青函連絡船

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JR logo (hokkaido).svg青函連絡船(青函航路)
羊蹄丸(2代目)
羊蹄丸(2代目)
概要
現況 廃止
起終点 起点:青森駅・青森桟橋地図
終点:函館駅・函館桟橋地図
駅数 2駅
運営
開業 1908年3月7日 (1908-03-07)
民営化 1987年4月1日
廃止 1988年3月14日 (1988-3-14)
所有者 National Railway Symbol of Japan.png 帝国鉄道庁鉄道院→鉄道省運輸通信省運輸省
Japanese National Railway logo.svg 日本国有鉄道(国鉄)→
JR logo (hokkaido).svg 北海道旅客鉄道(JR北海道)
路線諸元
路線総延長 113.0 km (70.2 mi)
航路距離(営業キロ
青函連絡船の航路図
Seikan ferry route map.svg
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旧函館桟橋の保存船「摩周丸
旧青森桟橋の保存船「八甲田丸

青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森県青森駅北海道函館駅との間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の航路鉄道連絡船)である。

航路の名称は青函航路、実距離は61海里[1][2]、旅客営業キロ程113.0km[3]、貨物営業キロ程300km[4]で、津軽海峡は陸岸から20海里以内のため就航船は沿海区域航行資格を持っていた。旅客輸送と鉄道車両航送の他に乗用車の航送も行っており、指定駅のみどりの窓口で予約が可能だった。

国鉄・JR以外の会社が青森港 - 函館港間に運航する航路は「津軽海峡フェリー」「青函フェリー」を、鉄道院による連絡船就航以前の沿革については「青函航路」を参照。

概要[編集]

青函連絡船は、旅客に加え、船内に鉄道車両をそのまま積み込んで津軽海峡を渡っていた鉄道連絡船である。

運航区間は青森函館(含む有川桟橋)の間である。また、夏期を中心に貸切の周遊船として航路外の港へも運航されていた。終戦直後のごく短期間のみ、小湊発着の航路も存在した。

桟橋[編集]

青函連絡船は貨車航送用の可動橋が設置された岸壁を使用していた。可動橋は青森側の3岸壁、函館側の4岸壁(函館桟橋と有川桟橋に各2岸壁)に設置されていた。

青森桟橋
青森駅に接続していた桟橋(青森第1〜第3岸壁)。第1〜第2岸壁は貨客共用、第3岸壁は貨物専用だった。1岸には、自動車航送用のスロープ(津軽丸型用と石狩丸型用の2基)があった。
函館桟橋
函館駅に隣接する函館港若松ふ頭にあった桟橋(函館第1・第2岸壁)。2岸壁とも貨客共用。2岸には、自動車航送用のエレベータ設備(津軽丸型用、石狩丸型用の2基)があったほか、隣接して函館船員区をはじめとした連絡船関係の機関があった。
有川桟橋(函館桟橋有川支所)
函館港有川埠頭にあった貨物専用桟橋(函館第3・第4岸壁)。五稜郭駅貨車操車場(通称有川操車場、五稜郭貨物駅)に直結していた。1944(昭和19)年1月開設、1984(昭和59)年2月1日廃止。
小湊桟橋
1943(昭和18)年、軍需工場への石炭輸送のため建設が始まったが、敗戦で中断していたものを、GHQの命令で再開し、1946(昭和21)年2月に完成した木造桟橋。平内町大字東滝字浅所にあり、現在は漁港となっている[5]
西の小湊駅と、東の貨物駅への支線も造られ、1946(昭和21)年7月2日からGHQより貸与されたLST21,22号(3,590t、20両積載)を使用し函館5岸(有川桟橋)との間で貨車航送を開始したが、8時間もかかる上に横須賀まで給油に戻らなければならないなど問題が多く、1948(昭和23)年2月で運行休止した。1948(昭和23)年10月には連絡船用岸壁も完成したが、使用されないまま1949(昭和24)年7月にさん橋の使用中止となった[6]
代行貨物輸送等
1949(昭和24)年2月〜3月、岩手県宮古〜青森間で、山田線の台風災害により孤立した機関車、貨車の仮設可動橋による搬出・航送を、十勝丸(初代)により行った。5往復で機関車8両、貨車55両(資料によっては61両)。
1966(昭和41)年8月、集中豪雨による東北線、奥羽線不通のため、車両甲板に枕木を敷きつめ、空知丸(初代)による函館〜川崎間トラック輸送、檜山丸(初代)による青函間トラック輸送が行われた。
1967(昭和42)年9月、室蘭本線豊浦 - 洞爺間が集中豪雨で不通となったため、室蘭港に未使用の橋梁を運び込んで臨時の簡易可動橋を設置し、10月13〜18日まで、青森との間で代行輸送が行われた。使用船は檜山丸(初代)・空知丸(初代)[7][8]
これらのほかに、鉄道不通区間の代行として旅客のみの航路外輸送なども行った。

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

運賃・料金[編集]

運賃・料金はすべて廃止時のものである。普通運賃はこども半額で、それ以外の料金は大人子供同額。

なお、国鉄(JR)の鉄道・バス路線と航路とを乗り継ぐ場合には、それぞれ別々に運賃・料金を計算したが、航路を間に挟んで国鉄(JR)の鉄道路線を利用する場合、前後の鉄道路線の営業キロは通算し、そこに青函航路の運賃を加算する方法がとられていた。通過連絡運輸に準じた取扱いである。例えば東京から東北本線・青函航路・函館本線経由で札幌に行く場合、運賃は東北本線と函館本線の営業キロ数を通算した運賃と、青函航路の運賃の合計となった。

乗用車の航送は、車の長さが3mまでが9,700円、4mまでが12,900円、5mまでが16,200円、5mをこえ5.3mまでが21,100円で、航送料金には運転する人1名の運賃が含まれ、往復割引も設定されていた。航送申込の際には車検証を提示する必要があった。自動車以外は、自転車は700円、オートバイ・スクーターは125cc以下のものが1,100円、125ccをこえるものは2,200円だった。なお、いずれも乗船者の運賃別である。

旅客輸送と利用状況[編集]

最盛期[編集]

