松平定信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平定信
Matsudaira Sadanobu.jpg
松平定信自画像
鎮国守国神社所蔵 天明7年(1787年)6月[* 1]
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦8年12月27日1759年1月25日
死没 文政12年5月13日1829年6月14日
改名 徳川賢丸(幼名)→松平定信
別名 楽翁、花月翁、風月翁(号)、
白河楽翁、たそがれの少将
諡号 守国公
神号 守国大明神
戒名 守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
官位 従五位下上総介越中守従四位下侍従左近衛権少将正三位[1]
幕府 江戸幕府老中首座・将軍輔佐
主君 徳川家斉
陸奥白河藩
氏族 田安徳川家久松松平家[* 2]定勝
父母 父:徳川宗武、母:山村氏娘・香詮院
養母:近衛通子
養父:松平定邦
兄弟 誠姫、裕姫、淑姫、小次郎、銕之助、
友菊、仲姫、乙菊、徳川治察、節姫、
脩姫、定国定信種姫、定姫
正室:松平定邦
継室:加藤泰武娘・隼姫
側室:貞順院
定永真田幸貫、福姫、清昌院、
保寿院、寿姫、蓁、松平輝健正室
養子:松平信志正室宝琳院
テンプレートを表示

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名老中陸奥国白河藩3代藩主。定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われるが、しかし近年では田沼政権との連続面があったことも重視される[2]

生涯[編集]

出生[編集]

宝暦8年12月27日(単純な換算で宝暦8年は1758年になるが、グレゴリオ暦では既に新年を迎えており、1759年である)、御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが[3]、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。宝暦9年(1759年1月9日に幼名・賢丸(まさまる)と命名された[4](p4)。生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた[4](p3)。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった[4](p2)

宝暦12年(1762年2月12日、田安屋敷が焼失したため、江戸城本丸に一時居住する事を許された。宝暦13年(1763年)、6歳のときに病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。しかし定信は幼少期は多病だった[4](p4)

将軍候補[編集]

幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされた。白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。

一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話である。

ただし、定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無であり、かつ御三卿は庶子だけでなく世子や当主ですら他大名家への養子へ送り出されることが多かったため、定信の将軍世子候補の件は後世の付託の可能性がある。

同じ久松松平家の伊予松山藩主・松平定静が、田安家から定信の実兄・定国を養子に迎えて溜詰に昇格していたため、定邦も溜詰という家格の上昇を目論んで定信を養子に迎えた。家督相続後、定信は幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった。

寛政の改革[編集]

天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。

老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。しかし、定信は吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。

改革直前の状況を見てみると、田沼意次の政治により武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していた。手余地・荒地が広がり、天明年間に続出した飢饉にて離村した農民は都市に大量に流入し社会秩序を崩壊させた。寛政の改革はこのような諸問題の解決に向け綱紀粛正、財政再建、農村復興、民衆蜂起の再発防止などといった問題に立ち向かっていった。田沼が発布した天明三年からの七年間の倹約令を継続し、財政の緊縮を徹底し、諸役人の統制を行った。

幕府財政再建[編集]

幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行っている。幕府の金蔵は吉宗時代の253万両から明和7年には備蓄金は300万両程貯まっていたが天明の大飢饉の支出の拡大により金蔵は底につきかけており、改革翌年の天明8年には81万両しか残っておらず、百万両の赤字が予想されるほど切迫していた。その為、定信は繰り返し厳しい倹約令を発布し財政再建に努めた。幕府の赤字財政は改革により黒字に代わり、定信失脚の頃には備蓄金も20万両程貯蓄することができた。

福祉政策[編集]

福祉政策を行い、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じた。また、インフラ整備などのために町で積み立てる救済基金ともいえる「七分積金」を江戸の各町に対して命じた。この七分積金は幕末になると、単に備蓄するのみならず、都市整備や産業振興のための貸付の元手としても活用されるようになり、明治維新の際の江戸城無血開城では多くの余剰金が見つかり、東京の街づくりに一役買うこととなった。さらに、治安対策のために、地元を追放された無宿人や浮浪者を一か所に集め、石川島にて大工や米つきの訓練をする「人足寄場」を設けた。また、天明の大飢饉からの回復を目指したのか人口増加政策もおこなっている。間引きの禁止、児童手当の支給を実施し、1790年には二人目の子供の養育に金1両、1799年にはさらにそれを2両に増額している。

