斉須稔

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基礎情報
四股名 斉須 稔 → 清勢龍 強 → 斉須 稔 → 鴻國 稔 → 斉須 稔 → 寶國 稔 → 斎須 稔
本名 斎須 稔
生年月日 (1956-08-16) 1956年8月16日(63歳)
出身 福島県西白河郡東村
身長 188cm
体重 134kg
BMI 37.91
所属部屋 伊勢ヶ濱部屋
得意技 左四つ、突っ張り、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位前頭2枚目
生涯戦歴 464勝455敗(91場所)
幕内戦歴 76勝104敗(12場所)
優勝 十両優勝1回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
データ
初土俵 1971年7月場所
入幕 1982年3月場所
引退 1986年9月場所
引退後 世話人
備考
2019年8月4日現在

斉須 稔(さいす みのる、1956年8月16日 - )は、福島県西白河郡東村(現:白河市)出身の元大相撲力士伊勢ヶ濱部屋に所属していた。本名は斎須 稔(さいす-)。現役時代の体格は188cm、134kg。得意手は左四つ、突っ張り、寄り。最高位は東前頭2枚目(1983年11月場所)。現在は世話人・斎須。

来歴[編集]

中学3年生の時上京して伊勢ヶ濱部屋に入門し、1971年7月場所で初土俵を踏んだ。以来時間は掛かったものの、着実に番付を上げて行き、1978年9月場所では東幕下3枚目の地位で幕下優勝を果たした。翌11月場所、十両に昇進。その場所は9勝6敗と勝ち越し、いきなり十両の上位まで番付を上げ、入幕を期待された。ところが6勝9敗と負け越し、それ以降は十両下位と幕下を往復する生活が続き低迷した。さらに番付運も悪く1980年5月場所では東十両11枚目で7勝8敗・1点負け越しという成績ながら、下に2枚番付が有るにもかかわらず、翌7月場所では幕下に落とされている。しかし、その場所を4勝3敗と勝ち越し1場所で十両に復帰してからは十両上位でも成績が残せるようになり、1982年3月場所で新入幕を果たした。一時は幕内に定着し、1983年11月場所では最高位の東前頭2枚目に番付を上げた。だが、四つ相撲とも突き相撲ともいえない中途半端な相撲が多かったためこの場所は5勝10敗と大きく負け越し、三役昇進はならなかった。そして、1984年3月場所を最後に十両に陥落。以後も幕内復帰を目指して相撲を取り続けたが、1985年9月場所では幕下にまで陥落した。同場所は勝ち越し、1場所で十両に復帰したものの全盛期のような相撲は全く取れず、1986年1月場所で再度幕下に落ちた。以降は関取復帰成らず、同年9月場所を最後に30歳で引退。序ノ口に付いてから引退するまでの約15年間、一度も休まず、「919回連続出場」という記録を残している。当時、年寄名跡の空きがなかったため、引退後は世話人に転身した。幕内経験者が世話人に転身したのは、王湖琴千歳に続いて3人目である(琴千歳は、後に若者頭に転属)。世話人就任後は、引退時の四股名である「寶國」(たからくに)を名乗っていたが、1991年11月場所より本名の「斎須」に改めている。

伊勢ヶ濱部屋(旧 伊勢ヶ濱部屋・8代伊勢ヶ濱)に所属していたが、部屋の師匠が後継者擁立を断念したため2007年1月場所後に部屋が消滅。このことに伴い分家独立した桐山部屋に移籍したが、力士数の減少により2011年1月場所を最後に閉鎖となり、朝日山部屋に移籍した。しかし朝日山部屋も師匠(18代朝日山)が後継擁立を断念、2015年2月1日付で伊勢ヶ濱部屋(現 伊勢ヶ濱部屋・4代安治川が9代伊勢ヶ濱を襲名したことに伴う部屋の改称)に移籍し、現在に至っている。

なお「斉」と「斎」は全く異なる漢字で、斎を簡略化したものが斉ではなく、斉の旧字が斎でもない[1]。したがって、斉須稔の四股名は所謂本名四股名ではない。

遠縁に玉光国玉乃島の父・タートル岡部がいる。

ハプニング[編集]

2008年9月29日、大相撲9月場所千秋楽(同月28日)で優勝した横綱・白鵬を祝福に支度部屋に訪れたX-JAPANのリーダー・YOSHIKIが土足で力士が座る「あがり座敷をブーツのまま歩いてしまった」のを警備担当の世話人である斉須が一喝したと報道された[2]。(実際には気付かずにブーツで足をかけてしまったところで注意をされており、『ブーツを脱いであがり座敷にあがっている』写真がスポーツニッポンに掲載されている[3]

