出羽の花義貴

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基礎情報
四股名 出羽の花 義貴
本名 野村 双一
愛称 鉄の爪[1]、人間ジューサー
生年月日 (1951-05-13) 1951年5月13日(67歳)
出身 青森県北津軽郡中泊町(旧、同郡中里町
身長 185cm
体重 125kg
BMI 36.52
所属部屋 出羽海部屋
得意技 右四つ、寄り、出し投げ、小股掬い
成績
現在の番付 引退
最高位関脇
生涯戦歴 572勝586敗6休(84場所)
幕内戦歴 441勝483敗6休(62場所)
優勝 十両優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞5回
技能賞4回
データ
初土俵 1974年3月場所(幕下付出)
入幕 1977年11月場所
引退 1988年1月場所
引退後 年寄出来山
日本相撲協会理事(1期)
2014年4月 - 2016年3月
備考
金星2個(若乃花1個、隆の里1個)
2013年8月29日現在

出羽の花 義貴(でわのはな よしたか、1951年5月13日 - )は、青森県北津軽郡中泊町(旧・同郡中里町)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士である。本名は野村 双一(のむら そういち)。

現在は年寄出来山を名乗り、出羽海部屋付きの親方として後進を指導する傍ら、日本相撲協会では理事を1期務めた。

現役時代の最高位は、東関脇。現役当時の体格は185cm、125kg。得意手は右四つ、寄り、出し投げ、小股掬い

来歴・人物[編集]

青森県立五所川原農林高等学校を卒業後、日本大学に進学し、同大学の相撲部では学生横綱の栄位を獲得するなど活躍した。

大学卒業直前に、元力士であった従兄(小山内清三、元前頭13・出羽ノ花好秀)の紹介で、出羽海部屋への入門を決意。

1974年3月、鳴り物入りで幕下付出力士として、角界入りを果たした。初土俵の同期には拓殖大学相撲部出身の舛田山(自身と同じ、幕下付出での初土俵)、多賀竜闘竜大乃花などがいる。

しかし、初土俵の場所で3勝4敗の負け越しを喫するなど、決して出世は順調とはいえなかった。幕下付出からおよそ3年8ヵ月後の1977年11月場所にて、念願の新入幕を果たす。

真面目な性格と軽量が災いし、角界の水に慣れるまでに時間が掛かったが、じっくりと地力を付け、1981年11月場所にて東前頭6枚目で10勝5敗の成績を上げてから大きく躍進。

1982年1月場所では小結に昇進し2場所連続で10勝5敗の成績を上げ、以降三役に定着し、念願の新関脇となった3月場所では2横綱2大関を破り9勝6敗の成績を上げ殊勲賞、技能賞をダブル受賞した。翌5月場所では2場所続けて2横綱2大関を破り11勝4敗の好成績で技能賞を獲得。別人の様な活躍を見せ三賞三役の常連となり、当時30歳にして大関昇進目前まで迫った[2]。しかし、初の大関獲りだった次の7月場所は8勝7敗に終わり、翌9月場所は6勝9敗と負け越して関脇から平幕に陥落、結局念願の大関昇進は果たせなかった。

それでも長く幕内上位から三役で活躍を見せ、“鉄の爪”と呼ばれた怪力を利し、前褌を引いての寄り[2]、出し投げなどを得意とする技巧派として巨砲と並んで“実力者”と呼ばれ上位を苦しめ、登り調子の新進気鋭の力士にとって「関所の番人」のように立ちはだかった。

特に若嶋津隆の里とは互角に戦い、若嶋津には戦績で勝ち越すなど二子山部屋勢には強かった(対若嶋津:15勝14敗、対隆の里:12勝16敗)。また得意技である小股掬いの妙技は絶妙で、本人曰く大関・貴ノ花を倒した一番が印象に残っているという(対貴ノ花:5勝4敗)。その後も晩年まで力は衰えず、しばしば好成績を残し三賞を獲得する活躍を見せた。新国技館のこけら落としとなった1985年1月場所では、初日から9連勝し、11勝4敗の好成績を挙げ敢闘賞を受賞した。

