女流棋士 (将棋)

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女流棋士(じょりゅうきし)は、将棋を職業とする女性。日本将棋連盟所属の者、日本女子プロ将棋協会 (LPSA) 所属の者、いずれにも所属していない者(フリー女流棋士)がいる。

概説[編集]

将棋界においては、「棋士の制度(男女の区別なし)」と「女流棋士の制度(女性のみ)」という2つのプロ制度が併存している[1] [注釈 1]。女流棋士の制度は棋士の制度から分離されたものであり、女性や子供への将棋の普及を目的とする側面を持っている

女流棋士制度成立の経緯[編集]

1960年代の女性教室の開催や女流名人戦(現在の女流アマ名人戦)の創設などを踏まえて、その当時の日本将棋連盟副会長であった大山康晴は、かねてより女流棋士の存在によって普及面を充実させるという考えのもとで女流棋士制度の確立を強く提唱し[4]、当初は反対も多かったが[5]、その後大山や原田泰夫などの尽力で、1974年、連盟棋士会における満場一致の決議により、女流棋士制度が正式に発足した[5]

下記の6名が1974年10月31日付で制度上の女流棋士となった[6]。この6名が女流棋士1期生である[7]

  • 蛸島彰子…女流三段。女性として初めて奨励会に入会し、退会後レッスンプロ二段として活動[6]。2018年現役引退。
  • 関根紀代子…女流二段。蛸島に匹敵する棋力の女性アマとして活動[8][6]。2011年現役引退。
  • 多田佳子…女流二段。女流アマ名人戦を4度優勝するなど活躍[6]。2004年現役引退。
  • 山下カズ子…女流初段。1972年に女流1級になっていた[9]。2012年現役引退。
  • 寺下紀子…女流初段。1962年に始まった将棋連盟の女性教室の第1号生徒であり、成績優秀者[10]。1985年現役引退。
  • 村山幸子…女流初段。女性教室の成績優秀者。1989年現役引退。

女流棋士と棋士(奨励会)[編集]

将棋の棋士の制度に男女の区別はなく、新進棋士奨励会が1928年(昭和3年)に創設されて以来「奨励会に入会し、昇級昇段規定を満たして四段に昇段すること」が棋士となる要件である[11][注釈 2]。そのために1974年の女流棋士制度の発足以降も女流棋士は奨励会に重複して在籍可能で、そのために女流棋士でありながら棋士になるために、林葉直子中井広恵矢内理絵子碓井涼子などが奨励会に重籍していた。しかしその事に奨励会員からの不満の声もあり、1998年に女流棋士総則が改訂され、「奨励会員と女流棋士の重複は認めない」とされ、奨励会に籍を置く際には女流棋士を休会しなければならなくなった[14][注釈 3]

2011年に里見香奈女流三冠が奨励会への挑戦を表明。それを踏まえて将棋連盟理事会は、「女流棋士が奨励会試験を受験し入会することは自由である」として女流棋士と奨励会員の重複を再度認めるようになり[15]。里見は2011年5月に1級で編入試験に合格すると[16]、2012年1月初段、2013年7月二段、同年12月三段に昇段。その後、奨励会三段リーグでは3期の休場を挟んで計5期出場したが、四段昇段を果たせず年齢制限により退会した。

2019年時点で棋士になった女性はいないものの、上記の里見が奨励会退会後にプロ公式戦の女流参加枠で棋士編入試験[注釈 4]受験資格獲得に迫る成績を挙げていた事と、奨励会員西山朋佳が三段リーグ在籍中で顕著な成績を上げていた事を踏まえて、いずれかが四段昇段を果たした場合の明確な対処基準を設定することが求められていたため[17]、2019年8月7日、日本将棋連盟は「女流棋士、女性奨励会員の棋戦参加について」で「①女流棋士がプロ棋士編入試験[注釈 4]に合格した場合、女流棋戦、及びプロ棋士公式棋戦の両方に出場することが出来る。」「②奨励会に所属している女性が四段に昇段をした場合、女流棋士申請を行うことが出来る。ただし、申請期間は昇段日から2週間以内とする。」として女流棋士と棋士を並行して活動できることとした[19]

活動[編集]

