西ノ海嘉治郎 (3代)
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(3代)西ノ海嘉治郎の絵葉書 | ||||
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 西ノ海 嘉治郎 | |||
| 本名 | 松山 伊勢助 | |||
| 愛称 | 宿屋泣かせ・小便相撲・黒仁王・生蕃 | |||
| 生年月日 | 1890年11月2日 | |||
| 没年月日 | 1933年7月28日(42歳没) | |||
| 出身 |
鹿児島県西囎唹郡西国分村浜之市 (現・鹿児島県霧島市隼人町真孝) | |||
| 身長 | 185cm | |||
| 体重 | 124kg | |||
| BMI | 36.23 | |||
| 所属部屋 | 井筒部屋 | |||
| 得意技 | 突っ張り、喉輪押し、諸差し、左四つ、寄り、掬い投げ、出し投げ、叩き | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第30代横綱 | |||
| 生涯戦歴 | 134勝60敗2分2預116休 | |||
| 幕内戦歴 | 49勝19敗1預95休 | |||
| 優勝 | 幕内最高優勝1回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1910年1月場所 | |||
| 入幕 | 1916年1月場所 | |||
| 引退 | 1928年10月場所 | |||
| 備考 | ||||
| 金星1個(鳳谷五郎) | ||||
| 2012年7月18日現在 | ||||
西ノ海 嘉治郎(3代)(にしのうみ かじろう、1890年11月2日 - 1933年7月28日)は、鹿児島県西囎唹郡西国分村(現・鹿児島県霧島市)出身の元大相撲力士。第30代横綱。本名は松山 伊勢助(まつやま いせすけ)。
来歴[編集]
初土俵~横綱昇進まで[編集]
1890年に鹿児島県で生まれる。子供の時から剛力で鳴り響いたため、二代目西ノ海嘉治郎に見出されたことから上京、鹿児島県出身の力士が多く所属する井筒部屋に入門した。1910年1月場所で源氏山大五郎と名乗って初土俵を踏むと順調に昇進し、1916年1月場所に新入幕を果たすとこの場所は9勝1敗の好成績[1]で、1918年5月場所で関脇に昇進する。最初は出羽海部屋方に所属して優勝旗手も4回務めていたが、上に大錦卯一郎・栃木山守也という横綱が存在していたので、バランスをとるために1922年1月場所で大関昇進と同時に連合側へ回された。
その後、三河島事件の引責で大錦卯一郎が土俵を去って横綱が栃木山守也だけとなり、興行上の観点から再度、東西に横綱一人ずつを並び立てたいという事情が発生した[2]。源氏山の昇進前の成績は1922年1月場所が7勝3敗、同年5月場所は腰骨挫傷によって全休、1923年1月場所こそ千秋楽に栃木山守也と引き分けて8勝1敗1分(優勝同点)だった。さらに横綱昇進を否定される一番の原因は幕内最高優勝(優勝相当成績)が全く無いこと[3]で、それだけに横綱審議委員会が存在して昇進基準内規も定められている現在から見ればとても考えられない横綱昇進だった。吉田司家も源氏山の横綱免許申請を聞いた際には「あまりにも時期尚早」と断固拒否したが、最後は東京大相撲協会の説得に「(源氏山の)将来を期待して」と承認された。
横綱時代[編集]
横綱昇進後1場所のみ「源氏山」を名乗ったが、翌場所から3代・西ノ海嘉治郎の名を継ぐという珍しい改名をしている。関東大震災後の1924年1月場所は東京相撲が東京を離れて名古屋の仮設国技館で興行が行われたが、西ノ海は休場(ボイコットではない)[4]1925年5月場所限りで栃木山守也が引退した場所では出羽海方の総崩れが起き、9勝2敗で初優勝を果たして横綱の面目を保った。
ところが、同年開催された東西合併連盟大相撲で栃木山守也の横綱土俵入りに付き従って引き上げる途中で心臓発作を起こして倒れ、その後遺症が最後まで残ったことで活躍した場所が非常に少なく、横綱在位15場所で皆勤は上記の優勝1回を含めて僅か3場所だった。その3場所こそ9勝2敗だったが、全休6場所・途中休場6場所、昭和以降は中耳炎・神経痛・睾丸炎などの負傷も多く、1度も皆勤が無かった。この間の8場所連続休場は、その後2017年から2018年にかけて稀勢の里寛がタイ記録で並ぶまで昭和以降の最多であった。
東西合同以後は前述の通り休場を繰り返すばかりで好成績も無いが、1928年1月場所で大ノ里萬助との対戦で負傷、翌日から休場して常陸岩英太郎に不戦勝を与えたところ、常陸岩と三杉磯善七が優勝同点になり、上位の常陸岩が優勝を決めたことで騒動に発展した。
1928年10月場所限りで引退。
引退後~没後[編集]
引退後は年寄・浅香山を襲名し、井筒部屋から独立して浅香山部屋を旗揚げしたものの、引退から5年弱で死去した。42歳没 。浅香山の死後、部屋は井筒部屋と吸収合併される形で消滅し[5]、弟子たちはそのまま井筒部屋へ移籍した。年寄としての時代は短かったとは言え、無口で争いごとを好まない性格のためか出世することなく最後まで平年寄のままであり、元横綱としてはあまりにも寂しい最期だった。
