森銑三

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森 銑三(もり せんぞう、1895年明治28年)9月11日 - 1985年昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野での歴史学者書誌学者[1]

概要[編集]

高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。

略歴[編集]

愛知県碧海郡刈谷町に出生。生家は呉服商。沢山の小説本を買い与えられ、文学に親しむ。刈谷尋常小学校時代は利発で学業に秀でていたが、刈谷には中学校が設立されておらず、中学校進学を希望するならば近隣の岡崎で下宿する以外になく、小商人の子弟がその選択肢をとることは、様々な意味で困難であったため、高等小学校への進学を選択した。森の学力を惜しんだ小学校の教師が中学校への中途編入に奔走したが、結局かなわず、森は高等教育を受ける機会を逸した。1910年、高等小学校卒業後、叔父を頼って東京へ上り、工手学校に入学したが、すぐに体調を崩し帰郷する。

1915年、刈谷町の図書館に採用され、村上忠順旧蔵書(村上文庫)の整理や、古版本古写本などの分類目録の作成にたずさわる[2]。その後、母校の後身である亀城尋常高等小学校の代用教員となる[3]

1918年、再度上京し、雑誌社・大道社[1]の『帝国民』の編集者兼記者となるが、すぐのちに群馬県高崎市南尋常高等小学校の代用教員に転じる。同僚と童話雑誌『小さな星』を刊行するが、問題とされて小学校を解雇される。1920年、刈谷に戻り、名古屋市立名古屋図書館に勤める。このころ、知人の紹介で地元紙『新愛知』に『偉人暦』という記事を1年間連載する。

31歳となった1925年、東京・上野にあった文部省図書館講習所(現:筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)に入学する。このころ、隣接する帝国図書館の蔵書を乱読する。翌年講習所を卒業し、大道社時代に知己を得ていた歴史学者・辻善之助の紹介を受け、東京帝国大学史料編纂所の図書係となり[4]松岡於菟衛の指導を仰ぐ[5]。このころ、柴田宵曲と知り合い、終生にわたり親交を結ぶ[6]1934年、40歳を記念して『近世文藝史研究』を出版[7]。その後は雑誌『子供の科学』への執筆や、それをまとめた『おらんだ正月』の上梓を行う[8]1939年、在職13年で編纂所を退職[9]

編纂所退職後、名古屋市立図書館長・阪谷俊作と知り合い、目白尾張徳川家の邸宅にあった蓬左文庫の主任となる[10]。在任中に『渡辺崋山』『佐藤信淵 疑問の人物』を発表。従来の説を覆し、学会の物議を醸す[11]1942年、蓬左文庫を退職し、帝国図書館や、加賀豊三郎(加賀翠渓)の書庫に日参しながら執筆に専念する。1943年、50歳の時、随筆集『月夜車』を出版。太平洋戦争が激化する中、図書館での抄録を資料とし、本郷区駒込動坂町の自宅で整理する、という研究方法をとっていた森は疎開をしたくてもできないまま、1945年4月13日東京大空襲により自宅を焼かれ、膨大な研究資料を失う[12]

1948年、『近世文藝史研究』の版元である古書肆弘文荘の店主・反町茂雄と偶然再会し、反町に弘文荘の在庫整理を依頼される。反町は家を失った森を自身が所有する神奈川県藤沢市鵠沼の邸宅に転居させるなど、終生森の活動を支えた。弘文荘勤務のかたわら、執筆を再開したほか、1950年から15年間、早稲田大学講師(書誌学)として教壇に立ち、後進の育成にあたった[13]

1970年から1972年にかけて、『森銑三著作集』全13巻を刊行。1972年読売文学賞を受賞。1985年脳軟化症のため死去。愛知県刈谷市の正覚寺森家墓地に葬られる。のちに知人や教え子によって、藤沢市の万福寺に分骨され、夫妻の墓が建てられた。1992年から1995年にかけて、『森銑三著作集 続編』全17巻刊行。

研究業績[編集]

著作は『著作集』(全13巻)『著作集 続編』(全17巻)にまとめられている。森の著述は、江戸・明治期の風俗研究、人物研究を行う上での基点となっている。

森の著述は歴史小説家たちにとって、作品を書く上での必須の資料になっている。森自身は生前、このことをおおむね好意的に受け止めていたが、大げさな表現を用い、出典もろくに記さず、根本資料から調べ上げたような態度で独善的な史観を展開する、著名歴史小説家の姿勢には批判的であった。

江戸学の始祖の一人と目されている。

西鶴研究[編集]

