蒼樹山秀樹
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基礎情報 | ||||
四股名 | 蒼樹山 | |||
本名 | 寺木秀樹 | |||
生年月日 | 1970年2月18日(48歳) | |||
身長 | 181cm | |||
体重 | 153kg | |||
BMI | 46.7 kg/m2 | |||
所属部屋 | 時津風部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、押し。 | |||
成績 | ||||
最高位 | 西前頭筆頭 | |||
生涯戦歴 | 628勝645敗74休 勝率.493 | |||
幕内戦歴 | 223勝314敗33休 勝率.415 | |||
優勝 | 十両優勝2回 (1993年1月場所、2001年9月場所) | |||
賞 | ||||
データ | ||||
初土俵 | 1985年3月場所 | |||
引退 | 2003年11月場所 | |||
引退後 | 時津風部屋の部屋付きの親方。 審判委員。 |
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趣味 | パチンコ、テレビゲーム、音楽鑑賞。 | |||
備考 | ||||
2016年2月24日 (水) 08:14 (UTC)現在 |
蒼樹山 秀樹(あおぎやま ひでき、1970年2月18日 - )は滋賀県彦根市出身の元大相撲力士。時津風部屋所属。現在は年寄・枝川。本名は寺木秀樹(てらき ひでき)。身長181cm、体重153kg。最高位は西前頭筆頭(1996年7月場所、1998年5月場所)。得意技は突っ張り、押し。趣味はパチンコ、テレビゲーム、音楽鑑賞。愛称にはテラーキ、アオちゃん、血液型はB型[1]。
人物[編集]
飲食店の次男坊に生まれ、小中時代は野球をやっていたが兄の廃業を機に意志を継ぐ形で大相撲入りを決意。1985年3月場所初土俵。前相撲は一番出世だったものの、序ノ口に付いてから10連敗した。その後は順調に番付を上げて行き1991年11月場所、寺木の本名で十両に昇進した。新十両の場所は4勝11敗と大きく負け越して翌場所に幕下に陥落。陥落した1992年1月場所に四股名を蒼樹山に改めている。5月場所で十両に復帰してからは十両に定着し、1993年3月場所に新入幕を果たした。当初は十両との往復が続いたが、1995年11月場所に4度目の入幕をしてからは幕内に定着。1997年7月場所には東前頭2枚目の地位で貴乃花との相撲を制し、新三役を期待されたが、終盤に負けが込み6勝9敗で負け越した。その後も激しい突き押しを武器に何度か三役昇進が覗える地位に番付を上げることはあったが昇進はならなかった。元々左手首骨折などに悩まされていたが、2000年1月場所に右アキレス腱を断裂し、以降思うような相撲が取れなくなり十両に陥落することが多くなった。2003年11月場所は西十両8枚目の地位で初日から9連敗、10日目を最後に現役を引退し、年寄・枝川を襲名した。現在は時津風部屋の部屋付きの親方として後進の指導にあたっている。2012年3月場所からは審判委員を務めている[1]。
エピソード[編集]
取組・番付関係
- 序ノ口ではスタートから10連敗を喫し、序二段昇進まで1年近くを要していたが、昇進前は4勝3敗と勝ち越し、番付について3場所目にはやはり4勝3敗と勝ち越しているが何故か序ノ口に留め置かれた。
- 貴ノ浪に4勝8敗と比較的強く平成10年以降に限れば4勝3敗と勝ち越した。貴乃花を2度破り金星を獲得した。
- 兄も同部屋の元力士(最高位は序二段)であり、初土俵から1年足らずで廃業している。蒼樹山を名乗るまでは兄の使っていた木の名札をそのまま使用していた[1]。
- 十両であった1994年9月場所、盲腸炎で途中休場。しかし手術後さらしを下腹部に巻いた姿で直ちに再出場し、衆目を驚かせた。
- 1998年1月場所千秋楽、西前頭5枚目でありながら『これより三役』に出場したことがある。これは、対戦相手の武蔵丸(西大関)が、本来であれば終盤に対戦するはずだった貴乃花(東横綱)の休場により上位に対戦する力士がいなくなったためである。なおこの場所の貴乃花は13日目からの休場であるが、前日の12日目は蒼樹山に押し出しで敗れ、2個目の金星を配給した。結果として、貴乃花の休場と、平幕力士としては異例の『これより三役』登場は蒼樹山自身が導いたことになる。『これより三役』は殆どの場合が関脇以上の力士で占められる為、制度上は平幕力士でも出場可能であるが、その機会は極めて稀である。