女流棋士の主な仕事としては女流公式戦の対局(現役のみ)、普及活動、メディア出演、イベント出演、指導対局、講座、講演、聞き手、将棋教室、記録係などがある[20]。しかし対局以外については、特に決まりがあるわけではないのでそれぞれのやり方に委ねられている。

スポーツ選手などと異なり、現役を引退した女流棋士も、女流公式戦の対局ができなくなるだけで、それ以外の女流棋士としての活動(身分)には変化がない。

女流公式戦[編集]

棋士との対局[編集]

成績優秀な女流棋士は、棋士(以下「男性棋士[21]」)の公式戦(以下「男性棋戦」)のうち女流棋士枠を設けている棋戦に参加できる。

男性棋戦への女流棋士枠での出場権は、タイトルホルダー・タイトル挑戦者クラスの女流棋士や、主催者推薦、連盟推薦、女流棋士予選による選抜(NHK杯)などで決定される。また、新人王戦については、「26歳以下」という枠組みの中で、年間成績によって選抜される。

しかしながら1981年に男性棋戦への参加枠が設けられてからも、女流棋士が男性棋士に勝つことは12年後の1993年[注釈 5]までなかった[23]。その後も、女流棋士の男性棋戦での勝率は1割から2割に留まっていた[23]

長きにわたって将棋界では男女の棋力差が大きいとされてきたが、2018年現在、その差は縮まっている[23]。女流棋士が男性棋戦で勝利する例が増え、その中には若手精鋭の男性棋士に対する勝利も含まれるなど、女流タイトルホルダークラスの実力は、男性棋士と対等に戦えるレベルに達している[24]

待遇[編集]

棋士および女流棋士は個人事業主である[25]。女流棋士については、産前6週間、産後8週間が「産休」と位置づけられ、女流公式戦の対局義務を免除される[25]

女流棋士の待遇については特に公表されていない[注釈 6][注釈 7]が、将棋連盟理事を務めたこともある田丸昇は2019年6月の自身のコラムで、女流棋士の待遇について「棋戦契約金による経済基盤は決して十分でなく、賞金や対局料で生活できる女流棋士は限られて待遇の底上げが課題だと思う。」と述べている[29]

連盟の運営への女流棋士の関与[編集]

1974年に女流棋士制度が発足してからも長きにわたり、日本将棋連盟の正会員として、棋士総会に出席して議決権を行使できるのは棋士のみであった。女流棋士が日本将棋連盟の運営に関与できない状況が続いていたが、2010年11月12日に行われた日本将棋連盟臨時総会で、「女流四段以上またはタイトル経験者」である女流棋士9名[注釈 8]が2011年4月から正会員になることが決まった[30]

2011年4月1日付で、社団法人日本将棋連盟が公益社団法人となると同時に施行された定款では、下記のように規定されている(『第1項』『第2項』は理解の便のため引用者が挿入)[31]
「第3章 会員
(会員の構成)
第5条
第1項 本連盟に次の会員を置く。
(1) 正会員 本連盟の目的に賛同し入会した者で日本将棋の伝統を存続し、普及発展を図るため棋力が一定の水準に達したことを理事会で確認した棋士(四段)、女流棋士(日本将棋連盟所属、タイトル獲得者又は女流四段以上)とする。
(2) 準会員 本連盟の目的に賛同し入会した者で日本将棋連盟の伝統を存続し、普及発展を図るため棋力が一定の水準にある女流棋士(女流2級から女流三段)、指導棋士とする。
(3)略
(4)略
第2項 前項の正会員をもって一般社団法人及び一般財団法人に関する法律上の社員とする。」

さらに、清水市代が2017年5月に日本将棋連盟常務理事に就任し[32]、女流棋士として初めて、連盟の業務執行に携わることとなった。

女流棋士になる条件[編集]

通常の制度[編集]

女流棋士になるには女流2級になる必要があり、女流棋士になる条件は日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)ともにほぼ同じである[注釈 9]。現行制度は2018年4月に改正されたものである[33]

