高崎一生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「髙﨑一生」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
 髙﨑一生 六段
名前 髙﨑一生
生年月日 (1987-02-12) 1987年2月12日(30歳)
プロ入り年月日 2005年10月1日(18歳)
棋士番号 257
出身地 宮崎県日南市
師匠 米長邦雄
段位 六段
戦績
2014年3月25日現在

髙﨑 一生(たかざき いっせい、1987年2月12日 - ) は、将棋棋士米長邦雄永世棋聖門下。棋士番号は257。宮崎県日南市出身。

棋歴[編集]

1998年、宮崎市立大宮小学校6年生(出場時は5年生)のとき、第23回小学生将棋名人戦で優勝する。準決勝と決勝はNHK教育で放送されたが、おとなしそうに見える他の3名と比べて、髙﨑は、明らかにやんちゃで腕白な様子を呈していた。この回の出場者には後にプロ棋士になった者が多く、船江恒平(5年)が準優勝、戸辺誠(6年)が3位、金井恒太(6年)と中村太地(4年)が東日本ベスト4、糸谷哲郎(4年)が西日本ベスト4、牧野光則(4年)が西日本ベスト16である。また、広瀬章人(6年)は東日本大会で戸辺に敗れ、佐藤天彦(5年)は西日本大会で糸谷に負けている。

その1998年の秋に米長の弟子となり、6級で奨励会入り。わずか1年半後の2000年4月に初段に昇段するというハイペースで、将棋界では数例しかない「中学生棋士」の記録の達成の可能性があった。しかし、初段昇段以降に失速し、2005年10月1日に四段(プロ)になるまで5年半を要した。とはいえ、前述のメンバーの中では広瀬に次いで2番目に早いプロ入りであった。ちなみに宮崎県出身者として初の将棋プロ棋士でもある[1]

第21期(2008年度)竜王ランキング戦6組で初戦敗退するも、昇級者決定戦で7連勝して5組へ昇級。その最終局(2008年10月1日)では、当時絶好調の佐藤天彦[2]を破っている。

2009年3月、第67期(2008年度)C級2組順位戦の最終第10局は、勝てば初の昇級となる一番だったが、既に降級点を2つ持ち降級の危機にあった有吉道夫に敗れて昇級を逸する。有吉は当時73歳で、負ければ規定により引退となる可能性が高い一局であった[3]

第57期(2009年度)王座戦で、橋本崇載行方尚史らを破って予選通過。挑戦者決定トーナメントでは、久保利明棋王(当時)を破ってベスト8進出(準々決勝で藤井猛に敗れる)。

2010年2月2日、第68期(2009年度)C級2組順位戦第9回戦で勝って8勝1敗とし、最終局を待たずして2位が確定。順位戦初参加から4年目にして初の昇級と初の昇段(五段)を果たす。

第51期(2010年度)王位戦で、森雞二島朗阿久津主税窪田義行を破り、予選通過。リーグでは戸辺誠三浦弘行に勝利するが、羽生善治らに敗れ2勝3敗に終わる。

棋風[編集]

振り飛車党であり、四間飛車を指すことが多い(小学生将棋名人戦の決勝も、四間飛車で戦った)。

相手も振り飛車で来た場合は、相振り飛車にする。

人物[編集]

兄弟子の先崎学囲碁棋士穂坂繭と婚約した際、米長邸にて先崎が髙﨑(当時、米長の内弟子)との二枚落ち対局を命じられる、という‘祝福’を受けた。一方、米長は穂坂と碁を打った。その微笑ましい光景の写真と文章は、写真週刊誌『FOCUS』(新潮社、1999年2月20日号)に掲載された。

昇段履歴[編集]

昇段規定は、将棋の段級 を参照。

主な成績[編集]

在籍クラス[編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

脚注[編集]

  1. ^ 宮崎県出身プロ棋士誕生 05年以来県内2人目 - 宮崎日日新聞・2016年2月22日
  2. ^ 当時、佐藤天彦は新人王戦で優勝したばかりで、また、前日まで全棋士中、勝数と勝率が2位であった。
  3. ^ 実際には有吉の競争相手が全員敗れた為、仮に髙﨑が勝っていたとしても有吉に降級点は付かなった。
  4. ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「高崎一生五段が六段に昇段

関連項目[編集]

外部リンク[編集]