雷電爲右エ門

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雷電 爲右エ門 Sumo pictogram.svg
Raiden Tameimon.jpg
勝川春亭による雷電の画
基礎情報
四股名 雷電 爲右エ門(為右衛門)
本名 関 太郎吉(爲右衛門・樽吉)
愛称 古今十傑
生年月日 1767年
没年月日 1825年3月30日(旧暦2月11日
出身 信濃国小県郡大石村
(現・長野県東御市
身長 197cm
体重 169kg
所属部屋 浦風部屋
得意技 突っ張り、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位 西大関
生涯戦歴 254勝10敗2分14預5無41休 (35場所)
幕内戦歴 254勝10敗2分14預5無41休 (35場所)
優勝 優勝相当成績28回
データ
初土俵 1789年7月場所(大坂)
1790年11月場所(江戸・関脇付出)
入幕 1790年11月場所(江戸・関脇付出)
引退 1811年2月場所
備考
2014年1月8日現在

雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、明和4年(1767年)1月 - 文政8年2月11日1825年3月30日)は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の元大相撲力士

現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、通算黒星が僅か10・勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされている。

来歴[編集]

誕生〜松江藩の抱えに[編集]

明和4年(1767年)1月、信濃国小県郡大石村字金子にて、関家の長男として誕生する。幼名を太郎吉(または樽吉)。幼い頃から体格に恵まれ、14-15歳頃には6尺に達していた。家事を手伝って、遠く上野国まで往復していた。13歳の時に小諸の城下町へ出稼ぎにゆき、精米所の柳田藤助の下で奉公した。仕事ぶりと怪力が評判を呼び、藤助の伝手で長瀬村の庄屋上原源吾右衛門(2代為久)が関家へ相撲の修業をさせたいと申し込んだ。上原家は代々相撲が大層好きで、自前の土俵を構えて20人ほどの少年の世話をしていた。以前巡業でこの地に滞在した浦風林右エ門が上原家と親交を結んでおり、この道場から浦風部屋にスカウトされることもあったという。天明元年(1781年)4月、太郎吉は上原道場の門弟となり、相撲の稽古や読み書きそろばんを習う。読み書きも四書五経を習うなど、門下生の中で秀才四人衆に数えられた。源吾右エ門は太郎吉にさらに期待をかけて、長昌寺の監峰和尚につかせて厳しい修業を行った[1]

天明3年(1783年)、天明の飢饉が発生する。全国で一揆が相次ぎ、当時の相撲集団の大きな収入源であった巡業も相次いで中止された。浦風一行は北陸巡業を行っていたが収入を断たれ、凶作の被害を受けなかった上原道場に転がり込み、力仕事を手伝いながら慰安相撲を行いつつ、翌年春まで逗留した。太郎吉も関取衆に稽古をつけられることによって力をつけ、また浦風から力士になることを進められたという。天明4年(1784年)秋、太郎吉は上京する[2]

浦風は上京してきた太郎吉を、すぐに初土俵はさせず、徹底して稽古をつけ、その素質を存分に開花させる方針を立てる。太郎吉は伊勢ノ海部屋へ入門し、当時の角界の第一人者であった谷風梶之助の内弟子とした。以降数年、不況による本場所の中止が相次ぐなか、太郎吉は谷風の胸を借りて力をつけ、初土俵に備えた[3]。天明8年(1788年)11月、部屋の柏戸勘太夫の紹介で松江藩抱えとなり、4人扶持で松江藩士となった。また、信州の両親には金40両が与えられた。そして四股名は、雲州ゆかりの「雷電」を名乗ることを許された[4]

現役時代[編集]

寛政元年(1789年)、西片屋のみで甲斐国鰍沢村において巡業を行い、雷電は都合で欠席した谷風にかわり大関で7日間興行をつとめた。これが記録に残る雷電の最初の土俵である。この番付のみ、「雷電為五郎」の表記である[5]。その後大坂へ向かい、8月場所で小結に附け出された。本場所での番付登場は初めてであったが、この場所を全休する[6]。江戸での11月場所は師匠の浦風が勧進元であったが、雷電ら雲州抱えの力士は藩主松平治郷に従って大坂から直接松江に下り、場所に参加できなかった。8月23日、三人扶持で扶持米を下賜され、正式に藩の相撲衆に加えられる。そのまま雲州で稽古、相撲披露、巡業などを行って年を越した[7]。江戸の本場所では、兄弟子の谷風が小野川喜三郎とともに横綱免許を受けた。この横綱免許を機に、江戸相撲は最初の黄金期を迎えた[8]

寛政2年(1790年)、3月場所も欠場。藩主から江戸勤番の命が下り、4月20日に江戸に下る。5月24日から泉岳寺の花相撲に出場。次いで四谷で行われた興行はより小規模な「稽古相撲」という扱いで、寺社奉行の見分も不要という新しい形態の相撲であったという。7月下旬から北陸巡業が始まり、雷電は病気のため遅れて合流。柏崎善光寺熊谷鴻巣と回り、その合間を縫って大石村の故郷へ帰省している[9]11月場所、雷電は谷風に続き、柏戸を上回って関脇に附け出された。10日間の興行で、雷電は8勝2預の土つかず。初土俵の場所で優勝相当の好成績を上げた。8日目の小野川との対戦では、雷電の寄り倒しと小野川の打棄りとを巡って大物言いになり、勝負検査役は預りと宣告した[10]

寛政3年(1791年)、木更津での興行を終えて海周りで江戸へ戻り、程なくして4月場所が始まる。初日から3連勝したところで上覧相撲による中断が入る。6月11日の上覧相撲で、雷電は結び前で同じ関脇の陣幕島之助と対戦。取組は陣幕が立合いから一気にのど輪で攻め、そのまま真一文字に雷電を押し出しに破った。雷電はこれが公式の取組での初黒星となった。上覧相撲後に再開された本場所でも、5日目に前頭4枚目の梶ヶ濱力右エ門に敗れる。9日目に陣幕との対戦が再び組まれ、今度は雷電が勝った。この場所は6勝1敗1無勝負2休[11]。7月17日から東海道を巡業し、藤沢見附宿で興行を行い、大坂での8月場所に出場。谷風に代わり大関を務める。次いででの興行を経て、11月場所では8勝1預1休の土つかずの成績を残す[12]