満27歳未満(日本将棋連盟)または満40歳未満(LPSA)の女性で以下のいずれかの条件を満たした者は、女流2級の資格を得る[33]。資格獲得後所定の期間内に、日本将棋連盟への申請の場合はプロ棋士または日本将棋連盟の正会員である女流棋士を師匠として(LPSAの場合は師匠なしも可)申請を行い、それぞれの承認を受けた日の翌月1日時点で女流2級となる[33]。女流2級昇級後の半年間は研修期間として、公式戦の記録係などの義務が課される[33]。なお、研修会・アマチュア時代に女流公式戦で実績を挙げていても、その実績は考慮されず、一律に女流2級スタートとなる[33]

研修会から女流棋士へ[編集]

研修会でB2クラスへ昇級するか、あるいは最初からB2以上のクラスに入会し、入会後48局以上の対局数を満たす女流棋士志望の研修生は、女流2級の資格を得る。B2在籍開始時点で48局の対局数に満たない場合は対局数を満たした時点で女流2級の資格を得、この間にC1以下に降級したときは資格を取り消される。女流2級申請資格の有効期間は1年間であるが、資格獲得日から2週間以内に申請を行わない場合、半年間は新たな申請ができない。申請を行わなかったときは半年後と1年後にそれぞれ2週間の申請期間が設けられ、1年後に申請を行わなかった場合資格は消滅する。また、この期間中に研修会から退会、または長期休会した場合も資格は消滅する。

アマチュアから直接女流棋士へ[編集]

アマチュア出場枠のある下記の女流公式戦で所定の成績を収めた場合に、研修会に入会して所定の要件を満たすことなく、女流2級の資格を得る(研修会員もアマチュアであるので、女流公式戦で所定の成績を収め、この規定により女流2級の資格を得ることが可能)[注釈 10]。ただし、権利を得た日から2週間以内に申請を行わない場合、権利は消滅する。

奨励会退会者の編入制度[編集]

奨励会規定の下記の条項

奨励会2級以上で退会の場合は、退会時の段級位でそのまま女流棋士の資格を得る

を根拠とする[35]

「退会時の段級位でそのまま女流棋士の資格を得る」とは、例えば、女性奨励会員が1級で退会し、女流棋士に転向する場合は女流1級となる、という意味である。ただし、奨励会時代に女流公式戦で実績を挙げていれば、女流棋士としての段級位を定めるにあたり考慮される[35][注釈 11]

女性棋士への女流棋士資格付与[編集]

女流棋士の資格を有さない女性の奨励会員が四段に昇段したときは、四段昇段日から二週間以内に女流棋士申請を行うことで、女流棋士の資格を得られる[19]

女流棋士になるための制度の変遷[編集]

女流育成会
コース
奨励会
コース
その他の
コース
1974年度-1983年度 棋士の推薦を受けたアマチュアの強豪女性が
連盟理事会の審議を経て女流棋士となった。
1984年度-1991年度 年1回の女流育成会リーグの上位2名[注釈 12]
1992年度前期-1996年度前期 年2回の女流育成会リーグの上位1名。
1996年度後期-2003年度前期 A級、B級リーグに分けA級の1位。
2003年度後期-2008年度後期 リーグ戦1位に与えられる昇級点2回獲得。 奨励会を2級以上で退会すると、
退会時の段級位で女流棋士となる資格を得る。
研修会
コース
奨励会
コース
女流棋戦
コース
2009年度4月-2013年9月 ・研修会でC1クラス以上
・研修会入会後48局以上の対局数
いずれも満たしている者は女流3級になる資格を得る[注釈 13]
奨励会を2級以上で退会すると、
退会時の段級位で女流棋士となる資格を得る。
2013年10月-2018年3月 アマチュア枠がある女流棋戦で
ベスト8などの成績を上げると女流3級になる資格を得る[注釈 14]
2018年4月- ・研修会でB2クラス以上
・研修会入会後48局以上の対局数
いずれも満たしている者は女流2級になる資格を得る。
アマチュア枠がある女流棋戦で
ベスト8などの成績を上げると女流2級になる資格を得る。

女流3級から女流2級への昇級[編集]

2009年4月の制度改正により、研修会が女流棋士育成機関となると同時に、「仮の女流棋士資格」として「女流3級[注釈 15]」が設けられた。女流3級は女流公式戦への参加義務があり、女流3級から正規の女流棋士(女流2級)になるためには、下記のいずれかの条件を満たすことが必要であった。なお2018年4月の制度改正後は、経過措置を除いて女流3級は廃止された[注釈 16]

