牧野貞長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

牧野 貞長(まきの さだなが、享保18年11月21日1733年12月26日) - 寛政8年9月30日1796年10月30日))は、江戸時代中期の大名。奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代老中常陸笠間藩主。成貞系牧野家6代。

人物[編集]

牧野氏5代の牧野貞通の五男として江戸邸に生まれる[1]。幼名は道五郎といい、のちに沢翁(たくおう)と称す[1]。正室は大給松平乗祐の娘。子に牧野貞喜(長男)、西尾忠善(四男)、近藤用倫(五男)、娘(稲葉弘通正室)、娘(本多忠粛正室のち秋元永朝継室)、娘(間部詮熙正室)。官位は従四位下侍従、備中守、備後守。

五男であったが、長兄の忠敬越後長岡藩主となり、次兄の貞隆が早死したので、1749年(寛延2年)に笠間藩嗣子となり家督相続した。1759年(宝暦9年)に奏者番となり、1777年(安永6年)に大阪城代、1781年(天明元年)に京都所司代と累進した[1]。1784年(天明4年) - 1790年(寛政2年)にかけての7年間、老中として江戸幕府の枢機に参画した。政治的知見は、父・貞道に譲らず卓抜で、物事の決断を明確に処理し、稀に見る為政者であると尊敬され、老中在任中は、極めて適切な政策を次々と立案・進言したので、将軍徳川家治家斉からの信頼も深かったといわれる[1]。また、慈愛心が深い人物で、閣老であったときに、多くの孝子・義僕を表彰した[1]。 1796年(寛政8年)9月、64歳で病没。江戸深川の要津寺に埋葬されたが、現在は改葬して笠間市笠間の盛岸院にある[1]

略歴[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 田中嘉彦 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社編、茨城新聞社1981年、959頁。「牧野貞長」