柏戸宗五郎 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1767年明和4年) - 1818年2月18日文化15年1月14日))は、江戸時代の大関武蔵国足立郡(現・草加市)出身。本名は大久保清五郎。雷電爲右エ門の好敵手として名があるが、自身も強豪大関の一人だった。享保2年2月関脇昇進[1]

同郷の縁で3代伊勢ノ海の弟子となった。当時の力士としては珍しく序ノ口で初土俵(天明6年(1786年)11月)。若名乗りは滝ノ音。新入幕は寛政7年(1795年)11月[1]。新入幕の場所、雷電不在場所ではあったが、8勝1敗1休で優勝相当成績を残す。寛政10年(1798年)3月場所4日目、師匠の急死によって二枚鑑札で4代伊勢ノ海を襲名[1]

雷電とは寛政10年(1798年)3月の初顔合わせから12回顔が合って、1勝5敗1分2預3無勝負。雷電に勝った文化元年(1804年)10月場所は小結。雷電が平幕や幕下力士への取りこぼしでなく、三役同士の取組に敗れたのは、寛政3年6月の上覧相撲での陣幕嶋之助本場所の番付では関脇)と、この時の柏戸だけである。雷電の生涯でふたつしかない引き分けのひとつも記録、それが雷電の最後の土俵にもなった。文化5年(1808年)3月に大関昇進[1]

幕内通算156勝36敗9分12預11無勝負54休。雷電と優勝同点にあたる成績を残すことも3度。文化9年4月限りで引退し、年寄柏戸専任に[1]

伊勢ノ海襲名をめぐって先代の遺族との間で紛糾、2代未亡人と3代未亡人が対立し、この「伊勢ノ海太鼓訴訟事件」は幕府への訴訟に発展する一件もあった。これは年寄専任後に2代目未亡人側と和解し、文化10年から11年初めにかけて、約15年ぶりに伊勢ノ海の名跡を継承。正式に4代目となった。

部屋の師匠としては大関の柏戸利助を始めとして多くの門下生を育て、相撲会所内では筆頭(現在の日本相撲協会理事長に相当)の要職に就いた[1]

め組の喧嘩に登場する九竜山浪右衛門四ツ車大八らは彼の弟子で、「伊勢ノ海太鼓訴訟事件」では彼らも事態の収拾に追われることになった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p30-34

関連項目[編集]