順位戦

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順位戦(じゅんいせん)は、毎日新聞社朝日新聞社主催の将棋棋戦

概要[編集]

A級・B級1組・B級2組・C級1組・C級2組の5つのクラスからなり、A級の優勝者が名人戦の挑戦者となる。したがって、名人は順位戦に参加しない。

各クラスごとに、おおむね6月から翌年の3月までに亘ってリーグ戦を行い、その成績に応じて次期のクラスと順位が決まる。新規のプロ棋士はC級2組に属するのが原則だが、一部は順位戦に参加しないフリークラス棋士からのスタートとなる。飛び級はできないため、名人戦の挑戦者となるまでには最短でも5年かかる。

順位戦の昇級により段位が上がる他、棋士が順位戦のどのクラスに属しているかによって対局料が大きく変動し、棋士の収入に直結する。なにより、順位戦に在籍していることが、プロ棋士が現役であるための基礎的な条件となるため、棋士にとって最も重要な棋戦とされている。

方式[編集]

クラスと昇級・降級[編集]

A級・B級1組・B級2組・C級1組・C級2組と、順位戦を指さないフリークラスから構成されており、A級で最も良い成績を挙げた棋士が名人挑戦権を得る。

各クラスの定員などは以下のように定められている。

クラス 定員 対局数 昇級など 降級・降級点 備考
A級 原則10名 原則9戦
(総当たり)
名人挑戦1名 降級2名
(調整あり)
 
B級1組 原則13名 原則12戦
(総当たり)
昇級2名  
B級2組 不定 10戦
昇級2名
(全勝は必ず昇級)
 
在籍者数 ÷ 5
の人数に降級点[注 1]
(累積2点で降級)
 
C級1組  
C級2組 昇級3名
(全勝は必ず昇級)
在籍者数 ÷ 5
の人数に降級点[注 1]
(累積3点で降級)
C級2組からの降級先はフリークラス

現役棋士が在籍するクラスの一覧は、将棋棋士の在籍クラス を参照。

歴代のA級棋士については、歴代七番勝負・A級順位戦 を参照。

次期の各クラスのリーグ表では、以下の順で上から並べられる。

  1. 上位クラスからの降級者(A級は名人戦で敗れた者)
  2. (A級以外)休場者のうち降級の対象となった者
  3. 残留者のうち降級点を取らなかった者(B級1組は全ての残留者、A級は名人に挑戦できなかった全ての残留者)
  4. (C級2組以外)下位クラスからの昇級者
  5. (B級2組以下)残留者のうち降級点を取った者
  6. (C級2組のみ)当年4月1日から9月30日の間に規定の成績(後述)を修めたフリークラス編入者
  7. (C級2組のみ)当年度前期三段リーグ優勝者及び準優勝者
  8. (C級2組のみ)当年10月1日から翌年3月31日の間に規定の成績を修めたフリークラス編入者
  9. (C級2組のみ)当年度後期三段リーグ優勝者及び準優勝者
  10. 休場者のうち降級の対象とならなかった者(後述の通り「張出」として扱われる)

上記のそれぞれの中で当期の勝敗順を第1優先とし、勝敗同点同士では、当期のリーグ表における順位を第2優先として順位付けをする。

ただし、上記6.及び8.については、既定の成績への到達が確定した順に上位に位置づけられる。

なおA級の場合は、勝敗数最上位で2名以上が並んだ場合、名人挑戦者1名を決めるためにプレーオフを行う。3人以上の場合は、順位下位の者からパラマス方式トーナメントによって挑戦者を決定する。[注 2]

持ち時間[編集]

順位戦の持ち時間は6時間であり、あらゆる棋戦の本戦・予選の持ち時間の中で最も長く、しかも、7つのタイトル戦のうち、1日制である3つ(王座戦棋王戦棋聖戦)の五番勝負の持ち時間より長い。また、対局開始はタイトル戦が午前9時であるのに対し、その他の通常の対局と同じ午前10時である。さらに、昼夕に各40分(2016年6月より)の休憩を挟む。そのため、順位戦の対局は深夜に及び、日が変わっての終局も珍しくない。

第75期順位戦(2016年度)より、B級2組以下の対局については、ストップウォッチ計時による1分未満の消費時間切り捨てから、チェスクロック計時(実際はタブレット端末を使うため「タブレットクロック」とも呼ばれる[1])による1分未満の消費時間算入に改められた[2]。これは、主として記録係を担当する奨励会員の高学歴化が進み、学校を休む必要がある者が増えたためである。少しでも負担を軽くするため、日をまたぐ対局を極力減らし、記録係がなるべく宿泊せず帰宅できるようにする目的がある。このルール変更により、終局が「1時間は早くなりそう」と渡辺明は予想している[3]。また、同年6月から他の棋戦を含め昼食・夕食休憩がそれぞれ50分から40分に減らされた。これも同じく、対局時間短縮の意図がある[4]

組み合わせ[編集]

各期順位戦のリーグ表における全ての対戦組み合せと先手・後手は、抽選によって作成される(対局開始の際には振り駒は行われない)。

ただし、抽選は、以下の制約の下で行われる[5]

  • 「B級2組以下での師弟戦」「最終局での兄弟弟子同士の対局」は行わない。A級・B級1組での師弟戦はリーグの中間で行う。
    • 大師匠と孫弟子、従兄弟弟子同士の対局等に制限があるかは不明。
  • B級2組及びC級1組では、前期未対局者優先で組み合わせる。組み合わせ不能の場合はこの限りではないが、3年連続同一カードの対局は行わない。C級2組では、前期対局者と当たらない。

