人」に入信して以降は「格闘技は聖書の教えに反する」として親方業との両立が困難となり、1977年1月場所を最後に廃業した。現在は千葉県船橋市にある村田工業所に就職後、さらにビル清掃業「日本美装」を役員として共同経営しながら布教活動を行っている。

主な成績[編集]

  • 通算成績:624勝580敗6休 勝率.518
  • 幕内成績:414勝450敗6休 勝率.479
  • 現役在位:88場所
  • 幕内在位:58場所
  • 優勝同点:2回(1961年9月場所、1965年9月場所)[1]
  • 三賞:8回[1]
    • 殊勲賞:4回(1964年7月場所、1964年11月場所、1965年1月場所、1965年11月場所)[1]
    • 敢闘賞:4回(1961年9月場所、1964年9月場所、1965年9月場所、1967年1月場所)[1]
  • 金星:3個(大鵬2個、佐田の山1個)
  • 各段優勝
    • 序二段優勝:1回(1955年3月場所)

場所別成績[編集]

明武谷力伸
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1954年
(昭和29年)
x 西 新序
3–0 
東 序二段 #52
3–5 
x 西 序二段 #54
6–2 
x
1955年
(昭和30年)
西 序二段 #21
3–5 
東 序二段 #25
優勝
8–0
西 三段目 #47
5–3 
x 東 三段目 #25
5–3 
x
1956年
(昭和31年)
西 三段目 #7
7–1 
東 幕下 #49
5–3 
東 幕下 #42
6–2 
x 東 幕下 #32
6–2 
x
1957年
(昭和32年)
東 幕下 #20
4–4 
東 幕下 #19
5–3 
東 幕下 #13
6–2 
x 東 幕下 #3
5–3 
西 十両 #23
8–7 
1958年
(昭和33年)
西 十両 #22
9–6 
東 十両 #17
7–8 
西 十両 #18
11–4 
東 十両 #8
8–7 
西 十両 #6
8–7 
東 十両 #6
6–9 
1959年
(昭和34年)
東 十両 #9
9–6 
東 十両 #6
11–4 
東 十両 #3
10–5 
西 前頭 #18
7–8 
西 十両 #2
12–3 
東 前頭 #12
6–9 
1960年
(昭和35年)
東 前頭 #15
5–10 
東 十両 #2
6–9 
西 十両 #4
9–6 
西 十両 #1
9–6 
西 十両 #1
10–5 
東 前頭 #13
8–7 
1961年
(昭和36年)
東 前頭 #10
8–7 
東 前頭 #5
5–10 
東 前頭 #9
7–8 
西 前頭 #10
9–6 
西 前頭 #4
12–3[8]
西 張出小結
6–9 
1962年
(昭和37年)
東 前頭 #4
6–9 
東 前頭 #8
7–8 
東 前頭 #7
9–6 
東 前頭 #3
2–13 
西 前頭 #9
8–7 
西 前頭 #7
11–4 
1963年
(昭和38年)
東 前頭 #1
5–10 
西 前頭 #3
5–10 
西 前頭 #6
5–10 
西 前頭 #11
9–6 
西 前頭 #6
8–7 
西 前頭 #3
7–8 
1964年
(昭和39年)
西 前頭 #4
8–7 
西 小結
7–8 
西 前頭 #1
7–8
西 前頭 #1
8–7
東 前頭 #1
8–7
東 関脇
8–7
1965年
(昭和40年)
東 関脇
9–6
東 関脇
4–11 
東 前頭 #4
11–4 
東 小結
4–11 
東 前頭 #5
12–3[9]
西 張出小結
9–6
1966年
(昭和41年)
西 小結
9–6 
西 関脇
7–8 
西 小結
6–9 
西 前頭 #2
5–10 
東 前頭 #5
5–10 
東 前頭 #8
8–7 
1967年
(昭和42年)
西 前頭 #4
11–4
東 小結
9–6 
東 関脇
7–8 
東 張出小結
7–8 
西 前頭 #1
7–8 
西 前頭 #1
5–10
1968年
(昭和43年)
東 前頭 #6
7–8 
西 前頭 #7
8–7 
西 前頭 #4
9–6 
東 前頭 #2
4–8–3[10] 
東 前頭 #7
11–4 
東 前頭 #2
5–10 
1969年
(昭和44年)
西 前頭 #5
6–9 
東 前頭 #7
5–10 
西 前頭 #11
9–6 
東 前頭 #7
7–8 
東 前頭 #8
7–8 
西 前頭 #9
引退
0–12–3[11]
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 明歩谷 清(みょうぶだに きよし):1954年3月場所 - 1959年5月場所、1959年11月場所 - 1961年3月場所、1963年9月場所 - 1963年11月場所
  • 明歩谷 清之輔( - せいのすけ):1959年7月場所 - 1959年9月場所
  • 明武谷 清( - きよし):1961年5月場所 - 1962年3月場所
  • 明武谷 巖( - いわお):1962年5月場所 - 1962年11月場所
  • 吉葉洋 一覺(よしばなだ かずひろ):1963年1月場所 - 1963年7月場所 ※師匠の「吉葉山」にあやかった四股名[2]
  • 明武谷 力伸( - りきのぶ):1964年1月場所 - 1965年1月場所、1965年11月場所 - 1966年9月場所
  • 明武谷 憲尚( - のりたか):1965年3月場所 - 1965年9月場所
  • 明武谷 皇毅( - おおき):1966年11月場所 - 1968年3月場所
  • 明武谷 保彦( - やすひこ):1968年5月場所 - 1969年11月場所(引退)

11度もの改名歴の中で「吉葉洋」を名乗っていた時期(1963年1月場所 - 同年7月場所)を除いた10度は全て本名と同じ読みで、その10度の改名歴でも「明谷」または「明谷」と一文字違いに過ぎない。改名歴の大半が本名に準ずるという意味では、本名力士の一つの資料になる得ると考えられる。また、「11度もの改名」は星岩涛祐二(9度)を上回るが、明武谷の場合は上記で述べた「吉葉洋」以外は全て下の名前、または本名(明歩谷)から「明武谷」と一文字変更した程度で、このことから一般には明武谷の改名歴は幕内経験者の最多改名記録として認められていない。2013年現在でも最多改名記録は星岩涛祐二の9度である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p28
  2. ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p68-69
  3. ^ 大鵬とは1964年から1967年にかけて健闘し、通算5勝20敗と大きく負け越しているものの、最高位が関脇以下で5勝しているのは明武谷と房錦勝比古だけである。
  4. ^ 宮城野部屋は立浪一門に属してはいたが、系統が異なるので立浪部屋の力士とも対戦する
  5. ^ 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p68
  6. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p115
  7. ^ 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p88-91
  8. ^ 大鵬柏戸と優勝決定戦
  9. ^ 佐田の山、柏戸と優勝決定戦
  10. ^ 左第10~11肋骨亀裂骨折により12日目から途中休場
  11. ^ 腰痛・多発性関節痛により12日目から途中休場


関連項目[編集]