- 平成以降、負け越しを確定させた後に横綱と対戦して金星を獲得した、唯一の力士である[2]。(上述1998年1月場所12日目)
- 2001年3月場所2日目には、十両の土俵で首を痛め途中休場。このまますべて休場してしまえば幕下陥落が必至だったため、6日目から再出場し8勝4敗3休と見事勝ち越しを決めた。
その他
- 新十両で負け越し幕下に下がった翌場所から「蒼樹山」に改名しているが、「大相撲中継」の雑誌インタビューによると新十両昇進の際には、前場所、幕下の6枚目で5勝2敗の成績だったので、本人も昇進するとは思わなかったらしく改名届は出さずに本名の「寺木」のまま新十両の土俵に上がっている。共同通信社から毎年発刊されている「大相撲力士名鑑」には新十両の時の本名の寺木の四股名が書かれた化粧回し姿の写真が使われていた年がある。
- 角界きっての阪神タイガースの大ファンで知られる。偶然にも初土俵の年と引退した年に阪神が優勝している。また、初土俵直後と引退直前には共に10連敗を喫しており、後日談として「阪神が優勝する年に入門して引退し、両方とも10連敗している。阪神ファンの自分らしくて良い」とも語っている[3]。
- 2007年6月に起こった「時津風部屋力士暴行死事件」で前時津風親方が同年10月に解雇された際に、時津風部屋継承の最有力候補と報道された。しかし、実際には後輩の時津海が継承した。これについては本人が固辞したとの説やかつての師匠の内田勝男(先々代時津風親方)が認めなかった[4]との説があるが、真相は不明である。
- 『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK総合テレビ)に浅香山親方(元魁皇)が出演した際、友情出演した。
主な成績[編集]
- 生涯成績:628勝645敗74休 勝率.493
- 幕内成績:223勝314敗33休 勝率.415
- 現役在位:113場所
- 幕内在位:38場所
- 三賞:1回
- 敢闘賞:1回(1998年3月場所)
- 金星:2個(貴乃花2個。1997年7月場所・1998年1月場所)
- 各段優勝:十両優勝2回(1993年1月場所、2001年9月場所)
場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1985年 (昭和60年) |
x | (前相撲) | 東 序ノ口 #25 0–7 |
西 序ノ口 #54 3–4 |
東 序ノ口 #39 4–3 |
東 序ノ口 #11 3–4 |
1986年 (昭和61年) |
東 序ノ口 #20 4–3 |
東 序二段 #125 2–5 |
西 序二段 #145 4–3 |
東 序二段 #96 3–4 |
西 序二段 #111 5–2 |
西 序二段 #62 3–4 |
1987年 (昭和62年) |
東 序二段 #79 4–3 |
西 序二段 #51 3–4 |
東 序二段 #71 5–2 |
東 序二段 #33 5–2 |
西 序二段 #5 3–4 |
東 序二段 #18 6–1 |
1988年 (昭和63年) |
西 三段目 #66 5–2 |
西 三段目 #351 3–4 |
西 三段目 #53 4–3 |
西 三段目 #35 4–3 |
西 三段目 #19 5–2 |
東 幕下 #53 3–4 |
1989年 (平成元年) |
西 三段目 #5 3–4 |
西 三段目 #18 4–3 |
西 三段目 #3 4–3 |
東 幕下 #50 休場 0–0–7 |
西 三段目 #30 休場 0–0–7 |
東 三段目 #91 4–0–3 |
1990年 (平成2年) |
西 三段目 #64 6–1 |
東 三段目 #16 6–1 |
東 幕下 #43 6–1 |
東 幕下 #20 4–3 |
東 幕下 #15 5–2 |
東 幕下 #6 2–5 |
1991年 (平成3年) |
西 幕下 #19 1–6 |
東 幕下 #45 5–2 |
西 幕下 #28 5–2 |
西 幕下 #15 5–2 |
西 幕下 #6 5–2 |
東 十両 #13 4–11 |
1992年 (平成4年) |
西 幕下 #6 4–3 |
東 幕下 #3 5–2 |
西 十両 #12 10–5 |
東 十両 #4 8–7 |
西 十両 #2 7–8 |
東 十両 #4 休場 0–0–15 |
1993年 (平成5年) |
