田丸昇
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田丸 昇 九段 | |
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名前 | 田丸 昇 |
生年月日 | 1950年5月5日(70歳) |
プロ入り年月日 | 1972年4月1日(21歳) |
棋士番号 | 109 |
出身地 | 長野県北佐久郡北御牧村 |
師匠 | 佐瀬勇次名誉九段 |
段位 | 九段 |
戦績 | |
通算成績 | 546勝728敗(0.4285) |
竜王戦クラス | 最高2組 |
順位戦クラス | A級通算1期 |
2016年10月29日現在 |
田丸 昇(たまる のぼる、1950年5月5日 - )は、将棋棋士。2016年10月、引退。長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)[1]出身。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号109。
棋歴等[編集]
- 順位戦A級在籍1期。A級初昇級時の41歳は、木村義徳の初A級44歳に次ぐ史上2位の年長記録。また、「タイトル挑戦・棋戦優勝・将棋大賞受賞いずれの経験もないA級棋士」は、史上初であった。しかし、順位戦では安定した強さをみせ、B級1組には通算16期にわたり在籍し、47歳までB級1組を守っていた。
- 1989年度棋王戦で挑戦者決定戦に進出するも大山康晴に敗れる。これが大山最後の、そして史上最年長66歳でのタイトル戦となった。
- 1996年、現役勤続25年表彰
- 2005年4月19日、通算500勝達成(竜王戦6組、対松浦隆一戦)
- 2008年度順位戦ではC級2組で10戦全敗を喫し、2個目の降級点を取得。2009年4月1日付でフリークラスへの転出を宣言をした。
- 2013年4月1日、九段昇段。八段昇段からフリークラス転出までの期間の勝ち数と、転出後の経過年数が加味された上での「フリークラス規定」に基づく昇段であったが、この規定による九段昇段は史上初であった。
- 上述のフリークラス棋士規定に基づき、2015年度の全対局が終了した時点での引退が予定されており、2016年3月31日にその旨が正式に発表された[2]。同日時点で第29期竜王戦6組昇級者決定戦のみ対局が残っており、当期竜王戦6組ランキング戦における成績の関係上、田丸は4回戦にシードされ、2016年7月29日に上野裕和と対戦し勝利。続く5回戦では同年9月27日に近藤誠也[3]と対戦し、これにも勝利[4]し準決勝に進出した。田丸が決勝を勝ち抜いた場合、次期竜王戦には出場できない[5]が、現役最後の対局を白星で飾るという、将棋界では珍しい記録[6]を残せる可能性があった。しかし同年10月25日の準決勝戦で門倉啓太に敗れ、当日付で引退となった[7]。
人物[編集]
- 将棋を始めたきっかけは、1962年の夏休み(当時、田丸は小学6年生)に村田英雄の「王将」を聞いたことだったという[8]。
- 1965年、6級で奨励会入り。中学卒業とともに師匠の佐瀬勇次の家に下宿し、内弟子生活を始める。このとき、兄弟子である米長邦雄からは高校進学をアドバイスされたが、結局は師匠の意向もあって、高校進学はしなかった。
- 田丸昇自身の著書「将棋界の事件簿」によれば、「14歳で奨励会六級を受験したが、アマチュア二段程度の実力だったので二連敗した。当日の夕方、師匠の佐瀬勇次七段に誘われて新宿の釜飯屋に行った。奨励会幹事の芹沢(博文八段)も連れ立った。(中略)やがて芹沢は少しばかり威儀を正すと「よろしい。君は学生服を着てきちんと正座して対局していたので、試験は合格にしよう」と言ってくれた。これは後で知ったことだが、師匠と芹沢の間には「芹沢くん、うちの弟子を何とか頼むよ」「わかりました。佐瀬さんには麻雀でいつも稼がせてもらっていますからね」というような話の密約があり、最初から合格が決まっていたのだ。昔の将棋界は、幹事の独断や有力棋士の働きかけで奨励会入会を認めることは珍しくなかったという。」とのこと。
- 将棋雑誌はスポーツ新聞などにも執筆。新里緑のペンネームも用いた[9] 。
- 1979年5月に処女出版となった「縁台将棋必勝法」は、版元の鶴書房が発刊2ヶ月足らずで倒産し、印税が25%ほどしか貰えなかった。版元の倒産により絶版となっていたが、その後加筆を含めて「ハイテク将棋必勝法」として出版されている。
- 1983年4月から1984年3月までの1年間、NHK将棋講座の講師を務めた。
- 1989年から1995年まで日本将棋連盟出版担当理事、2001年2月から2003年3月まで雑誌『将棋世界』編集長を務める。
- 将棋連盟の「対局手合係」を長年務めた[10]。
- 女流棋士の谷川治恵は、兄妹弟子で、元妻。弟子には櫛田陽一・井出隼平・小高佐季子(女流)がいる。
- 居飛車党で、定跡から離れた独自の研究による力戦を好むため「つっぱり流」と称された。
- 30代後半にしてすでに総白髪であった。長髪にしていたこともあり、「ライオン丸」と呼ばれた。
- 『「週刊将棋」』の連載や本人のブログにおいて、将棋界の内情、事件、有名人と将棋の係わり等について言及している。
- 九段昇段の際には、事前に田丸本人へ通知されることなく、日本将棋連盟公式ホームページに「2013年4月1日付昇級・昇段者」が2013年4月2日に掲載された。さっそく田丸のブログに九段昇段を祝うコメントが寄せられたが、それを見た田丸は当惑し「1日遅れのエイプリルフールか?」と訝った。[11]
- 順位戦においては、対戦相手への敬意と勝負にかける真剣さを見せるべく、相手の昇級や降級のかかった最終戦に和服で臨むことが多かった[12][13]。
昇段履歴[編集]
- 1965年 6級 = 奨励会入会
- 1967年 初段
- 1972年4月1日 四段 = プロ入り
- 1974年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1979年4月1日 六段(昇降級リーグ2組[14]昇級)