寛政4年(1792年)、2月28日に雲州抱え力士は藩主の下向に従って松江へ下り、江戸3月場所は不出場。御前で稽古相撲を披露するなどし、3月28日まで滞在、その後4月10日に大坂に直接入る。以降、大坂、名古屋、大坂、京都と連続して興行。京都場所では九紋竜との取組の最中、見物席の詰め過ぎと騒ぎすぎのあまり桟敷が落ち怪我人が出て、取組は引き分けとされた。場所終了直後、兄弟子の柏戸の死に直面する。9月の3度目の大坂場所は不入りで打ち切られる。10月20日に江戸へ戻り、11月場所に出場。しかしこの冬は江戸を大雪が襲い、3日間で打ち切られた。雷電の成績は2勝1休[13]。この頃、臼井の甘酒屋の娘はん(後に八重)と結婚し、麹町十丁目の長屋に新居を構える。

寛政5年(1793年)、1月から大鷲、銚子、関宿と巡業[14]。3月場所では8日目に常山五郎吉に敗れて8勝1敗。6月、東海道を吉原宿、掛川、袋井と巡業[15]。 8月、松江に小野川ら藩外の力士も招き、大規模な国内巡業を行った。御前相撲では小野川と取り、「五分」であった[16]。10月場所では8勝1預1休で土つかず、初土俵場所いらい6場所ぶりの優勝相当成績を挙げた。以降、出場した場所で優勝を逃したのはわずか2場所である。年末、大石村の実家に帰省。妻の八重を親戚に披露した[17]

寛政6年(1794年)、帰省中に桜田火事が発生。松江藩屋敷や雷電の自宅は罹災を免れた。神田明神で義捐興行を行う。2月20日から信州方面への巡業。岩村田城下、諏訪を経て、3月17日、18日は故郷大石村で相撲を披露した。江戸の3月場所は上覧相撲が近いと寺社奉行から内示されていたため勧進元は開催を急ぎ、21日の初日には間に合わずに休場。4月9日に上覧相撲が割り込み、雷電は千歳川庄太夫を押し出しに破った。その後の「お好み」では幕下の磐井川逸八と対戦し、つきひざで下した。本場所は5月下旬までかかってとり、雷電は6勝1分1預2休で優勝相当成績となった。11月場所でも8勝1預1休、優勝相当成績であった。[18]

寛政7年(1795年)、年始に江戸にインフルエンザが大流行、谷風もこれに罹患し、1月9日に没する。3月場所では雷電が大関に上る。場所は雨天続きの上にインフルエンザの影響で客足が悪く、5日目で打ち切り。雷電は全勝した。[19]。その後大坂、京都の場所にも出場し、8月下旬、4度目の松江入り[20]。12月、出雲大社でも相撲を奉仕する[21]

寛政8年(1796年)、4月に入って上京が許される[22]。11月の江戸場所では、9勝1休で優勝相当成績。

寛政9年(1797年)、3月場所7日目に花頂山五郎吉に敗れる。花頂山は4年前に敗れた常山と同一人物で、雷電に2勝した唯一の力士となった。雷電の最終成績は8勝1敗1休、優勝相当成績であった[23]。5月、松江で病気になった藩主治郷の鶴の一声で抱え力士が急遽松江へ下り、8月に治郷が回復するまで毎日のように御殿で相撲を奉仕した[24]10月場所、10戦全勝で優勝相当成績。この時代の相撲は千秋楽は女人禁制を解いて幕下以下のみの取組を披露するのが慣例であったが、この場所は雷電と小野川がともに五人抜きを披露した。ところが小野川はこの場所限りで引退(雷電との直接対決は雷電の2勝2分)。以降永らく、雷電の一強体制が続く[25]

寛政10年(1798年)、3月場所では8勝1無勝負1休で優勝相当成績。6月からは奥州巡業に出かける。庄内藩、秋田藩の力士が片屋を占め、雷電らは客分格であった。7月15日から秋田久保田城下で10日間興行。次いで大達、ぬしろ、人市宿、鶴岡で興行[26]。巡業中の7月8日、長女が死去。江戸10月場所では小野川の久留米勢に代わって花頂山の庄内勢が東方を占める。両藩の家老が土俵下に控え、行司や年寄衆を巻き込んで口論になるなど大荒れとなった場所は、雷電の9勝1休、土つかずの優勝相当に終わる[27]。場所中の11月7日、こんどは父の半右衛門が死去する[28]

寛政11年(1799年)、2月場所では6勝1休で優勝相当成績。大坂、京都、松坂、名古屋と回り、名古屋の森林平のもとで胸の治療を受けた。[江戸相撲寛政11年11月場所|11月場所]]では9勝1休、7場所連続の優勝相当成績。不出場となった場所を除くと11場所連続という空前絶後の記録を残した。12月に入って藩から松江行きを命じられたが、体調を崩して暫く江戸に留まる[29]

寛政12年(1800年)、改めて藩命が下ったために2月に松江入りし、ひと月余り相撲披露[30]。江戸春場所は期日を伸ばして松江藩と出場交渉を行ったが実らず、これに合わせて延期されていた大坂の夏場所には雲州勢は間にあったものの、既に雲州勢抜きで番付が編成されていたため出場できなかった。そのまま北陸巡業を行い、途中大石の実家に立ち寄る。丁度この頃、生家を建て替えた。9月に銚子で興行を行ったが、藩主松平輝和が死去したため場所中に打ち切られた。江戸に戻って10月場所、雷電は初日にいきなり鯱和三郎に敗れ、江戸相撲での連勝が44で止まった。この場所は6勝1敗1預2休、優勝相当成績は土つかずの千田川であった[31]

享和元年(1801年)2月、八重の故郷臼井にて興行。次いで江戸崎、杉崎新田で興行をしたが、3月場所には間に合わずに最初の2日を休場する。6勝1預1休で優勝相当成績。この年の夏に病を得て、湯本で3日程休場。名古屋、8月に大坂、京都で場所を打つ[32]。9月に松江入りし、そのまま年を越す。町の相撲場での興行を藩主治郷が観覧した[33]