妻・たかは1945年3月10日の東京大空襲で亡くなり、残された息子が後に小料理店「あさか」を経営した。子供に対しては「自分のことは自分でしろ」という方針で厳しく躾をしており、力士としては珍しいと評判になったと伝わる。
人物[編集]
- 怪力でもろ差しになると強く、出し投げ・掬い投げ・のど輪攻めを得意としたが、小心で立合いがあまり上手くないために仕切りが長いことで有名だった。仕切りの長さは、その時を見計らって多くの観客がトイレへ立つほどで、「小便相撲」と陰口を叩かれたこともある。仕切り制限時間が新設された時にはそれを大幅に超過(制限時間10分のところ、約13分半立てなかったという)して注意を受けた。
主な成績[編集]
場所別成績[編集]
| 春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1910年 (明治43年) |
(前相撲) | x | 西序ノ口31枚目 3–2 |
x | ||
| 1911年 (明治44年) |
東序二段62枚目 4–1 |
x | 西序二段21枚目 2–3 |
x | ||
| 1912年 (明治45年) |
東序二段11枚目 優勝 5–0 |
x | 東三段目21枚目 5–0 |
x | ||
| 1913年 (大正2年) |
東幕下35枚目 4–0 1分 |
x | 東幕下10枚目 0–0–5 |
x | ||
| 1914年 (大正3年) |
東幕下27枚目 優勝 5–0 |
x | 東幕下2枚目 4–1 |
x | ||
| 1915年 (大正4年) |
東十両7枚目 4–2 |
x | 東十両4枚目 優勝 6–0 1分 |
x | ||
| 1916年 (大正5年) |
東前頭13枚目 9–1 旗手 |
x | 東前頭3枚目 2–3–5 |
x | ||
| 1917年 (大正6年) |
西前頭5枚目 4–5–1 |
x | 西前頭6枚目 5–4 (1分) |
x | ||
| 1918年 (大正7年) |
東前頭3枚目 7–2–1 旗手 |
x | 東関脇 2–8 |
x | ||
| 1919年 (大正8年) |
東前頭3枚目 5–4–1 |
x | 東前頭6枚目 9–1 旗手 ★ |
x | ||
| 1920年 (大正9年) |
東小結 7–3 |
x | 西小結 5–2–3 |
x | ||
| 1921年 (大正10年) |
西関脇 7–2 1預 |
x | 東関脇 8–2 旗手 |
x | ||
| 1922年 (大正11年) |
西大関 7–3 |
x | 東大関 0–0–10 |
x | ||
| 1923年 (大正12年) |
西大関 8–1 (1引分) |
x | 東横綱 5–2–4 |
x | ||
| 1924年 (大正13年) |
東横綱 0–0–10 |
x | 西横綱 5–2–3 |
x | ||
| 1925年 (大正14年) |
西横綱 9–2 |
x | 東横綱 9–2 |
x | ||
| 1926年 (大正15年) |
東横綱 0–0–11 |
x | 西横綱 9–2 |
x | ||
| 1927年 (昭和2年) |
東横綱 3–2–6 |
東横綱 0–0–11 |
東横綱 1–2–8 |
西張出横綱 1–2–8 |
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| 1928年 (昭和3年) |
西張出横綱 7–3–1 |
東張出横綱 0–0–11 |
東張出横綱 0–0–11 |
東張出横綱 引退 0–0–11 |
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| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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- 1917年1月、1918年1月、1919年1月の1休は相手力士の休場によるもの
脚注[編集]
- ^ 二代目西ノ海(8勝1分1休)と優勝同点
- ^ 同じような事情は、1986年7月場所後に横綱昇進した双羽黒光司(北尾光司から改名)の際にもあった。同年1月に隆の里俊英の引退で千代の富士貢の一人横綱となっており、幕内最高優勝の経験がないながらも7月場所で北尾光司は優勝同点であり、また昇進させないとなると北勝海信芳の大関昇進に伴って6大関となるため、これらのバランスをとる意味で北尾光司を横綱に昇進させたという事情がある。
- ^ 幕内最高優勝が無いまま横綱昇進を果たした例は、西ノ海以降でも照國萬藏・双羽黒光司のみ。
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p40
- ^ この部屋消滅から80年余り後の2014年2月、魁皇博之が浅香山部屋を再興した。ただし浅香山の名跡は、3代西ノ海の弟子・源氏山祐蔵の廃業後、現在の伊勢ヶ濱一門に移っており、3代西ノ海と魁皇とでは部屋の系統が異なる。
- ^ 小島貞二 (1984年)『横綱草紙』
関連項目[編集]
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