青函航路は、本州・北海道間の一般的な移動手段が鉄道だった時代には、メインルートの一部を担っていた。青森発着の「はつかり」「みちのく」「白鳥」などの特別急行列車や特急「はくつる」、「ゆうづる」、急行「八甲田」、「十和田」などの夜行列車、函館発着の特急「おおぞら」、「北斗」、「北海」、「おおとり」、急行「宗谷」、「ニセコ」、「すずらん」などの優等列車や夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組んでいた。青森と函館では深夜・早朝に発着する例(下記の1・2便接続)も見られたが、札幌での時間を有効に使えることから、利用率はかなり高かった。

なお、上野駅 - 青森駅を結ぶ寝台特急「ゆうづる」は、最盛期には7往復が設定され、岩手県内や青森県内での有効時間帯を重視したダイヤ以外に、電車寝台を使用した列車を中心として青函連絡船接続(3・4便)を意図したダイヤも組まれていた。列車番号に関しても、電車寝台を使用した1往復を除き2本ずつの続行運転を行っていたため、下り列車は先発列車が5000番台、続行列車が一桁もしくは二桁の列車番号が与えられていた(上り列車は逆となる)。各列車の列車番号と、接続する青函連絡船の便名は揃えられており、下りの1便接続を例にとると、本州側がはつかりの「1M」や白鳥の「4001M」など、北海道側がおおぞらの「1D」や北海の「11D」などとなっていた(同時間帯の上りはそれぞれが「2」となる)。

青函航路と接続列車との間には最短でも20分程度の乗り換え時間が取られていたが、列車が青森駅や函館駅に到着した際、あるいは連絡船がそれぞれの桟橋に着岸した際には、目指す船や列車の席(自由席)を確保しようとする乗客でプラットホーム跨線橋がごった返す様子もみられ、荷物を抱えた乗客が競って駆け出すことから「桟橋マラソン」と呼ばれる光景を見せていた。ときには接続する連絡船が定員を超えて乗船できない「積み残し」が起こることもあった。なお、鉄道の座席指定券の発売は乗車1か月前からが原則であるが、青函連絡の乗客の座席を最優先に確保するため、本州・北海道の指定券を乗継割引で購入する場合は、指定券は1980年9月までは8日前から、同年10月以降は1か月1日前からそれぞれ発売された。国鉄・JRの規則では、航路の乗船券の名称も「乗車券」だった。

多数の乗客を安定的に輸送するため、本航路では、青森駅・函館駅での接続列車の指定券を持つ乗客を最優先に乗船させる施策をとった。航路廃止時(1988年(昭和63年)3月13日)には、函館と札幌方面を結ぶ函館本線の特急「北斗」には、青函航路連絡の乗客の乗車を確実なものとするために全車指定席の便が1往復設定されていた。次に優先されたのは優等列車の乗客で、青森、函館着の特急列車急行列車の車内では、優等列車からの乗継を区別するため、「特」の文字や赤い線が印刷された乗船名簿を配布する方法が用いられた。

末期の状況[編集]


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本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え、それぞれピークを迎えたが、航空機フェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客(旅客と荷主)の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じ、「国鉄離れ」の加速で歯止めが効かずに末期には閑散としていた。末期でも、青森ねぶた函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するゴールデンウィーク年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便(臨時客扱)の運航や、乗船名簿に便名、または出航時刻をスタンプで押印した乗船名簿を配布する措置がとられることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。

利用客数は最末期で年間に約200万人だった。しかし廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えた。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちであり、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが、「お別れ乗船」のために全国から訪れた。普段であれば冬季間は閑散としていたが、1988年(昭和63年)1月から3月の土日には、臨時客扱(臨時便)を行うほどの活況を呈した[9]


廃止とその後[編集]

1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネルの開通に伴い、同日をもって青函航路の通常運航が終了し、青森 - 函館間の連絡は青函トンネルにゆだねられた。

その後、青函トンネル開通記念博覧会に合わせて同年6月3日から9月18日まで1日2往復の暫定運航(復活運航)がなされた。これが終了した翌9月19日付で青函連絡船は正式に廃止となり、津軽海峡から完全に姿を消した。なお、この期間は通常営業時は入ることができなかった操舵室や車両甲板が公開された。また、船尾扉を航海中に開いて見せることも行ったが、監督官庁の指導により中止された。

廃止後20年以上が経過した現在でも、青森駅には連絡船の案内表示や桟橋の可動橋へ向かう線路など、青函連絡船の痕跡が数多く残っており、函館駅や有川桟橋周辺にも着岸の際に目標として用いていた標識などが今でもわずかに残っている。

貨物・荷物・郵便輸送の状況[編集]

函館駅での航走貨車入換作業の様子、1987年、十和田丸

1986年(昭和61年)には、国鉄が荷物郵便輸送から撤退したのに伴い、青函連絡船での郵便輸送が廃止され、貨物輸送も廃止前日の1988年(昭和63年)3月12日に終了した。

自動車航送(二輪車等含む)の状況[編集]

1967(昭和42)年6月1日より乗用車の航送を開始。当初は2往復のみの取り扱いだった。自動車航送は1便あたりの搭載台数こそ少なく、積載台数は当初は6台、後に12台、末期には最大13台搭載だった。また車両寸法にも規定があり、全長5300mm、車幅2100mm、車高1850mm、車両重量2.5t未満の車両しか積載できず、そのため小型トラックワンボックスカーでもトヨタ・ハイエース日産・キャラバンなど車高1850mmを超える自動車は積載できなかった。しかし、積み下ろしの待ち時間が少ないこと、発着場所がそれぞれの都市の中心駅であることなどから、ターミナルが郊外に位置する東日本フェリーとの棲み分けが成立しており、固定需要があった。

津軽丸型で行われていた自動車航送は、露天の遊歩甲板後部に乗用車を搭載していたため、荒天時には、波しぶきが航送車両にかかることもあった。1982(昭和57)年に石狩丸と檜山丸が貨客船に改造され、自動車航送も取り扱うようになると、石狩丸(3代)・檜山(2代)の両船では船体内部(船楼甲板後部)に自動車を収容して航送を行うようになった。搭載台数は20台で、末期には最大22台搭載可能だった。

自動車の航送は青森1岸、函館2岸に着岸する甲便、丙便で行われていたため、通常、客扱いをしていない便でも行われていた。そのため日本交通公社などから発売されていた日本国有鉄道監修時刻表の、国鉄の営業案内ページの連絡船に関する部分には航送船の時刻表が掲載されており、欄外には「時刻表本文に載っていない便は、乗用車・自転車オートバイスクーター航送の運転者・同乗者以外はご利用になれません」と書かれていた。