なお、A級プレーオフでは振り駒が行われる。

昇級に関する例外[編集]

原則として、B級2組とC級1組では成績上位の2人が、C級2組では成績上位の3名が一つ上のクラスに昇級する。ただし、全勝が昇級枠を超えて出た場合は枠に関係なく全員昇級する。C級1組とC級2組の場合は定員が決まっていないクラスへの昇級なので特に問題ないが、B級2組の場合定員が決まっているB級1組への昇級なので問題が出る。例えば、B級2組で全勝が3人出た場合、全員昇級となり、その次の期のB級1組は全14人下位3人降級となる。

降級点[編集]

B級2組以下のクラスでは、成績が悪くても1度で降級することはなく、成績下位の20パーセント(小数点以下の端数は切り捨てるので、たとえば参加者が46人のときは9人)に「降級点」がつけられる。降級点はB級2組とC級1組では2つ累積、C級2組では3つ累積すると降級する。C級2組からの降級先はフリークラスである。

降級にリーチをかけた棋士が勝ち越すか、2期連続で指し分ける(5勝5敗)と、降級点を1つ消すことができる。C級2組の1個目の降級点は、昇級または降級しない限り消えない。

降級に関する例外[編集]

A級やB級1組では、原則として成績下位の2人が一つ下のクラスに降級する。ただし、指し分け(勝数と負け数が等しい状態)以上の成績を残した場合は降級しない(第27期A級順位戦[注 3]が唯一の事例)。 例えば、A級で1人の棋士(リーグ表10位ではない)が0勝9敗(降級)、残り9人が5勝4敗の成績だった場合、リーグ表10位の棋士は下から2番目の成績になるが、勝ち越しているため降級とならず、その次の期のA級は全11人・下位3人降級となる。また、次の期のB級1組はA級からの降級者が減ったため全12人となるが、そのまた次の期はA級から3人降級してくる(予定)ので降級は下位2人で変わらない。同様に、B級2組以下でも指し分け以上の成績を残した場合下位1/5以内に入っても降級点はつかない(もちろん消滅条件を満たしたら消滅する)。 また休場者などの影響と定員の関係で1人も降級しない場合もある[注 4]

休場[編集]

病気などのやむをえない理由により、ある1年間の対局をすべて休場した場合、次期は降級せず(この場合クラスの定員を超過する)、順位は「張出」となり、最下位に扱われる。

A級とB級1組では2期連続で休場すると降級する。B級2組以下では2期連続の休場で降級点がつく(休場の時点で降級点がついていればそれも考慮される)。3期連続休場したら休場時点での降級点数に関係なく降級する。

順位戦の規定による昇段[編集]

順位戦の昇級による昇段規定は、C級1組に昇級すると五段、同様にB級2組昇級で六段、B級1組昇級で七段、A級昇級で八段となっている。しかし、たとえばB級2組に所属する七段や八段の棋士が初めてB級1組に昇級しても、段位はそのままである。ちなみに、名人位を1期獲得すると九段となる。

1984年4月1日に「勝数に伴う昇段」の規定が追加される前にA級に昇級した棋士は、ほぼ全員が、五段から八段までをすべて順位戦昇級に伴い昇段した。これは、順位戦以外の具体的な昇段規定が存在しなかったためである。 その後、竜王戦昇級に伴う昇段規定(1987年追加、2006年改定)・タイトル挑戦もしくは獲得及び棋戦優勝に伴う昇段規定(2009年追加)が追加されて以降、順位戦昇級前に他の規定を満たし昇段するケースが増え、五段から八段までをすべて順位戦昇級に伴って昇段する棋士は少なくなった。なお、五段から八段までを順位戦昇級に伴って昇段した棋士は多数いるが、五段から九段まで全て順位戦昇級(名人位獲得)に伴って昇段したのは谷川浩司丸山忠久の2人だけである。

フリークラス[編集]

フリークラスとは、順位戦に参加しないことを意味する。順位戦以外の棋戦には参加できる。

フリークラスは、

  • フリークラスへ編入された棋士
  • フリークラス宣言をした棋士

に大別され、いずれも同じ「フリークラス」という名称になっているが、これら2つは制度上の性格が全く異なる。

フリークラスへの編入[編集]

フリークラスに編入される条件は以下のいずれかである。

  1. 順位戦C級2組在籍の棋士が満60歳を迎える年度前までに降級点が3つたまった場合、フリークラスに陥落する。
  2. 半年に1度行われる奨励会三段リーグで通算2度次点(3位)になった場合、フリークラスのプロ棋士になる権利を得る。この権利を行使した例は、伊奈祐介(1998年4月編入)・伊藤真吾(2007年4月編入)・吉田正和(2008年10月編入)・渡辺大夢(2012年10月編入)・佐々木大地(2016年4月編入)。
    • この権利を行使せずに三段リーグにとどまることもできる。(その場合次点は1つ「残り」、もう一度次点を取ることで再びフリークラス入りの権利を得る)2004年前期に2度目の次点となった佐藤天彦が、権利を行使せずに三段リーグに留まり、第39回三段リーグ(2006年度前期)で2位となって、フリークラスではなくC級2組の棋士としてプロ入りした。
  3. アマチュアまたは女流棋士で、公式戦でプロに混じって一定の成績を収めた者がプロ編入試験に合格すると、フリークラスの棋士となる。瀬川晶司(2005年11月編入)、今泉健司(2015年4月編入)の2名がこの制度により編入されている。この制度については「棋士 (将棋)」を参照。

