御免関東上酒

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御免関東上酒(ごめんかんとうじょうしゅ)とは、江戸幕府監督のもと、関東の商人や農民が造った関東産の。江戸幕府はこれを下り酒に劣らぬ品質にすることを目標とした。

背景[編集]

大消費地江戸で消費される日本酒はほとんどが下り酒で、さらに下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と呼ばれる、伊丹や灘の周辺地域で産した酒であった。

いっぽう、現在の関東地方とほぼ等しい関八州では、江戸がその中心地で、また幕府の直轄領が多いにもかかわらず、産業収益率が上方や西国に及ばず、また江戸期の日本経済はおおまかには「西高東低」だった。

関東の地酒である地廻り酒は、江戸の消費者にとり「下り酒」の反対語、「地廻り悪酒」などと悪口を叩かれ「安物の酒」とか「まずい酒」といったニュアンスがあった。江戸の庶民は高価でも下り酒を買い求め、地廻り酒は売れなかった。

江戸の商品需要をかように上方からの下りものに頼ると、輸送費がかかる分だけ江戸では消費者物価が高くなる。こういう状況が続くのは、為政者である幕閣にとっても好ましくないため、寛政2年(1790)から天保4年(1833)まで「寛政の改革」で知られる松平定信らを中心に改善がはかられた。

内容[編集]

幕府は地廻り酒を下り酒に劣らぬ品質に高めようと計画、まず下り酒を禁止するとともに武蔵、上総など関東の川沿いの豪商などに酒米を貸与、これで上質諸白の日本酒3万樽を造らせ、消費者の反応を調査するなど、いくつか政策を弄した。このように幕府の肝いりで関東の酒屋に作らせた酒を御免関東上酒という。

しかし、結果は芳しくなかった。江戸時代が終わるまで、御免関東上酒が成功したとはとてもいえない。

日本酒は最終出荷の前に加熱して酵母を殺菌する「火入れ」という作業が必要になる。加熱が弱すぎると、酵母が死滅せず、輸送・保存中に発酵が進んでしまうし、加熱が強すぎると酒としての味を著しく損ねてしまう。温度計などの無い当時は、杜氏が酒に指を入れて温度を見極めるという、経験と勘が必要な作業であった。
御免関東上酒の醸造に携わった関東の造り酒屋は、この火入れのさじ加減をとうとう最後まで体得することが出来なかった。醸造直後にはそれなりに良い味だった酒も、江戸の町に持ち込んで試飲させる頃には品質が変わってしまい、町の人の反応は「まずい」の一辺倒であったという。

下りものに劣らない品質のものを関東でも生産させたいという幕府の政策は、酒以外の商品でも盛んに試みられた。醤油木綿など、他の品目においてはあるていどの成功を収めた。特に醤油については銚子、野田、土浦などで、後年大成功を収めた。ちなみに関東の醤油は濃口で、時代が下るにつれ「下りもの醤油」はゼロとなった。一般に関西では薄口醤油を好んだ。そのため今日の関東と関西では醤油の味が違うのだともいう。

だが酒ではまったく成功しなかった。関東の酒蔵品質が飛躍を見せるのは明治時代後期においてである。

関連語句[編集]