その後も平幕上位と小結を頻繁に往復するベテラン実力者として活躍し、引退4場所前の1987年7月場所には11勝4敗で、当時新鋭だった同成績の前乃臻を抑え36歳2ヵ月で10回目の三賞(敢闘賞)を受賞。翌9月場所には36歳4ヵ月での三役復帰(小結)を果たしたが、同場所は3勝12敗と大敗を喫した。現役最後の1988年1月場所は前頭7枚目で4勝11敗と大きく負け越し、十両陥落が決定的となったことを機に同場所の千秋楽終了後引退を表明した。

現役引退後は年寄出来山を襲名し、出羽海部屋で後進の指導に専念。相撲協会の職務では勝負審判監察委員などを歴任してから、2014年に理事に就任し、当選1期目ながら広報部長の要職に就いて執行部入りした[3]

2013年7月場所千秋楽では、一般客として愛知県体育館を訪れた元小結・露鵬に対し、関係者以外立入禁止とされている支度部屋への入室を許可してしまった[4]。日本相撲協会から直接の処分はなかったものの、北の湖理事長監察委員会全体に再発防止の注意喚起を行う事態となった[5]
2014年7月30日、豪栄道の大関昇進の伝達式では、協会理事として使者を務めた(同じ一門の審判委員である大鳴戸が同行)[6]

2016年の役員改選では理事候補選挙に立候補せず、任期満了で理事を退任。2016年夏場所中に停年となる65歳を迎え、停年後は参与として日本相撲協会と再雇用契約を締結した。停年会見では「稽古、稽古で頑張った。その稽古場も、横綱になった三重ノ海さん、鷲羽山さん、大錦さん、佐田の海らがいて、いい稽古ができる環境だった。」と話し、理事初選出ながら広報部長として執行部入りした14年からの2年間を「一般社会とのつなぎ役として、経験できないことを経験できたこと。」として印象深いことに挙げた。再雇用された後の後進の指導については「しこ、すり足と基本をしっかり教えたい。精神面は素直な心、負けん気の強い子。欲を言えば言い訳をしない若い子を育てたい」とコメントし、学生相撲出身力士には「上には上がある。もっと欲を出してほしい。」と注文した[7]

主な戦績[編集]

  • 通算成績:572勝586敗6休 勝率.494
  • 幕内成績:441勝483敗6休 勝率.477
  • 現役在位:84場所
  • 幕内在位:62場所
  • 三役在位:19場所(関脇7場所、小結12場所)
  • 小結出場:180回(歴代6位)
  • 三賞:10回
    • 殊勲賞:1回 (1982年3月場所)
    • 敢闘賞:5回 (1978年7月場所、1979年7月場所、1984年1月場所、1985年1月場所、1987年7月場所)
    • 技能賞:4回 (1982年3月場所、1982年5月場所、1983年3月場所、1983年5月場所)
  • 金星:2個(若乃花1個、隆の里1個)
  • 各段優勝:十両優勝1回(1977年5月場所)

場所別成績[編集]

