牧野忠恭
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![]() 牧野忠恭(京都所司代時代の撮影) | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政7年9月1日(1824年10月22日) |
死没 | 明治11年(1878年)9月1日 |
改名 | 壮之助(幼名)→忠恭→雪堂(号) |
墓所 | 東京都港区の済海寺 |
官位 | 従四位下備前守、玄蕃頭 |
幕府 | 江戸幕府奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜 |
藩 | 越後長岡藩主 |
氏族 | 大給松平家→牧野氏 |
父母 |
父:松平乗寛、母:側室 養父:牧野忠雅 |
兄弟 | 松平乗全、忠衛、忠恭、松平乗秩、水野忠義正室、松平某室、松平信恵室 |
妻 |
正室:牧野忠雅養女・籌 千代 |
子 |
忠毅、忠篤、彜子、総子、好子、美子ら 養子:忠訓 |
牧野 忠恭(まきの ただゆき)は、江戸時代後期の大名。越後国長岡藩11代藩主。長岡藩系牧野家宗家12代。
生涯[編集]
文政7年(1824年)9月1日、三河西尾藩主・松平乗寛の三男として江戸に生まれる。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。ちなみに次兄の牧野忠衛も三根山領主となっている。武鑑では嗣子時代の附役に小林親真(又兵衛、小林虎三郎の父)が一時期なっていたことが分かる。
天保11年(1840年)4月28日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下玄蕃頭に叙任する。安政5年(1858年)10月25日、養父忠雅の死去により、家督を継いで第11代藩主となる。
万延元年(1860年)6月25日奏者番、文久2年(1862年)3月24日寺社奉行加役、同年8月24日京都所司代に就任する。京都所司代就任にともない、従四位下侍従に昇進する。文久3年(1863年)6月11日、「当時の京都は騒動続きであり、長岡藩のような小藩では対応できない」として辞職した。同年9月13日老中に就任し、12月24日外国事務を取り扱うことを命じられた。このとき、家臣・河井継之助を公用人として重用し、藩政改革を行う。元治元年(1864年)7月22日勝手用掛を命じられた。慶応元年(1865年)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。京都所司代、老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。
慶応3年(1867年)7月11日、隠居し、養子忠訓に家督を譲った。隠居後、雪堂と号した。北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。明治8年(1875年)2月、四男忠毅の隠居により、家督を再び相続した。明治11年(1878年)9月1日、55歳で死去した。
人物[編集]

1982年の済海寺における牧野家墓地改葬に伴う緊急遺骨調査によると、以前に改葬されていたために調査当時、遺骨の保存状態が悪かったとしている。推定身長は尺骨から推定して149.1cmで太さも細く、牧野忠精の長男牧野忠鎮並みに華奢な体格と推定している。
系譜[編集]
父母
正室
側室
- 千代
子女
- 牧野忠毅(四男)生母は千代(側室)
- 牧野忠篤(五男)
- 牧野彜子[1](次女) ー 牧野忠訓室
- 牧野総子 ー 牧野忠泰正室
- 牧野好子[2](九女) ー 本庄寿巨継室(後に離縁)
- 牧野美子 ー 牧野貞寧正室
養子
参考文献[編集]
- 済海寺遺跡調査団(団長鈴木公雄)「港区三田済海寺 長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」(1986年・東京都港区教育委員会)