航送予約に関しても自動車の航送予約は乗船日の14日前からの受付で、一部の駅の窓口や一部の旅行センター、日本交通公社日本旅行の一部営業所しか取り扱わなかった。1982年当時、窓口で航送予約取り扱っていたのは青森・函館両駅の他に、釧路帯広旭川札幌東室蘭長万部八雲浅虫一戸盛岡弘前大館秋田の北海道・青森・岩手・秋田の4道県の16駅のみだった。駅の旅行センターでは新宿のみで取り扱っていた。乗用車は、青森1岸ではスロープによる乗降、函館2岸ではエレベーターによる乗降だった。

その他[編集]

船舶電話を介して、全国各地と通話が可能であった。船内からかける場合は、船内案内所に申し込んだ上で通話が可能だった。船内へかける場合は、北海道は函館船舶台、本州・四国・九州からは青森電話台へそれぞれ申し込んだ上で船内への通話が可能だった。

船内の廃棄物は海峡の途中で投棄していたが、下北半島国定公園等に漂着して美観を損ねたり、陸奥湾内の沿岸に漂着するなどして漁業被害も出るようになったため、1971年(昭和46年)12月1日より船内の廃棄物は函館に陸揚げし陸上で処理するようになった[10]

歴史[編集]

  • 1908年明治41年)
    • 3月7日:帝国鉄道庁(国鉄)が運航を開始[11][3]。最新鋭の蒸気タービン船「比羅夫丸」(ひらふまる)が就航し、青森 - 函館間を4時間で結んだ。鉄道直営の津軽海峡連絡船自体は日本鉄道によって計画され、連絡船自体も同社によって発注されていたが、就航は同社の国有化後になった。
    • 4月4日:「田村丸」就航[11]
  • 1910年(明治43年)12月15日:函館停車場構内の連絡船係留用木造桟橋、使用開始[11]。これに伴い、函館側における艀(はしけ)による乗客の乗降を岸壁からの直接乗降に変更。
  • 1914年大正3年)
    • 12月10日:初の鉄道車両艀「車運丸」が就航[11]。限定的に貨車航送を開始[12]
    • 12月25日:函館停車場の連絡待合所を桟橋に移転し、旅客・小荷物の取扱を開始[11]
  • 1915年(大正4年) 6月16日:函館桟橋の連絡船接岸場所付近に函館桟橋仮乗降場(はこだてさんばしかりじょうこうじょう)を設置[11][13]。連絡船との接続列車のみ入線し、運賃計算上は函館駅と同一とされた[14]
  • 1919年(大正8年)5月1日:官制改革。北海道鉄道管理局を廃止し、札幌鉄道管理局を設置[11]
  • 1920年(大正9年)5月15日:札幌鉄道管理局を廃止し、札幌鉄道局を設置[11]
  • 1924年(大正13年)
    • 5月21日:初の自航形鉄道車両渡船「翔鳳丸」が就航[11]
    • 10月1日:函館係船岸壁の一部が竣工し、使用開始。同時に木造桟橋を廃止[11]
    • 10月2日:「比羅夫丸」が着岸し、乗客岸壁からの乗下船を開始[11]
    • 10月4日:函館桟橋連絡待合所がコンクリート3階建てに改築され、函館桟橋駅(はこだてさんばしえき)として使用開始[14]。函館桟橋駅 - 函館駅間が開業し (0.29km) 、函館桟橋駅が函館本線の起点駅となる[15]
    • 10月11日:「津軽丸」(初代)が就航[11]
    • 11月11日:「松前丸」(初代)が就航[11]
    • 11月18日:地盤が悪く工事が難航していた青森岸壁の連絡待合所が竣工、使用開始[11]
    • 12月30日:「飛鸞丸」が就航[11]
  • 1925年(大正14年)8月1日:青森駅 - 函館駅間で本格貨車航送開始[11]。車両渡船に貨車を直接車載できることから、従前のはしけによる貨物輸送に比して輸送効率が著しく改善された。
  • 1926年(大正15年)12月12日:「第一青函丸」が就航[11]
  • 1927年昭和2年)6月8日:「車運丸」が終航[11]
  • 1929年(昭和4年)7月8日:「比羅夫丸」・「田村丸」が大阪商船に売却[11]
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月15日:青森桟橋が竣工[11]
    • 9月1日:「第二青函丸」が就航[11]
    • 10月1日:函館桟橋駅の発着時刻が時刻表の記載から外され、表記は函館駅発着に統一される[14]
  • 1931年(昭和6年)10月5日:青森 - 函館間直通の荷物車を航送開始[11]
  • 1934年(昭和9年)3月21日低気圧による荒天で浸水・座礁など相次ぎ被害多数。「飛鸞丸」は浸水による操舵困難に加え、アンテナ線が切れたため通信不能となって一時遭難が疑われる事態となった。なお、この日は函館大火が発生している。
  • 1939年(昭和14年)11月25日:「第三青函丸」が就航[11]
  • 1943年(昭和13年)
  • 1944年(昭和19年)
    • 1月3日:函館桟橋の有川埠頭(有川桟橋)が竣工し、貨物専用で供用開始[11]
    • 1月14日:「第五青函丸」が就航[11]
    • 2月1日:函館桟橋駅の出札および発送手小荷物を函館駅に統合[14]
    • 3月19日:「第六青函丸」が就航[11]
    • 7月20日:「第七青函丸」が就航[11]
    • 11月22日:「第八青函丸」が就航[11]
1945年7月14日、函館沖で爆撃を受ける津軽丸
  • 1945年(昭和20年)
    • 2月27日:就航予定だった「第九青函丸」が函館へ回航中、千葉県勝浦沖で座礁・沈没[11]
    • 3月6日:青森港内にて、戦時設計戦時標準船W型)の「第五青函丸」が防波堤に接触し沈没。死者・行方不明者82名[11]
    • 6月1日:「第十青函丸」が就航[11]
    • 7月14日アメリカ海軍艦載機空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となる[16][11]
    • 7月15日:「第一青函丸」がアメリカ海軍艦載機の空襲により沈没[11]
    • 8月10日:「亜庭丸」が陸奥湾でアメリカ海軍艦載機の空襲により沈没[11][17]
    • 10月9日:「第十一青函丸」が就航[11]
    • 10月伝染病の伝播防止のため乗船客に対しDDT散布を義務付け。1950年(昭和25年)4月まで実施。
  • 1946年(昭和21年)
    • 4月22日連合軍専用列車1201・1202列車を上野駅 - 札幌駅間で運転開始。青森駅 - 函館駅間は青函連絡船(当時はW型船、後H型石狩丸も加わる)に客車を積み込ませたが、これが初の客車航送となった[18][19]。この列車は後に「Yankee Limited」(北部特急)と命名されている。
    • 3月18日:航路を所管する函館船舶管理部が発足。
    • 5月15日:「第十二青函丸」が就航[17]
    • 7月1日:青森県小湊にLST用岸壁完成。翌2日より函館 - 小湊間で貨物車両航送を開始(1948年(昭和23年)2月まで運航)。
    • 7月23日:「石狩丸」(初代)が就航[17]
    • 10月14日:函館桟橋駅の戦災復旧工事を開始[14]
  • 1947年(昭和22年)
    • 11月21日:「洞爺丸」が就航[17]
    • 12月12日:吹雪・大シケで出航見合わせ中にRTOの顧問が進駐軍専用船の石狩丸に函館出航を命令。難航の末丸一日がかりで青森に到着する事態に。この事態を受けてRTOの船舶管理部への対応が見直される事になった。
  • 1948年(昭和23年)
  • 1949年(昭和24年)
  • 1950年(昭和25年)2月3日:連絡船内にて、食堂の営業を開始[17]