- 1981年4月1日 七段(昇降級リーグ1組[14]昇級)
- 1991年4月16日 八段(勝数規定)
- 2013年4月1日 九段(フリークラス規定)
- 2016年10月25日 引退
主な成績[編集]
在籍クラス[編集]
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
主な著書[編集]
<将棋 戦術書>
- 将棋早わかりベスト作戦 (1982年9月、小学館、ASIN: B000J7JFNC)
- やさしい将棋入門―だれにもわかる! (1983年3月、小学館、ISBN 4091180221)
- 初段に挑戦する将棋シリーズ 将棋がわかる本 (1986年6月、創元社、ISBN 442275064X)
- すぐに役立つ ハイテク将棋必勝法 (1987年7月、棋苑図書、ISBN 4873650445)
- 詰め方カタログ―実戦での詰めがすべてわかる (1987年7月、創元社、ISBN 4422750682)
- 週将ブックス 実戦によく出る仕掛けハンドブック (1987年9月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4895635147)
- 初段に挑戦する将棋シリーズ 急戦左美濃戦法 振り飛車破りの切り札 (1988年4月、エルパカBOOKS、ISBN 4422750690)
- すぐに役立つ 実力アップ実戦次の一手 (1990年6月、棋苑図書、ISBN 4873650623)
- すぐに役立つ 初段をめざす将棋レッスン (1990年8月、棋苑図書、ISBN 487365064X)
- すぐに役立つ オール寄せの手筋 (1991年3月、棋苑図書、ISBN 4873650631)
- すぐに役立つ やさしい実戦詰め方ドリル (1995年9月、棋苑図書、ISBN 487365100X)
- 攻めて勝つ 田丸流実戦アタック (1996年1月、棋苑図書、ISBN 4873651018)
- まんがでマスター子ども名人シリーズ めざせ将棋名人(構成・文、1997年6月、集英社、ISBN 4-08-288048-8)
- 小駒の必勝テクニック(1997年6月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4895636585)
- 振り飛車破りユニーク戦法(2005年2月、創元社、ISBN 4422750984)
<将棋 著作>
- 運命の一着 この一手が将棋史を変えた。 (1996年4月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-89563-651-8)
- 将棋界の事件簿 現役プロ棋士の実話レポート(2005年10月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-1802-3)
- 実録 名人戦秘話 ~棋士生活40年 田丸昇の将棋界見聞記(2011年12月、マイナビ、ISBN 4839939845)
- 熱血の棋士 山田道美伝(2012年12月、マイナビ、ISBN 4839943729)
脚注[編集]
- ^ 独り遊びが好きだった田丸の少年時代
- ^ 日本将棋連盟・お知らせ「昇段・引退棋士のお知らせ」(2016年3月31日)
- ^ 近藤は当時プロ入り1年目で、デビュー以来33勝8敗(しかも、田丸と対局した時点で直近7連勝)で、将棋界大難関とされる王将リーグへの出場を決めるなど、快進撃を続けていた。
- ^ 当該対局の棋譜及び観戦記は、2016年10月14日から同年同月21日の読売新聞に掲載された。同新聞社は当初、当期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負(三浦弘行対丸山忠久)を掲載する予定であったが、七番勝負の挑戦者となるはずだった三浦の将棋ソフト不正使用疑惑(のちに不正行為の不存在が認定された)を受けて、掲載を見合わせたことで代わりに田丸の対近藤戦が掲載される形となった。
- ^ 順位戦のC級2組で降級点を3回喫したり、三段リーグで次点2回を獲得したりしてフリークラスに編入した棋士が、在籍期限の最終年度を竜王戦5組で迎えて残留した場合は竜王戦に限定して2年間引退を延長できる規定が存在する。しかし田丸は在籍期限の最終年度を6組で迎え、かつ自身の意思でフリークラスに転出したため、この規定の対象外であった。
- ^ 現役最後の対局を白星で飾る例は、フリークラス制度が創設されて以降、田丸の引退までに2例発生している(2010年度の大内延介・2015年度の淡路仁茂)が、いずれも残留決定戦での白星であり、昇級者決定戦の勝ちあがりの例はまだない。
- ^ 日本将棋連盟公式web・将棋ニュース「田丸昇九段が引退」(2016年10月26日)
- ^ ラジオから流れる村田英雄「王将」を聴いて将棋を始めた(3ページ目) 日刊ゲンダイ(田丸昇)、2017年12月29日(2018年7月27日閲覧)。
- ^ 越智信義『将棋文化誌』 (Kindle本)
- ^ 越智信義『将棋文化誌』 (Kindle本)
- ^ “田丸昇は2013年4月1日付で九段に昇段しました”. 将棋棋士田丸昇のと金横歩き. 2015年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月25日閲覧。
- ^ 代表的な例に、第63期順位戦B級2組最終局・土佐浩司戦があり、土佐は8勝1敗で暫定2位(田丸に勝てばB級1組に昇級、敗れても暫定3位の野月浩貴が敗れた場合は昇級)で最終局を迎えたのに対し、田丸は9連敗で既に最終局の勝敗結果に関わらずC級1組への降級が決定していた。田丸はこの土佐戦に勝ち、一方で野月は屋敷伸之に勝ったため、結果として土佐は昇級できなかった。
- ^ 田丸ブログ「と金の横歩き」、週刊将棋「と金ゼミナール・拡大版 田丸の秘蔵写真特集」ほか
- ^ a b 昇降級リーグ2組は現在の順位戦B級2組、昇降級リーグ1組はB級1組に相当する。