後半生は井原西鶴の研究に注力し、『西鶴本叢考』『西鶴一家言』『西鶴三十年』『一代男新考』などを著した(大半は『著作集続編 第4巻 西鶴論集』所収)。

森はこれらの著作を通じて、用語や文体などの徹底した考証検討から、浮世草子の中で西鶴作品として扱われているもののうち、実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』ただひとつであり、それ以外は西鶴が監修をのみ行ったに過ぎない作品(西鶴関与作品)、または西鶴に擬して書かれてだけで関与もしていない作品(摸擬西鶴作品)だと主張した(井原西鶴#森銑三説参照)。この説は学会で正式に認知されていないが、近年に至り、西鶴の作品について森の主張を裏付ける研究成果が徐々に現れ始めている。

人物[編集]

赤い鳥』への寄稿で知られる童話作家の森三郎は弟である[14]

公私にかかわらず一貫して清廉な姿勢を貫き、華美を嫌った。それを永井荷風は、「森さんのような人こそ、真の学者である」と評している。

江戸風俗研究家・漫画家の杉浦日向子は森を深く敬愛していた。

著書[編集]

単行本[編集]

没後刊行
  • 史伝閑歩(中央公論社 1985年)、中公文庫 1989年
  • 木菟 随筆集(六興出版 1986年)
  • 砧 随筆集(六興出版 1986年)
  • 人物くさぐさ(小澤書店 1988年)
  • びいどろ障子(小澤書店 1988年)
  • 書物の周囲(研文社 1988年) - 『書物』の新編
  • 物いふ小箱(筑摩書房 1988年)、「新編 物いう小箱」講談社文芸文庫 2005年
  • 徳川家康(個人社・森銑三記念文庫 1991年) - 小冊子
  • 森銑三遺珠 1・2(研文社 1996年、小出昌洋編・解説)
  • 偉人暦 上・下(中公文庫 1996年、小出昌洋編・解説)
  • 偉人暦 続編 上・下(中公文庫 1997年、小出昌洋編・解説)
  • 古人往来(中公文庫 2007年、小出昌洋編・解説)
  • 風俗往来(中公文庫 2008年、小出昌洋編・解説)
  • 落葉籠 上・下(中公文庫、2009年、小出昌洋編・解説)

著作集[編集]

  • 森銑三著作集 全12巻別巻1(中央公論社、1970-72年)
    中村幸彦ほか編。第23回読売文学賞受賞(研究・翻訳部門)。初版は函入、のちカバー装の普及版と新装愛蔵版を刊行。別巻は、人名・書名の索引・著作目録ほか。
  • 森銑三著作集 続編 全16巻別巻1(中央公論社、1992-95年)
    小出昌洋・朝倉治彦ほか編。カバー装。正編以降の著書、未収録著作等の集大成。別巻は、初期文集・総索引ほか。

訳書[編集]

校訂[編集]

編著[編集]

  • 人物逸話辞典 上・下(東京堂出版
  • 明治人物逸話辞典 上・下(東京堂出版)
  • 大正人物逸話辞典(東京堂出版)
  • 随筆辞典 第5巻 解題編(東京堂出版)
  • 続 日本随筆大成 全12巻(北川博邦と共編、吉川弘文館)
  • 近世人名録集成 全5巻(勉誠出版

伝記資料[編集]

書籍[編集]

その他[編集]

  • 雑誌『ももんが』昭和61年4月號「森銑三氏追悼特輯」(乙骨書店 1986年)
  • 森銑三 生誕百年・没後十年記念展(藤沢市辻堂市民図書館 1995年)
  • ビデオ 学問と情熱8 森銑三(紀田順一郎監修・野際陽子ナレーション、紀伊國屋書店 1998年)
    のちDVDが廉価再版された。

脚注[編集]

  1. ^ a b コトバンク 森銑三 デジタル大辞泉、デジタル版 日本人名大辞典プラス、日本大百科全書(ニッポニカ)等の統合情報。
  2. ^ 村上文庫について 刈谷市中央図書館
  3. ^ 「森三郎の作品を読む会」通信 第15号 刈谷市中央図書館
  4. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)p.26
  5. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)p.31、pp.35-41
  6. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)pp.193-198
  7. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)p.121
  8. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)p.125
  9. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)pp.25-88
  10. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)pp.99-103
  11. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)pp.115-120
  12. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)pp.13-18、pp.104-106
  13. ^ 思い出すことども(中公文庫1990)pp.171-174
  14. ^ 刈谷偉人伝その4 森銑三と森三郎兄弟 刈谷市 - 郷土史教材DVDの紹介。