諸役人の統制[編集]

諸役人の統制として、定信は、勘定方三十人、普請方二十人の不正役人を罷免し、代官も二年間に八人を処断し十九人の代官を交代させた。また、荒れ地や農業用水の再開発のために多額の公金貸付を行い、代官を地域の代官所に長期に勤務させることで農村の復興を図った。その結果、寺西重次郎、岡田清助などといった神社で神に祀られたりするような「名代官」が各地に誕生した。

教育政策[編集]

教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとした。松平定信が創設した「昌平坂学問所」は幕臣子弟以外にも他藩の留学生や浪人の入学も許可しており、地方からくる留学生のために寮まで完備するなど、はば広く入学間口を開いていた。学問吟味の成績優秀者にはこれにより出世の糸口を掴んだものも多かった。後に、黒船来航で難局した幕末の若年寄(政務次官)や奉行(局長)の多くは学問所の学問吟味で抜擢された者が多く、この試験制度のおかげで、幕末の幕府は優秀な人材を揃えることができた。また、「昌平坂学問所甲府分校」といえる「徽典館」は庶民の入学も許可しており、「講武所」や「医学所」が併設されており、成績が優秀だと甲府勤番に登用されることもあり、庶民や御家人など低い身分の者にも出世の糸口が得られることとなった。

対外政策[編集]

同時期のヨーロッパでは、1792年4月20日フランスオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場となった。このことは、極東の千島オランダ東インド会社1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。更にロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるのアダム・ラクスマン根室に来航した。翌1793年、オランダの戦況はフランス軍による制圧の様相がますます強まり、フランス革命戦争はヨーロッパ全域に波及する勢いで広がっていた。ヨーロッパの情勢が変化する中、寛政5年(1793年)6月20日、定信は消極的開国政策を示した。光太夫とラクスマン一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示、さらに、ロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、光太夫を引き取るよう指示した。この時、定信はラクスマンが長崎に来てしまったら貿易をするしかないだろうと書き残している。同年6月30日、ラクスマンは長崎へは行かずに帰路に就いた。対外政策は緊迫した状況にあり、もしオランダがフランスに占領された場合、ロシアが江戸に乗り込んで来る可能性があり、あるいは千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性、またイギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性があった。定信は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めた。

このように松平定信の改革は一定の成果をあげたが、その厳粛な厳しい政治は後に大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。また幕府のみならず様々な方面から批判が続き、下記の尊号一件事件も絡み僅か6年で老中を失脚することとなった。7月23日、定信は、海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した[* 3]。この辞任は突然のものであったので、当時の落首にて「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と歌われた。天明の大飢饉から幕府財政が回復しつつあるなか、対外問題、外貌問題とまだまだ問題が残った時の突然の辞任だった。

定信辞任の2ヵ月後の9月、鎖国の禁を破った罪人であるはずの大黒屋光太夫は処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見し、蘭学者たちは翌年11月11日(1795年1月1日)からオランダ正月を開始し、光太夫も出席した。定信の辞任はキリスト教国からの帰国を許し、蘭学者勢力の隆盛をもたらした[* 4]。定信の辞任は尊号一件が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。

定信引退後も幕府には、三河吉田藩主・松平信明越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中がそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれ、寛政の改革の路線は維持されることとなった。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。

その後[編集]

老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。

文化9年(1812年)、家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。

最期[編集]

松平定信墓地門(霊巌寺
松平定信の墓(霊巌寺)

文政12年(1829年)の1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発した。3月21日には神田佐久間町河岸から出火し、火が日本橋から芝まで広がり、多数の建物が焼失し2800余人の焼死者が出たが、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼したため、定信は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送されたため、道が塞がって民衆が迷惑したという。さらにこの時、松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺したという噂が世上に流布した。この時の大火に関する落首や落書があり、「越中(定信)が、抜身で逃る、其跡へ、かはをかぶつて、逃る越前(福井藩のことで、福井藩にも町人を斬り殺した噂が流布していた)」「ふんどしと、かはかぶりが、大かぶり」と無届の一枚刷りによって多数刊行された[4](p273)。これは寛政の改革の際に出版統制を行った定信に対する業界の復讐であったとされる[4](p274)