  • 1951年(昭和26年)
    • 5月9日:津軽海峡への浮流機雷流入に伴い、連絡船の夜間運航中止。約5年間に渡って断続的に旅客便の夜間運航の中止(乗船客は船内待機、夜明けを待って出港)、接続列車の不接続など運航ダイヤの混乱が続いた。連合軍専用列車の寝台車航送も休止[22]
    • 5月19日:「洞爺丸」型によるマイネ40形1等寝台車航送休止、以後再開されず[23]
  • 1952年(昭和27年)4月1日連合軍専用列車1201・1202列車が特殊列車に改称。日本人の乗車も許可され、同列車のマイネフ38形1等寝台車の航送再開[24]
  • 1953年(昭和28年)4月5日:函館桟橋駅の出札再開に伴い、本州方面の乗車券発券を函館駅から同所に変更[14]
  • 1954年(昭和29年)9月26日:台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の「洞爺丸」が函館郊外の七重浜に座礁し転覆・沈没。他に「第十一青函丸」・「北見丸」・「十勝丸」(初代)・「日高丸」(初代)の4隻も沈没。あわせて1,430人の犠牲者を出した[16][17]。いわゆる国鉄戦後五大事故の一つに数えられる洞爺丸事故である。これを機に客車航送は中止。この事故を契機に青函トンネル計画が具体化されることになった。
  • 1955年(昭和30年)
    • 7月5日:航路を所管する函館船舶管理部と函館地区の国鉄線を所管する青函鉄道管理局を統合し青函船舶鉄道管理局が発足。
    • 9月16日:「檜山丸」(初代)が就航[17]
    • 9月18日:「空知丸」(初代)が就航[17]
  • 1956年(昭和31年)
    • 4月1日:「日高丸」(初代)が復旧し、就航[17]
    • 6月1日:1等船室を2等A寝台船室に格下げし、3等級制(1等・2等・3等)から2等級制(2等・3等)に改正。
    • 8月31日:「十勝丸」(初代)が復旧し、就航[17]
  • 1957年(昭和32年)10月1日:「十和田丸」(初代)が就航[17]
  • 1961年(昭和36年)7月:1等指定席を新設。自在腰掛(リクライニングシート)で座席確保が確実なため好評となる。
  • 1964年(昭和39年)
  • 1965年(昭和40年)
  • 1966年(昭和41年)
    • 10月1日:「十和田丸」(初代)が終航。車両渡船に改造の上、「石狩丸」(2代)に改称[17]
    • 11月1日:「十和田丸」(2代)が就航[17]
  • 1967年(昭和42年)
    • 5月6日:「十和田丸」(初代)改め「石狩丸」(2代)が就航[17]
    • 6月1日:同日青森発の「十和田丸」(2代)より自動車航送開始[17]。当初は「津軽丸」型7隻の遊歩甲板後部に6台積みだったが、最終的には13台積みとされた。ただ、甲板上の露天積みであり荒天時には海水をかぶるため、後年国鉄では洗車のサービスを行った。
    • 9月27日:室蘭本線不通のため、青森港 - 室蘭港間にて「檜山丸」(初代)・「空知丸」(初代)を使用した貨物輸送を実施[17]
  • 1968年(昭和43年)
    • 5月16日十勝沖地震により岸壁・可動橋に被害が発生して客扱い・自動車航送が一時停止。
    • 12月1日:函館桟橋駅が廃止され、出札を函館駅に統合する[14]
  • 1969年(昭和44年)
    • 9月20日:「日高丸」(初代)が終航(翌年2月18日廃止)[17]
    • 10月1日:「渡島丸」(2代)が就航[17]
  • 1970年(昭和45年)
  • 1970年代前半には1日30往復もの運航が行われることもあったが、その後は旅客需要の航空移転や民間フェリー航路の整備に伴い、客貨ともに輸送量が急激に減少した(最盛期は1973年(昭和48年)の約498万人)。
  • 1975年(昭和50年)8月27日 - 8月31日:函館本線・室蘭本線土砂崩れで不通のため、函館港 - 室蘭港間で連絡船による列車代行を実施。「摩周丸」(2代)・「十和田丸」(2代)が就航し、上下あわせて約15,000人を輸送[17]
  • 1976年(昭和51年)
  • 1977年(昭和52年)
    • 3月7日:青函航路開設70周年を記念して、各連絡船の「シンボルマーク」を発表[17]。後に船体に掲示。ただし、貨物船の「渡島丸」型には、制定はされたが掲示されなかった。
    • 3月18日:「石狩丸」(2代)が終航[17]
    • 5月6日:「石狩丸」(3代)が就航[17]
  • 1978年(昭和53年)10月1日:「渡島丸」(2代)が休航[17]
  • 1980年(昭和55年)
    • 7月21日:「マリーンガール」登場。以降夏の観光シーズンに観光案内等乗客のサービスにあたる。
    • 10月1日:「日高丸」(2代)が休航係船[17]
    • 10月:「船長サインカード」配布開始。
  • 1982年(昭和57年)
    • 3月4日:「津軽丸」(2代)の終航に伴い、休航係船中の「日高丸」(2代)が運航再開[17]
    • 3月31日:「石狩丸」(3代)を車載客船に改造し、再就航[17]
    • 10月1日:「檜山丸」(2代)を車載客船に改造し、再就航[17]
    • 11月12日:「松前丸」(2代)が終航[17]
  • 1984年(昭和59年)
    • 1月31日:「日高丸」(2代)・「十勝丸」(2代)が終航係船[17]
    • 2月1日:有川桟橋廃止[17]
    • 3月3日:摩周丸、航海中に火災が発生し、乗組員3名が死亡する。
    • 7月7日:「石狩丸」(3代)・「檜山丸」(2代)による二輪車・自転車航送開始[17]
  • 1986年(昭和61年)10月6日:70万キロ航海達成(羊蹄丸)。
  • 1987年(昭和62年)
    • 2月1日:函館駅の桟橋乗降口を閉鎖[17]
    • 3月1日:臨時雇用員乗船開始。
    • 4月1日国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道(JR北海道)函館支店に承継[17]。同時に船籍が東京から函館に移る。
現在の青森桟橋(2014年9月)
(右は第2岸壁に係留された八甲田丸
  • 1988年(昭和63年)
    • 1月6日:「大雪丸」(2代)が終航。有川第3岸壁に係船[17]
    • 3月1日:1964年(昭和39年)以来、四半世紀ぶりに「別れのテープ」の使用を解禁。
    • 3月12日:「空知丸」(2代)が終航。有川第4岸壁に係船[17]
    • 3月13日:青函トンネルを含む海峡線津軽海峡線)の開業に伴い[17]鉄道連絡船としての使命を終え、同日限りで運航を終了。最終は函館発が「羊蹄丸」(2代)、青森発が「八甲田丸」[25]。3月13日のみ青函トンネルと青函連絡船の両方が営業を行った。「摩周丸」(2代)・「十和田丸」(2代)・「石狩丸」(3代)・「八甲田丸」・「羊蹄丸」(2代)が終航。「摩周丸」(2代)・「八甲田丸」・「羊蹄丸」(2代)はドック岸壁、「十和田丸」(2代)は函館第1岸壁、、「石狩丸」(3代)は函館第2岸壁にそれぞれ係船[17]
    • 6月3日:暫定(復活)運航を開始。使用船は「羊蹄丸」(2代)・「十和田丸」(2代)。
    • 9月18日:暫定運航を終了。
    • 9月19日:暫定運行に使用されていた「十和田丸」(2代)が函館に回航されたのを最後に、青函連絡船は津軽海峡から完全に消えた。また、青函連絡船が正式に廃止され、名実共に80年の歴史に幕を閉じる。