フリークラス編入者の順位戦出場条件[編集]

フリークラスに編入された棋士は、以下の条件のいずれかを満たすことで、次年度以降の順位戦にC級2組から出場できる。

  1. 年間(4月から翌年3月まで)に「参加棋戦数[注 5]+8」勝以上、かつ勝率6割以上。
  2. 良いところ取りで、連続30局以上の勝率が6割5分以上(年度をまたいでも有効)[注 6]
  3. 年間対局数が「(参加棋戦数+1)×3」局以上。
  4. 全棋士参加棋戦で優勝、またはタイトル(2001年 - 2006年の朝日オープン将棋選手権を含む)挑戦。

フリークラスに在籍する棋士が、これらの規定により順位戦出場権を獲得した例は過去に9例(伊藤博文島本亮=C級2組から降級後復帰、伊奈祐介・吉田正和・伊藤真吾・渡辺大夢・佐々木大地=奨励会三段リーグの次点2回でフリークラス編入後昇級、瀬川晶司・今泉健司=プロ編入試験に合格後昇級)あり、いずれも上記の2の条件によるものであった。

フリークラス規定による引退[編集]

フリークラスに編入した棋士が編入後10年[6]以内、または満60歳の誕生日を迎える年度が終了するまでに規定の成績を修められなかった場合、当年度の全対局を完了した時点で引退となる。このため、60歳を迎えた後にC級2組から降級した場合は、原則としてフリークラスに編入されず即時引退となる[注 7][7]

フリークラス宣言[編集]

翌期の[8]B級1組以下の棋士は、順位戦終了後、年度末までに「フリークラス宣言」を行うことができる。

フリークラス宣言を行った棋士は、二度と順位戦に出場することはできないが、規定の年数までは、順位戦以外の公式棋戦に現役棋士として出場し続けられる。

規定の年数は次の通りに算出される。

  1. フリークラス宣言を行った全ての棋士について、順位戦在籍可能な最短年数まではフリークラスに在籍でき、この期間中に満65歳となる棋士は、年数を満了した時点で引退となる。
  2. 上記1の年数が経過した時点で、満50歳以上満64歳以下の棋士は、更に満65歳を迎える年度までフリークラスに在籍できる。
  3. 上記1の年数が経過した時点で、満49歳以下の棋士は、更に15年間フリークラスに在籍できる。

具体例は次のとおりである。

  • 順位戦C級1組で降級点を1つを喫した棋士が、満63歳で迎える年度末にフリークラス宣言を行った場合、どんなに順位戦の成績が悪くともC級1組で1年・C級2組で3年在籍できるため、順位戦在籍可能な最短年数は4年間と算出され、フリークラスに4年間在籍でき、満67歳で迎える年度末に引退となる。
  • 順位戦B級1組に在籍する棋士が、満46歳で迎える年度末にフリークラス宣言を行った場合、どんなに順位戦の成績が悪くともB級1組で1年・B級2組で2年・C級1組で2年・C級2組で3年在籍できるため、順位戦在籍可能な最短年数は8年間と算出され、この年数が経過した時点で満54歳となるので、更に満65歳で迎える年度末までフリークラスに在籍でき、同年度の最終対局を完了した時点で引退となる。
  • 順位戦C級2組で降級点2つを喫した棋士が、満40歳で迎える年度末にフリークラス宣言を行った場合、どんなに順位戦の成績が悪くともC級2組で1年在籍できるため、順位戦在籍可能な最短年数は1年間と算出され、この年数が経過した時点で満41歳となるので、更に15年間、満56歳で迎える年度末までフリークラスに在籍でき、同年度の最終対局を完了した時点で引退となる。

順位戦の歴史[編集]

  • 1935年(昭和10年) - 東京日日新聞(現在の毎日新聞社)の主催で、第1期名人戦の特別リーグ戦が開始される。
  • 1946年(昭和21年) - 第1期順位戦が開始される。八段の棋士をA級、七、六段をB級、五、四段をC級とする3クラス制であった。持ち時間は各7時間。
  • 1948年(昭和23年) - C級を1組と2組に分割し、A級を10名、B級とC級1組を20名とする定員制をもうける。
  • 1949年(昭和24年) - 名人戦・順位戦の主催が毎日新聞社から朝日新聞社に移る。
  • 1951年(昭和26年) - B級を1組と2組に分割する。B級1組以下の定員を13名とする。
  • 1961年(昭和36年) - B級2組以下で降級点制度を導入する。B2、C1は降級点2回、C2は3回で降級。
  • 1962年(昭和37年) - B級2組以下の対局数を最大12局とする。A級、B級1組は総当たり。
  • 1967年(昭和42年) - 持ち時間を各6時間に短縮。
  • 1971年(昭和46年) - 順位戦の制度改革の議論が長引き、B級1組以下は11月から開始。この年のB1以下は1人8局の対局となり、翌年からB1は総当たり、B2以下は10局の対局となる。
  • 1976年(昭和51年) - 名人戦・順位戦の主催が毎日新聞社に戻る。「順位戦」の名称がなくなり、A級を「名人戦挑戦者決定リーグ」、B級1組以下を「昇降級リーグ(1組 - 4組)」と改称する。期数も名人戦に合わせられ、前期の順位戦が第30期であったが、今期が第36期となる(従って、第31期 - 35期の順位戦は存在しない)。このとき、挑戦者決定リーグ(順位戦)の開始が遅れ、11月となったため、翌1977年の名人戦が実施されなかった。
  • 1983年(昭和58年) - 昇降級リーグが組ごとに同日一斉対局となる。
  • 1985年(昭和60年) - 「順位戦」の名称が復活。A級からC級2組の5クラスの名称に戻る。
  • 1994年(平成6年) - 順位戦に参加しない、フリークラス制度が設けられる。C級2組から降級した棋士、奨励会三段リーグで次点を2回とった棋士、B級1組以下からフリークラス宣言をした棋士が所属する。
  • 2006年(平成18年) - 前年の瀬川晶司のフリークラス編入を受け、アマチュア選手・女流棋士のフリークラス編入制度が正式化される。
  • 2007年(平成19年) - 名人戦・順位戦の主催が毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。
  • 2014年(平成26年) - 第72期A級最終戦一斉対局が静岡県静岡市葵区浮月楼で将棋名人戦第0局と銘打ち指された。最終一斉対局が将棋会館以外で行われるのは、初[9]
  • 2014年(平成26年) - 第73期より組ごとに同日一斉対局がC級2組は、最後の2局を除き木曜日と金曜日に分割開催となる。当期はC2組が50人居り、東京将棋会館と関西将棋会館を合わせても25局の一斉対局が困難なため。またB級1組以下は組ごとに対局日の曜日固定だが、B級2組が木曜日から水曜日に変更された。このほか、B級1組以下は4月に全対局日程を決定していたが、これを3回に分けて決定することとなった[10]

