荒勢永英

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荒勢 永英
あらせ ながひで
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基礎情報
四股名 荒勢 永英
本名 荒瀬 英生
生年月日 1949年6月20日[1]
没年月日 (2008-08-11) 2008年8月11日(59歳没)
出身 高知県吾川郡伊野町(現いの町[1]
身長 177cm
体重 151kg
BMI 48.20
所属部屋 花籠部屋[1]
得意技 右四つ、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位関脇
生涯戦歴 420勝414敗11休(59場所)
幕内戦歴 351勝367敗2休(48場所)
殊勲賞1回
敢闘賞2回
技能賞1回
データ
初土俵 1972年1月場所[1]
入幕 1973年7月場所[1]
引退 1981年9月場所[1]
備考
金星2個(琴櫻1個、北の湖1個)
2017年1月30日現在

荒勢 永英(あらせ ながひで、1949年6月20日 - 2008年8月11日)は、高知県吾川郡伊野町(現在のいの町)出身で1970年代に活躍した大相撲力士、エイビープロモーションに所属していたタレントである。芸名は荒勢(あらせ)、本名は荒瀬 英生(あらせ ひでお)。力士時代は花籠部屋に在籍し、最高位は東関脇1977年9月場所〜1978年1月場所、1980年5月場所)。大相撲時代の体格は身長177cm、体重151kg。得意手は右四つ、寄り。公認候補者として所属した自由連合では、組織委員会文化スポーツ局次長を務めた。

来歴[編集]

実家は農家。高知中学校在学時より相撲を始め高知高校、日本大学と相撲部で活躍し、大学3年時には全日本相撲選手権大会で3位に入賞している。

大学卒業を目前にした1972年1月に花籠部屋へ入門し同月、幕下付出初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名の「荒瀬」。以来一度の負け越しも無く、1973年7月場所に於いて24歳で入幕を果たした[1]

大学時代の2年先輩でもある横綱輪島土俵入り露払いを務め、太刀持ちを務めた日本大学(柔道部)中退、輪島と同学年の魁傑とともに「日大トリオの土俵入り」と話題になった。

重心の低い右差しからの激しいがぶり寄りが特徴[1]で、もみ上げも個性的でいごっそうを連想させる人気力士の1人であった。しかし横綱・北の湖に弱く、27連敗(※初対戦からの連敗記録ではない。対北の湖、および同一の力士に対する初顔からの最多連敗記録は、金城の29連敗。金城は、結局幕内では、北の湖には1度も勝てなかった)を記録した。

また、立合いを合わせるのが下手で、「待った」の常連としてよく指弾された。1975年3月場所で敢闘賞を受賞した時には、立合いの悪さから受賞を見送るべきだという意見が三賞選考委員会の席上で出た。また1976年7月場所8日目に若三杉(のちの横綱・2代若乃花)と対戦した時は、「待った」を8回も繰り返し、勝負審判が土俵上に上がって両力士を注意する事態も起きた。

その他、これより三役のそろい踏みの時にも西方の扇の要の位置にあって後ろが見えなかったためか、あっさりと3回四股を踏んだ後振り返ると後方の力士はまだ2回目の四股にかかっていたということもあった。

全盛期は1977年からの約2年間で、その間8場所連続三役を務めたこともあった。元来がぶりしか攻め手の無い荒勢であったが、1977年9月場所では東関脇で11勝を挙げるとともに「がぶりも技術の一つである」と一芸が認められる形で、技能賞を獲得した[1]。しかし三役での二桁勝利がこの場所だけにとどまったこともあり、「大関獲り」は夢に終わった。

現役晩年は右膝を故障して十両に下がり、西十両7枚目の地位で途中休場した1981年9月場所限り、32歳で引退。

場所後、年寄間垣を襲名し花籠部屋付きの親方となったが1983年2月、前月に引退した二所ノ関一門の横綱・2代若乃花に間垣の名跡を譲渡して日本相撲協会から去った。

以降はタレントに転向して、テレビ、CMなどで活躍。

2001年には、自由連合から比例代表で第19回参議院議員通常選挙に出馬したが、2,711票しか獲得できず落選した。その後2008年4月に脳梗塞で倒れ、実家がある高知県で療養していた。