就航船(就航順)[編集]

1908年 - 1923年[編集]

日本初の蒸気タービン船を導入して運行を開始。

新製配属
貨客船 比羅夫丸型
  • 比羅夫丸
    1908年(明治41年)3月7日、就航[26]。1924年(大正13年)10月15日、終航[26]。同年11月14日、大阪商船に賃貸。1929年(昭和4年)7月8日、大阪商船に売却。
  • 田村丸
    1908年(明治41年)4月4日、就航。1924年(大正13年)12月11日、終航。一時復航後、1929年(昭和4年)7月8日、大阪商船に売却。
  • 車運丸
    艀型(無動力)貨車航送船。1914年(大正3年)12月、就航。1927年(昭和2年)6月8日、終航。
  • 桜島丸
    艀曳船。1920年(大正9年)8月1日、就航。1927年(昭和2年)6月8日、終航。
貨物船
  • 蛟龍丸
    1916年(大正5年)、傭船。1918年(大正7年)、解傭。
  • 白神丸
    木造貨物船。1918年(大正7年)6月18日、就航。1925年(大正14年)7月、係船。
  • 竜飛丸
    木造貨物船。1918年(大正7年)10月16日、就航。1926年(大正15年)4月、係船。
  • 第一快運丸
    経理局保有の石炭輸送船。1919年(大正8年)4月、就航。1925年(大正14年)9月、係船。
  • 第二快運丸
    経理局保有の石炭輸送船。1919年(大正8年)4月、就航。1925年(大正14年)9月、係船。
航路転属
貨客船
  • 壱岐丸三菱長崎
    関釜稚泊連絡船。1922年(大正11年)10月、青函航路に就航。1924年(大正13年)7月、稚泊航路に転属。1932年(昭和7年)、大阪商船に売却(樺太丸)。1945年(昭和20年)7月25日、青函航路復帰。1947年(昭和22年)9月、傭船終了。

1924年 - 1945年7月[編集]

日本初の車載客船「翔鳳丸」(1924年就航)

日本の連絡船として初めて車両渡船を導入し、1925年(大正14年)8月から車両航送を開始した。1942年(昭和17年)以降は戦時下の鉄道貨物輸送の増加に対応するためW型戦時標準船が急ピッチで建造されたが、1945年(昭和20年)7月の空襲で青函連絡船は全滅し、戦後に残ったのは修理復帰した第六・第七・第八青函丸の3隻のみである。