将棋界の一番長い日[編集]

毎年3月上旬頃に行われるA級の最終戦(全5局が一斉に行われる)は、名人への挑戦者と降級者2名を決定する重要な対局で、対局時間の長さやその密度の濃さから「将棋界の一番長い日」と称され、将棋界内外から大きな注目を集める。この日には東京将棋会館)・大阪(関西将棋会館)・名古屋大須演芸場)で大盤解説会が開催されるほか、テレビ中継なども行われている。

テレビ中継[編集]

2012年までNHK BSプレミアム(2011年までの名称はNHK衛星第2テレビジョン<BS2>)にて「将棋界の一番長い日」を生中継で放映。

2013年は3月1日から3月2日にかけてスカパー!スカパー!プレミアムサービスBSスカパー!スカチャン、スカパー!プロモ100200・599囲碁・将棋チャンネル)にて「将棋界の一番長い日」全5局の完全生中継を実施[11]。スカチャンとスカパー!プロモでは最終戦の全試合をそれぞれのチャンネルごとに完全生中継、BSスカパー!と囲碁・将棋チャンネルでは全試合の動向をマルチ画面や、森内俊之名人ほか棋士による解説などを交えて長時間ノーカットの実況を行った。司会は戸塚貴久子。また、2013年はNHKでは中継ではなくダイジェストという形で『将棋界の一番長い日〜第71期A級順位戦最終局〜』として放送される(NHK Eテレ、2013年3月24日放送)。

2017年からは、同年2月にオープンしたAbemaTV将棋チャンネルにて、順位戦(A級及びB級1組)の生中継が行われる[12]

エピソード[編集]

A級順位戦[編集]