享和2年(1802年)2月、治郷が参勤交代で江戸に発った直後、丸亀藩抱えの大関平石七太夫が来ていたため、一行の出立前の合間を縫って急遽2日間興行を行う。この興行は開催の前日に決まったため、文字の部分が白い凹版印刷の番付表となった[注釈 1]うえに、雨雪に遭って客入りは悪かった[34]。そこから浜田、広島などを回って九州へ巡業に向かい、4月には島原で半月ほど休暇を過ごす。長崎では中国人と酒の飲み比べをして勝利し、中国人から書画や支那カバンを譲られた[注釈 2]。長崎での興行も雨にたたられ、10日間の興行に1ヶ月かかった。8月には出雲の向こうを張る久留米藩で興行を行ったが、ここでも雨に降られ、雷電らは「敵地」で半月近く足止めを喰らう。その後瀬戸内の玉島、丸亀を経て、10月には大坂で本場所に出場。江戸11月場所には1年半ぶりに参加したが、本場所が雨で延期を重ねたため場所後に予定されていた上覧相撲が場所を中断して開催された。この回の上覧相撲では雷電は2番とっていずれも勝利、その後の五人掛りにも勝った。本場所では8勝2休の土つかず[35]

享和3年(1803年)、正月に大石村へと帰省する。3月場所は麻疹が大流行して、7日目で打ち切り。雷電は5勝2預の土つかず。7月に大坂、8月に京都で本場所を行い、9月には近江を回る。10月場所では雲州から讃岐へと移籍して片屋も移った秀ノ山伝治郎を破るなど9勝1休の土つかず。国許から帰藩の命が下ったが、ケガにより遠慮している。この頃、藩邸近くの四谷へ引っ越した[36]

文化元年(1804年)、江戸の春場所は帰藩を病欠した手前不出場として、北関東を巡業で回る。その後、江戸の藩邸で相撲披露。6月には仙台へ向かって谷風の追善相撲。その後東北を回る。8月5日、象潟地震の被災地を歩く。その後江戸へ戻っての10月場所では、5日目に柏戸宗五郎に不覚を取り、連勝は38でストップ。この場所は8勝1敗1休で優勝相当成績[37]

文化2年(1805年)、2月場所中にめ組の喧嘩が勃発。雷電の関わりは詳細でないが、その日記には大喧嘩の現場の描写が事細かに描かれている。この場所雷電は10戦全勝。夏には大坂、京都で本場所を打つ。帰りは中山道を下り、信州巡業と前後して大石の実家に里帰り。10月の江戸場所では6日目に春日山鹿右衛門に敗れる。9勝1敗で優勝相当成績[38]

文化3年(1806年)、本場所前に木更津での興行を7日間打つ。2月場所で4日目に音羽山峰右エ門に敗れる。場所中に文化の大火が発生し、本場所は5日間で打ち切られる。雷電の成績は3勝1敗1休。雷電の家は火の帯から遠く無事であった。4月から巡業で北陸、東北などを回ったが、大火後のインフレで勧進元が見つからず、一行が自主興行をしながら進むという異例の形をとる。5月の大坂場所でも雷電は大関として番付に載ったものの、手興行に悪戦苦闘中であったため出場できなかった。暮場所は悪天候で順延を重ねたうえにまたしても火事で長期中断を余儀なくされる。雷電は長期中断中に桶川で1日限りの巡業を行っている。この場所雷電は9勝1預で3場所ぶりの土つかず、優勝相当成績であった[39]

文化4年(1807年)、2月場所では寒波や火事に見舞われて客入りは少なかった。雷電は8勝1預1休。7月大坂場所は大名家に不幸があったため打ち切られ、雲州勢はそのまま松江に入って興行。10月の京都相撲を経て帰京。11月場所では再び大入りとなる。雷電は8勝1預1休で優勝相当成績[40]

文化5年(1808年)、2月に銚子にて師匠の浦風の追善相撲。江戸の春場所では7勝1無勝負2休。夏の巡業で信州の海野の白鳥神社で興行を行う。白鳥神社は大石の実家からほど近く、初めて上京するときに出世を誓った場所であった。10月場所鏡岩濱之助に敗れて9勝1敗、柏戸と同成績である[41]

文化6年(1809年)、2月場所では8勝1預1休。4月、藩主斉恒の参勤交代に先発したが、小田原で腰痛のため特例で離脱、箱根の塔ノ沢で6月まで湯治する。完治した後は、江戸の力士若干名を呼び寄せて関東一円を巡業して回った。10月場所では新入幕の立神盤右エ門に不覚を取り、最後の2日を休んで7勝1敗2休[42]

文化7年(1810年)、2月場所では9勝1無勝負。東海道を上りながら興行を行い、京都で本場所を行ったが、この場所雷電は2敗した。江戸に戻っての10月場所、5日目に江戸ヶ崎源弥に敗れる。最後は柏戸との大関対決を引き分け、7勝1敗1分1休。優勝相当成績[43]

文化8年(1811年)、2月場所では番付には載ったが腰の調子が思わしくなく休場。場所後に引退を申し出る。閏2月14日、正式に引退。江戸相撲の本場所は34場所出場して254勝10敗、勝率9割6分2厘であった[44]

引退後[編集]

文化8年(1811年)閏2月14日、丁度参勤で江戸にいた藩主斉恒の許可を得て現役引退、同時に藩の相撲頭取に任命された。その後、史料によって塩原温泉で秋まで養生したとも、東北へ巡業に出て相撲をとっていたとも伝えられている[45]

雷電の引退により、出雲抱えの力士は関脇の玉垣額之助ひとりとなった。雷電は藩命により他藩力士のスカウトや玉垣に有利な番付、取組編成のための交渉を命じられる。結局これは上手くゆかず、玉垣は文化9年(1812年)、1場所だけ大関を務めて引退してしまう。9月、地元善光寺で引退披露の大興行を行い、松代藩主真田幸専の御前相撲も披露される。しかしこれ以降も、半現役の状態がしばらく続いたという[46]