新製配属
車載客船 翔鳳丸型
  • 翔鳳丸浦賀
    1924年(大正13年)5月21日、就航[26]。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没[26]青函航路初の車両渡船
  • 津軽丸(初代)
    1924年(大正13年)10月11日、就航[27]。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没[27]
  • 松前丸(初代)
    1924年(大正13年)11月11日、就航[27]。1945年(昭和20年)7月14日、空襲炎上座礁[27]
  • 飛鸞丸
    1924年(大正13年)12月30日、就航。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没。
貨車航送船 青函丸戦前型
  • 第一青函丸
    貨車航送船の第一船。1926年(大正15年)12月12日、就航[26]。1945年(昭和20年)7月15日、空襲沈没[26]
  • 第二青函丸
    1930年(昭和5年)9月1日、就航[27]。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没[27]
  • 第三青函丸浦賀
    1939年(昭和14年)11月25日、就航。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没。
  • 第四青函丸(浦賀)
    W型戦時標準船の原型。1943年(昭和18年)3月6日、就航。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没。
貨車航送船 W型戦時標準船
  • 第五青函丸(浦賀)
    1944年(昭和19年)1月14日、就航。1945年(昭和20年)3月6日、強風により接岸に失敗して沈没。
  • 第六青函丸(浦賀)
    1944年(昭和19年)3月19日、就航[28]。1945年(昭和20年)7月14日、空襲沈没[28]。1947年(昭和22年)2月2日、浮揚復航し車載客船化。1964年(昭和39年)5月3日、終航。同年8月、三菱商事に売却[29]
  • 第七青函丸(浦賀)
    1944年(昭和19年)7月20日、就航[28]。1947年(昭和22年)9月、デッキハウスを造設し車載客船化。1964年(昭和39年)12月31日、終航[28]。1965年(昭和40年)8月、三井物産に売却[29]
  • 第八青函丸(浦賀)
    1944年(昭和19年)11月22日、就航[28]。1946年(昭和21年)4月30日、デッキハウスを造設し車載客船化。1964年(昭和39年)11月30日、終航[28]。1965年(昭和40年)1月、日綿実業に売却[29]
  • 第九青函丸(浦賀)
    1945年(昭和20年)2月15日、竣工。同年2月27日、函館へ回航中に勝浦沖で米潜水艦を警戒して座礁。一度も営業就航することなく沈没。
  • 第十青函丸(浦賀)
    1945年(昭和20年)6月1日、就航。同年7月14日、空襲沈没。
航路転属
貨物船
  • 新羅丸
    元・関釜連絡船。1942年(昭和17年)6月10日、転属就航。1945年(昭和20年)5月25日、触雷沈没。
貨客船
  • 亜庭丸
    元・稚泊連絡船。1945年(昭和20年)7月23日、転属就航。1945年(昭和20年)8月10日、空襲沈没。

1945年8月 - 1947年[編集]

戦災による輸送力不足を補うため休止状態の関釜航路・稚泊航路から連絡船を転属させると共に、貨車航送船にも客室(デッキハウス)が造設された。戦争中に着工していた戦時標準船3隻が就航。

航路転属
客船
  • 景福丸
    元・関釜連絡船。1945年(昭和20年)8月20日、転属就航[29]。1949年(昭和24年)7月30日、終航[29]。1950年(昭和25年)1月25日から1956年(昭和31年)まで、函館桟橋脇で海上ホテルとして営業(運営は鉄道弘済会)。1958年(昭和33年)10月、解体[29]
  • 昌慶丸
    元・関釜連絡船。1947年(昭和22年)9月23日、転属就航。1948年(昭和23年)10月10日、終航。洞爺丸事故後、乗組員訓練船として函館港に繋留。
貨物船
  • 壱岐丸(第2代目)
    元・関釜連絡船。1945年(昭和20年)8月24日、転属就航。1948年(昭和23年)6月5日、終航。1950年(昭和25年)3月1日、国家賠償として朝鮮郵船へ譲渡。
貨客船
  • 宗谷丸
    元・稚泊連絡船。1945年(昭和20年)11月29日、転属就航。1952年(昭和27年)9月、広島鉄道管理局へ転属。1954年(昭和29年)10月14日 - 12月24日、洞爺丸事故に伴う代替措置として青函航路に再就航。
新製配属
貨車航送船 W型戦時標準船
  • 第十一青函丸
    1945年(昭和20年)10月9日、就航。1946年(昭和21年)9月、客室を造設し車載客船化。1954年(昭和29年)9月26日、台風沈没。
  • 第十二青函丸
    1946年(昭和21年)5月15日就航[28]。建造中にデッキハウスを造設し、車載客船として竣工したが、1957年(昭和32年)6月に撤去し、貨車航送船化。1965年(昭和40年)7月2日終航[28]。同年9月10日、三井物産に売却[29]
貨車航送船 石狩丸型(H型戦時標準船)
  • 石狩丸(初代)
    1946年(昭和21年)7月23日、就航[29]。デッキハウスを設置した車載客船として竣工したが、1958年(昭和33年)7月に撤去し、貨車航送船化。1965年(昭和40年)9月30日、終航[29]。同年11月27日、三菱商事に売却[29]

1948年 - 1953年[編集]

1946年にGHQが建造を許可した客貨船4隻・貨物船4隻が急ピッチで建造された。設計期間短縮のため戦時標準船の設計を踏襲している。

貨車航送船
石狩丸型
  • 十勝丸(初代)
    1948年(昭和23年)4月7日、就航[30]。1954年(昭和29年)9月26日、台風沈没[30]。1956年(昭和31年)8月31日、浮揚復航。1970年(昭和45年)3月31日、終航[30]。同年8月28日、佐野安商事に売却[30]。青函航路に最後まで残ったタービン船だった。
  • 渡島丸(初代)
    1948年(昭和23年)7月26日、就航。1965年(昭和40年)8月31日、終航。同年11月19日、久保忠義に売却。
    1950年(昭和25年)9月、洞爺丸と同時に日本の商船初のレーダーを取り付け。
北見丸型
  • 北見丸
    1948年(昭和23年)2月27日、就航[29]。1954年(昭和29年)9月26日、台風沈没[29]
  • 日高丸(初代)
    1948年(昭和23年)10月22日、就航[31]。1954年(昭和29年)9月26日、台風沈没[31]。1956年(昭和31年)4月1日、浮揚復航。1969年(昭和44年)9月20日、終航[31]。1970年(昭和45年)2月18日、共和商会に売却[31]
車載客船 洞爺丸型
  • 洞爺丸
    1947年(昭和22年)11月21日、就航[30]。1954年(昭和29年)9月26日、台風沈没[30]
  • 羊蹄丸(初代)
    1948年(昭和23年)5月1日、就航[30]。1965年(昭和40年)6月20日、終航[30]。同年10月21日、三菱商事に売却[30]
  • 摩周丸(初代)
    1948年(昭和23年)8月27日、就航[30]。1964年(昭和39年)10月26日、終航[30]。1966年(昭和41年)1月25日、久保忠義に売却[30]
  • 大雪丸(初代)
    1948年(昭和23年)11月27日、就航[31]。1964年(昭和39年)8月31日、終航[31]。1966年(昭和41年)2月9日、三洋商事[31]を通じてギリシャに売却されカーフェリーに改造。1991年(平成3年)12月6日、アドリア海で沈没。

