真田幸専

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真田幸専
時代 江戸時代後期
生誕 明和7年(1770年
死没 文政11年7月27日1828年8月27日
改名 順介(幼名)→幸専
戒名 大暁院殿聖諦一義大居士
墓所

長野県長野市松代町の長国寺

神奈川県伊勢原市上粕屋 盛徳寺
官位 従四位下、豊後守、伊豆守、弾正少弼、弾正忠
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
信濃松代藩
氏族 井伊氏真田氏
父母 父:井伊直幸、母:坂本氏
養父:真田幸弘
兄弟 井伊直尚井伊直寧井伊直富井伊直中井伊直広幸専土井利義井伊直明井伊直容井伊直致俊姫
正室:三千姫真田幸弘の娘)
養子:幸貫
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真田 幸専(さなだ ゆきたか)は、信濃松代藩の第7代藩主。近江彦根藩主・井伊直幸の九男。

生涯[編集]

天明5年(1785年)11月4日、4人の男子にいずれも先立たれた第6代藩主・真田幸弘の養子となった。幸弘は、真田一族からでなく幕閣有力者の子弟を養子として迎えることで、幕府との結び付きを強め、財政危機を招く課役を避けようと考え、井伊家から幸専を娘婿として迎え養嗣子としたという。

同年11月15日、将軍・徳川家斉御目見し、同年12月18日に従五位下豊後守に叙任した。寛政4年(1792年)に松代に入った。寛政10年(1798年)8月21日、養父の隠居により家督を継いだ。この頃、松代藩では財政が極度に悪化していたため、幸専も財政再建を主とした藩政改革を余儀なくされた。しかし幕府から江戸隅田川の工事などを命じられ、さらに財政が逼迫した。

幸専もまた後継者となる男子に恵まれなかった。そのため参勤交代に際して、はじめは柳沢保光の六男・久次郎(後の柳生俊豊)、次いで松平忠馮の次男・政之助(後の井上正廬)を仮養子にした。文化12年(1815年)、松平定信の次男・幸貫を養嗣子として迎えた。文政6年(1823年)8月20日、幸貫に家督を譲って隠居した。文政11年(1828年)7月に江戸藩邸にて逝去、大暁院と号した。享年59。

系譜[編集]

父母

正室

養子