文化11年(1814年)、3年前の火事で罹災した報土寺の再建にあたり、藩ゆかりの寺であった縁で雷電が鐘楼と梵鐘を寄贈する。その時、雷電と親交のある狂歌師の蜀山人の提案で相撲をモチーフにした梵鐘を制作した。これが評判を呼んだが、幕閣の本多忠顕に目をつけられる。本多家は、元々出雲松平家と反りが合わないところがあったのである。鐘の鋳造について寺の住職などが呼び出され、ついには雷電の相談にのったひいきの旦那衆の一人が獄死を遂げた。結局、雷電は江戸払いに処せられてしまう。

文化12年(1815年)、数えで49歳となった雷電は、巡業も含めて現役を完全に引退する決意を固める。4月末から5月にかけて、妻の生地、臼井で5日間興行を行う。7月から8月にかけて大石村へ里帰り。8月12日、白鳥神社で最後の相撲披露を行った。これを最後に、雷電は土俵を去った[47]

以降も、頭取として抱え力士(この頃の出雲藩では、ほとんどが江戸籍の出入り力士であった。)の世話や藩主の都合との調整、相撲会所との本場所出場の交渉などを行った。この頃、前藩主の不味が病の床に就く。その最中の文化15年(1818年)、2月場所直前に出雲藩の看板力士であった鳴滝忠五郎が現役で死没する。番付再編成で小結に抜擢された縄張綱右エ門が優勝同点の成績を挙げて面目を保った。場所中、雷電は毎日相撲会所によるまで待機し、勝負付が刷り上がるとそれを早馬で不味のもとに届けていた。場所後の4月24日、不味が没する。この年の秋から翌年にかけて、出雲力士の有馬山龍右エ門の小野川襲名を巡って久留米藩と対立、雷電は諸方の要求の板挟みとなり、結局小野川襲名を短期間で断念せざるを得なかった[48]

もともと相撲に熱心でなかった藩主斉恒は、この頃から抱えの力士を他藩に次々に移籍させ始める。雷電は命に従い、各藩に力士移籍の交渉を行った。雷電は藩に懸けあい、それまで世話をかけた弟子たちに扶持米や化粧まわしなどを分け与えた。文政2年(1819年)3月28日、3月場所の分の給金7両を受け取り、それとともに雷電は頭取を辞め、松江藩との縁を切った。それでも閏4月11日、斉恒の参勤交代出発の日に雷電や旧抱え力士たちが集まり、品川まで見送った[49]

以降の晩年の消息についての詳しい史料は少ない。文政4年(1821年)の母・けんの葬儀には帰郷した記録がなく、翌々年の3回忌の時に帰った記録があるのみである。文政5年(1822年)、旧主斉恒の葬儀では、斎場の遠くから見送った[50]

文政6年(1823年)は臼井の八重の実家近くで逗留する。丁度この頃、松江藩の家臣の間で、再度相撲藩として力士を抱え直すこととなり、雷電もこれに加わる。雷電は江戸へ戻って有望力士を探し、当時幕下であった稲妻雷五郎鳴滝文右エ門を探し出す。両者はそれぞれ大関・小結に上がり、稲妻は横綱免許を受けた。文政7年(1824年)、両者ともに大関の柏戸を苦しめるなど好成績を上げ、「相撲王国」は復活の第一歩を記した。しかし、程なく雷電は死期の床に就く[51]

文政8年2月21日(1825年4月9日)、雷電死去。59歳没。死因やその他詳しいことなど、雷電の死を伝える資料は少ない。墓所は赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地や、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:254勝10敗2分14預5無勝負(35場所)
  • 通算勝率:.962
  • 幕内在位:35場所
  • 大関在位:27場所
  • 関脇在位:7場所
  • 小結在位:1場所

場所別成績[編集]

江戸相撲の本場所のみを示す[52]

場所 地位 成績 備考
寛政2年(1790年)11月場所 西関脇 8勝2預 優勝相当
寛政3年(1791年)4月場所 西関脇 6勝1敗1無勝負2休
寛政3年(1791年)11月場所 西関脇 8勝1預1休
寛政4年(1792年)3月場所 不出場
寛政4年(1792年)11月場所 西関脇 2勝1休
寛政5年(1793年)3月場所 西関脇 8勝1敗 優勝同点相当
寛政5年(1793年)10月場所 西関脇 8勝1預1休 優勝相当(2)
寛政6年(1794年)3月場所 西小結 6勝1分1預2休 優勝相当(3)
寛政6年(1794年)11月場所 西関脇 8勝1預1休 優勝相当(4)
寛政7年(1795年)3月場所 西大関 5勝 優勝相当(5)
寛政7年(1795年)11月場所 不出場
寛政8年(1796年)3月場所 不出場
寛政8年(1796年)10月場所 西大関 9勝1休 優勝相当(6)
寛政9年(1797年)3月場所 西大関 8勝1敗1休 優勝相当(7)
寛政9年(1797年)10月場所 西大関 10勝 優勝相当(8)
寛政10年(1798年)3月場所 西大関 8勝1無勝負1休 優勝相当(9)
寛政10年(1798年)10月場所 西大関 9勝1休 優勝相当(10)
寛政11年(1799年)2月場所 西大関 6勝1休 優勝相当(11)
寛政11年(1799年)11月場所 西大関 9勝1休 優勝相当(12)
寛政12年(1800年)4月場所 不出場
寛政12年(1800年)10月場所 西大関 6勝1敗1預2休
享和元年(1801年)3月場所 西大関 6勝1預3休 優勝相当(13)
享和元年(1801年)11月場所 不出場
享和2年(1802年)2月場所 不出場
享和2年(1802年)11月場所 西大関 8勝2休 優勝相当(14)
享和3年(1803年)3月場所 西大関 5勝2預 優勝相当(15)
享和3年(1803年)10月場所 西大関 9勝1休 優勝相当(16)
文化元年(1804年)3月場所 不出場
文化元年(1804年)10月場所 西大関 8勝1敗1休 優勝相当(17)
文化2年(1805年)2月場所 西大関 10勝 優勝相当(18)
文化2年(1805年)10月場所 西大関 9勝1敗 優勝相当(19)
文化3年(1806年)2月場所 西大関 3勝1敗1休
文化3年(1806年)10月場所 西大関 9勝1預 優勝相当(20)
文化4年(1807年)2月場所 西大関 8勝1預1休 優勝相当(21)
文化4年(1807年)11月場所 西大関 8勝1預1無勝負 優勝相当(22)
文化5年(1808年)3月場所 西大関 7勝1無勝負2休 優勝相当(23)
文化5年(1808年)10月場所 西大関 9勝1敗 優勝相当(24)
文化6年(1809年)2月場所 西大関 8勝1預1休 優勝相当(25)
文化6年(1809年)10月場所 西大関 7勝1敗2休 優勝相当(26)
文化7年(1810年)2月場所 西大関 9勝1無勝負 優勝相当(27)
文化7年(1810年)10月場所 西大関 7勝1敗1分1休 優勝相当(28)
文化8年(1811年)2月場所 西大関 全休 引退

