和学講談所

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和学講談所跡の標柱と銘板(現在は撤去済み)

和学講談所(わがくこうだんしょ)は、寛政5年(1793年)に塙保己一が創立した和学(国学)の研究・教育機関。「和学所」とも呼ばれる。跡地は、「塙検校和学講談所跡」として1955年昭和30年)3月28日に東京都旧跡に指定されているが[1]、跡地であることを明示した標柱と銘板は現在撤去されている[2]

概要[編集]

和学講談所は、塙保己一が江戸幕府から設立許可と下付金を得て創始した。当初は麹町に開設されたが、後に表六番町(現在の東京都千代田区三番町)に移った。1795年(寛政7年)には4か所の町屋敷から年々の上納金50両を下付されて雑費に充当することになり、和学御用筋は林大学頭支配に入ることが定まった。保己一は和学講談所で多くの門弟を育てるとともに、水戸藩から依頼された『大日本史』の校正をはじめ数々の史料編纂事業を行った。1819年文政2年)には着手してから41年をかけた『群書類従』(670冊)の刊行が実現した。また、和学講談所の校名は、保己一の依頼により松平定信が『論語』の「温故知新」から採り「温古堂」と名付けられた。そのほか、盲目の保己一がいる番町の和学講談所へ門弟が学びに通うさまを風刺した「番町で目明き盲に道をきき」という川柳も詠まれた[3]

和学講談所は、保己一の死後も子の忠宝、その子の忠韶に継承されたが、史料編纂事業は幕末に忠宝が尊攘派によって暗殺されたことで停止し、江戸幕府が崩壊した1868年慶応4年)には和学講談所も廃止された。その後、和学講談所が所蔵していた史料は明治政府の修史局を経て東京大学史料編纂所に引き継がれ[4]、史料編纂事業も『大日本史料』の編纂と刊行という形で継承されている。

跡地[編集]

  • 東京都千代田区三番町24
当時の様子は、温故学会会館(東京都渋谷区東2-9-1)[5]で見ることができる。

アクセス[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 塙検校和学講談所跡 - 東京都文化財情報データベース、2020年1月16日閲覧。
  2. ^ 和学講談所跡 - 埼玉県、2020年1月16日閲覧。
  3. ^ 塙保己一のことを詠んだ「番町で目明き盲に道をきき」という川柳の出典を知りたい。 - レファレンス協同データベース、2020年1月16日閲覧。
  4. ^ 関根久夫『埼玉の日本一風土記 埼玉が誇る自然・歴史・文化を訪ねる読み物ガイド』幹書房 2010年 p.180-181
  5. ^ JR渋谷駅より都営バス「日赤医療センター行」 に乗り、3つ目「國學院大學前」下車 前方200m

外部リンク[編集]