屋敷の焼失により、定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため4月18日に松山藩の三田の中屋敷に移った[4](p274)。この仮屋敷の中で病床にあった定信は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永と藩政に関して語り合った。一時は回復の兆しも見せたが、5月13日の八つ時(午後2時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後4時)に医師が診察する中で[4](p275)、急に脈拍が変わり、死去した[4](p276)享年72。

辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」

墓地は東京都江東区白河の霊巌寺にある。

田沼政権との連続性[編集]

通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。

著書「江戸時代の古文書を読む―寛政の改革」においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」[5]と書いている。

日本中世・近世史を専門とする高木久史は自書「通貨の日本史」の中で、近年では定信と田沼政権との間には連続面があったことも重視されていると書き、その一つとして通貨政策をあげている。定信は一七八八年、江戸の物価を抑えるため[* 5]に明和二朱銀の製造を停止し元文銀を増産させた。高木は「製造は停止したが、通用は停止していない。あくまで金貨・銀貨相場を是正しようとしたものであり、田沼政権の通貨政策そのものを否定しようとしたわけではない。一七九〇年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本[* 6]の各国でも使うよう強制した。結果、金貨単位計量銀貨の使用がむしろ定信政権の時期になって広まった。新井白石が萩原重秀の通貨政策をことごとく覆したことと対照的である」[2]と書いている。

他の通貨政策としては田沼は金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止するなど、紙幣経済の発達を阻害するような政策を行ったが、松平定信は寛政2年(1790年)に伊勢神宮の御師や伊勢山田商人が発行していた山田羽書山田奉行(伊勢奉行)発行に変更し、準備金の範囲内での発効、偽札対策などを徹底させるなどといった近代的な紙幣政策をおこなっており、山田羽書は事実上の幕府発行の紙幣といえる状態にするなどと紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的な政策を行っている。山田羽書が幕府すなわち山田奉行所の管理下に置かれたことにより、商人の都合による乱発が防がれ、通貨供給量が安定することとなった。

日本近世史を研究する藤田覚は自書「勘定奉行の江戸時代」の中で、「寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支の均衡を図ることを基本とし、批判の強かった運上・冥加金の請負事業の一部を撤回したが、基本的に田沼時代を引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできない」と書き、寛政の改革・遺老の経済政策は独自の政策はないものの、運上・冥加金の一部撤回を除けば、基本的に田沼時代を引き継いでいると述べている。また通説では、田沼を積極財政、定信を緊縮財政とすることが多いが、藤田覚は田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」支出を減らす緊縮財政[6]と自書で書いており、藤田は田沼時代の財政経済政策を前代以来の財政緊縮策を継続させたとし、田沼時代を緊縮財政と説明している。

歴史の流れとして田沼時代を享保・寛政の改革とは別のものではなく、洋書輸入の解禁や株仲間の結成など享保期の政策が実を結んだ結果として田沼時代が誕生したのであって、意次の登場によって唐突に田沼時代という新しい時代が到来したのではなく、田沼時代を享保期からの延長線のものと論ずるのが現在の通説となっている。[7][8]同時に定信が寛政改革発足時に発布した天明7年の3年間の倹約令を指して田沼の積極財政から逆転する緊縮政策だと通説で語られることも多いが、実のところは、田沼自身が天明3年より、7年間の倹約令を発布しているので、少なくとも定信が行った天明7年からの3年間の倹約令は田沼の政策からの逆転どころか田沼の政策をそのまま追認したものである。このように、田沼と定信を指し、積極財政VS緊縮財政などと言われがちであるが、実際のところは定信の緊縮政策は田沼の緊縮政策を追認、深化した田沼政治からの連続性といえるものも多い。

人物・逸話[編集]