優勝相当成績を通算で28回残している[注釈 3]。これは白鵬翔(39回・現役)、大鵬幸喜(32回)、千代の富士貢(31回)に次いで4位の記録で、年6場所制が始まる以前のものとしては最高記録である。9連覇は朝青龍明徳と白鵬の7連覇を上回って史上最高[注釈 4][注釈 5]

連勝記録[編集]

回数 連勝数 期間 止めた力士 備考
1 43 寛政5年(1793年)3月場所9日目 - 寛政9年(1797年)3月場所6日目 花頂山 1分3預あり。不出場場所2場所を含む。
2 44 寛政9年(1797年)3月場所8日目 - 寛政11年(1799年)11月場所千秋楽 1無勝負あり。不出場場所1場所を含む。
3 38 寛政12年(1800年)10月場所2日目 - 文化元年(1804年)10月場所4日目 柏戸 4預あり。不出場場所3場所を含む。
4 36 文化3年(1806年)2月場所5日目 - 文化5年(1808年)10月場所3日目 鏡岩 3預2無勝負あり。

対戦成績[編集]

力士名 力士名 力士名
鈴鹿山 1 0 0 0 0 鬼面山 9 0 0 0 0 雲切 1 0 0 0 0
時鐘 2 0 0 0 0 勢見山 2 0 1 0 0 江戸ヶ崎 10 1 0 2 0
出水川 5 0 0 0 0 玉垣 4 0 0 0 0 1 0 0 0 0
友千鳥 4 0 0 1 0 鏡岩 10 1 0 0 0 黒鷲 1 0 0 0 0
簑島 7 0 0 0 0 出潮 6 0 0 0 0 緑川 1 0 0 0 0
伊勢ノ浜 7 0 0 0 0 大空 3 0 0 0 0 緋縅 6 0 0 1 0
盤井川 5 0 0 0 0 鬼勝 1 0 0 0 0 秀ノ山 1 0 0 0 0
小野川 2 0 0 2 0 平石 7 0 0 1 0 大岬 3 0 0 0 0
雷電(灘) 3 0 0 1 1 不知火 5 0 0 0 0 鹿間津 3 0 0 0 0
名草山 1 0 0 0 0 八十島 7 0 0 0 0 四ツ車 5 0 0 0 0
和田ヶ原 8 0 0 1 0 田子ノ浦 5 0 0 0 0 音羽山 8 1 0 0 0
梶ヶ濱 1 1 0 0 0 月ノ森 1 0 0 0 0 三保ヶ関 1 0 0 0 0
陣幕 6 0 0 1 0 3 1 0 0 0 2 0 0 0 0
七ツ島 1 0 0 0 0 荒渡 1 0 0 0 0 大角 3 0 0 0 0
八ツヶ峰 3 0 0 0 0 揚羽 15 0 0 0 1 滝ノ鯉 8 0 0 0 0
五百ヶ峰 1 0 0 0 0 春日山 10 1 0 0 0 大木戸 1 0 0 0 0
茂リ山 4 0 0 0 0 柏戸(宗) 5 1 1 2 3 浅香山 1 0 0 0 0
七々滝 1 0 0 0 0 山巡 2 0 0 0 0 八ヶ峰 1 0 0 0 0
木曾ヶ谷 1 0 0 0 0 木幡山 2 0 0 0 0 荒海 2 0 0 0 0
諭鶴羽 5 0 0 1 0 比羅ノ海 1 0 0 0 0 立神盤右エ門 1 1 0 0 0
佐野山 13 0 0 0 0 浜風 4 0 0 0 0 柏戸(利) 1 0 0 0 0
出羽海 3 0 0 0 0 山颪 2 0 0 0 0 五人掛 1 0 0 0 0
花頂山 3 2 0 1 0 濱ヶ関 1 0 0 0 0

雷電に勝利した力士[編集]

雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。

勝利力士 場所 勝利力士の
当時の番付
勝利力士の
最高位
備考
陣幕嶋之助 上覧相撲
寛政3年
1791年
関脇 大関 結び前、関脇同士の対戦。押し出しで敗れる。記録に残る限りでは雷電をそこまで正攻法で破った力士は他にいない。初土俵から2場所目での上覧相撲で雷電に緊張があったのでは無いかとの意見も強いが、平幕や幕下力士相手への取り零しではなく、三役同士での敗戦は柏戸と陣幕だけである。
梶ヶ濱力右エ門 寛政3年
(1791年)
4月場所5日目
東前頭4枚目 前頭4枚目 本場所では初黒星。
市野上浅右エ門 寛政5年
1793年
3月場所8日目
東二段目[注釈 6]筆頭 大関 四股名は1勝目が常山五郎吉、2勝目が花頂山五郎吉。
幕下時代の初顔合わせで番狂わせを演じ、のちに入幕して2度目の対戦でも勝利した。寛政3年冬場所から同12年春場所まで9年間、雷電は彼にしか負けていない。この2敗を挟んで雷電は19連勝、43連勝、44連勝を記録しているため、彼がいなければ108連勝に達していたことになる。雷電不在の場所で優勝相当成績も2度記録、のちに大関へ昇進したが病気によって現役死した。
寛政9年
1797年
3月場所7日目
東前頭2枚目
鯱和三郎 寛政12年
1800年
10月場所初日
東二段目[注釈 6]3枚目 前頭3枚目 雷電の最多連勝を44で止める。
雷電の11敗の内でも最大の番狂わせとされ、力量の差が歴然だったことから取組前に観客が帰ろうとしていたという。鯱はぶちかますと見せかけて後ろに回り込み、向正面へ送り出したという。偶然この相撲を見物していた安井大江丸が「負けてこそ 人にこそあれ 相撲取」と詠んでいる。
鯱は幕内と二段目のエスカレーターで終わった力士であり、この一番は生涯の大殊勲となった[53]
柏戸宗五郎 文化元年
1804年
10月場所5日目
東小結 大関 柏戸は後に大関に昇進し、晩年の雷電と渡り合った。直接対決でも柏戸の勝利は1回のみだが、13回対戦して雷電の5勝1敗の他に1分3預3無勝負と、名勝負を繰り広げた。雷電最後の土俵の相手にもなり、引き分けている。
春日山鹿右衛門 文化2年
1805年
10月場所6日目
東前頭筆頭 小結 前名を大綱、その名で8連敗の後、春日山に改名して破る。
音羽山峰右エ門 文化3年
1806年
2月場所4日目
東前頭4枚目 前頭3枚目
鏡岩濱之助 文化5年
1808年
10月場所4日目
東前頭3枚目 小結 雷電最後の皆勤場所で最後の白星を献上。
立神盤右エ門 文化6年
1809年
10月場所3日目
東前頭7枚目 関脇
江戸ヶ崎源弥 文化7年
1810年
10月場所5日目
東前頭筆頭 関脇

雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。

人物[編集]

体格については諸説あるが、江戸相撲で初土俵を踏んだ時の宣伝の錦絵に6尺5寸、45貫(197cm、169kg)と書かれており、これが定説となった[54]。また、遺された手形がすべて左手で、また足駄の左足の摩耗が著しいことから、左利きであったと思われる[55]

当時の力士としては高い教養の持ち主で、「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬相撲控帳」を残した[注釈 7]。これは相撲に限らず、江戸の風俗を知る上で貴重な資料にもなっている。

家族・子孫[編集]

関家は農家ながら、地元ではかなりの旧家であった[56]。言い伝えによると、戦国時代は村上義清の侍大将であったという。村上氏没落後は再起をかけつつ帰農したという[57]

父 半右衛門
元文5年(1740年) - 寛政10年11月7日(1798年12月13日)
身体が小さかったが相撲は強く、村相撲では大関を張った。また酒も強く、雷電が大関時代に建てた墓石が長野県東御市に現存するが、酒樽と枡と盃をかたどったユニークなものとなっている[58]
母 けん
寛延2年(1749年) - 文政4年6月24日(1821年7月23日)
結婚後しばらくは子宝に恵まれず、隣村の薬師に願をかけたところ翌年雷電が生まれた。のちに奉納した一対の阿吽像が現存している[59]
妹 とく
天明5年(1785年) -
雷電が江戸へ出てから生まれた。入婿をとり、間に子をなした。
妻 八重
明和4年(1767年) - 文政10年1月24日(1827年2月19日)
旧姓飯田。前名「はん」とも。臼井の甘酒屋「天狗さま[注釈 8]」の娘で、巡業あるいは成田詣で立ち寄った雷電が一目ぼれしたという。公式には「日本橋の呉服屋の娘」とされているが、雷電は下級士族であるため、形式上ひいきの呉服屋の養女となったと思われる[60]
寛政6年頃 - 寛政10年7月8日(1798年8月19日)
俗名は不明。法名は釈理暁童女[60]

現在、「雷電の子孫」を名乗る関家は長野県東御市と島根県松江市に一軒ある。前者は雷電の妹・とくの流れを汲んで雷電顕彰会を主宰している。後者は雷電の没後、松江藩のとりはからいで、八重が雲州力士・朝風石之助を養子に迎えて松江藩士としての家系存続を許されたもの。両家は現在も交流を続けている。

関家系図
半右衛門
 
 
 
けん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
爲右エ門1
雷電
 
 
 
八重
(はん)
 
 
 
 
 
 
 
 
とく
 
 
 
(西沢)
末作2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石之助2
(朝風)
 
 
 
みよ
 
 
 
文八
 
一女
 
義行3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(竹谷)
忠兵衛4
 
 
 
和一郎3
 
 
 
 
 
為五郎4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伝太郎5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
森太郎5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鋭之進6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
爲治郎6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政明7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
森雄7

 

エピソード[編集]

  • 幼少期から巨体・怪力にまつわる様々な伝説が残り、例えばある時碓氷峠を荷馬を引いて歩いていた時に正面から大名行列がやってきたが、道が狭いために避けたり戻ることが出来なかったため、やむを得ず荷馬を担ぎ上げて大名行列を通したという。また、庭先で母が風呂桶に入っていると急に雷雨があったが、風呂桶に母を入れたまま家の土間に担ぎ込んだという[61]
  • 勝率.962は歴代横綱幕内最高勝率の梅ヶ谷藤太郎(.951)をも凌ぐ。連勝記録は44連勝(史上8位)で、単独の連勝記録ではやや譲る代わりに30連勝以上を4回記録している。雷電以降でこれを達成したのは6場所制での大鵬・白鵬のみである。
  • 1場所で2敗することが一度も無く、同じ相手に2度負けたのは上記の市野上浅右エ門だけだった。
  • 真実性については疑問が強いが、雷電のあまりの強さに「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「」「鯖折り」を禁じ手とされたという。これは有名な話で、雷電の閂によって八角政右エ門の腕がへし折られたと伝わる。これらは多くの相撲講談で語られ、相撲について記された多くの本にも記載されている。しかし、池田雅雄1915年生)によると、彼が子供の頃、近所に嘉永1848年1854年)生まれの老人がいて、その老人が 「実見している祖父から聞いているが、突っ張り専門の雷電に、そんなバカなことはない」 と否定していたという[62]。雷電の幕内総成績のうち引き分けが二回だけというのは江戸時代の力士としては非常に少ない数字であり、間接的ながら伝えられた実見談のとおり、突き押し主体の攻撃型の相撲であった可能性が高いと考えられる。
  • 2006年5月場所における把瑠都凱斗の身長・体重がともに雷電と全く同じ数字だった。力士が大型化した21世紀においても把瑠都の体格の大きさは群を抜いているが、平均的な体格が現代に比して著しく小さな当時の日本における雷電の巨漢ぶりは相対的にそれ以上のものであっただろう。現存する雷電の手形は長さ23.3cm、幅13cmである。