1954年 - 1960年[編集]

1954年の洞爺丸事故で喪失した3隻の代船が建造された。船尾扉を設けるなど事故を教訓に設計が改められている。以降の新造船は全てディーゼル船。

青函航路初のディーゼル船である初代「檜山丸」(1955年就航)
航路転属
客船
  • 徳寿丸(客船)
    元・関釜連絡船。1954年(昭和29年)10月1日、洞爺丸の代船として転属し、旅客便に限定就航。1957年(昭和)8月31日、終航。青函航路撤退後下関に係留。1961年(昭和34年)6月16日、老朽船として三井商事に売却・解体。
新製配属
貨車航送船 檜山丸型
  • 檜山丸(初代)
    1955年(昭和30年)9月就航[31]、1976年7月終航[31]。1977年7月、日商岩井に売却[31]
    1954年(昭和29年)の洞爺丸台風で喪失した船の代船として建造された第1船。青函航路初のディーゼル機関。以後建造船はすべてディーゼル機関。
  • 空知丸(初代)
    1955年(昭和30年)9月18日、就航。1976年(昭和51年)2月27日、終航。
    洞爺丸台風で失った船の代船。
車載客船
  • 十和田丸(初代)→石狩丸(2代)(新三菱重工業神戸)
    1957年(昭和32年)10月1日、十和田丸(初代)として就航[32]。洞爺丸の代船として活躍し、1966年(昭和41年)10月1日、十和田丸(初代)として終航[32]。。1967年(昭和42年)5月6日、貨車航送船に改造のうえ石狩丸(2代)として就航。1977年(昭和52年)3月18日、石狩丸(2代)として終航[32]。同年7月21日、共和商会に売却[32]

1961年以降[編集]

船の科学館で保存されていた「羊蹄丸」(1965年就航)」
車載客船 津軽丸型[注釈 1]
  • 津軽丸(2代)浦賀
    1964年5月10日就航[32]。青函航路初の自動化第1船。客船ながら、これまでの貨車航送船よりも多い48両の貨車を積載する大型船。出力が従来船の2倍以上となったほか、低速時において船首を左右に回転させるバウスラスターやスクリュープロペラのピッチ角度を可変式とした可変ピッチプロペラを採用しており、運航時間も在来船の4時間30分から3時間50分に短縮され「海の新幹線」といわれた。以後建造された客貨船はすべて津軽丸型。1982年(昭和57)3月4日、下り5便で運航終了[32]。同年12月24日、東京の大久保商店(大久保尚志)に売却[32]。1983年(昭和58年)3月25日、北朝鮮に転売。1987年(昭和62年)3月、サウジアラビアの船舶会社に売却され、メッカ巡礼船となったが、1996年(平成8年)、納付金滞納によりエジプト政府に差し押さえられた。1998年(平成10年)5月21日、係留中に火災が発生し、同年12月14日にスエズで解体された。函館桟橋跡地に津軽丸の錨があるが、売却の際に取り外された本物であるという説と、各船の予備錨のひとつであるという説がある。
  • 八甲田丸
    1964年(昭和39年)8月12日、就航[33]。1988年(昭和63年)3月13日、下り7便(青森側最終便)として運航終了[33]。現在、青森駅北側の旧桟橋に係留され、「メモリアルシップ八甲田丸」として見学可能[33]。自力航行は不可能な「係留船」である。
  • 松前丸(2代)
    1964年(昭和39年)12月1日、就航[33]。津軽丸と本船は他船と甲板補機などの機器の違いが多かったことが早期に廃船となった理由とされる。1982年(昭和57年)11月12日、下り21便で運航終了[33]。1983年(昭和58年)11月、山岸和郎に売却[33]。1984年(昭和59年)、北朝鮮に転売。数年間元山港に係留されていたが解体された。
  • 大雪丸(2代)
    1965年(昭和40年)5月16日、就航[34]。1988年(昭和63年)1月6日、検査期限により航路廃止よりやや早く終航した(下り171便函館着6時25分)[34]札幌五輪聖火輸送船。売却後長崎港でホテルシップ「VICTORIA」として使用されたが、2005年(平成17年)12月20日営業終了。2008年(平成20年)5月2日、中国の船舶会社が買収し、福建省に回航、その後の詳細は不明。
  • 摩周丸(2代)
    1965年(昭和40年)6月30日、就航[33]。1988年(昭和63年)3月13日、下り5便として運航終了[33]。現在、函館駅近くの「函館市青函連絡船記念館摩周丸」として見学可[33]。八甲田丸と同様、係留船である。
  • 羊蹄丸(2代)
    1965年(昭和40年)8月5日、就航[35]。1988年(昭和63年)3月13日、上り22便(函館側最終便)として運航終了(青森到着後、夜半に函館に回航)[35]。同年の暫定運航でも使用された。終航後は日本海事科学振興財団が取得。1992年(平成4年)5月にジェノヴァ国際博覧会 日本館パビリオンとして使用後[35]、1996年(平成8年)3月から2011年(平成23年)9月まで東京港に係留されて船の科学館別館「フローティングパビリオン羊蹄丸」として展示公開された。2012年(平成24年)3月に新居浜東港へ回航、一般公開後、解体。
  • 十和田丸(2代)
    1966年(昭和41年)11月1日、就航[34]。1988年(昭和63年)3月13日、上り20便として運航終了[34](青森到着後、夜半に函館に回航)。同年の復活運航でも使用された。
    「津軽丸」型では最も新しく、1981年(昭和56年)に、横揺れを軽減するフィンスタビライザーが装着された。羊蹄丸などとともに、周遊船として夏期などを中心に航路外運航にも活躍していた。売却後、1990年(平成2年)3月にクルーズ客船「ジャパニーズドリーム」となり[34]、同年6月には函館及び青森に寄港し、里帰りを果たした。その後、1995年(平成7年)からはフィリピンマクタン島にホテルシップとして係船されていたが[34]、2008年(平成20年)にバングラデシュで解体された。
唯一最後まで残った貨車航送船 2代目「空知丸」(1976年就航)
貨車航送船 渡島丸型[注釈 2]
  • 渡島丸(2代)(貨車55両)
    1969年(昭和44年)10月1日、就航[35]、1978年(昭和53年)9月30日、終航[34]。1984年(昭和59年)8月、住友商事に売却後[34]函館どっくで解体。在籍したうちの6年半は使用されずに係船されていた。なお、解体直前に摩周丸火災事故の現場検証で船橋部分の燃焼実験が行われた。
  • 日高丸(2代)(貨車55両)
    1970年(昭和45年)4月5日、就航[36]。1984年(昭和59年)1月31日、終航[36]。1987年(昭和63年)に売却され、後に韓国で解体。1980年(昭和55年)10月から1982年(昭和57年)3月まで係船。
  • 十勝丸(2代)(貨車55両)
    1970年(昭和45年)6月30日、就航。1984年1月終航。1987年売却、台湾にて解体。
  • 空知丸(2代)(貨車55両)
    1976年(昭和51年)4月5日、就航[36]。空知丸以降に建造された3隻は、渡島丸とは各部の仕様が異なる。1988年(昭和63年)3月12日、終航[36]
    売却後1991年(平成3年)に石狩丸(3代)と同じギリシャの海運会社「ポセイドンライン」に転売された。そこで客室新設改造をされ、地中海航路で活躍したが、その後航路休止にともない2004年(平成16年)以降係船され、韓国の会社へ転売、さらに2006年(平成18年)に係船のまま転売されパナマ船籍となる。2011年(平成23年)、トルコの会社に売却された。2012年(平成24年)1月初旬にイスタンブール近郊のドックに移動。その後、同年7月に解体された。
  • 檜山丸(2代)(貨車55両)
    1976年(昭和51年)8月5日、就航[37]。1982年(昭和57年)に「津軽丸」型のうち、老朽化が進み、かつ他船との仕様の差異が大きかった「津軽丸」と「松前丸」2隻が廃船となり、その代替として石狩丸とともに車載客船に改造され、同年10月1日に再度就航[37]。1988年3月13日。終航[37]。売却後改造工事を経て1989年から「少年の船協会21世紀号」となり、青少年研修船として短期間使用されたが、その後シンガポールを経てインドネシアへ転売された。フェリーとして運航されていたが、2009年(平成21年)5月31日、出火炎上し沈没した。
  • 石狩丸(3代)(貨車55両)
    1977年(昭和52年)5月6日、就航[37]。1981年(昭和56年)12月31日、終航。1982年(昭和57年)に「檜山丸」とともに車載客船に改造され、同年3月31日から就航。「石狩丸」「檜山丸」はグリーン船室・寝台・食堂がなく、運用が甲便に限定されていた。1988年(昭和63年)3月13日、終航[37]。同年11月、酒本商事に売却後[37]香港キプロスを経てギリシャへ転売され、空知丸と同じ地中海航路で活躍した。その後も2005年まで現役で活躍したが、2006年にインドで解体された。