升田対大山「高野山の決戦」(第2期)
塚田正夫名人への挑戦権を争う第2期順位戦(1947年度)では、A級1位-3位とB級1位の4名によるパラマス方式トーナメントで名人挑戦者決定戦が行われた。1回戦の花田長太郎(A級3位)対大山康晴(B級1位)は、花田が病気で欠場(それから間もなく1948年2月28日に死去)。2回戦の三番勝負大野源一(A級2位)対大山は、大山が2勝1敗で制する。そして、決勝三番勝負の升田幸三(A級1位)対大山は、和歌山県高野山金剛峯寺普門院で行われた。これが歴史に名高い「高野山の決戦」である。1勝1敗で迎えた第3局の終盤は升田の勝勢となる。大山が△8七同飛成(138手目)で升田の玉に王手をした局面、▲5七桂と合駒をしていれば升田の勝ちであったが、升田が指した手は▲4六玉とかわす大悪手。急転直下で3手後に升田の投了となる。升田は「錯覚いけない、よく見るよろし」の言葉を残す。なお、大山は塚田との七番勝負で2勝4敗で敗れ、この期での名人獲得はならなかった。
加藤一二三最短記録で18歳のA級へ(第18期)
初の中学生棋士となった加藤一二三は、C級2組からA級まで1期抜けを果たし18歳でA級八段となり、「神武以来の天才」と呼ばれた。その後、現在に至るまで10代のA級棋士は現れていない。当の加藤にとって最初のA級順位戦は、4勝5敗と負け越しを喫するも、次期1960年の(19期で)は6勝2敗で最年少(20歳)の名人挑戦者となる。大山康晴名人に挑戦したが、1勝4敗で名人を獲得することはできなかった(奪取・失敗)。20期は3勝6敗で降級を喫し、初の前期挑戦者の降級となった。名人になったのは、初挑戦から22年を経た1982年であった。
中原誠最短記録で名人に(第30期)
中原誠は、1966年の第25期にデビューすると前述加藤と同様最短記録タイとなる4期でA級となる。またA級在位2期目の第31期に8戦全勝で加藤と同じく挑戦者最短記録を達成する。13期連続名人の大山康晴に挑戦し、4勝3敗のフルスコアで順位戦初参加より最短で名人襲位を果たした。その後9連覇を果たす。
大混戦の末大山康晴が最年長記録の挑戦者に(第44期)
前期に大山康晴が休場のため張出となり、11名によるA級リーグとなった。その為10戦となったが、実力伯仲のため4勝6敗の森安秀光と勝浦修と青野照市が降級となる。6勝4敗の張出大山康晴と7位加藤一二三と4位米長邦雄十段による3人のプレーオフとなった。他残留の5名は5勝5敗の指分であった。第1戦は大山と加藤で行われたが千日手で引分。同日再対局となり大山が勝利。第2戦は、大山と米長で指され大山が勝利する。63歳の大山の挑戦は最年長記録。大山は中原誠名人に1勝4敗で敗れその後挑戦することは叶わなかった。
4人のプレーオフ
A級順位戦では同率1位が複数人発生した場合はパラマス方式によるプレーオフが行われるが、最も多い4名で行われたことが3回ある。
第50期では8局が終わった段階で内藤國雄がようやく1勝を挙げたものの陥落が決定。6勝2敗の順位2位谷川浩司竜王と6位高橋道雄が挑戦に近づく。5勝3敗の4位南芳一大山康晴十五世名人は、自身が勝利し上位2名共が敗れればプレーオフ進出。最終局の9局目で大山が谷川に勝利し、それぞれ6勝3敗で終える。高橋は、負ければ降級の塚田泰明に敗れ6勝3敗でプレーオフへ、南芳一は降級が既に決まっていた内藤に勝利し、4人が6勝3敗で並ぶ史上二度目の4人プレーオフとなった。プレーオフはパラマス方式で行われ、第1戦は大山と高橋で行われ高橋が勝利。続く第2戦は、高橋と南で行われたが千日手で23時20分に引分となる。休憩の後同日再度対局。翌3時過ぎに高橋が勝利。第3戦は、高橋と谷川で行われ高橋が勝利し初の名人挑戦を果たす。尚中原誠名人に挑戦した高橋は、第4局まで3勝1敗で名人へあと1勝と迫るも、そこから3連敗を喫し奪取することは叶わなかった。内藤と塚田と同星の3勝6敗ながら順位差で降級した石田和雄は、これ以降A級に返り咲くことはなかった。プレーオフ進出も挑戦できなかった大山は、翌期にA級在籍のまま在位最年長記録の69歳で逝去した。中原名人は翌期米長邦雄の挑戦を受け敗れ、それ以降名人に返り咲くことはなかった。
深浦康市の不運(第53期 - 第65期)
深浦康市は第53期(1994年度)C級2組順位戦で、9勝1敗の4位(次点)で昇級枠の3人に入れなかった。このとき、10戦全勝が1名(久保利明)、9勝1敗が4名であった。1999年度(第58期)B級2組順位戦では深浦を含む3人が9勝1敗で並び、順位が下の深浦は次点となった。いずれも、頭ハネ(同じ勝ち星の棋士同士ではリーグ表の上位を優先)である。9勝1敗で2度昇級できなかった棋士は、順位戦史上、深浦だけである。それから5年後の第63期(2004年度)で、初めてA級順位戦を戦う。深浦を含み5名が4勝5敗で終えたが、深浦は昇級直後でリーグ表順位が下位のためB級1組に降級。しかし、次期のB級1組で圧倒的な成績を収め、A級に即復帰する。そして迎えた第65期(2006年度)A級順位戦では、深浦を含む6名が4勝5敗で並び、前々期と同様、下位のため降級した。4勝でA級から2度陥落した棋士も深浦だけである。
A級が全員タイトル経験者に(第69期→第70期)
第69期(2010年度)は木村一基(タイトル経験なし)がA級から陥落し、B級1組からは佐藤康光(当時タイトル12期、永世棋聖資格者)と屋敷伸之(当時棋聖3期)がA級に昇級した。これにより第70期のA級リーグ表は、史上初めてタイトル経験者だけで埋まった[注 8]
定跡書に載っている手順を詰みまで完全に再現(第70期)
第70期(2011年度)の1回戦、渡辺明郷田真隆の一戦。角換わりの先後同形から先手の渡辺が富岡流を用いた。後手の郷田は先手必勝だと言われていた変化に飛び込み、そのまま終局まで富岡流の定跡通りの手を指して投了した。感想戦では「定跡ですか…そうですか…」と落胆した。
タイトル二冠の降級(第70期)
第70期(2011年度)では、久保利明二冠(棋王・王将)がA級からB級1組へ降級となった。タイトル二冠の降級は史上初[13]
三浦弘行の地位保全(第75期)
三浦弘行は第75期(2016年度)を2期ぶり15期目のA級で迎え、当初3連敗したものの4回戦の対渡辺明戦で初勝利。しかし当該対局の直後に、将棋ソフト不正使用疑惑が指摘され、これにより三浦は2016年10月13日から同年12月31日まで出場停止処分を受けた。しかしその後疑惑が晴れたことで、日本将棋連盟は、同処分によって不戦敗となるはずだった順位戦の対局(5回戦・対屋敷伸之戦及び6回戦・対行方尚史戦)を保障する必要が生じ、三浦の処遇として、当期順位戦5回戦以降は不戦敗として計上せず[14]、他の棋士の成績にかかわらず翌76期もA級(11位)に据え置き、当期A級の降級枠は1名のみとすることにした。

B級1組[編集]