横綱にならなかった理由について[編集]

雷電が横綱免許を受けなかった理由としては次のような諸説があるが、どれも決め手を欠いている[63]

  • (1)「土俵上で対戦相手を殺してしまったためとする説(単なる講談ネタであり、事実ではない)」
  • (2)「推薦を辞退したとする説(推薦の根拠資料なし)」
  • (3)「共に免許を受けるべき実力的に釣り合う相手がいなかったためとする説(谷風・小野川より後の横綱は単独で免許を受けるケースが続いた)」
  • (4)「上覧相撲の機会を得なかったためとする説(雷電は上覧相撲に出場している。かつ上覧相撲を免許の条件とする論拠に欠ける)」
  • (5)「雷電の抱え主・雲州松平家と吉田司家の主家・熊本細川家の対抗意識によるものとする説(実証的根拠なし)」

現代のように、横綱審議委員会の横綱推薦内規(大関で2場所連続優勝)が定められているという視点からは、雷電ほどの好成績でありながら横綱になっていないのは不可解である。しかし、新田一郎は、上記の諸説が「横綱という制度がありながら、それにふさわしい雷電がなぜ横綱を免許されなかったのか?」という前提に立っていることを指摘しており、「吉田司家から谷風と小野川が横綱免許を受けた段階では横綱は恒久的制度として成立しておらず、上覧相撲における演出の一つとして1回限りのものとして構想されたために、雷電が横綱を免許されていない」という説を立てている[64]

実際、吉田司家の横綱免許は谷風・小野川の授与の後39年もの歳月を経て、1828年(文政11年)の阿武松緑之助まで行われていない。この阿武松の免許の前段階として、1823年(文政6年)に相撲の家元を名乗る京都五条家が、谷風・小野川の横綱免許という先例に目をつけ柏戸利助玉垣額之助に独自で横綱免許を与えていた[注釈 9]。これに負けじと、吉田司家は江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、翌1828年(文政11年)正月、江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、2月に吉田司家は阿武松に横綱を免許した。これを機に吉田司家は五条家を牽制し、結果として五条家も吉田司家の免許権を認めた。新田は、こうした経緯で横綱免許は制度化したのであって、横綱制度確立以前の雷電に横綱免許がないのはむしろ当然であり、雷電は「横綱以前」の強豪力士として位置付けている。

免許権を持っていた吉田司家・さらに1950年以降免許権を譲られた日本相撲協会ともに、今日に至るまで雷電を横綱として追認するなどの措置はないが、1900年明治33年)に12代横綱・陣幕久五郎富岡八幡宮境内に建立した横綱力士碑には「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。

史跡・遺品[編集]

雷電生家
  • 長野県東御市
  • 生家とは呼ばれるが、実際には雷電が大関時代に建てた家で、屋内に稽古土俵、さらに稽古の様子を見学できるように二階座敷などがある。地元につたわる話では、恩人である上原源五右衛門に遠慮して、彼の邸宅よりひとまわりこぶりに建てたという。その後関家の納屋として使われていたが、昭和に入ってから復元され、1984年から一般公開が開始された。ここには雷電直筆とされる「諸国相撲控帳(雷電日記)」「萬御用覚帳」の原本の写しなども保存されている。
雷電顕彰碑
  • 長野県東御市
  • 佐久間象山の撰文、揮毫によって1861年に建立された。碑文に「雷電去世二十七年(雷電が世を去って二十七年)」とあるのは「三十七年」が正しいが、当時幕府に蟄居謹慎の処分を受けていた象山が、それ以前の仕事と見せるためにあえて誤って書いたものである。雷電のあまりの怪力ぶりに、突っ張り・張り手・閂を禁じ手とされた逸話もここで述べられている。その石片は勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文が判読不可能にまでなっていたため、勝海舟山岡鉄舟の発起で新碑が建立された。昭和のはじめ、土地の所有者が変わった関係で旧碑が移動され、現在は新旧の両碑がT字型に並び立っている。
  • 千葉県佐倉市臼井台
  • 妙覚寺の前に存在し、勝川春亭の雷電の立ち姿を等身大(197cm)に描き、佐久間象山の筆による「天下第一流力士雷電之碑」の文字が刻まれている。雷電命日の毎年2月11日には雷電祭として雷電太鼓の奉納などが行われる。
雷電袂鐘
  • 長野県小諸市
  • 養蓮寺の所蔵されている。雷電が自ら寄贈したもので、「江戸から袂(たもと)に隠して持ってきた」と語った逸話から「袂鐘」の名がある。報土寺の釣鐘を巡る騒動とも関わりを持つが、損傷が酷いために現在は一般公開を行っていない。
雷電の力石
  • 長野県長野市
  • 武井神社の一角にある。鐘鋳川に架けられていた橋板を架け替えの祭、善光寺に巡業に来ていた雷電が神社まで運んだとされる物が力石として残っている。この石の上に立った子供は丈夫に育つという。
雷電為右衛門の像

  • 赤坂報土寺
    • 生前から雷電と親交があった縁で葬儀を引き受けたという。
  • 臼井台
    • 妻八重の菩提寺だった浄行寺跡地には、雷電自身と妻子の墓がある。娘がともに供養されているのはここだけとなる。後に移転の際に掘り返したが、なにも出てこなかった。
  • 大石村
    • 関家の菩提寺。
  • 松江
    • 松江藩士として継承された関氏の墓所。伊発が葬られたというが、後に掘り返された時には発見されず。
石尊之碑
  • 上原家跡地に建立。双葉山定次の揮毫と雷電の手形があしらわれている。後に長野新幹線の開通によって移動させられる[65]
報土寺の鐘・鐘楼
  • 東京都港区赤坂
  • 文化年間に江戸の大火で一度消失したために雷電の支援を得て復元されたが、「天下無双雷電」と刻まれていたことと、前例のない異形(鐘を吊るす龍頭には二人の力士が四ツに取り組み、雷電の臍に向かって撞木を付くなど)のため、幕府から不届きであるとして取り壊された。二代目の鐘は明治末期に作られ、雷電寄進当時の鐘銘が写されたといわれる。太平洋戦争で軍部に供出されて行方不明となっていたが、平成になって戻ったものである。それぞれの一番鐘をついたのは、文化の復元時には雷電、明治に再現された時は大砲万右エ門、平成に帰還した時には千代の富士貢だった。なお、鐘樓の台座だけは雷電寄進当時のもので、鐘樓は平成になって再建されたものである。
手形
  • 蜀山人が「百里をもおどろかすべき雷電の手形をもって通る関と里(関取)」と添えたものが有名で、生家のほかに十数枚が現存し、江戸払いを受ける直前となる「文化十一年四月四日」の日付のついたものを、相撲博物館が所蔵している。
雷電の燈籠と水引
明香寺
  • 静岡県袋井市
  • 寛政5年(1745年)、雷電が巡業の折に立ち寄り、子宝を願って願をかけた。程なく娘が生まれたため、三清山を買ってこれを寺に寄進した。後に寺が洪水に見舞われた折、この山に移転する。現在も子宝の御利益があるとされるとともに、歴代の横綱の木像十数体が安置されている[67]