出羽の花義貴
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1974年
(昭和49年)
x 東幕下付出60枚目
3–4 
東三段目11枚目
5–2 
西幕下49枚目
6–1 
東幕下18枚目
6–1 
東幕下5枚目
4–3 
1975年
(昭和50年)
東幕下4枚目
4–3 
東幕下3枚目
5–2 
東十両13枚目
8–7 
西十両11枚目
9–6 
東十両8枚目
6–9 
西十両11枚目
8–7 
1976年
(昭和51年)
西十両7枚目
6–9 
東十両11枚目
9–6 
西十両6枚目
3–12 
西幕下筆頭
4–3 
東幕下筆頭
3–4 
東幕下5枚目
4–3 
1977年
(昭和52年)
東幕下4枚目
4–3 
西幕下2枚目
5–2 
東十両13枚目
優勝
11–4
東十両3枚目
8–7 
東十両筆頭
10–5 
西前頭10枚目
7–8 
1978年
(昭和53年)
東前頭11枚目
8–7 
西前頭7枚目
5–10 
東前頭13枚目
8–7 
西前頭9枚目
10–5
東前頭2枚目
6–9 
西前頭5枚目
7–8 
1979年
(昭和54年)
西前頭6枚目
6–9 
東前頭8枚目
5–10 
西前頭12枚目
8–7 
西前頭11枚目
10–5
東前頭2枚目
8–7
西小結
3–12 
1980年
(昭和55年)
東前頭6枚目
9–6 
西小結
4–11 
西前頭5枚目
7–8 
東前頭6枚目
7–8 
東前頭7枚目
8–7 
東前頭2枚目
5–10 
1981年
(昭和56年)
西前頭8枚目
7–8 
西前頭8枚目
8–7 
東前頭5枚目
7–8 
西前頭6枚目
9–3–3[8] 
東前頭2枚目
6–9 
東前頭6枚目
10–5 
1982年
(昭和57年)
西小結
10–5 
東関脇
9–6
東関脇
11–4
東関脇
8–7 
西関脇
6–9 
西前頭筆頭
9–6 
1983年
(昭和58年)
東小結
7–8 
東前頭筆頭
11–4
西関脇
8–7
東関脇
7–8 
西関脇
3–12 
西前頭5枚目
7–8 
1984年
(昭和59年)
西前頭6枚目
10–5
東小結
7–8 
西小結
5–10 
東前頭6枚目
7–5–3[9] 
東前頭7枚目
9–6 
西前頭筆頭
4–11 
1985年
(昭和60年)
西前頭9枚目
11–4
西小結
3–12 
西前頭7枚目
9–6 
西前頭筆頭
5–10 
西前頭4枚目
7–8
東前頭6枚目
9–6 
1986年
(昭和61年)
東小結
6–9 
西前頭筆頭
9–6 
東小結
3–12 
西前頭5枚目
9–6 
東小結
3–12 
西前頭5枚目
10–5 
1987年
(昭和62年)
東小結
5–10 
東前頭4枚目
6–9 
東前頭7枚目
6–9 
東前頭10枚目
11–4
西小結
3–12 
西前頭5枚目
6–9 
1988年
(昭和63年)
西前頭7枚目
引退
4–11–0
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

エピソード[編集]

  • 角界随一の「酒豪」としても知られた。
  • 中尾彬池波志乃夫妻とは親交がある。
  • 全盛時は握力が100キロ近くあったと言われ、リンゴを握りつぶして人間ジューサーの異名を取った[2]。しかしながら、同タイプの千代の富士にはスピード負けし、2勝33敗と全く歯が立たず、大の苦手であった。
  • 非常に誠実な人柄で、若い力士から人望があった。また、日大の後輩に当たる小林(後の両国)の入門のきっかけは、出羽の花からの電話によってであり「うちの親方は大きな人だから」という一言が決め手となったと言う。それにより小林は出羽海親方に会う前に入門を決めていたらしい。
  • 出羽海部屋の公式サイトプロフィール上では、好きな芸能人として松浦亜弥を挙げている。
  • 前述のように、当時幕内にいた二子山部屋の力士との対戦では、ほぼ互角の対戦成績を残した。しかしながら唯一、太寿山にだけは対戦成績で大きく負け越した。対太寿山戦の最終的な成績は、5勝11敗であった。
  • 2012年3月場所8日目の大相撲中継のゲストとして出演した元サッカー日本代表宮本恒靖は、幼少時代から祖父の影響で相撲を見ており、出羽の花のファンであったと発言した。それを伝えられた出来山親方は「なんで私なんですか!?」と驚いたという。
  • 長男はアスレティックトレーナーをしており、2013年6月発売の『トレーニングマガジン』(ベースボール・マガジン社)vol.27にて表紙を飾った。角界入りしないことを条件に日本体育大学時代まで相撲を取っていたという。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
  2. ^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p26
  3. ^ 貴乃花親方が要職就任 初の執行部入り 日刊スポーツ 2014年4月3日
  4. ^ 元露鵬 大砂嵐激励で支度部屋に“乱入”し注意(スポニチアネックス 2013年7月22日)”. 2018年5月14日閲覧。
  5. ^ 【名古屋場所】元露鵬が支度部屋侵入 出来山親方の注意聞かず スポーツ報知 2013年7月22日閲覧
  6. ^ 大関豪栄道「これからも大和魂を貫く」 日刊スポーツ 2014年7月30日
  7. ^ 定年の出来山親方「ここまでよく来れた。満足」 日刊スポーツ2016年5月19日
  8. ^ 胸骨不全骨折により12日目から途中休場
  9. ^ 右足首関節捻挫により9日目から途中休場、13日目から再出場