  1. 1年間で参加公式棋戦数と同数の勝星を得る(2017年度では年度7勝以上)。
  2. 2年間で参加公式棋戦数の4分の3以上の勝星を得る(2017年度では2016年度からの2年間で11勝以上)。
  3. 女流棋士の昇段級規定の「女流1級」に該当した場合。
  4. 女子将棋YAMADAチャレンジ杯でベスト4に進出した場合(2016年より)。

2年間で上記のいずれも満たせなかった場合は、女流3級の資格を取り消される。その場合でも年齢制限に達していなければ、再度研修会から女流棋士資格をめざすことが可能であった。

アマチュアからの女流3級になった者については例外規定として、そのまま本戦ベスト4に進出した場合は即時女流2級に昇級する。また資格を失った時に研修会に入会できる規定はなかった。なお資格を失った場合、再度公式棋戦で前述の条件を満たせば、最大3回まで資格(権利)を再取得することが可能であった。

引退[編集]

「自らの意志による引退」と、『女流棋士総則』の『降級点規定』による引退[38]が存在する。

ただし、引退後も一部の女流公式戦(2019年現在、女流王座戦のみ)にアマチュアとして出場することは可能である。過去に女流王座戦アマチュア予選では、第1期に林葉直子大庭美夏藤田麻衣子[39]、第4期に藤田(2回目)・山下カズ子(本名の「中川カズ子」名義)がアマチュアとして出場したことがある[40]

引退と同時に、あるいは引退の後に所属団体を退会する者もいる。この場合、女流棋士としての身分を放棄することとなる。

降級点規定[編集]

女流棋士は、年度成績の順位下位者に該当すると降級点がつく。ただし、出産・病気による休場の場合は、降級点の対象外となる。

  • 女流棋士は、3つ目の降級点がつくと引退となる。
  • 女流棋士は65歳の誕生日を迎えた年度まで現役を続けることができる。
  • ただし、65歳になった年度終了時に降級点を1つも持っていない場合、翌年度も現役を続けることができる。
  • 女流棋士は65歳を過ぎると、降級点が1つでもつくと、その年度をもって引退となる。

降級点の人数は、当該年度の起点となる4月1日現在の女流2級以上の女流棋士数を基準とする。ただし、4月1日現在の休場者数は基準人数に含まない。

  • 降級点の人数は、基準人数36名のときに降級点の人数を1名とし、その後は、基準人数が5名増えるごとに、降級点の人数が1名ずつ増える。
  • 年度途中に自主引退者が出た場合は、降級点の人数から自主引退者の人数を引き算した数が、その年度の降級点の人数となる。
  • 年度途中に休場者が出た場合も、原則として、降級点の人数は変動しない。
降級点の決め方
  1. 降級点は、女子将棋YAMADAチャレンジ杯を除く女流6棋戦における活躍度によって年度成績の順位を決定し、その順位下位者から順につく。
  2. 年度成績の順位を決める棋戦サイクルは、便宜上、大山名人杯倉敷藤花戦、リコー杯女流王座戦、マイナビ女子オープン、女流王位戦(予選)、岡田美術館杯女流名人戦(予選)、霧島酒造杯女流王将戦(予選)までとする。
  3. 女流王位戦の予選免除者(前期挑戦者決定リーグ残留者)、岡田美術館杯女流名人戦の予選免除者(女流名人リーグ残留者)、霧島酒造杯女流王将戦の予選免除者(本戦シード者)は、前期の実績を活躍度とする。
  4. 出産・病気による休場者は、休場の時期に関わらず、休場期間を含む当該年度において降級点の対象外となる。
  5. 出産・病気以外の理由による年度単位の休場者には、年度終了時に降級点0.5がつき、0.5の降級点は2回で降級点1となる。
  6. 出産・病気以外の理由による年度途中の休場者は、年度成績の順位下位者に該当した場合、降級点の対象となる。
  7. 当該年度における年度成績の順位に差がない場合は、前年度の年度成績に遡って順位を決定する。前年度の年度成績でも差がない場合は、そのさらに前年度と1年ずつ遡って順位を確定する。
降級点の消し方
  1. 女流1級の昇級規定に該当した場合、降級点を取り消すことができる。ただし、女子将棋YAMADAチャレンジ杯による昇級規定は対象とならない。
  2. 年度内指し分け以上には、女子将棋YAMADAチャレンジ杯の成績を含まない女流6棋戦の良い所取りで6勝指し分け以上も対象となる。
  3. 降級点の消し方について、複数の規定に該当した場合も、年度内に消せる降級点は1つとなる。