  • 白河藩主としては、江戸時代後期の名君の1人として高く評価されている。ただし老中としての評価は分かれる。
  • 著書に『花月草紙』、『宇下人言(うげのひとこと)』、『集古十種』等100以上を残す。また、頼山陽をはじめ多くの学者との交流を持った。白河藩に日本初の公園(南湖公園)を造るなどの政策も行う人物だった。
  • 詩歌もよくし、「心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞ迷ふたそがれの宿」(一説に「心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞわぶるたそがれの宿」とも)から、たそがれの少将とも呼ばれた。
  • 『宇下人言』は定信の字を分解して付けた名前として知られている(定⇒宇下、信⇒人言)。この『宇下人言』の中で定信は、自分は幼少の頃は短気だったが、師として付けられた大塚孝綽黒沢雉岡、近習だった水野為長の3人の指導によって性格が改まったとしている。孝綽は田安家は徳川将軍家の藩屏として朱子学を奉じるべきであると主張しており、定信が古文辞学古学に通じながらも寛政異学の禁を出した背景には、自己の学問と老中としての政治的立場を分けて考える定信の学問観があったと考えられる。
  • 儒教に傾倒するあまり、自粛的な一面があったといわれる。「房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と『宇下人言』に記している。一度手をつけた女性を屋敷から召し放つ前に、寝所を共にして嫁ぐための心得などを教え諭したこともある。これは定信が情欲に耐えられるかという修行の目的で行ったことで、「いささかも凡情(欲望)起こらず」と記している。
  • 寛政異学の禁で蘭学が衰退したため洋学を排斥しようとしたと思われがちだが、実際のことろ異学の禁は別に蘭学を禁止などしておらず朱子学を正道としたのみである。それどころか、彼の著書、『宇下人言』では「蘭学は有益」との記述が見られ、彼個人の趣味としては洋画を収集し、蘭学に傾倒して蘭学者雇って蘭書の翻訳事業させたり亜欧堂田善のパトロンになって洋式銅版画を刷ったりなどとむしろ蘭学党な一面を持っている。
  • 父の宗武は国学を保護したことで知られているが、定信は逆に『花月草紙』において本居宣長の「もののあはれ」を批判するなど、反対の態度を取っていた。これは、宗武に保護されていた荷田在満が門外不出とされた大嘗会の記録を刊行した『大嘗会便蒙』事件によって、田安家の責任問題に発展した経緯から師の大塚孝綽ともに国学に対する反感を抱いていたからと言われている。後年、定信も国学者を求めて人づてに宣長にも紹介を求めているが、あくまでも古典研究のための人材募集であり、宣長の推挙した人物を結果的には断っている。なお、宣長の方は寛政の改革に強く期待して著書の『玉くしげ』を定信に献上するなど、自己の考え方が政治に生かされることを願ったが、失敗に終わることとなった。
  • 寛政の改革では、卑俗な芸文を取り締まった定信であるが、私人としてはこうした芸文を楽しむ一面もあった。例えば、『大名かたぎ』(天明4年頃)や『心の草紙』(享和2年自序)など、自ら執筆した黄表紙風の未刊の戯作が存在する[9]。また、長じて執筆した膨大な随筆類には、市井の話題を熱心に取り上げるなど、公私で矛盾した一面があったものの、為政者としての立場から世情を理解しようとする側面が見える。