同年8月11日、急性心不全のため死去[2]。59歳没。

エピソード[編集]

  • 大相撲の現役時代、下戸でありながら、ウィスキーCMに出演したことがある。
  • 1970年代後半の一時期、白(締め込みでは使用を禁止されている)に限りなく近い色の締め込みを締めて、本場所に出場したことがある。
  • 趣味は神社巡り。「日本人であることの再認識」が本人の弁。
  • 九州場所の折、元祖長浜屋に来店して替え玉23個を食した。その時には、1杯頼んで一回替え玉、1杯頼んで一回替え玉と、店側へ配慮しつつ12杯を注文した。

主な成績・記録[編集]

  • 通算成績:420勝414敗11休 勝率.504
  • 幕内成績:351勝367敗2休 勝率.489
  • 現役在位:59場所
  • 幕内在位:48場所
  • 三役在位:14場所(関脇9場所、小結5場所)
  • 三賞:4回
    • 殊勲賞:1回(1974年5月場所)
    • 敢闘賞:2回(1974年9月場所、1975年3月場所)
    • 技能賞:1回(1977年9月場所)
  • 金星:2個(琴櫻1個、北の湖1個)

場所別成績[編集]

荒勢 永英
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1972年
(昭和47年)
幕下付出60枚目
5–2 
西幕下38枚目
5–2 
西幕下22枚目
6–1 
西幕下7枚目
5–2 
東幕下2枚目
6–1 
西十両9枚目
8–7 
1973年
(昭和48年)
東十両8枚目
8–7 
西十両7枚目
9–6 
西十両2枚目
10–5 
東前頭13枚目
9–6 
東前頭9枚目
6–9 
西前頭11枚目
8–7 
1974年
(昭和49年)
西前頭10枚目
9–6 
東前頭5枚目
7–8
西前頭6枚目
11–4
西前頭筆頭
6–9 
西前頭3枚目
10–5
東張出小結
5–10 
1975年
(昭和50年)
西前頭4枚目
8–7 
西前頭2枚目
9–6
西小結
6–9 
西前頭2枚目
8–7 
西前頭筆頭
6–9 
西前頭4枚目
8–7 
1976年
(昭和51年)
西前頭2枚目
8–7 
西前頭筆頭
8–7 
西関脇
8–7 
東張出関脇
6–9 
西前頭2枚目
6–9 
西前頭6枚目
9–6 
1977年
(昭和52年)
東前頭筆頭
9–6 
西関脇
7–8 
西小結
8–7 
東小結
8–7 
東関脇
11–4
東関脇
8–7 
1978年
(昭和53年)
東関脇
8–7 
西関脇
7–8 
西小結
5–10 
西前頭5枚目
8–7 
西前頭2枚目
5–10 
西前頭8枚目
6–9 
1979年
(昭和54年)
東前頭11枚目
8–7 
西前頭6枚目
8–7 
西前頭2枚目
5–10 
東前頭7枚目
8–7 
西前頭2枚目
3–12 
東前頭12枚目
10–5 
1980年
(昭和55年)
東前頭2枚目
8–7
西関脇
8–7 
東関脇
3–12 
東前頭8枚目
8–7 
西前頭6枚目
6–9 
西前頭9枚目
8–7 
1981年
(昭和56年)
東前頭6枚目
5–10 
西前頭11枚目
9–6 
東前頭7枚目
3–10–2[3] 
東十両筆頭
6–9 
西十両7枚目
引退
1–5–9
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 荒瀬 英生(あらせ ひでお)1972年1月場所-1975年7月場所
  • 荒勢 永英(あらせ ながひで)1975年9月場所-1981年9月場所(引退)

年寄変遷[編集]

  • 間垣(まがき)1981年9月-1983年2月(廃業)

主な出版[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

CM[編集]

レコード[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p24
  2. ^ 荒瀬英生氏死去=大相撲元関脇 時事通信 2008年8月11日
  3. ^ 右膝関節捻挫・側副靱帯損傷により8日目から途中休場、11日目から再出場

関連項目[編集]