沿革[編集]

女流棋士を取り巻く環境や制度の変遷を中心に記載する。

前史[編集]

江戸時代後期、1809年大橋浪(おおはし なみ)二段が福島順喜七段と飛車落ちで指した棋譜が残っており、これが女性が指した最も古い棋譜とされている[41]。大橋は、飛車落ちの手合いながら、当時の強豪棋士だった福島に102手で勝利している[41]。大橋の具体的な活動は不明だが、大橋という名字、女性ながら二段を名乗っていることなどから、女性の棋士[注釈 17]として活動していたとされる[41]。その後、池田菊水野こうなどが女性の棋士として活動し、当時の将棋番付に名を連ねていた[42]

しかし、明治から昭和中期までの期間、賭け将棋が横行したことなどが影響し、将棋を指す女性は激減[42]。また将棋関係者の間でも、将棋は緊張感とスピードで勝負が厳しすぎて女性には向かないという意見が圧倒的に多く、将棋連盟も長年、女性への普及に関しては極めて消極的だった[43]

レッスンプロ時代[編集]

1961年、蛸島彰子奨励会に7級で入会し、史上初の女性奨励会員となり、かつ唯一の女性として1966年まで在籍[44]

同じ1961年に将棋会館が中野から千駄ヶ谷の敷地に移転、2階建ての将棋会館が落成され、将棋道場が作られる[43]。同年から道場内で日本将棋連盟の女性教室が始まり、蛸島は1966年の奨励会退会後は初段[注釈 18]としてその教室の講師を務めるなど唯一の女性プロ(レッスンプロ)として活動。

1968年、女性のみを対象とした初めての棋戦である女流名人戦(現・女流アマ名人戦[注釈 19])が日本将棋連盟主催で創設[43]

1972年、山下カズ子も女流1級となり[9]、蛸島と山下のコンビでNHK杯の棋譜読み上げを約20年間続けた[44]

女流棋士の誕生[編集]

1974年9月、連盟棋士会における満場一致の決議により、女流棋士制度が正式に発足[5]

1974年10月31日、初の女流プロ公式戦として、報知新聞が主催する女流プロ名人位戦(現・女流名人戦)が創設され[6][注釈 20]、女流棋士による史上初の公式戦である第1期プロ女流名人位戦の予選、寺下紀子女流初段 - 村山幸子女流初段の対局が、東京・将棋会館で行われた。なお、第1期は蛸島が別格とされ、その他の女流棋士5人でトーナメントが行われ、勝ち上がった寺下紀子と蛸島の三番勝負の結果、蛸島彰子が初代女流名人に輝いた。

女流三強の台頭[編集]

1980年4月、奨励会に在籍していた林葉直子が女流棋戦主催者の強い要望を受けて中学生で女流2級として女流プロ入り。1982年4月に第4期女流王将戦で女流王将を史上最年少の14歳3か月で奪取。

1981年4月、中井広恵が小学生(11歳10か月[注釈 21])で女流棋士になると、1985年度の第12期女流名人位戦で林葉から女流名人を16歳6か月で奪取。

1984年4月、女流棋士の育成機関として女流育成会が創設[注釈 22]

1985年4月、清水市代が女流育成会の卒業生第1号として女流2級としてプロ入り。清水はプロ入り3年目の1987年に中井から女流名人を奪取すると、その後は林葉、中井とともにタイトル戦の常連となり、1990年代半ばまで女流三強を形成した。

1989年11月、女流棋士発足15周年パーティが開催されたのを契機に、女流棋士会が発足。

1991年4月、林葉直子が女流王将10連覇(当時の同一女流タイトル連覇記録)を達成。これを機に女流棋戦でクイーン称号が設けられた。

1993年12月9日、中井広恵が男性棋戦の第6期竜王戦池田修一に勝利し、公式戦対局39局目にして初めて男性棋士に勝利した女流棋士となった。

1994年6月から7月にかけて林葉直子の失踪騒動が起こり[50]、その影響で翌1995年林葉は将棋連盟を退会[50]