田中寅彦「A級昇級の確率64分の63」(第57期)
第57期(1998年度)のB級1組は、第9回戦終了(残り2局)の時点で田中寅彦(8勝1敗、リーグ表4位)がトップ。2番手の郷田真隆(7勝2敗、リーグ表11位)と3番手の南芳一(6勝3敗、リーグ表2位)が追いかける展開となっていた。すでに互いの直接対決が終わっていたので、残り2局で田中が2連敗し、かつ、郷田と南が2連勝するという「確率64分の1」の事態にならない限り、田中は昇級枠2名の中に入りA級復帰するという状況であった。次の第10回戦で田中は負け、郷田と南は勝ち、「64分の1」が「8分の1」になった。最終の第11回戦でも田中は負け、郷田は勝った。しかし、南が福崎文吾に負けたため、田中のA級復帰が決まった。当時、田中はNHKのテレビで「福崎君に感謝しないと」と語った。

24時間対局(第63期)

2004年6月25日の第63期B級1組、中川大輔行方尚史では、持将棋指し直しと千日手指し直しが発生したために、翌朝9時過ぎまでかかった。結果は行方の勝ち。中川はジャケットワイシャツを脱ぎ、Tシャツ姿で対局した。翌日も対局があるため、対局場を追い出された2人は、控え室でプラ駒、3寸盤で感想戦を行った。
持ち時間の90%を1手に使う(第64期)
2005年9月2日のB級1組、青野照市堀口一史座で、堀口が56手目7六歩突きの1手に5時間24分(持ち時間6時間のちょうど90%)の大長考をする。昼食休憩を挟んでいるので事実上はもっと長い。▲7六歩△同銀▲4九角が狙い筋の局面であった。結果は堀口の勝ち。後日、囲碁・将棋ジャーナルに出演した際、「気力が充実していたから考えられた」との旨を語った。ちなみに局面は、いわゆる「指定局面」と称されている角換わり腰掛け銀の先後同形(38手目)から先手番の青野が仕掛けた以降の応酬であった。将棋フォーカスで紹介された際は井上慶太九段に「プロなら第一感の手」と言われた。
井上慶太「A級復帰の確率64分の63を逃してから、復帰を果たすまで」(第67期)
第57期(1998年度)でA級から降級した井上慶太は早くも翌第58期(1999年度)にA級復帰のチャンスを掴む。残り2局の時点で7勝2敗[注 9]とし、自身が連敗し、追いかける青野照市先崎学の両者が連勝するという「確率64分の1」が起きない限りは昇級という状況になる。しかし、残り2局を連敗すると青野、先崎が連勝し7勝4敗の3位で昇級を逃した。次に迎えた復帰のチャンスは第61期(2002年度)。再び残り2局の時点で7勝2敗[注 10]とし、連勝で復帰を決められる状況になる(1勝1敗の場合は「確率4分の3」[注 11]、連敗の場合は「確率8分の1」字[注 12]でA級復帰)。しかし、残り2局を連敗し、連勝した鈴木大介に抜かれ3位で昇級を逃した(もう1人の昇級者は久保利明)。3度目の復帰のチャンスは第67期(2008年度)。この期は大混戦となり、11回戦終了時点で7勝4敗の成績ながら(勝数順で)暫定1位となる。最終13回戦は抜け番(対局なし)のため、自力昇級は無かったものの12回戦は久保利明に勝てば昇級確率は「16分の15」[注 13]、負けたら「512分の3」[注 14]になるという大一番となった。結局、この対局を制した結果、同じく12回戦で先に杉本昌隆が敗れていたため、11期ぶりのA級復帰を決めた。11期ぶりのA級復帰は原田泰夫の14期ぶりに次ぐ2番目の記録。「鬼のすみか」B級1組に連続在位10期は5番目の記録。

A級昇級者2名がタイトル保持者(第68期)

第68期(2009年度)では、B級1組で渡辺明竜王がA級初昇級し、久保利明棋王王将(昇級決定時点では棋王の一冠)がA級に復帰した。A級昇級者が2名ともタイトル保持者であるのは史上初である。深浦康市王位も昇級争いに加わっていたが、終盤で渡辺との直接対決で敗れた。一方、当時タイトル12期の佐藤康光九段がA級から陥落した。また、この年度はA級以外においても、B級2組で中村修九段(王将2期)がB級1組に復帰し、内藤國雄九段(棋聖・王位各2期)及び森雞二九段(棋聖・王位各2期)がC級1組に降級するなど、タイトル経験のあるベテラン棋士の昇降級が集中するという特異な年度となった。

大地震の最中に「A級昇級者決定戦」(第69期)

第69期(2010年度)B級1組は、佐藤康光が最終局を待たずしてA級復帰を決め、残る1つの椅子を最終局(2011年3月11日)にて屋敷伸之と松尾歩の直接対決(7勝4敗同士)で争うこととなった。どちらが勝ってもA級初昇級である。その対局の途中で東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生。対局場の東京・将棋会館から一同が外に避難し、18時に対局が再開された[15]。なおも余震が続く中での対局であったが、屋敷が勝利を収めた。
A級からの降級者がゼロ(第76期)
第75期のA級順位戦は先述の三浦弘行九段の特例措置による残留が施されたことによって降級枠が1名だけとなった。そして最終戦の結果、3勝6敗ながら順位の差で森内俊之九段が名人位含めて22期連続維持していたA級から陥落した。しかしその後、森内はフリークラスを宣言したことによって第76期のB級1組にはA級からの降級者が1人もいない状態になり定員13名に対し11名と2人分欠員となった。通常この人数以下の場合、誰も降級することはないが第76期A級順位戦の降級枠が3名である関係でB級1組の降級枠が1名となった。降級枠が1名というケースは過去にも何度かはあったが、A級からの降級者が1人もいない事態は順位戦史上初めての出来事となった。

B級2組[編集]

