木村義徳

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 木村義徳 九段
名前 木村義徳
生年月日 (1935-05-02) 1935年5月2日(83歳)
プロ入り年月日 1961年10月1日(26歳)
棋士番号 82
出身地 東京都
師匠 加藤治郎名誉九段
段位 九段
戦績
一般棋戦優勝回数 1回
2017年8月24日現在

木村 義徳(きむら よしのり、1935年昭和10年)5月2日 - )は、将棋棋士東京都出身。加藤治郎名誉九段門下。棋士番号82。

戦績[編集]

  • 早稲田大学第二文学部在学中の1956年にアマチュア名人・学生名人を獲得。
  • 1958年、アマチュアとして第9期九段戦予選に特別参加。芹沢博文に敗れた。
  • 1959年、三段で奨励会入り[1]
  • 第27期(1972年度)順位戦でB級2組において成績不振により降級点を喫する。しかし、翌期には好成績を修め抹消した。
  • 第20期(1978年度)王位戦で予選を勝ち抜きリーグ入り。土佐浩司[2]を撃破する活躍を見せたが、土佐からの1勝のみで陥落となってしまった。
  • 第37期(1978年度)順位戦でB級2組からB級1組に昇級し、翌期も連続で昇級して初のA級入りを果たした[3]。B級2組以下で降級点を喫した経験のある棋士がA級に昇進したのは史上初で、第70期(2011年度)に至るまでも木村のみである。
  • 当時44歳での初のA級昇級は新記録であったため、1980年の将棋大賞で木村は殊勲賞を受賞した。だが、第39期と第40期ですぐに2期連続降級してB級2組に戻ってしまった。
  • 第40期B級1組順位戦では、1期の間に2度の反則負けをしてしまった(2手指し、馬の動かし間違い)。また当期は1局目から9局目まで連敗し、前期A級順位戦の9戦全敗と併せて順位戦18連敗となった。

人物[編集]

  • 木村義雄十四世名人の三男。親子九段は近代将棋史上2組目(もう一組は板谷四郎板谷進親子。なお、現役中の昇段だけによる親子九段はまだ出ていない)。
  • 父の義雄とは違って「弱がり」である事で有名で、「自分の将棋は弱い」と公言してはばからない。
  • 関西将棋会館の将棋博物館の館長を長く務めた。
  • 将棋の歴史についての研究分野でも著名であり、古代インドに端を発する「世界チェス(チャトランガ)」が各地で変化してチェスシャンチー、将棋などになったという説や、興福寺境内跡で発掘された駒は持ち駒ルールの下で使われ、それゆえ11世紀にはすでに持ち駒ルールが存在していたということを発表している。こうした木村義徳の説に対しては増川宏一が反対し、論争が続いている。
  • 昭和30年代には、チェス・プレイヤーとしても、活動したことがある[4]
  • 引退後は弟子の育成に専念。女流棋士となった弟子に井道千尋がいる。かつては奨励会にも棋士を目指している木村門下が複数名いた。

昇段履歴[編集]

  • 1959年 三段 = 奨励会入会
  • 1961年10月1日 四段 = プロ入り
  • 1966年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1968年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1970年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1980年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1991年3月 引退
  • 2000年4月1日 九段(退役棋士の昇段規定)

主な成績[編集]

将棋大賞[編集]

  • 第7回 (1980年度)殊勲賞
  • 第24回(1997年度)東京記者会賞

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 現行の三段リーグ編入制度に基づくものではない。
  2. ^ 土佐は当時十段戦で難関の予選を通過しリーグ入りするなど有望視されていた若手であった。
  3. ^ この経験を著書『弱いのが強いのに勝つ法』にまとめている。同書によると、それまで木村が得意としていた振飛車戦法は、必然的に長期戦となるため(大山康晴のような)「強者」が勝つための戦法だという。「弱者」が「強者」に勝つには、短期決戦となるべく急戦を仕掛けるべきだとし、実際この「連続昇級」の際には振飛車党から居飛車党に棋風を改造したという。
  4. ^ 東公平『近代将棋のあけぼの』(河出書房新社)P.195

関連項目[編集]

外部リンク[編集]