清水・中井の二強時代[編集]

1996年度の第18期女流王将戦五番勝負では、女流棋戦としては史上初の海外対局として、第1局がアメリカアトランタで行われた[51]。第1局に勝利した清水がそのまま7月1日に女流王将を中井から奪取し、女流四冠独占を達成した(清水は98年度に2回目の女流四冠独占を達成)。清水は理事会審議を経て2000年10月に前例のない女流六段に昇段。

1998年4月、連盟の棋士総会で女流棋士による奨励会との重籍が禁止とされた(2011年からは再び解禁[52])。

2002年7月、第24期女流王将戦で中井広恵が清水からタイトル奪取し、史上二人目の女流三冠を達成。これにより中井も同年11月に女流六段に昇段。この頃、女流タイトルも清水・中井の2人でほぼ独占。2007年の倉敷藤花戦まで両名のいずれかがタイトル戦に出続けた。

一方で2000年代半ばあたりから、矢内理絵子が女流名人や女王石橋幸緒が女流王位、千葉涼子が女流王将をそれぞれ清水・中井から奪取するなど、「花の55年組」「若手三羽ガラス」が、二強の牙城に割って入るようになった。

2003年10月、奨励会を2級以上で退会した女性が、そのままの段位で女流棋士に編入できる規定が設けられた。

日本女子プロ将棋協会の設立[編集]

2005年10月10日、61年ぶりに実施された日本将棋連盟のプロ編入試験では、女流棋士の地位向上の意味もかねて中井が女流棋士として唯一の試験官に選ばれ[53]、受験者の瀬川晶司と六番勝負の第4局で対局した[54]。この対局は中井の痛恨のミスもあり瀬川が勝利した[55]

2006年11月、女流棋士会日本将棋連盟から独立する動きが報じられた。女流棋士は対局料などの面で棋士と格差があること、棋戦を自ら運営できないこと、連盟の意思決定に参画できないこと、などの点で待遇改善を求める声があった。また、将棋連盟としては引き止めるどころかむしろ、独立を促すような言動があったとされている[56]。女流棋士会側ではこれ以前から制度委員会を発足させており、独立も視野に入れて体制改革への意見集約が進められていた。

同年12月1日、女流棋士会は臨時総会を開き、独立に向けた新法人設立のための設立準備委員会の設置を賛成多数で可決した。しかし、「これで独立が決まった」と解釈する者と「単に設立準備委員会の設置のみが決まった」と解釈する者とがいた[57]。独立に至る過程で、準備委員会と連盟理事会との間の交渉が難航し、また、女流棋士の中の意見も一つにまとまらなかったため、結果的に56名(引退女流棋士を含む)中39名の女流棋士が残留を表明し、女流棋士会は分裂することとなった。2007年4月24日に、連盟の米長邦雄会長、西村一義専務理事、田中寅彦常務理事から正式な説明と発表がなされた[58]

2007年5月30日に、日本将棋連盟を退会した女流棋士17名によって「日本女子プロ将棋協会(LPSA)」が設立された。

女流棋界の変革[編集]

2008年11月、里見香奈が第16期大山名人杯倉敷藤花戦林葉直子中井広恵に次ぐ史上三番目の若さの16歳8か月で[59]清水市代から初タイトルを奪取。

2009年4月、女流棋士育成の機能が女流育成会から研修会(男女混合)に移行し、研修会で一定のランクに昇級した者が女流棋士になれる制度となる[60]

2009年4月、日本将棋連盟が、棋士・女流棋士の両方を含む新たな棋士会を創設。女流棋士会は棋士会の中の組織となる。

2010年10月、清水市代がコンピュータ将棋『あから2010』と対戦。非公式戦ながら86手で男女通じてプロの棋士として初めてコンピュータに敗退した[61]

2010年10月、第32期霧島酒造杯女流王将戦で里見香奈が清水市代からタイトルを奪取。これにより1992年3月に女流王将を獲得して以来、1つ以上のタイトルを維持してきた清水市代を18年7か月ぶりに無冠に追い込むなど、長く続いた清水・中井の二強時代からの世代交代を果たした[62]