  • 浮世絵にも親しみ、もと浮世絵師鍬形蕙斎筆『近世職人絵尽絵詞』(3巻、東京国立博物館蔵)は定信の旧蔵品である。なお、この絵巻の詞書は、上巻は四方赤良、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝といった、寛政の改革で何らかの被害を被った面々が書いている。また、定信は自ら名付けた銘石「黒髪山」の由来を絵画化した「黒髪山縁起絵巻」も、蕙斎に描かせている(共に寛永寺蔵、非公開)など、定信は蕙斎にしばしば画を描かせている。これだけに留まらず、『甲子夜話』三編巻八には定信が収集した、明和・安永期から寛政・享和頃まで長期に渡る錦絵版画を貼り集めた太い巻物5巻を、肥州公に貸し与えた逸話が記されている。『退閑雑記』巻一には、狩野派の粉本主義の弊害や長崎派の中国かぶれを批判する中にあって、浮世絵には当世の風俗を描写し後世に伝えるという点に一定の価値を認めている[10]。更に、定信自身も絵を描き、その腕前は一定の水準に達している。画風は狩野派風、あるいは南蘋派で30~40点ほどの作品が確認されている。しかし、晩年になると、若いころ家臣などに与えていた絵画を回収して書と交換したと言われており[11]、残された作品数は書に比べると非常に少ない[12]
  • 当時、職人に作らせた白河だるま白河市の特産物で今でも毎年2月11日には「白河だるま市」という祭りで売られている。
  • 白河そばを特産物としたのも定信である。逸話も多々あり、今日でも白河市の人々の心に生きている。
  • 1800年(寛政12年)に定信は、文献から白河神社の建つ位置が白河の関であるとの考証を行った。後に近代の発掘調査による再確認によって1966年に「白河関跡」として国の史跡に指定された。
  • 大名ながら起倒流柔術鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3000人といわれる邦教の弟子のうち最も優れた3人のうちの1人が定信だったと伝わる。自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した。なお、定信が柔術を志した背景には、自身が病気がちで自己の鍛錬に努めたことにあったという。
  • 藩祖・松平定綱が家臣の山本助之進とともに編み出したと伝わる甲乙流剣術が廃れていたが、山本家に残っていた伝書をもとにこれを復元し、起倒流柔術を合わせて工夫を加え、甲乙流を剣・柔を融合させた内容に改めた(それ以前の甲乙流と区別するため、定信が改変した以降のものは「新甲乙流」と呼ぶ場合もある)。
  • 藩校・立教館で指導されていた山本流居合術に、定信が編み出した技を加え流派の改良を行った。定信が加えた技は「御工夫の剣」と呼ばれた。
  • 砲術についても、三木流荻野流中島流渡部流の4流全ての皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開いたが、その後、さらに多くの砲術流派を研究し、文化年間に御家流砲術を開いた。
    • 弓術においては、幼少より日置流を修行し、師の常見文左衛門から書を授けられるほどの腕前であったが、独自に工夫して流派を開いた。その後、さらに日置流を加え御家流弓術を開いた。
  • 尊号一件の際、将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし御側御用取次平岡頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという[13]
  • 定信は学問吟味の政策の一環と人材登用の手段として学力試験を行った。当時、学問・教養にあまり関心がなかった幕臣たちの態度に定信は落胆し、幕臣たちに学問を奨励するために試験を考えたという。受験資格は、主に幕臣や地役人などに限定し、昌平坂学問所で試験(学問吟味)を行った。近藤重蔵はこの試験で好成績を挙げたため、定信に登用され、後に寛政10年(1798年)、蝦夷地調査隊の一員に加わった。
  • 越中守だったことから「越中様」、西の丸下に屋敷があったことから、「西下(せいか)様」とも呼ばれた。
  • 老中を勤め始めて2ヵ月半ほどで2332両もの臨時の出費があった。幕府関係を担当する役人の不正があったのではないかと疑われ、調査したがそのような事実は無く、これは老中としての威儀を正しての登城・将軍の名代としての任務・登城前の屋敷への来客に対する応接費などで多額の出費が必要であったことが判明した。通常なら進物や賄賂によって補てんするが、定信は賄賂を受け取らなかったため、それらの諸経費は全て赤字となった[14]