東 十両 #4 優勝 11–4 |
東 前頭 #13 6–9 |
東 十両 #2 9–6 |
西 前頭 #15 5–10 |
東 十両 #5 9–6 |
東 十両 #2 9–6 |
1994年 (平成6年) |
西 十両 #1 9–6 |
東 前頭 #16 4–11 |
東 十両 #7 11–4 |
東 十両 #1 7–8 |
東 十両 #4 5–4–6 |
西 十両 #9 9–6 |
1995年 (平成7年) |
東 十両 #4 8–7 |
東 十両 #3 7–8 |
西 十両 #5 8–7 |
西 十両 #3 9–6 |
東 十両 #1 8–7 |
西 前頭 #15 9–6 |
1996年 (平成8年) |
西 前頭 #11 8–7 |
西 前頭 #2 4–11 |
西 前頭 #7 8–7 |
西 前頭 #1 3–12 |
東 前頭 #6 6–9 |
東 前頭 #10 8–7 |
1997年 (平成9年) |
東 前頭 #7 6–9 |
東 前頭 #11 8–7 |
西 前頭 #6 8–7 |
東 前頭 #2 6–9 ★ |
東 前頭 #4 3–12 |
東 前頭 #10 8–7 |
1998年 (平成10年) |
西 前頭 #5 6–9 ★ |
西 前頭 #7 11–4 敢 |
西 前頭 #1 3–12 |
西 前頭 #8 8–7 |
東 前頭 #4 5–10 |
東 前頭 #7 8–7 |
1999年 (平成11年) |
西 前頭 #3 4–11 |
東 前頭 #8 8–7 |
西 前頭 #4 7–8 |
東 前頭 #5 5–10 |
西 前頭 #8 8–7 |
西 前頭 #4 6–9 |
2000年 (平成12年) |
西 前頭 #6 4–10–1[5] |
東 前頭 #13 休場 0–0–15[6] |
東 前頭 #13 7–8 |
東 前頭 #14 6–9 |
西 十両 #3 7–8 |
東 十両 #6 5–10 |
2001年 (平成13年) |
西 十両 #10 10–5 |
西 十両 #2 8–4–3 |
東 十両 #2 5–10 |
西 十両 #7 8–7 |
西 十両 #5 優勝 12–3 |
東 前頭 #13 4–11 |
2002年 (平成14年) |
東 十両 #4 6–9 |
東 十両 #7 8–7 |
東 十両 #3 10–5 |
西 前頭 #12 6–7–2[7] |
西 前頭 #14 休場 0–0–15[6] |
西 前頭 #14 6–9 |
2003年 (平成15年) |
西 十両 #2 7–8 |
西 十両 #3 10–5 |
西 前頭 #12 7–8 |
西 前頭 #14 4–11 |
東 十両 #6 6–9 |
西 十両 #8 引退 0–10–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴[編集]
- 寺木 秀樹(てらき ひでき)1985年3月場所〜1991年11月場所
- 蒼樹山 秀樹(あおぎやま-)1992年1月場所〜2000年7月場所
- 蒼樹山 秀輝(あおぎやま-)2000年9月場所〜2001年9月場所
- 蒼樹山 秀樹(あおぎやま-)2001年11月場所〜2003年11月場所
年寄変遷[編集]
- 枝川 秀樹(えだがわ ひでき)2003年11月18日-
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p27
- ^ 十両以上で1場所15日制が定着した1949年5月場所以降に範囲を広げても、琴錦(1954年1月場所10日目・対千代の山)・大天龍(1956年5月場所12日目・対吉葉山)・荒岩(1958年1月場所12日目・対鏡里)・栃王山(1969年1月場所11日目・対柏戸)・魁傑(1976年3月場所12日目・対北の湖)・栃司(1984年7月場所10日目・対隆の里)・蒼樹山と、僅か7例の珍しい記録である。
- ^ 雑誌「相撲」 2003年12月号P.80
- ^ 内田は事件を受けて部屋消滅を望み、「蒼樹山。部屋を継いでもいいことないぞ。」と忠告したともされる。同様の忠告を時津海に行ったともいう。
- ^ 右アキレス腱部分断裂により14日目から途中休場
- ^ a b 公傷
- ^ 右膝前十字靱帯及び右膝外側側副靱帯損傷により13日目から途中休場
外部リンク[編集]
- 蒼樹山 秀樹 - 日本相撲協会
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