2011年度、女流タイトル戦「リコー杯女流王座戦」が創設され、同時に女性奨励会員の女流棋戦参加が解禁され[15]、女性奨励会員が、参加資格を女流棋士に限定していないリコー杯女流王座戦マイナビ女子オープンに参加できるようになった。

2011年4月、日本将棋連盟の公益社団法人化に伴い、女流四段以上またはタイトル獲得経験のある日本将棋連盟所属の女流棋士9名が正会員となる[30]

2012年7月、LPSA渡部愛を独自の規定によって女流3級と認定したことに端を発し、日本将棋連盟、棋戦主催社、LPSAの間で深刻な問題が発生。その後、2014年6月に連盟とLPSAの間で和解が成立。

里見香奈の活躍[編集]

2013年5月、里見香奈が第6期マイナビ女子オープン上田初美からタイトルを奪取、史上初の女流五冠を達成。

2013年10月、女流公式戦で顕著な実績を挙げたアマチュア女性選手が、研修会・奨励会を経ずに女流棋士になれる規定が設けられた[63]

2015年8月、里見香奈が女流棋士最多連勝記録21連勝を達成[64]

2017年2月、インターネット将棋対戦サイトで実力をつけた後、女流棋士を目指し、来日して研修会に入会したポーランド人のカロリーナ・ステチェンスカが女流2級となり、棋士・女流棋士を通じて将棋界初の日本国籍を有さないプロとなった。

2017年5月、清水市代が女流棋士として史上初めて日本将棋連盟常務理事に就任[32]

2019年8月、日本将棋連盟は「女流棋士、女性奨励会員の棋戦参加について」を発表し、女流棋士が棋士になった場合、もしくは女性奨励会員が棋士になった場合に、棋士と女流棋士と兼業できる規定を設けた[19]

