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戸田忠寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田忠寛
戸田忠寛の墓(合葬墓碑)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文4年9月15日1739年10月17日
死没 寛政13年1月30日1801年3月14日
別名 嘉十郎(通称
戒名 霊鳳院殿輝峯全徳大居士
墓所 栃木県宇都宮市花房本町の英巌寺児童公園
官位 従五位下侍従因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
肥前島原藩主、下野宇都宮藩主、河内摂津国内、下野宇都宮藩主
氏族 田原戸田家
父母 戸田忠余戸田忠盈
兄弟 秋元喬求忠盈忠寛木下俊胤
智鏡院源空浄本、青山忠高正室
本多正珍連子
忠翰田中忠舜永井尚佐正室、利尾
堀直方正室
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戸田 忠寛(とだ ただとお)は、江戸時代中期から後期にかけての大名田原戸田家9代当主。肥前国島原藩2代藩主、下野国宇都宮藩初代藩主。宇都宮藩戸田家7代。大坂城代京都所司代といった要職を歴任した。

生涯

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戸田家5代の戸田忠余の四男として生まれる。兄・忠盈の男子が夭逝していたため、宝暦4年(1754年)5月に嗣子となった。同年7月、襲封して従五位下・因幡守に叙せられた。翌宝暦6年(1756年)、はじめて城地に帰る。

明和7年(1770年)、奏者番となる。安永3年(1774年)、領地を下野宇都宮に転じられて、宇都宮城を居城とする。幕府より5000両を借りて城を造営し、同5年(1776年)、寺社奉行を兼ねて、天明2年(1782年)9月、大坂城代となる。

同年、旧領改め、河内国播磨国に所領を移封され、同4年(1784年)5月、京都所司代に補任し侍従に任官する。同年9月、所領を河内国、摂津国に移され、同7年(1787年6月7日7月21日)、京都御所にて御所千度参りが起こった。同年12月、所司代を辞して旧領宇都宮に転封となる。この年、京都伏見での市人争訟の計らいが不十分であったとされ、出仕が停められた。

間もなく免ぜられ、寛政10年(1798年)6月21日に致仕・隠居した。同13年(1801年)正月晦日に死去、享年63。

系譜

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父母

正室

子女

養女

先代
大名
河内国播磨国内)
1782年 - 1787年
次代