昌平坂学問所

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昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島[1]に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。

沿革[編集]

湯島聖堂の「大成殿」(孔子廟)(2010年2月3日撮影)

廃止後[編集]

前述のように、昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖された。しかし、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(のちの高等師範学校[2])や東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校[3])の源流ともなった。さらに学制公布以前、明治政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された[4]

昌平坂学問所のあった湯島聖堂の構内において、文部省国立博物館[5]の他、先述した東京師範学校と東京女子師範学校[6]が同居していた時期もあった。

後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(しかし附属学校は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制大学移行に際して「お茶の水女子大学」を校名としたのは、源流と目される昌平黌が湯島聖堂構内に所在していたことに由来する。

このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学明治大学日本大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街や古書店街の現在の発展へとつながったが、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。

脚注[編集]

  1. ^ 「湯島」は古代の豊島郡湯島郷に由来する地名で、「本郷」という地名も湯島郷の本郷に由来するという説もある。一方、「神田」は神田明神もしくは伊勢神宮の神田に由来する地名であったことから、由来の異なる両方の地名が被る地域も存在した。そのため、湯島聖堂・昌平坂学問所とその周辺地域は「神田」とも「湯島」とも称されたが、1887年に神田区と本郷区の境界が確定した際に湯島聖堂・昌平坂学問所のあった神田区宮本町は本郷区に編入されて1704年まで使われていた湯島二丁目(現在の湯島2丁目とは地域が異なる)と改称された(参照:『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社、2002年) P509-511)。
  2. ^ その後東京高等師範学校(旧制)東京文理科大学(新制)東京教育大学を経た現在の筑波大学
  3. ^ 現在のお茶の水女子大学
  4. ^ すぐに旧岸和田藩邸(現在の東京都立日比谷高等学校の場所)にて開校したが、文部省設置と共に引き取られた。
  5. ^ 現在の東京国立博物館国立科学博物館のそれぞれの前身にあたる。
  6. ^ 及び、のちに設立されたそれらの附属学校(現在の筑波大学附属小学校筑波大学附属中学校・高等学校お茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校)の前身諸校も含む。

関連文献[編集]

  • 山本武夫 「昌平坂学問所」 『国史大辞典』第7巻 吉川弘文館、1986年
  • 山本武夫 「昌平坂学問所」 『日本史大事典』第3巻 平凡社、1993年
  • 田尻祐一郎 「昌平黌」 『日本歴史大事典』第2巻 小学館、2000年
  • 『昌平坂学問所日記』1、斯文会・橋本昭彦、斯文会・東洋書院 (発売)、1998年12月ISBN 9784885942785
  • 『昌平坂学問所日記』2、斯文会・橋本昭彦、斯文会・東洋書院 (発売)、2002年3月ISBN 9784885943188
  • 『昌平坂学問所日記』3、斯文会・橋本昭彦、斯文会・東洋書院 (発売)、2006年1月ISBN 4885943825NCID BA3981881X

関連項目[編集]

外部リンク[編集]