B級2組からC級1組に5人同時降級(第74期)
第74期(2015年度)B級2組では、一度に5人の棋士がC級1組に降級となった。この期は参加者が26人(降級点の枠は5人)で、降級点持ちは青野照市島朗窪田義行安用寺孝功杉本昌隆豊川孝弘高橋道雄中田宏樹の8人であった。そのうち青野は前期・当期の2期連続で5勝5敗と指し分け、規定により降級点を抹消[16][17]したが、他の7人は序盤から負けが込んだ結果、島・安用寺・杉本・豊川・高橋の5人が降級点2つ累積により、C級1組に降級することとなった。B級2組以下に降級点制度が導入された第17期(1962年度)以降、3人の棋士がB級2組からC級1組に同時に降級したのは、第23期(1968年度)・第30期(1975年度)・第48期(1989年度)の3回だけであり、4人以上が同時に降級したケースは皆無であったが、当期はそれらの記録を大幅に更新した。また、同一の順位戦クラスにおいて降級点を喫した棋士が全員降級点を持っていたケースも、全クラスを通じて史上初のケースであった。尚、この珍事に因り、翌第75期(2016年度)はB級2組の降級点の枠が1名減り、更に窪田・中田がいずれも降級点を喫さなかった為、C級1組への降級者がなしという、B級2組では8例目の事態が発生した。

C級1組[編集]

「将棋界の七不思議」屋敷伸之 14年をかけてついに昇級(第62期)
屋敷伸之は、順位戦初参加の第48期(1989年度)に9勝1敗・1位の成績を挙げ、‘1期抜け’でC級1組に昇級。そのかたわら、1989年度後期棋聖戦で予選・本戦を連戦連勝し、中原誠棋聖への挑戦者となる。さらに、1990年度前期棋聖戦で中原に連続挑戦して棋聖位を奪取し、史上最年少タイトル保持者(18歳)となる。さらに半年後には棋聖位を防衛し、早くもタイトル通算2期となる。しかし、C級1組からB級2組への昇級には14期(第49期~第62期)もかかることとなり、「将棋界の七不思議」の一つと言われた。この間、8勝2敗が4回、次点(3位)も4回あり、また、3度目の棋聖獲得をも果たしている[注 15]。第62期(2003年度)C級1組順位戦で9勝1敗で1位となり、ようやくB級2組へ昇級した。

C級2組[編集]

アマチュアの参加(第3期~第5期)
現在の順位戦は純粋な棋士のみの棋戦だが、第3期(1948年度)~第5期(1950年度)はアマチュア選手の参加を認めていた[18][19]。これは、当時の日本将棋連盟が財政難のため、毎日新聞社に名人戦契約金の増額を求める根拠として、棋士の増員を行った一環である。
アマ名人戦上位4名の希望者がC級2組(またはC級乙組)に参加した。1期のみの特別参加だが、成績優秀者はそのまま正規の棋士に編入可能になっていた。1949年に主催が朝日新聞社に代わると、その翌年を最後にアマチュア参加枠は廃止された。
アマチュアの参加者は三好幸男(第3期)、高橋誠司、大前吉章(第4期)、加納和夫、内山龍馬、宮本茂(第5期)の6人。高橋が5勝3敗、加納が7勝5敗と勝ち越したが、プロ編入はならなかった。他の4人は負け越している。
奨励会員の参加(第4期)
第4期のみ、奨励会員から4人が参加した。C級1組に昇級した2人(清野静男神田鎮雄)は三段から六段に、残留した2人(増田敏二浅沼一)は二段から四段に昇段して正式に棋士となったので、これも棋士増員の一環だった。
タイトル経験者初の順位戦陥落(第68期)
上述の通り、第68期では、タイトル経験のあるベテラン棋士の昇降級が集中するという特異現象が発生したが、当期はC級2組でも、元棋聖有吉道夫九段と初代棋王大内延介九段が累積3つ目の降級点を喫し、順位戦陥落時の年齢規定により引退となった。タイトル戦(番勝負)出場経験者が同規定により引退となった前例は、丸田祐三(第54期・1995年度)・関根茂(第60期・2001年度)が存在したものの、タイトル獲得経験者が同規定により引退となったケースは当期が初めてであった(その後、第75期(2016年度)にタイトル通算2期の森けい二と、元名人の加藤一二三も同じ理由で引退することになる)。
60年ぶりのC級2組~名人位獲得経験者初の降級規定に伴う引退(第73期~第75期)
加藤一二三は、プロ入り1年目の1954年(第9期)にC級2組で11勝1敗(1位)の成績を修めC級1組へ昇級。そこからA級まで4期連続で昇級した。その後、B級1組との往復を4度経験しながらも、62歳を迎える2001年度(第60期)までA級に通算36期在籍した。1982年度(第41期)には名人位も獲得している。しかし、2002年度以降は加齢によって順位戦の成績が振るわなくなり、2004年(第63期)にはB級2組に、2009年(第68期)にはC級1組に、2014年(第73期)にはC級2組にそれぞれ降級。名人位獲得歴のある棋士がB級2組以下に降級して以降も順位戦に出場し続けたのは史上初であった。このことにより、60年ぶりにC級2組順位戦に出場するという、史上最長の間隔記録を残すことになった。加藤はC級2組に降級した後も順位戦に出場し続けたが、2014年(第73期)~2016年(第75期)と3期連続で降級点を喫し、順位戦陥落時の年齢規定により引退することとなった。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 5で割ったときの端数(小数点以下)は切捨て。
  2. ^ プレーオフの結果にかかわらず、翌年度の2位以下の順位は、リーグ戦での戦績と今年度の順位のみで決定される(1位については「名人戦で敗れた者が翌年度の順位が1位となる」規定が優先される)。
  3. ^ 前期(第26期)A級順位戦で休場のため張出だった灘蓮照が下位3位の成績ながら5勝5敗であったため、A級に残留した。
  4. ^ 一例として、第22期順位戦のB級1組で休場者が2名いたために同組の降級者が1人もいない事象が生じた。
  5. ^ 新人王戦加古川青流戦上州YAMADAチャレンジ杯JT将棋日本シリーズへの出場権がない場合は10(7つのタイトル戦のうち順位戦を除く6棋戦、および、朝日杯将棋オープン戦銀河戦NHK杯テレビ将棋トーナメント叡王戦)。
  6. ^ 一例として、ちょうど30局ならば20勝10敗で勝率6割6分7厘となり条件を満たす。また、連続29局以内で20勝をあげた場合、その後連敗したとしても勝率の条件をみたすため、20勝目をあげた時点で昇級となる。
  7. ^ 他の棋戦で好成績を納めている場合、その棋戦に限って出場が認められる。棋士 (将棋)#引退を参照
  8. ^ 1.羽生善治(78期・うち名人7期)、2.渡辺明(7期)、3.高橋道雄(5期)、4.郷田真隆(3期)、5.三浦弘行(1期)、6.丸山忠久(3期・うち名人2期)、7.谷川浩司(27期・うち名人5期)、8.久保利明(5期)、9.佐藤康光(12期・うち名人2期)、10.屋敷伸之(3期)
    (タイトル獲得数は2011年度開始時)
  9. ^ この期のB級1組は米長邦雄のフリークラス転出、村山聖の死去の影響で12人総当りで行われた。
  10. ^ この期のB級1組は中原誠のフリークラス転出の影響で12人総当りで行われた。
  11. ^ 先崎学が連勝しなければ昇級。
  12. ^ 先崎学が連敗し、鈴木大介が13回戦で敗れた場合のみ昇級。
  13. ^ 杉本昌隆高橋道雄の両者が連勝しなければ昇級。
  14. ^ 杉本昌隆高橋道雄の両者が連敗し、12回戦で行方尚史阿部隆が、13回戦で畠山鎮がそれぞれ敗れ、渡辺明が1勝1敗以下の場合のみ昇級。
  15. ^ 名人と竜王以外のタイトル3期獲得の規定により、C級1組在籍のまま1度も昇級せず九段への昇段となり、この事例も珍記録である。