経歴[編集]

※明治時代を除き日付は旧暦。

  • 安永4年(1775年
    • 12月1日 - 陸奥国白河藩主の世継となる。
    • 閏12月15日 - 従五位下・上総介に叙任。
  • 天明3年(1783年
    • 10月6日 - 家督相続をし、藩主となる。
    • 同月19日 - 越中守に転任。
    • 12月18日 - 従四位下に昇叙。越中守如元。
  • 天明7年(1787年
    • 6月19日 - 老中上座。勝手方取締掛となり、侍従兼任。
  • 天明8年(1788年)3月4日 - 将軍輔佐を兼ねる。月番と勝手方取締掛を停む。
  • 寛政元年(1789年)12月26日 - 勝手掛兼務。
  • 寛政5年(1793年)7月23日 - 将軍輔佐・老中等御役御免。左近衛権少将に転任。越中守如元。溜間詰
  • 文化9年(1812年)3月6日 - 隠居。楽翁を号す。
  • 文政12年(1829年)5月12日 - 死去。
  • 明治41年(1908年)9月7日-贈正三位[1]

編著作[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 老中首座に就任した同じ月に描かれた定信30歳時の自画像。画像には入っていないが、画面右上に「撥乱而反正 賞善而罰悪」(乱をおさめて正にかえし、善を賞して悪を罰す)という定信の改革に対する決意が記されている。定信の肖像にはこの他に、定信自筆の頭部のみの自画像を元に、松平定永が狩野養信に命じて全身の肖像画を描かせた「松平楽翁像[1]」(福島県立博物館蔵)もある(桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日、34,84-85頁)。
  2. ^ 久松松平家は御連枝ではなく、譜代の家柄である。ただし、後に親藩扱いとなる。
  3. ^ 尊号一件は、成長した家斉が、厳格で形式を重んじる定信を嫌い、疎んじていた時に、タイミングよく起きた事件を巧みに利用して、定信を遠ざけたのだという指摘もある。
  4. ^ 一方で国外では、オランダ正月を祝った月に、オランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言した。そして1797年、オランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続することになった。しかし、1799年にオランダ東インド会社も解散した。雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。
  5. ^ 田沼が丁銀から南鐐二朱銀への改鋳を推し進めた結果、秤量銀貨の不足による銀相場高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁に至ることとなり、江戸の物価は高騰した。凶作による商品の供給不足もあり、年号とかけて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく(明和9/迷惑)」と狂歌が歌われた。また歴史学者の西川俊作は、自書「日本経済の成長史」の中で二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことから、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら貨幣発行益を獲得することにあったと結論付けている
  6. ^ 1780年代、田沼が銭を大量発行したことで銭安になっており、西日本では計算通貨として秤量銀貨を使った方が有利だった。また、基本的に銭しか使わない庶民は銭安に苦しんだ

出典[編集]

  1. ^ a b 故上杉輝虎外四名贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A10110299500 
  2. ^ a b 高木 久史 (2016). 通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで. 中公新書. 
  3. ^ 定信伝記『守国公御伝記
  4. ^ a b c d e f g h i 高澤憲治 著、日本歴史学会 編集 『松平定信』吉川弘文館人物叢書〉、2012年。
  5. ^ 徳川黎明会徳川林政史研究所 (2006). 江戸時代の古文書を読む―寛政の改革. 東京堂出版. p. 8. 
  6. ^ 藤田覚 (2018). 勘定奉行の江戸時代. ちくま新書. 
  7. ^ 辻善之助 1980, pp. 345-357, 解説 佐々木潤之介.
  8. ^ 藤田覚 2002, pp. 17-29, 「享保の改革」.
  9. ^ 森銑三 「楽翁公の戯作」『森銑三著作集』第十一巻、中央公論社、1989年、ISBN 978-4-12-402781-5
  10. ^ 内藤正人 『大名たちが愛でた逸品・絶品 浮世絵再発見』 小学館、2005年、159-173頁、ISBN 978-4-09-387589-9
  11. ^ 渋沢栄一『楽翁公伝』 岩波書店、1937年、17頁。
  12. ^ 杉本竜 「松平定信の絵画印章について」(桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日、114-118頁。
  13. ^ 続徳川実紀』 - 文恭院殿御実紀
  14. ^ 山本博文著 『武士の評判記』 新人物ブックス、14-17頁、ISBN 978-4-404-03981-1。同『江戸の組織人』 新潮文庫、151 - 152頁、ISBN 978-4-10-116444-1
  15. ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー『集古十種』

参考文献[編集]

伝記
書籍
  • 藤野保木村礎村上直編『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』雄山閣、1988年 ISBN 4-63910-033-7
  • 岡田千昭「本居宣長の松平定信への接近-寛政の改革と関連して-」(所収:藤野保先生還暦記念会 編『近世日本の政治と外交』雄山閣、1993年 ISBN 4-63901-195-4
  • 童門冬二『田沼意次と松平定信』時事通信社、2000年 ISBN 978-4-7887-0059-8
  • 水谷三公『江戸の役人事情』ちくま新書、2000年 ISBN 978-4-4800-5851-5
  • 藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2007年 ISBN 978-4-6230-4941-7
  • 高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』 清文堂出版、2008年5月 ISBN 978-4-7924-0632-5
  • 山本博文 『江戸の組織人』 新潮文庫、2008年10月 ISBN 978-4-10-116444-1
  • 山本博文『武士の評判記 『よしの草紙』にみる江戸役員の通信簿』 新人物ブックス、2011年2月 ISBN 978-4-404-03981-1
  • 桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日
  • 高木 久史 『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』 中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102389-6
  • 藤田覚 『勘定奉行の江戸時代』 ちくま新書 2018年 ISBN 978-4-480-07113-2
  • 徳川林政史研究所 『江戸時代の古文所を読む―寛政の改革』 2006年 ISBN 4490-20590-2
史料
  • 『守国公御伝記』

関連作品[編集]

小説[編集]

漫画[編集]

映画[編集]

南湖神社前にある石像

テレビドラマ[編集]

関連項目[編集]