この記事の内容に対し同日、X JAPAN制作運営管理委員会・YOSHIKI本人から反論の文書がマスコミ各社に送付された[4]。それによると、YOSHIKIは白鵬に招待されて桝席で観戦後に関係者・取材陣に取り囲まれた。そのため帰ろうとしたが、「記念撮影だけでもして欲しい」という白鵬の希望で車で30分待機。「準備が出来たので」と関係者に呼ばれ、急いで支度部屋に入ったところを斎須に「急いで」「歩かないで」「走れ」などとと怒鳴られた。あがり座敷に気付く余裕もなかったのであり、「平気で座敷の上を歩いてはいない」と報道を否定している。横綱を慮ってその場では怒りをあらわさなかったが、このときの斉須の言動について『来て欲しいと呼んでおいての態度としては失礼である』と関係者を通じて相撲協会に書面で抗議し謝罪を求めたと説明している[5][6]

この件は、招待した白鵬が28日の優勝パレード後にYOSHIKIに直接謝罪していた[7][8]。相撲協会は同日に謝罪文を出しているが、『双方に非がある』という内容のものをYOSHIKI側は納得しなかったため受け取らなかった。また報道の影響で、斉須が所属していた桐山部屋の公式サイトがサーバーダウンした[9]

事態を受けて白鵬は「横綱の客人に対して考えられない対応」とコメントし、すぐに電話でYOSHIKIに謝罪した上、本人の元を訪れて再び謝罪。そして同月30日に白鵬は自身が所属する宮城野部屋を通じ、相撲協会へ正式に抗議を入れることとなった[10]

YOSHIKI側スタッフと相撲協会広報部長の九重親方(元千代の富士)との話し合いとなり、同親方は世話人の言動について「(相撲界の)常識ではない」と説明。その後、協会は電話で「不愉快な思いをさせて申し訳なかった。世話人から話を聞いたところ、本人も強く言い過ぎたことを深く反省しており、協会も言葉遣いに気をつけるよう指導します」とYOSHIKI側に謝罪した[11]。このことで、YOSHIKI側は騒動になっていた事態の収束を発表している[12][13]

斉須は来歴に前述された事情で部屋を転々としており、また言動について問題が多いと言われているという[14]

主な成績・記録[編集]

  • 通算成績:464勝455敗 勝率.505
  • 幕内成績:76勝104敗 勝率.422
  • 現役在位:91場所
  • 幕内在位:12場所
  • 通算連続出場:919回(序ノ口以来無休、1971年9月場所-1986年9月場所)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回 (1982年5月場所)
    • 幕下優勝:1回 (1978年9月場所)
    • 三段目優勝:1回 (1976年5月場所)
    • 序二段優勝:1回 (1973年11月場所)
斉須 稔
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1971年
(昭和46年)
x x x (前相撲) 東序ノ口11枚目
4–3 
西序二段77枚目
0–4 
1972年
(昭和47年)
西序二段100枚目
3–0 
西序二段42枚目
 
西序二段42枚目
2–5 
西序二段60枚目
3–4 
東序二段72枚目
1–6 
東序二段88枚目
4–3 
1973年
(昭和48年)
西序二段55枚目
5–2 
西序二段20枚目
2–5 
東序二段41枚目
3–4 
西序二段57枚目
4–3 
西序二段40枚目
3–4 
西序二段60枚目
優勝
6–1
1974年
(昭和49年)
東序二段17枚目
5–2 
西三段目65枚目
3–4 
東三段目77枚目
4–3 
西三段目61枚目
4–3 
西三段目47枚目
5–2 
西三段目22枚目
4–3 
1975年
(昭和50年)
西三段目9枚目
1–6 
西三段目36枚目
4–3 
西三段目23枚目
4–3 
東三段目14枚目
2–5 
西三段目34枚目
4–3 
東三段目24枚目
5–2 
1976年
(昭和51年)
西三段目筆頭
4–3 
東幕下53枚目
3–4 
西三段目5枚目
優勝
7–0
東幕下22枚目
2–5 
西幕下39枚目
5–2 
東幕下21枚目
6–1 
1977年
(昭和52年)
東幕下6枚目
3–4 
東幕下12枚目
2–5 
東幕下30枚目
3–4 
西幕下38枚目
4–3 
西幕下31枚目
5–2 
東幕下17枚目
5–2 
1978年
(昭和53年)
東幕下10枚目
6–1 
西幕下筆頭
3–4 
東幕下4枚目
3–4 
西幕下9枚目
5–2 
東幕下3枚目
優勝
7–0
西十両9枚目
9–6 
1979年
(昭和54年)
西十両4枚目
6–9 
東十両9枚目
7–8 
東十両11枚目
7–8 
西十両11枚目
6–9 
東幕下4枚目
3–4 
東幕下10枚目
6–1 
1980年
(昭和55年)
西幕下筆頭
5–2 
西十両11枚目
8–7 
東十両11枚目
7–8 
東幕下筆頭
6–1 
東十両13枚目
8–7 
西十両9枚目
7–8 
1981年
(昭和56年)
東十両11枚目
7–8 
東幕下筆頭
4–3 
西十両12枚目
9–6 
東十両6枚目
9–6 
東十両3枚目
5–10 
東十両10枚目
8–7 
1982年
(昭和57年)
東十両6枚目
11–4 
東前頭13枚目
4–11 
西十両5枚目
優勝
11–4
西前頭13枚目
9–6 
東前頭7枚目
5–10 
東前頭14枚目
8–7 
1983年
(昭和58年)
西前頭7枚目
8–7 
東前頭3枚目
4–11 
東前頭8枚目
8–7 
東前頭3枚目
5–10 
東前頭9枚目
9–6 
東前頭2枚目
5–10 
1984年
(昭和59年)
西前頭8枚目
6–9 
東前頭12枚目
5–10 
西十両6枚目
6–9 
東十両9枚目
8–7 
西十両5枚目
6–9 
西十両9枚目
8–7 
1985年
(昭和60年)
西十両8枚目
7–8 
東十両9枚目
8–7 
東十両8枚目
5–10 
西十両12枚目
7–8 
東幕下筆頭
4–3 
西十両13枚目
5–10 
1986年
(昭和61年)
東幕下6枚目
4–3 
東幕下3枚目
3–4 
西幕下6枚目
1–6 
西幕下32枚目
6–1 
西幕下13枚目
引退
3–4–0
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 1971年11月から1972年3月までは中学生として特別扱い