出典[編集]

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  1. ^ 止まるかもしれないタブレット対局の不安 - ある棋士の日常(神崎健二公式ブログ)・2016年6月4日
  2. ^ 順位戦はB2以下がチェスクロックになったので、対局者に見やすいように、記録机に設置。 タブレットの棋譜入力と連動。 中段下のオレンジ色の部分は6分割、10秒毎に減っていくそうです。 森九段の「けい」の漢字が出ないのはデフォルト。 - 野月浩貴 Twitter
  3. ^ 記録係。 2016-06-01 - 渡辺明「渡辺明ブログ」
  4. ^ 休憩時間。 2016-06-17 - 渡辺明「渡辺明ブログ」
  5. ^ 日本将棋連盟 対局規定(抄録)
  6. ^ 三段リーグ次点2回による編入が「10月1日付」で行われた場合は10年6ヶ月となる。
  7. ^ C級2組から降級して即時引退となる場合でも、対局が残っている間はフリークラスの棋士として扱われる。加藤一二三|棋士データベース|日本将棋連盟 - 日本将棋連盟、2017年5月22日閲覧
  8. ^ 当期ではない。すなわちA級からB級1組に降級することになった棋士は宣言でき、B級1組からA級に昇級することになった棋士は宣言できない。
  9. ^ 静岡市文化振興課 第72期将棋名人戦第0局~徳川家康公顕彰四百年記念事業~
  10. ^ 将棋世界 2014年9月号 138P
  11. ^ 将棋「名人戦」順位戦A級リーグ最終全対局を初の完全生中継 - スカパー!(2012年12月27日付)
  12. ^ インターネットテレビ局「AbemaTV」にて新たに「将棋チャンネル」を開設 棋界でもっとも格式と歴史のある最高峰の棋戦「名人戦」を生中継 - サイバーエージェント・2017年1月20日
  13. ^ 久保二冠と丸山九段が降級へ 将棋A級順位戦 - 朝日新聞(2012年3月3日付)
  14. ^ 対戦が予定されていた5名の棋士(5回戦・屋敷、6回戦・行方、7回戦・森内俊之、8回戦・羽生善治、9回戦・深浦康市)には不戦勝が計上された。
  15. ^ 大地震における日本将棋連盟の対応
  16. ^ 青野は当期終了時点で63歳を迎えたが、これはB級2組に限定すると関根茂の61歳(第49期・1990年度)を上回る最高齢降級点抹消記録で、降級点制度が存在する全階級(B級2組・C級1組・C級2組)に範囲を広げても北村秀治郎の64歳(第26期C級2組・1971年度)に次ぐ2位の高齢記録である。
  17. ^ ちなみに降級点持ちの状態で当期を迎え抹消にも降級にも至らなかった2名(窪田及び中田)のうち、中田も翌第75期に8勝2敗の好成績を修め、降級点を抹消した。
  18. ^ 千駄ヶ谷ノート40年 - 田丸昇
  19. ^ 2010年8月10日 (火) 終戦の翌年から始まった実力主義の順位戦制度 - 田丸昇

外部リンク[編集]