緑嶌友之助

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基礎情報
四股名 緑嶌 友之助
本名 高木 友之助
愛称 幕下の三緑・代言人・おっさん
生年月日 (1878-01-12) 1878年1月12日
没年月日 (1952-12-16) 1952年12月16日(74歳没)
出身 石川県上新川郡(現:富山県滑川市
身長 166cm
体重 90kg
BMI 32.66
所属部屋 草風部屋(京都)→春日山部屋
得意技 左四つ、押し、捻り、寄り、吊り
成績
現在の番付 引退
最高位 小結
幕内戦歴 78勝120敗19分7預46休
データ
初土俵 1898年1月場所(幕下付出
入幕 1902年5月場所
引退 1915年6月場所
備考
金星1個(常陸山谷右衛門
2013年7月21日現在

緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の元大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。

来歴[編集]

1878年1月12日石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰郷し、隣村にあった春日山部屋(師匠は元幕下二段目・朝日森の)へ、序二段・春柳(後の三段目・小猫又)の世話で入門した[1]

東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。僅か24貫の軽量力士だが、怪力で土俵際での吊り・寄りを得意としていた。1908年5月場所で小結に昇進すると駒ヶ嶽國力に滅法強く、3連勝し時期もあった[1]双葉山定次曰く「駒ヶ嶽はワシ(緑嶌)がいたから横綱になれなかったのだ」と発言していたという。駒ヶ嶽國力以外にも1914年1月場所では常陸山谷右衛門から金星を奪うなど、持ち前の怪力を生かして上位を苦しめた。土俵の外においても、1911年新橋倶楽部事件では外交交渉委員として活躍した。

1915年6月場所を2勝8敗と大きく負け越し、十両降格が決定的になったのを機に現役を引退し、年寄・立浪を襲名して独立、立浪部屋を創立した。当時の相撲界において最大勢力だった出羽海部屋一門に対抗して「打倒出羽」の執念を燃やした。創設当初の立浪部屋は両国駅の高架下に建てられ稽古場すら持たず、部屋の関取第1号となる桐ノ花の証言によると、当時の力士たちは毎日すいとんメザシ焼き芋で腹を満たしたという。それでも1930年頃になると自前の稽古場を獲得し、その後は双葉山定次・羽黒山政司の戦前を代表する二人の横綱や、大関の名寄岩静男、関脇旭川幸之丞など数多くの名力士を育て、一代で部屋を角界屈指の名門に引き上げた。晩年の弟子には後に「立浪四天王」と呼ばれる若羽黒朋明時津山仁一安念山治北の洋昇がいる。弟子に対する指導は厳しく、稽古をサボる力士はステッキで容赦なく殴った[1]

1932年に勃発した春秋園事件以降は、日本相撲協会の取締を務めた。一方で黎明期の苦難からどうしても吝嗇の傾向に陥りがちであったといい、弟子の双葉山と不仲になった原因は双葉山が娘との縁談を断った他に、日頃から一門内巡業の収益配分で自身と対立していたことにもあるとされている。

1952年12月16日に死去、74歳没。なお、立浪の死去から丁度16年が経過した1968年12月16日には、弟子である双葉山定次(時津風理事長)も没している。

中国哲学者で、後に中央大学総長を務める髙木友之助は長男にあたる。

主な成績[編集]

  • 通算幕内成績:78勝120敗19分7預46休 勝率.394
  • 幕内在位:27場所
  • 三役在位:1場所(小結1場所)
  • 金星:1個(常陸山谷右衛門

脚注[編集]

  1. ^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p8-12

関連項目[編集]