表現された作品[編集]

新東宝で映画化され、宇津井健が雷電を演じた。この小説を記念して、1950年代から60年代初頭に読売新聞社は「雷電賞」を制定し、関脇以下の最多勝ち星をあげた力士を毎場所表彰した。1955年3月場所 - 1965年11月場所まで実施された。

参考文献[編集]

  • 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p251-252
  • 小島貞二 『力士雷電 上巻』 ベースボールマガジン社、1998年11月10日ISBN 4-583-03556-X
  • 小島貞二 『力士雷電 下巻』 ベースボールマガジン社、1998年12月25日ISBN 4-583-03570-5

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 通常の番付は凸版印刷だが、通常の彫り方では原盤制作が間に合わないため。
  2. ^ これらの品は、現在も雷電生家にて保管されている。
  3. ^ うち3回は東大関の柏戸宗五郎との同点。当時は東西の優劣がはっきりしていなかったとの説があるためであり、現在の東優位をそのまま当てはめたら、雷電の優勝は25回となる。
  4. ^ 貴乃花光司と白鵬には9場所連続幕内最高成績(9場所連続で優勝同点以上)があり、雷電の時代に当てはめれば9場所連続優勝相当成績になる。
  5. ^ ただし、当時は千秋楽に大関5人がかりのようなアトラクション的な取組が行われ、「優勝相当成績」の判定の基礎となる場所成績にはそれらの勝ち星を含んでいることもあることに注意を要する(大日本相撲史より)。
  6. ^ a b 現在の十両相当。
  7. ^ いずれも表題、本文、書きこみなどで複数の筆跡があるため、後に後述代筆されたのではないか、との説がある。
  8. ^ 飯田の一族は、みな色白で、鼻が高い人物であったという。
  9. ^ 柏戸が吉田司家に遠慮して横綱土俵入りと共に辞退し、玉垣もこれに倣って辞退して、作られた綱も木戸脇に飾られたままであった。

出典[編集]

  1. ^ 小島 1998a, pp. 16-23.
  2. ^ 小島 1998a, pp. 25-30.
  3. ^ 小島 1998a, pp. 35-39.
  4. ^ 小島 1998a, pp. 40-42.
  5. ^ 小島 1998a, pp. 43-46.
  6. ^ 小島 1998a, p. 52.
  7. ^ 小島 1998a, pp. 63-65.
  8. ^ 小島 1998a, pp. 66-68.
  9. ^ 小島 1998a, pp. 68-71.
  10. ^ 小島 1998a, pp. 71-85.
  11. ^ 小島 1998a, pp. 87-93.
  12. ^ 小島 1998a, pp. 94-96.
  13. ^ 小島 1998a, pp. 117-125.
  14. ^ 小島 1998a, p. 130.
  15. ^ 小島 1998a, pp. 131-132.
  16. ^ 小島 1998a, pp. 167-168.
  17. ^ 小島 1998a, p. 133.
  18. ^ 小島 1998a, pp. 139-145.
  19. ^ 小島 1998a, pp. 147-152.
  20. ^ 小島 1998a, p. 155.
  21. ^ 小島 1998a, pp. 192-193.
  22. ^ 小島 1998a, p. 193.
  23. ^ 小島 1998a, pp. 197-199.
  24. ^ 小島 1998a, p. 187-188.
  25. ^ 小島 1998a, p. 200-204.
  26. ^ 小島 1998a, p. 205-208.
  27. ^ 小島 1998a, p. 211-213.
  28. ^ 小島 1998a, pp. 134-135.
  29. ^ 小島 1998a, pp. 215-218.
  30. ^ 小島 1998a, p. 188.
  31. ^ 小島 1998a, pp. 220-224.
  32. ^ 小島 1998a, pp. 225-231.
  33. ^ 小島 1998a, pp. 188-189.
  34. ^ 小島 1998a, pp. 190-191.
  35. ^ 小島 1998a, pp. 236-261.
  36. ^ 小島 1998a, pp. 265-274.
  37. ^ 小島 1998a, pp. 295-334.
  38. ^ 小島 1998a, pp. 335-353.
  39. ^ 小島 1998a, pp. 357-370.
  40. ^ 小島 1998a, pp. 371-379.
  41. ^ 小島 1998b, pp. 13-33.
  42. ^ 小島 1998b, pp. 35-46.
  43. ^ 小島 1998b, pp. 55-63.
  44. ^ 小島 1998b, pp. 65-71.
  45. ^ 小島 1998b, pp. 93-102.
  46. ^ 小島 1998b, pp. 113-122.
  47. ^ 小島 1998b, pp. 183-192.
  48. ^ 小島 1998b, pp. 225-242.
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  62. ^ ベースボール・マガジン社『大相撲ものしり帖』 1990年6月
  63. ^ 読売新聞社大相撲1998年7月号
  64. ^ 新田一郎『相撲の歴史』(山川出版社1994年など
  65. ^ 小島 1998a, p. 24.
  66. ^ 佐久教育会歴史委員会編『限定復刻版 佐久口碑伝説集 北佐久篇』佐久教育会、1978年、226ページ。
  67. ^ 小島 1998a, pp. 132-133.

関連項目[編集]