2019年9月、里見香奈が第1期ヒューリック杯清麗戦の決勝5番勝負で甲斐智美を破り、史上初の女流六冠を達成。

2020年4月、清水市代が理事会審議を経て女流七段に昇段。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 囲碁界(日本棋院関西棋院)においては、男女の区別がない「棋士の制度」のみが存在し、囲碁界で用いられる「女流棋士」という言葉は、制度の違いを表すものではなく、「女性である棋士」を表すものに過ぎない。ただし、囲碁界での棋士の採用については、人気の高い女性棋士を増やして囲碁の普及に資するため、棋士採用枠とは別に、女性のみを対象とした女性棋士採用枠が設けられている[2]。棋士採用枠で女性が棋士に採用されることも可能ではあるが、謝依旻が2004年に採用された(棋士採用枠で採用された女性では4人目[3])のが最後である(2018年現在)[2]
  2. ^ 例外として花村元司は1944年に、瀬川晶司は2005年に、いずれも制度によらない特例措置により、奨励会を経ずに棋士になった。日本将棋連盟は2006年に「プロ編入試験(現・棋士編入試験)」を制度化し、アマチュア(男女を問わない)・女流棋士が、奨励会を経ずに棋士になる道を正式に設けた[12]。男性アマの今泉健司は2014年にプロ編入試験に合格し、2015年4月1日付で棋士になっている[13]
  3. ^ ただし、すでに兼業していた矢内と碓井は特例として引き続き在籍が認められた
  4. ^ a b 日本将棋連盟は、2019年10月から、従来の「プロ編入試験」の名称を「棋士編入試験」に変更した[18]。名称変更は、アマチュアに加えて女流棋士も受験することが想定されることを考慮したもの[18]。試験の名称を変更した以外は従来と同じ[18]
  5. ^ 女流棋士の男性棋戦での初勝利は、1993年12月9日、中井広恵池田修一六段戦(竜王戦6組)[22]。この時点まで女流棋士は男性棋戦で38連敗であった[22]
  6. ^ 2005年時点の状況は次のとおりであった[26]。給料はなく、国民年金国民健康保険は全額自己負担であり、「日本将棋連盟のアルバイト」の待遇であった[26]。女流棋士が連盟から受け取れるのは女流公式戦の対局料のみで、女流棋士の平均額は年間100万円程度であり、清水市代が女流4タイトル独占(1996年度・1998年度、当時の女流タイトルは4つ)を果たした時に年間1千万円を超えた例があるのみであった[26]。仮に1勝もできなければ、対局料は年間15万円程度に過ぎなかった[26]。人気女流棋士は対局料以外の収入(イベント出演・アマチュアへの指導など)で補うことができたものの、コンビニエンスストアでアルバイトをして糊口を凌ぐ女流棋士も存在した[26]
  7. ^ 2011年度に日本将棋連盟が公益法人に移行するまで、男性棋士は一般企業の社員のような待遇を受けており、月給と年2回の賞与が支給され、厚生年金社会保険も完備していた[27]。2017年現在、男性棋士の平均年収は500万円 ‐ 700万円とされる[28]
  8. ^ 2010年11月12日時点での該当者は、甲斐智美里見香奈清水市代関根紀代子長沢千和子斎田晴子矢内理絵子千葉涼子、および引退女流棋士の谷川治恵の計9名。
  9. ^ LPSAについては2007発足当初は、日レス杯または天河戦で優勝1回ないし準優勝2回、あるいは1dayトーナメントの個人戦で優勝3回など独自の棋士規程を定めていたが2014年以降の二度の改定により、女流棋士になるための条件は連盟のものとほぼ同一となった。ただし、完全に同一ではなくLPSAについては師匠の有無を不問とする、およびアマチュアから女流2級でプロ入りする際の年齢制限が「満40歳未満」の部分が連盟と違う。
  10. ^ この制度を利用して女流棋士になったのは礒谷真帆(2018年11月)[34]野原未蘭(2020年9月)。
  11. ^ この制度を利用して女流棋士になったのは岩根忍(奨励会1級→女流1級、2004年4月1日)、伊藤沙恵(奨励会1級→女流初段(奨励会時代に女流棋士の昇段級規定の「女流初段」に該当する実績を挙げていたため)、2014年10月1日)、加藤桃子(奨励会初段→女流三段(奨励会時代にタイトル8期獲得の実績を考慮されたため)、2019年4月1日)の3名。
  12. ^ 1989年までは女流3級(仮会員)となり、年度指し分けなど規定の成績を上げると女流2級になった
  13. ^ なお、女流3級となる以前にアマチュア扱いで参加した女流棋戦において「女流棋士の昇段級規定の『女流1級』に該当する」成績を上げた場合、女流3級を経験せずに直接女流2級となる。
  14. ^ ただし、申請時点で27歳未満であること、連盟所属の場合は師匠がいること(不在の場合は半年以内に師匠を決めること)、未成年者の場合は親権者または保護者の同意があることが必要。また申請は資格取得から2週間以内に行う必要があった。
  15. ^ 2009年4月制度変更の当初は「女流棋士仮会員」という名称であったが、同年7月に「女流3級」に名称変更された[36]
  16. ^ 2018年6月に経過措置で女流3級になった田中沙紀が最後である[37]
  17. ^ 江戸時代に「棋士」という呼び方は存在しないが、便宜上用いた。
  18. ^ 1966年に奨励会を退会すると同時に初段になった蛸島彰子について[45]スポーツ報知は「(19)67年に初の女流棋士になった」としており[46]日本将棋連盟の機関誌『将棋世界』2018年9月号に掲載された蛸島のインタビュー記事に記載された蛸島の経歴には「(19)67年、女流二段」とある[44]
  19. ^ 開始時点では、プロもアマもない状態なので、単に『女流名人戦』として開催されていた。後に開始される女流プロ名人位戦は当棋戦と区別するために『プロ』とつけられた経緯がある。その後1989年に正式に女流アマ名人戦に改称。
  20. ^ 日本将棋連盟は、女流名人位戦が創設された1974年に女流棋士が発足したとしており、1974年を起算年として、5年おきに[47]「周年パーティー[48]」が日本将棋連盟女流棋士会によって開催されている[7][49]
  21. ^ 当時の最年少記録、のちに藤田綾が11歳6か月で更新
  22. ^ それまではアマチュア女流棋戦の実績と棋士の推薦で女流棋士に認定されていた。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]