改名歴[編集]

  • 斉須 稔(さいす みのる)1971年9月場所-1975年5月場所
  • 清勢龍 強(きよせりゅう つよし)1975年7月場所-1977年5月場所
  • 斉須 稔(さいす みのる)1977年7月場所-1979年1月場所
  • 鴻國 稔(こうくに-)1979年3月場所-1979年9月場所
  • 斉須 稔(さいす-)1979年11月場所-1984年3月場所
  • 寶國 稔(たからくに-)1984年5月場所-1986年9月場所

脚注[編集]

  1. ^ 詳細はこちらを参照。
  2. ^ YOSHIKIが国技館で一喝された!(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース”. web.archive.org (2008年10月3日). 2019年6月15日閲覧。
  3. ^ 28日の大相撲秋場所の支度部屋で警備担当の世話人から「靴は脱ぐんだよ」と注意されるYOSHIKI”. スポニチAnnex(2008年9月30日). 2019年6月16日閲覧。
  4. ^ YOSHIKI激怒!相撲協会に猛抗議”. スポニチAnnex(2008年9月30日). 2016年6月16日閲覧。
  5. ^ 一部スポーツ紙にて報道されたYOSHIKIに関する正式アナウンス” (日本語). BARKS(2008年9月29日). 2019年6月15日閲覧。
  6. ^ livedoor ニュース - YOSHIKI ごう慢相撲協会にキレ返し”. web.archive.org (2008年10月6日). 2019年6月15日閲覧。
  7. ^ YOSHIKIが相撲協会に抗議文 - 芸能ニュース” (日本語). nikkansports.com(2008年9月30日). 2019年6月15日閲覧。
  8. ^ YOSHIKIは白鵬の個人的な招待で桝席で相撲観戦をした後に支度部屋に招かれている。力士が着替えをする支度部屋は大相撲関係者以外の出入りを禁じられており、YOSHIKIの扱いは一般客ではなく宮城野部屋関係者であるため、トラブルが発生した際は招待した力士・相撲部屋が対応するのが通常である。
  9. ^ YOSHIKI「白鵬横綱に謝ってほしい」 - 芸能 - SANSPO.COM(2008年10月1日)”. web.archive.org (2008年12月9日). 2019年6月16日閲覧。
  10. ^ YOSHIKIブチ切れ! 相撲協会の対応に怒(サンケイスポーツ2008年9月30日)
  11. ^ YOSHIKIに相撲協会が謝罪 - 芸能ニュース” (日本語). nikkansports.com(2008年10月2日). 2019年6月15日閲覧。
  12. ^ 騒動鎮火 YOSHIKIに相撲協会謝罪”. スポニチAnnex(2008年10月2日). 2019年6月15日閲覧。
  13. ^ YOSHIKI白鵬気遣い無礼騒動収束へ - 芸能ニュース” (日本語). nikkansports.com(2008年10月1日). 2019年6月15日閲覧。
  14. ^ 日刊スポーツ2008年10月2日10時13分配信の内容より。

関連項目[編集]