補助汽船[編集]

青函航路廃止時の補助汽船

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 津軽丸(2代)引退後は「八甲田丸型」と呼称された。
  2. ^ 檜山丸(2代)・石狩丸(3代)が客貨船に改造された後は、「石狩丸型」と呼称された。

出典[編集]

  1. ^ 青函連絡船史p207~211 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  2. ^ 基準航路長は青森→函館61.46海里、青森→有川59.72海里、函館→青森60.83海里、有川→青森59.72海里:古川達郎 続連絡船ドックp87 船舶技術協会1971
  3. ^ a b 日本鉄道旅行地図帳 1号 北海道』 今尾恵介新潮社2008年、25頁。ISBN 978-4-10-790019-7
  4. ^ 北海道鉄道百年史下巻p198 日本国有鉄道北海道総局1981
  5. ^ 1948/05/22撮影の航空写真 - 地図・空中写真閲覧サービス(国土地理院
  6. ^ 青函船舶鉄道管理局 『青函連絡船史』、1970年ASIN B000J9SAI6
  7. ^ 『青函連絡船史』
  8. ^ 青函船舶鉄道管理局 『航跡 青函連絡船七〇年のあゆみ』、1978年ASIN B000J8NUFA
  9. ^ 1988年(昭和63年)3月6日放送 NHK総合「さよなら青函連絡船」
  10. ^ 1971年11月11日第067回国会 公害対策特別委員会 第2号
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 202頁
  12. ^ 「青函間水陸連絡」1914年6月21日付神戸又日報(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  13. ^ 日本鉄道旅行地図帳 1号 北海道』 今尾恵介新潮社2008年、26頁。ISBN 978-4-10-790019-7
  14. ^ a b c d e f g 道南鉄道100年史「遥」 北海道旅客鉄道函館支社 2003年2月発行。
  15. ^ 1928年 札幌鉄道局発行 線路一覧略図による。
  16. ^ a b 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 196-197頁
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 203頁
  18. ^ KE生 駐留軍専用列車 鉄道ピクトリアル15巻8号p61 1965
  19. ^ 三宅俊彦 特殊仕様車両 寝台車p74~80 講談社2012
  20. ^ 当初は特別寝台車、1949.5.1.から1等寝台車と呼称:三宅俊彦 特殊仕様車両 寝台車p80、81 講談社2012
  21. ^ 上野発12月15日:古川達郎 鉄道連絡船細見p146、147 JTBパブリッシング2008
  22. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p146 JTBパブリッシング2008
  23. ^ 三宅俊彦 戦後1等寝台車(イネ・ロネ)運転概史 鉄道ピクトリアル37巻8号p52 1987
  24. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p147 JTBパブリッシング2008
  25. ^ 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 198-201頁
  26. ^ a b c d e f 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 184頁
  27. ^ a b c d e f 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 185頁
  28. ^ a b c d e f g h 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 186頁
  29. ^ a b c d e f g h i j k l 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 187頁
  30. ^ a b c d e f g h i j k l 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 188頁
  31. ^ a b c d e f g h i j 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 189頁
  32. ^ a b c d e f g 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 190頁
  33. ^ a b c d e f g h i 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 191頁
  34. ^ a b c d e f g h 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 192頁
  35. ^ a b c d 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 193頁
  36. ^ a b c d 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 194頁
  37. ^ a b c d e f 『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 195頁

関連項目[編集]

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 田中和夫(監修) 『写真で見る北海道の鉄道』下巻 SL・青函連絡船他、北海道新聞社(編集)、2002年12月5日、156-203頁。ISBN 4-89453-237-9ISBN 978-4-89453-237-3

外部リンク[編集]